いきなりの再会
「骨がね、ほら、スポンジみたいになってるでしょ。だからね、もうね、野球はだめ」
「はあ」
気の無いように聞こえる返事。
それほどショックを受けていないように見えていたのだろうが、真実は違う。
羽木沢は野球少年であった。
小学校四年生から、高校二年生になるこの夏まで、実に八年間を野球に捧げてきた。
部活動と言うものは休みに乏しいもので、毎週月曜日のみが部活の無い日。
土日は一日かけて、対外試合に向かうことも多い。
早朝は練習、放課後も練習。自宅では自主練。
休日は体をなまらせぬように練習し、熱心な野球好きである父親が付き合ってきた。
野球とは何か。
それは沢にとっての人生そのものであった。
「野球肘だね。でもこれはひどい。痛いのを我慢しながら投げてたでしょ」
「はあ」
「沢! 具合が悪いなら言えばよかったのに!」
母が涙目になって怒る。
父が唸る。
沢は現実感が無いまま、ぼんやりと映し出されたレントゲン画面を見ていた。
(へえ、肘ってスポンジになるのか……)
この日、沢の人生(の一つ)が終わった。
「何ていうかさー、あんた、ずーっと気が抜けたコーラみたいな顔してる」
いきなりそう言われて、横たわっていた沢は目を開けた。
部活を辞め、野球部員ではないただの高校二年生になった沢は、上手く曲がらなくなった肘を持て余しながら、無気力な生活を送っている。
大体の治療は終わり、日常生活に支障はないだろうという事になったのだが、ボールだけは一生投げる事ができない。
いや、投げる事ができないわけではない。
小学生の女子が投げたのかと見間違うような、へなへなボールなら投げられる。
「だめだー。俺あ、もう、なーんもやる気がせん」
ずっと丸刈りだった頭も、随分髪の毛が伸びてきた。
頭を洗うたびに、まともな長さの髪の毛が鬱陶しくてならない。
だが、また丸刈りにするのも、気持ちの中で抵抗があってできない。
(なんつーか。俺あ、もうあの髪型したらいけんような気がする)
「たーく。ほら、沢! 起きよ!」
腕を引っ張られた。
それは、クラスメイトの雛澤日向。
いわゆる幼馴染的な関係だったが、それを言うならばクラスメイトの三割が幼馴染だ。
ここは徐々に過疎が始まってきている田舎で、辛うじて電車が通っているのが幸運なくらいの土地。
子供の数は当然少なく、沢と日向が通っていたのは、小中が一緒になった学校だった。
今の高校になって、少しは人が増えた。
だがそれでも、やはり田舎の高校である。
昔は甲子園に出たという野球部も、今は万年県予選敗退。一回戦の時もあれば、運よく準々決勝まで行く時もある。
それくらいの学校だ。
入部したての頃を思い出して、沢はやたらと晴れ渡った空を見上げる。
「ああーっ、俺、この部を甲子園につれてくとか。恥ずかし、恥ずかしーっ」
顔面を押さえてまた寝転んだ。
「たぁーくー!!」
日向が怒った。
視界の端で、彼女の結ばれた髪の毛が揺れる。
高校に入って、めっきり女らしくなった幼馴染だ。
意識しないと言ったら嘘になる。
だが、未だ人生の挫折の最中にいる沢は、彼女に意識を割いている余裕がない。
「もう。先行くかんね! 知らん!」
口先だけかと思いきや、幼馴染はやって来たバスに乗り込み、とっとと行ってしまった。
「薄情やんなあ……」
言いながら、バス停のベンチでゴロゴロとする沢。
「なんで、俺あこうしてても、野球のことばっか思い出す」
あれは練習試合だ。
分校の野球部は人数もギリギリ、それでも顧問の教師は熱血で、あちこち走り回って対戦相手を見つけてきた。
沢は野球の花形、投手であった。
同級生の中では一番速い球を投げられたから、投手。
最初はそれくらいの決定。
だが、それは沢にとっての大きなプライドとなった。
以来、高校に入学するまで、沢はマウンドを誰にも譲らなかった。
「しっかし悔しいのは……高校レギュラーになって、あいつに勝つってのをだな。こう……一生出来んくなったってことで……あああああ、悔しいっ悔しいーっ」
甲本久という投手が、近くの中学にいた。
近くと言っても山を二つ越えたところで、デパートであるジョンブルがある、田舎の大都市である。
都会風のすかした男、久は、ライバルであった。
あの色素の薄い茶色い髪を、やや伸ばしていけすかない風に決めている。
試合は常に投手戦。
互いに最後までマウンドに立った。
延長だろうが最後まで投げきった。
何戦何勝何敗だっただろうか。
確か。
「十五戦、七勝八敗」
負け越しである。
「ぐわーっ!!」
沢の脳裏を、失投により献上した一点が決め手となり、サヨナラ負けした中学最後の記憶が過ぎる。
思い出すたびに死にたくなる。
特に今は本当に死にたい。
今すぐ死にたいくらい死にたい。
頭を抱えてのた打ち回っていると、それほど広くないバス停のベンチから、それなりに大柄な沢はごろんと転がり落ちてしまう。
「ぐへえ」
呻いた。
ぎゅっと目を閉じた横を、乾いた風が吹き抜けていった。
砂埃のにおい。
そして、なんだかいい匂い。
「……なんだ、これ」
「……何やってんの、お前」
呟きに被る形で、可愛らしい声がした。
沢は混乱した。
声色と、口調がなんだかミスマッチ。
澄んだ鈴の音色を思わせる声は、やや低めな日向のものではありえない。
ということは、誰か見知らぬ女子に、醜態を見られてしまった事になる。
沢は慌てて起き上がった。
パッパッと砂を払って、
「いやあ、滑っちゃってさあ……。マジでバス停の椅子滑るわー」
我ながら見苦しい、と思うことを口走りながら立ち上がった。
近いくらいの位置に、目線がある。
それは、麦藁帽子の下で、切れ長な目が印象的な少女。
髪の毛はさほど長くはない。だが、ふんわりとしたやや茶色っぽい色をしていた。
「……あれっ」
沢は首をかしげた。
目の前の顔、どこかで見た事があるような……。
彼女は白いワンピースを着て、背筋を真っ直ぐに伸ばして立っている。
少女もまた、切れ長な目を皿に細めた。
「……あれっ……?」
「……あれ……?」
二人の脳内で、同じ情景がリピートされる。
最終回、投手の手から投球がすっぽ抜ける。
疲労から来た失投を、打者は見逃さない。なぜなら彼もまた投手だからだ。
互いに最終回まで投げきり、疲れ果ててはいたが。
打者は白球を意識し、バットを振る……。
快音と同時、ライバルである投手は、絶望的な表情に。打者は勝利の喜びに溢れて……。
その時、その場所に、互いの顔があった。
「お前……甲本か……!?」
「げっ、お前、羽木か!?」
互いに野球の道に敗れた二人の、これが再会であった。