(バレンタインデー作品) 君の心を縫いたい
放課後の手芸部はすごく静かだった。
つい最近までは。
最近は、ひどく騒がしい。
僕の古い友人、小野寺明子が頻繁にやってくるからだ。
ショートカットで、ややボーイッシュな雰囲気。
だが、淡いブルーの小さな髪留めは、彼女なりの少女らしさを懸命に演出している。
彼女は音楽が好きだ。
このところ毎日のように、どこからか小さなラジカセを持ってきて、好き勝手に音楽を鳴らしている。
ほとんどが古いSSWで、ハードロックとかじゃないのがせめてもの救い。
僕は騒がしいのはあまり得意じゃない。
「ねぇ、小野寺さん」
「なぁに。之彦君」
彼女は僕のことを勝手に名前で呼ぶ。
そういうことをされると照れるの分っているのだろうか。
「あのさ、どうしてここに来て音楽を聴くんだよ。君ってさ、バンド部でしょ。バンド部の部室があるじゃん」
「バンド部って。軽音部よ」
「同じだよ」
「ちょっと違うよ。とにかく、部室なんて居心地が悪いの。先輩たちが偉そうにしててさ。好きな曲なんて聴けやしない。勝手に好きなの聞いたりしたら殴られちゃうよ」
「じゃ、うちで聴きなよ」
「そんな殺生な!」
小野寺さんが僕を睨みつける。
「うちはお母さんが厳しいし、お姉ちゃんもすっごく五月蠅いの。お姉ちゃん、来年受験だから気が立ってるのよ。それに、部屋の窓からの景色もよくないしね。国道沿いなのよ、うち」
「知らないよ、そんなこと」
僕の返事を無視して彼女は続ける。
「それに比べて、ここは天国。広々としていて、人がいなくて。窓の景色は校庭と、向こうに見える美笹山。時折吹き込む風が心地よい。まるで別荘だわ」
人がいないって、僕がいるんだけどね。
喉から出そうになった言葉を飲み込んだ。
ちなみに小野寺さんは一つ、都合の悪いことを隠している。
彼女が軽音部の部室にいられない理由はもう一つある。
高校に入ってすぐに付き合った彼氏と別れたのだ。
そいつが、軽音部にいるってわけだ。
割りと噂になってたから、僕だって知ってる。
噂になるぐらい、小野寺さんは目立つ人なんだ。
「ね、ね。之彦君。それ何やってるの?」
唐突に。
彼女がぐいっと僕に顔を近づけてきた。
僕は思わずのけぞってしまう。
「なにって。ただ単に縫物をしているだけだよ」
「何の?」
「鶏。今年の干支」
「へぇ~」
怪我をすると危ないから、僕は指先に神経を集中する。
チクチクと、針を動かしていく。
この、目の前だけに集中する作業が楽しい。
世界が僕と、僕の指先と、縫い針だけになる。
そのことがすごく心地良い。
なのに。
耳に、また音楽が聴こえだした。
「うるさいよ!」
怒って顔を上げると、さっきまで僕を覗き込んでいた小野寺さんが、またラジカセをかけている。
もう飽きてしまったらしい。
「だってつまらないんだもん。之彦君、縫物に集中してばっかだし。誰もいないし」
「ついさっき、人けがないから居心地が良いって言ってたよね!?」
「ものには程度があるの」
小野寺さんがべーっと舌を出した。
僕はやれやれと溜息をつく。
僕の属している、この手芸部は人気がない。
年度によって違うらしいけど、今年は3年生まで合わせて5人しか部員がいない。
うちの2人は3年生なので、ほとんど顔を出さない。
2年生の田内さんは、もともと幽霊部員だし、同級生の西山さんは、このところ風邪気味らしくて休みがちだ。
よって必然的に、ほとんど僕と小野寺さんの二人きりになってしまう。
と、気がつくと、また小野寺さんがすぐ近くにいた。
僕の指先をつぶらな瞳で覗き込む。
「すごいね」
「え? な、なにが?」
「ほら、この細かい縫い目。私、女の子なのに、こんな作業できないよ」
「ま、まぁ、ほら。僕は趣味でずっとやってるから」
「そっかぁ。小っちゃい時から好きだったもんね」
「へ?」
「お裁縫」
「あ、あぁ。そうだね」
思わず上ずった声を出してしまった。
でも、そうなのだ。
僕は小さい時から、裁縫が好きだった。
もともと、父親がいなくて、母子家庭だったこともあって、母親が趣味で買ってくるぬいぐるみに囲まれて育った。
ある日、すごく気に入っていたライオンのぬいぐるみを使って遊んでいたら、縫い目が割れて、中綿が飛び出してしまった。
泣きわめく僕に、母親が「大丈夫よ」と言って、割れた縫い目を縫い直して見せてくれた。
その時僕は、まるで魔法だ、と感動したのだ。
それ以来、縫物のとりこになった。
幸い、指先が器用だった。
上手く縫えるから、なおさら好きになる。
そんな風にして16歳になった今も、裁縫が唯一の趣味だ。
※※※
先週のことだ。
2月のカレンダーを見ながら、小野寺さんが言った。
「ねぇ、之彦君」
「なに?」
「君ってさ、バレンタインデーのチョコ、もらったことある?」
「と、唐突だね」
「うん。なんか、気になっちゃって」
いつになくしおらしい雰囲気の小野寺さん。
ちょっとした雰囲気の変化に、ドキッとした。
と同時に、少し悲しかった。
「もらったこと、あるよ」
「そっか。そうだよね」
「うん。ずっと昔、小学生の低学年の頃ね」
「へぇ~!」
「誰にもらったかは、内緒」
「聞かないよ~!」
その言葉が茶目っ気だと思ったのだろう。
小野寺さんが楽しそうに笑う。
でも、内緒なのは、茶目っ気なんかじゃなかった。
彼女は覚えてないみたいだけど、小学3年生の2月14日。
チョコレートをくれたのは小野寺さんだったのだ。
僕と小野寺さんは、幼稚園の頃からの友達だ。
家は、歩いて10メートルぐらい。
小学3年生の頃なんて、まだ恋も何もわからない歳だけど。
ちょっとだけませた女子はバレンタインデーにどことなく色めいていた。
僕は特に何も意識していなかった。
2月14日。
バレンタインデーの日に、僕は熱を出した。
隣の家の同級生、坂上君も風邪で休んだらしかった。
坂上君は、スポーツ万能で、背が高くて、男女問わず人気がある。
そんな彼も風邪をひくんだなぁと思った覚えがある。
僕の方は、昼過ぎには熱が下がって、やることがなくて暇を持て余していた。
風邪をひいた日にゲームをしていると親が起こるから、ぼんやりと二階の自室の窓から道路を眺めていた。
やがて、学校が終わる時間。
下校の生徒たちが道に現れだす。
女子たちの一団が目に付いた。
クラスの女子たちだった。
こっちの方角の家じゃない子もいる。
どうしたんだろう?と思って眺めていると、みんな一様に、手に何かを持っていた。
チョコレートだ。
彼女たちは、チョコレートを持って、隣の家、坂上君の家のインターフォンを鳴らした。
窓を開けていたので、声がかすかに聞こえた。
お見舞いのついでに、チョコレートを渡しに来た、と、代表して吉野さんという女の子が説明してるのが聴こえた。
僕は少しだけ悔しさを感じた。
僕の家には一人も来ないのに。
坂上君には、あんなにたくさんの女の子が来るんだ。
僕だって同じように風邪をひいているのに。
嫌な気分になって、ベッドに転がった。
どれぐらいぼんやりとしていただろう。
ちょっと夕暮れが暗くなってきた頃に、僕の家のインターフォンが鳴った。
母親に連れられて、小野寺さんが部屋に入ってきた。
「え? ど、どうしたの?」
「……これ。あげる」
ずいっと差し出されたもの。
それは、プレゼント包装もされていない、板チョコだった。
しかもちょっとだけ割って食べてある。
「なに、これ」
「チョコレート。君にあげる」
「ほ、ほんと!? ありがとう!」
僕が喜ぶと、彼女は照れるようにうつむいた。
「ホントはね。あげるつもりじゃなかったんだよ?」
「そうなの?」
「うん。こういうの、よくわかんないし。でもね、さっき、家の前で遊んでたら吉野さんたちに会って。風邪で休んでた坂上君にみんなでチョコあげたんだって。之彦君には? って聞いたら、誰もあげてないっていうから。なんか不平等だなって。それで、うちの中、探したんだけど、そんなんしかなかった」
それでこんな、食べかけの板チョコなのか。
僕は思わず笑ってしまった。
板チョコを、その場で二つに割る。
「一緒に食べよ?」
「うん!」
その日食べたチョコは、これまでで一番おいしかった。
※※※
「あのさ。之彦君」
小野寺さんの声で、我に返った。
少し昔のことを思い出してぼんやりしてしまっていた。
ここは放課後の手芸部室。
「な、なに? 小野寺さん」
「私さ、やっぱり、もう一度仲直りしようと思うんだ。浜野君と」
浜野君、というのは、小野寺さんが高校に入ってすぐに付き合った軽音部の同級生だった。
「それでね。その。バレンタインデーに、チョコを渡して。それでもう一度ちゃんと気持ちを伝えようかなって思ってて。之彦君、どう思う? 一度別れた子に、チョコ渡されたら、嫌かな……」
そんなこと、僕に聞くなよ、と言いたかったけど、言葉が出なかった。
腹立たしい気持ちが心の奥底にあったけど、それ以上に、彼女を勇気づけたかった。
小学3年生の時、彼女が僕に喜びをくれたように。
今度は僕が彼女の背中を押したかった。
僕は、言った。
「大丈夫。きっとうれしいと思う。小野寺さんにチョコ渡されたら、喜ばないわけないよ」
「そ、そっか!」
彼女の表情がほころぶ。
「頑張って!」
「うん!!」
上手く行くはずだ。
きっと。
僕は、別れた後、浜野という男子が悔やんでいたという噂を聞いていた。
きっと上手く行くだろう。
※※※
2月14日。
放課後。
いつものように手芸部の部室で縫物をしていると、教室のドアが開いた。
小野寺さんがいた。
彼女は、俯いていた。
とぼとぼとこちらに歩いてくる。
「お、小野寺さん?」
「え、えへへ。駄目だった」
その言葉が胸に突き刺さる。
駄目だった?
浜野君が、拒否したのか?
「浜野君ね。ついさっき、チョコを渡されて。他の子から告白されて、付き合うって言っちゃったんだって。本当はもう怒ってなかったんだけど、ごめんな、って言われちゃった」
そこまで行くと、瞳の涙が決壊した。
とめどなく、涙がこぼれる。
「ごめん。ごめんね、之彦君。せっかく、勇気をくれたのに。背中押してくれたのに。私がぐずぐずしてたから」
小野寺さんは、手に持っていたチョコレートの袋を強く握りしめていた。
きっとそれは、掌の中で粉々に崩れてしまっていただろう。
僕は、それを今すぐ、縫ってあげたかった。
彼女の心と、彼女の粉々に砕けたチョコレートを。
この指が縫って、修繕できたら。
そんなことができら良いのに。
その日の夜、僕は熱をだした。
風邪をひくの久しぶりだった。
うなされて、不思議な幻想を見た。
それは僕が、小野寺さんを縫っているという妄想だった。
ただ。
僕は彼女のひび割れた心ではなく。
彼女自身を僕に縫い付けていた。
もう二度と僕から離れないように。
僕のことを忘れないように。
僕の願望。
僕の、妄想。
僕は自分が嫌になった。