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自転車アブノーマル  作者: 謎の自転車乗り
1章.出会い、始まり
9/9

8.

 

 そこへ――この恐怖のどん底、最悪とも言える状況へさらに追い打ちをかけるかの如くやって来た人物がいる。


 それは、この黒ずくめの女とはまた違う異彩を放った人物だった。


 ふと店内に姿を見せたかと思うと、この状況を物ともせずに悠々と歩み寄ってくる。男だった。その異様な気配に、まだ店内でしどろもどろしていた客たちは後ずさりして道を譲る。


 男は背が異様に高かった。大きな図体が取り柄の用心棒の男たちをも優に頭ひとつ分は越していそうなほどだ。


 その長身の首から下は黒ずくめの女と同じように黒い外套に包まれている。頭にはただえさえ高い身長をさらに高く見せる、つばの広い黒の被り物をしている。


 その被り方がかなり深いため表情は伺いづらいが、目つきが鋭いことだけはわかる。しかし、黒ずくめの女のような凶器の鋭さではなく、どんなことでもすぐに見抜いてしまうような、底知れない力を秘めた鋭さだ。


 肌は白い。女性だと間違えてしまいそうなほどに綺麗な肌だが、力強く筋張った輪郭や顔つきからかろうじて男だとわかる。


 そして、アイカが最も目を奪われたのは、その髪だった。それは、まさかこの先二度は見るまいと思い込んでいたある髪と同じ色をしていたからだった。


 そう、男が背中の辺りまで伸ばし、後ろで束ねていたその髪は、紛れもなくそばにいる少女の髪と同じ白色だったのだ。


 間違えることはない。色の抜けた薄暗く灰色っぽい白髪ではない。鮮やかなほどに真っ白で、見る者の心を打つほどに艶やかな純白だ。


 それに気が付いたアイカは息を呑んで隣にいる少女に目を向けた。この状況を説明する答えを求めたわけではない。どちらかと言えば、この状況に対する愕然とした気持ちを共有する相手を求めてのことだった。


 そもそも、アイカはなぜこの少女がこの期に及んで自分を介抱するような形で隣にいるのかわからなかった。しかし、そんなことはこの際気にしない。気にしている暇もない。


 期待通りに、少女はアイカと同じ驚愕の視線を返してきた。この新参者の存在が信じられないと言わんばかりの表情だ。しかし、それが少女が新参者の正体を『知って』のことなのか、『知らない』でのことなのかまでは読み取れなかった。


 ここまで白い髪は他にない。それゆえ、同じ色の髪を持つこの二者が何かしらの関係を持っている可能性があるのは容易に想像がつくが、少女は自称記憶喪失である。単に自分と同じ色の髪を持つものが現れたから、もしくはもっと単純にまた変なのが現れたから驚いただけということも大いに考え得る。


 アイカと少女のふたりが無言で見つめ合っている間にも長身の男はゆっくりと、まっすぐに近づいてくる。その方向は確実にアイカのいる方ではあるが、黒ずくめの女とは一直線上にあるため、どちらを目指しているのかはわからない。


 どちらにしても、間には用心棒の男たちがいる。ほとんどは倒れているか蹲って呻いているが、まだ立っている者もいる。


 ユオルもその中のひとりだった。黒ずくめの女を囲う輪の外側、ちょうど長身の男を背にする形で立っているが、目は恐怖に見開いたまま輪の中央に向けられたままで、体は凍ったように硬直している。


 長身の男はユオルの真後ろまでやって来、目の前の男が動く様子がないのを見て取ると、その場で一旦足を止めた。


 並んで立つとその背の高さが際立て見える。ユオルはアイカよりも少し高く、用心棒の中では一二を争う身長の持ち主だ。しかし、今は低く身構えているとは言え、後ろの男はそれを完全に見下ろす形で立っている。


 長身の男はしびれを切らしたのか、そっと目の前の男の肩に手を乗せた。ごく普通に話しかけるときのような、優しい、優雅とも言える手の置き方だった。


 しかし、緊張が極限まで達していた男にはそれが十分な刺激となる。反射的に振り返ったユオルに、突如として現れた異様な人物がどう映ったのかはわからない。ただ彼は、緊張のあまり理性を失っていた。

 

 まともに考えることもできなかったのだろう。絶体絶命に陥った猛獣の如き神経過敏に陥っていた。異様だというだけで自分に危害を加える者、排除しなければならない者と即座に本能が判断し、ユオルはすぐさま雄たけびをあげながら長身の男に襲い掛かる。


 しかし、最初に長身の男が自ら触れたのを除き、ユオルの身体が男に当たることはなかった。


 アイカはここでも目を疑った。黒ずくめの女の芸当をも凌ぐ瞬間的な出来事だった。


 アイカがはっきりと目に捉えたのは、長身の男が細身の長剣を外套の中に隠れた腰の鞘にしまうところだけだった。


 ユオルが見当違いの方向へ襲い掛かったのか、男が位置をずれたのかはわからないが――ユオルは長身の男の脇を通り抜けるような形で床に崩れこみ、その首からは頭がころりと落ちた。


 ユオルに勢いづけられて長身の男に襲い掛かろうとした者がもうふたりいた。気が付いたときには、ひとりはユオルと同じように首から上がなくなり、もうひとりは胴体を綺麗に切断されていた。


 隣の少女が小さく悲鳴を上げてしがみついてくる。普段なら少女といえども女性に密着などされたら憤慨するところだが、今のアイカにそんな余裕はない。


 ただただ、腰を抜かして目の前に立つふたりの黒い脅威を見つめているしかなかった。


 ここまで来ると、店員たちまで店を守ることを忘れて逃げ出してしまうほどだった。体の動く者は一様にその場を離れ、上階の客たちも隅に固まって震えている。


 店内は生気が一瞬にして抜き取られてしまったかのように静まり返った。鼻を突く血の匂いと黒い殺気が入り混じって漂う禍々しい静けさだった。


 そんな中で長身の男はひとり涼やかな顔をしている。何事もなかったかのように、至って穏やかな口調で黒ずくめの女に話しかけた。


 「隠密にという予定のはずだったが、随分と派手にやっているじゃないか。黒の総帥の娘御は刺客としての腕も確かだと思っていたのだが……これは少し俺の目が狂っていたか?」


 答えた黒ずくめの女の顔は不満そうだった。読み取りにくいが、この女が見せた初めての感情だった。


 「うるさい。奴らに邪魔されたんだ。まったく、嫌なときに現れてきやがる……。さすがに私でも、奴らを3人同時に相手にしながらそのすばしっこい娘を捕まえるのは苦ってもんだよ。それさえなければ、今頃とっくにその生意気な口を割らせていたところだわ」


 「おやおや、黒の一族屈指の竜人とも言われるお前には似合わない弱音だな。おかげで、俺がこうして直々に出て来ざるを得ないことになったわけだが」


 「別に出て来いとも言ってないし、出て来ないといけなかったなんてこともないだろう。あんたのお出ましがなくとも、私ひとりで大丈夫だった」


 「あまり騒ぎを大きくされて、収拾が付くのが遅くなるのも面倒だからな。手っ取り早く終わらせるためにも俺が直接行ったほうがいいと思ったわけさ」


 この場にいる誰もが理解できない会話を繰り広げ、長身の男と黒ずくめの女は並んで前へ進み出てきた。


 アイカはこれに対抗するために立ち上がろうとしたが、途端に傷が痛みだして力を入れることができなかった。


 ――このままだと殺される。


 立ち上がったところで勝ち目はないかもしれないが、何も抵抗できないままやられるのはあまりにも惨めだ。


 しかし、傷が深いせいか、出血の量のせいか、体に力が入らない。そんなアイカを見兼ねたのか、隣にいた少女が意を決したようにして立ち上がった。


 やめろ、とアイカは叫びたかったが、声にならなかった。もともと、この少女に肩入れするつもりなど微塵もなかったし、よく考えればこの状況の原因をつくりだしたのはこの少女だ。この少女がここに駆け込んできたりすることさえなければ、こんなことにはならなかったのだ。


 自分でこの状況を打開して、損害をすべて弁償してくれと普段のアイカなら言いかねないところだったが、立て続けに惨劇を目の当たりにし、彼の感覚も麻痺していた。


 幼い少女ひとりでこの恐ろしいふたり組に立ち向かうのはあまりにも酷すぎる。


 しかし、止めようにも立ち上がることすらままならない。結果的にアイカは、この少女を頼みの綱とするしかなかった。


 白髪の少女は自分より遥かに背の高いふたりを前にしても怯むまいと毅然たる面持ちで相対した。


 黒ずくめの女は仲間が来たことで気が緩んだのか、その少女の頑なな態度に呆れた様子を見せている。長身の男の方は逆に、そんな態度に感心したのか興味深そうに少女のことを見下ろしている。


 両者一歩も引かぬ姿勢だ。一触即発。いつ火花が散るかわからない。


 そんな無言の駆け引きの中、先に口を開いたのは長身の男の方だった。低いが透き通っていて、奥底にある絶対的な自信を感じさせる声で少女に言った。


 「単刀直入に聞こう。お前はなぜここにいる? お前のような者が国の外にいるはずはないと思ったのだが……少し離れている間に何か事情が変わったのか?」


 これには少女の方が呆れた表情になった。呆れたがしかし、緊張は解かない。一瞬の油断が命取りになるのだということをこの少女もわかっているようだった。


 「さっきそっちの女の人にも言ったわ。どうして私がここにいるか聞く前に、あなたたちが誰なのか教えてよね。じゃないとこっちだって、自分のことを話す気になんてなれないわ」


 男は面白そうにくつくつと笑う。


 「気の強い娘で結構だ。気の強さだけならこっちの娘よりも上かもしれないな。だが、この娘のことがわからないのは疑問の余地がないとしても、俺のことがわからないか? 説明するまでもないと思うのだが……」


 男の言葉に隣の女は露骨に嫌そうな顔をしたが、男は気にしない。それよりも、白髪の少女の盛大なため息のほうがはるかに強烈だった。


 「どうしたらわかるって言うの。わかるわけがないじゃない。今ここで会ったばっかりなのに。私、自分のお父さんやお母さんの顔も、自分の家も覚えていないのよ。自分が誰なのかもわからないんだから。そんなことも知らないで、勝手なこと言わないでくれる? 私がどうしてここにいるのかなんて、私の方が知りたいくらいだわ」


 「自分が誰なのかわからない? 追放者だとでも言うのか? こんな小さな娘が追放の対象になっていた覚えはないのだが……。俺が国を出た後か? やはり、この短い間に何か変わったのか? まあ、変わっていたとしてもあの後のことだ。格別おかしなことはないが……」


 ひとりごとのように謎の言葉をいろいろと並べ立てて、男は少女のことをしばらく観察するように見据えていた。


 まっすぐに力強く見返してくる目に嘘偽りの色はない。純粋そのものの少女の視線だ。


 男は悩んでいるようだった。隣からしびれを切らしたようにして黒ずくめの女が口を挟む。


 「どういうこと? こいつはあんたのことなら知ってるんじゃなかったの? だから最初は私ひとりで出てきたんだろう。怪しまれないために。でも、丸っきり知らないという顔をしているじゃないか」


 男は熟考している様子を崩さないまま答えた。


 「そうだ。普通ならば知っているはずだ。少なくとも、俺が何者なのかはわかるはずだ。しかし、この娘は本当にわからないという目をしている。嘘ではないだろう。もし嘘ならば俺に見抜けないはずがない。だから、本当にわからないのだろうな。しかし、なぜ……。そんなことは――」


 男はそこで言葉を切った。明らかに続く言葉があるようだったが、男はあからさまにその先を隠すようにして話を中断したのだった。


 しかしアイカには、男が何を言いかけたのか推測するどころか、この男がこれまでに話した内容のほとんどがアイカには理解できていない。


 男の不自然な切り上げ方に、隣にいた女も訝しげに思ったようだった。


 しかし、男は少し間を置いた後、何食わぬ顔でまた喋り出す。


 「まあ、そうだな。そういうことならば問題はない。手間を取らせたな。引き上げるぞ」


 勝手に話を終わらせた長身の男は外套を翻して立ち去ろうとする。


 これを黒ずくめの女が納得いかないという様子で引きとめた。


 「ちょっと待ってよ。あんたひとりで納得してるようだけど、私には何もわからない。問題大ありだよ。どういうことか説明してくれ」


 男は前を向いたまま答える。


 「その娘はもはや俺たちにとって脅威ではないことがわかった。だから、もう用はないから引き上げるのさ」


 「もう用はないからって、ここまでやっておきながら、何もせずに引くって言うの? あんたがそれでいいって言うならいいけど、この娘が脅威じゃなくなったっていうのは本当なのか? そんな簡単に確かめられるものなの?」


 黒ずくめの女の追及に長身の男は足を止めて首だけ後ろに向ける。


 「予想外だった、ということは言っておいた方がいいだろうな。とにかく、俺としても同族の人間をあまりむやみに殺すのは気が進まない。頭の固い官吏どもは別だがな。まあ、俺はこれ以上口は出さない。お前、もしまだ腹の虫が収まらないって言うのなら、あとは好きにしろ。好きなようにこの場を処理してくれ」


 と、男が有無を言わせぬ口調でそう言い残して去ろうとしたときのこと。


 ある集団が掛け声とともに店内へ突入してくる。二手に分かれて一糸乱れぬ動きで電光石火の如く動き、あっという間に長身の男と黒ずくめの女を取り囲んだ。


 逃げ出した客か店員の中の誰かが通報したのだろう。警備兵隊である。こんな真夜中にでも彼らは必要あらばどこにでも駆けつける。各々銀の鎧と兜で重装し、槍を構えて奇抜な見た目のふたりの人物を捕えんとばかりに意気込んでいる。


 警備兵隊の隊員というのは勇猛果敢にして鉄腸豪胆、街の平和を守るために訓練された猛者たちだ。並の相手には決して屈しないし、どんな事態にも立ち向かえる剛毅な精神を持っているものだ。


 しかし、それも通常ならばの話。そんな彼らにも、この異常とも言える惨状は目に余るものだったらしい。


 皆入って来るなり苦い顔をしたり、さりげなく顔を背けたり、呻き声のようなものを発したりしている。中にはいきなり店の外に飛び出して、嘔吐する者までいた。


 しかし、警備兵隊が駆けつけてくれたのはアイカにとっては幸いだった。これなら逃げだす余裕ができる。


 負傷していたアイカのもとへ隊員がひとり駆けつけてきた。大丈夫、今助け出すということが簡潔に伝えられ、アイカは隊員に助けてもらいながら何とか立ち上がり、戦線離脱した。


 また、隙を見た白髪の少女も黒ずくめの女のもとから逃げ出し、アイカのもとへやって来る。


 あとは専門家たちに任せて、自分はずらかろうとアイカは思った。個人的な感情は置いといて、どんな事態でも解決してくれるという安堵感を彼らはもたらしてくれたのだ。



 ――しかし。


 

 そんな束の間の安心も一瞬で崩れ去ることとなる。


 長身の男は警備兵隊が来ても目もくれなかった。大勢の隊員に囲まれて槍を向けられ、仰々しく武器を捨てるように言われても全く反応を示さない。


 その様子はまるで、彼らの存在が見えていないかのようだった。もしくは、本当に気が付いていなかったのかもしれない。そう思わせるほどに冷然としていた。


 周りの決然とした兵士たちの緊張もどこ吹く風。外に出ることしか考えていない様子で歩き始める。


 これには進路にいた兵士たちが怯んだ。このまま男がまっすぐ歩いて来れば、彼らとぶつかることになる。正確には、彼らが構えている槍の穂先に男が自ら突き刺さることとなる。


 しかし、まさか本当に彼らのことが見えていないのではあるまい。


 どうするものかと兵士たちが考えていたのも石に灸。長身の男は、ある意味本当に外へ出ることしか考えていなかったのだろう。


 とは言っても、目の前にいる男たちが見えていなかったのではない。用心棒の男3人を秒殺したこの男にとって、警備兵などもはや障害と認識するのにすら至らなかったのである。


 「止まれ!」と、長身の男と対峙する隊員はどすの利いた声で怒鳴った。まったく怯みのない、罪人を取り押さえるという強い意志と、そのことに対する威厳と義務感が込められた声だった。


 そして、次の瞬間――隊員は唖然とした。槍の穂先がいきなりなくなったかと思えば、直後に彼は脳天から股間まで一直線に切り裂かれ、息絶えていた。


 その隣にいた隊員たちは声を上げる暇もなく喉を切られ、腹を裂かれ、絶命した。


 誰も一歩も動くことができなかった。目で捉えたとしても、長身の男が剣の柄に手を掛け、また、最後に鞘に納めるところが限界だった。


 これを見た警備兵隊は一気に戦意喪失する。化け物を見たかのような形相で悲鳴を上げ、男から一目散に逃げ出した。これでは警備もへったくれもない。最初の状況と何も変わらない。



 ――まずい。



 不安がアイカの脳裏を過った。ここで行動を起こさなければ、取り返しのつかないことになる。


 アイカを外に連れ出そうとした隊員も、出口の方で起こった出来事を目撃して自分の仕事も忘れたようだった。既にアイカから手を放し、青ざめた顔で目を見開いている。


 アイカはすぐそばにいた白髪の少女の手を引き、痛む肩を抑えながら店の裏へ走った。


 ここで彼が少女の手を取ったのは全くの血の迷いと言っていいだろう。助けようと頭で考えたわけではない。しかし、逃げようと思い、足を動かしたときにはもう手が勝手に少女の手を掴んでいた。共に危機的状況に陥った仲間を助けようとする動物的本能が働いたのかもしれない。しかし、そんなことを気にしている余裕も一向になかった。


 この店には表の入り口の他に、従業員専用の裏口がある。従業員であるアイカはその場所をもちろん知っている。


 とにかく助かることだけを考え、無我夢中で外へ駆け出る。裏口が繋がっているのは裏通りのため、出た場所は目が慣れないと何も見えないくらいに暗かったが、そんなことにも構わずにアイカは走った。


 どこをどうやって通ってきたかは覚えていない。気が付いたらアイカは自宅の建物の前にいた。


 そこでやっと足を止め、壁に手をつく。心臓が爆発しそうだった。呼吸が恐ろしく荒い。文字通り身も凍るような恐怖による緊張が解け、体から一気に力が抜ける。


 身体から溢れ出すようにして汗が噴出してきた。閑静な住宅街だというのに、自分の心臓と呼吸の音と、耳にこびりついた悲鳴が頭の中を延々とこだましている。


 ここまで来ても、安心はできない。さっきのふたりが今にも追いかけてきそうで気が気じゃない。しかし、もっと逃げようにもこれ以上は足が言うことを聞かない。


 店で見た光景がずっと頭の中で繰り返されていた。倒れる仲間。血塗れの死体。切り離された頭と胴体。


 あんなにおぞましい殺戮現場は今まで見たことがない。


 少し落ち着いてくると、アイカは胃の中のものを全部吐き出した。不快極まりない気分を一緒に全て吐き出してしまいたかったが、そうはいかなかった。激しい動悸とがんがんと締め付けられるような頭痛はなくなりそうもない。


 気が気でなかったため、そばにいた少女が話しかけてきたときも、自分で連れてきておきながらアイカは思わず身構えそうになってしまった。


 「大丈夫? 誰も追ってきていないわよ」


 アイカはおそるおそる少女の方を見やった。道が建物に挟まれているため、暗くて表情はほとんど伺えない。それでも、大きな丸い目が心配そうに見上げてきているのはわかった。


 この時、アイカの目には少なくとも、この少女がまともな人間には映らなかった。常軌を逸した人間、もしくは人間ではないもの、人間の皮を被った怪物がそばにいるような気分だった。

 

 どうしてそんな少女を自宅の前まで連れて来てしまったのかなどは考える余裕もない。とにかく、今はこの異界の目に見つめられていたくはなかった。

 

 少女の問いには答えず、アイカはふらふらと歩いて建物の扉へ向かった。自宅に逃げ込んで、ひとりきりになりたかったのだ。

 

 後ろからは少女が困惑した声を上げてくる。

 

 「ねえ、待ってよ! ふらふらじゃない。どうするつもりなのよ!」


 アイカはこれも耳に入れず、乱暴に扉を開けて建物に入った。


 少女はついて来なかった。蹴れば壊れてしまいそうな古い扉は閉めたきり、再び開かれる様子はない。


 アイカは真っ暗な廊下を手探りだけで進んで、自室へ朦朧としながらたどり着く。何を考えたわけでもない。何が欲しかったわけでもない。頭の中で繰り返されるおぞましい光景から抜け出すことができず、ただただ逃げ惑うようにして足が動いていた。


 ベッドに倒れこんでも、大波のように体を襲い続ける強烈な衝撃は一向に止むことを知らなかった。アイカはこの夜通し、過去最悪の悪夢にうなされることとなる。


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