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自転車アブノーマル  作者: 謎の自転車乗り
1章.出会い、始まり
8/9

7.

 ◆


 白髪の少女は先日の出来事なんて忘れてしまったかのように勢いよく店に飛び込んできた。一階の奥にいたアイカは運悪く、たまたまそのときにそちらへ目を向けてしまい、人混みを縫って自分の方に走り寄って来るその姿を認めてしまった。


 その相変わらず健在な白い輝きを見てアイカは驚きと不安を覚えるのと共に、内心ほっとしたような気分になった。なぜそんな気分になったのかは自分でもわからない。ただ何となく、今となっては見慣れたその姿を再び見ることができて物寂しさから解放されるような気分だった。


 少女は尋常ではない様子だった。全速力で走ってきたようで、いつも硬い表情を崩さない顔にも疲労の色が伺える。ただ疲れているというだけでなく、かなり焦っているようでもあった。何か強い思いでここまで必死に走ってきたことが見て取れる。


 酒気がぷんぷんと漂う、雑多な成分の入り混じった空間を、夜空を切り裂く流星の如く少女は一直線にアイカのもとへ飛んできた。


 アイカはもちろん、いい予感はしていなかった。端正な顔には似合わない必死の形相を見ても、その勢いのままにまた脛を蹴られるのではないかと身構えていた。


 少女はしかし、予想に反してそんなつもりはさらさらないようだった。それどころか、近くまで来るなり「助けて!」と叫んできたのである。


 嘘偽りのない純粋な響きが聞いて取れた。ペンダントを直してと言ってきたときにその何の混じりけもない怒りと悲しみが余すところなく全身をもって伝えられたのと同じように、今度は「助けて」の一言に込められた思いが塊となってぶつかってくるようだった。


 アイカは大いに狼狽えた。一日置いて再び現れたかと思えば、今度は助けて? 一体この少女は自分に何を求めているのか。


 アイカが反応に困っているのを他所に、少女はアイカの後ろに回ったかと思うと身を隠すような形で背中にしがみついてくる。


 「な、何なんだよ、いきなり!」


 アイカは慌てて離れようとしたが、少女の力が思いのほか強く、なかなか離れてくれない。人に甘える動物のようにひっついてくる。


 

 ――まずい。非常にまずい。


 

 アイカは心の中で唸った。この少女が何のつもりかは知らないが、こんな所を他人に見られたらたまったもんじゃない。事態が爆発的に面倒になることは目に見えている。


 「放せってば!」


 アイカは何とか少女の束縛から離れようとした。やろうと思えば、相手は頭ふたつ分も小さな少女だ。簡単に振り払うことはできたが、力で無理矢理ねじ伏せることはしたくなかった。先日の出来事の後味の悪さを思うと、何となくその気になれなかったのだ。


 しかし、いつも何の気兼ねもなく力を振るうことに慣れていたアイカにとって、手加減をしながら本気でくっついてくる少女を引き離すのは至難の業だった。


 体をひねって引きはがそうとしてもぴたりと真後ろに付かれる。周囲には客もいるため、激しい動きはできない。上手く離れようとすればするほど、動きはぎこちないものになってしまった。


 端から見れば少女と戯れているようにしか見えなかっただろう。それが何とも滑稽に思え、アイカは徐々にいらいらを溜め出した。


 こうなったら力でもぎ取ってしまおうかと考えたとき、アイカは少女がしきりに店の入り口の方を気にしている様子なのに気が付いた。


 突然助けを求めて来たことと言い、この少女は一体何を考えているのかと、アイカもそちらへ目をやる。すると、ちょうどそのときに店内へ入って来たばかりの人物が目についた。


 しかし、ただの人物ではなかった。この店には始終人の出入りがあるため、入って来た人物をいちいち目に留めることなど滅多にない。アイカたち用心棒の目に付くとすれば、この店にふさわしくない客、すなわちいかにも厄介を起こしそうな風貌の人物や、酒を飲む年齢に達してない少年少女などだ。


 今入ってきた人物はどちらかと言うと前者に当たった。だが、正確に言えばどちらにも当たらない。第三の選択肢を付けるならば、その人物はアイカの後ろに隠れている白髪の少女系の者だった。


 すなわち、その人物も人の目を惹くという意味では後ろの少女に負けず劣らずの異風な格好をしていたのだ。


 一言で表現するなら、黒ずくめ。全身を分厚い真っ黒な外套で隠している。それでも、その中にある抜群な女性的な体型は伺い知れた。


 背はアイカよりは小さいが、女性ならばかなりの長身だ。少なくとも、遠目から見る限りでは女性のようだった。しかし、近づいてくるにつれてその優しい女性的な雰囲気とはかけ離れた残酷な気が伝わってくるようになる。


 髪も黒かった。黒なのに明かりを反射して光って見えるほどに光沢のある、並外れて艶やかな髪だ。その髪が後ろは肩の辺りまで伸ばされ、先は綺麗に切り揃えられている。


 何よりも印象的なのは、その目だった。アイカはこれまでに、これほど鋭い視線を放つ目を見たことがなかった。


 白髪の少女が睨んでくるときの目も相当鋭いものだが、それはあくまで少女の感情がつくり出しているもので、これは本質的に違う。目自体が凶器のように鋭い。


 生まれつき視線だけで人を平伏せさせ、時には殺しまでしてきたかのような、まさに刃の目だった。

切り揃えられた黒の前髪の下から覗くその目は、確実にアイカの方――おそらくは、後ろの少女に向けられていた。

 

 首まで覆う外套と黒髪の間だけに見える肌は白い。血か通っていないかのような白さながらも透き通った美しさを感じさせる、魅惑的で恐ろしい色だった。

 

 これが尋常の事態ではないことはアイカもすぐに見て取れた。後ろにいる少女だけでも巨大な厄介の塊のようなものなのに、また似たようなのが現れた。

 

 しかも、それはまっすぐに自分の方へ向かって歩いてくる。足首まで外套で隠れているが、その先しか見えなくてもその美しい足取りは伺い知れる。こつこつと音を立てる一歩一歩にまで鋭さが籠っているようだった。その女は、後ろの少女とは別の意味で異様な雰囲気を醸し出している。

 

 白髪の少女の風変わりさが人を惹きつけるものだとしたら、この黒ずくめの女のそれは全く逆だ。威圧感の塊が歩いてきているようなものだ。

 

 近くにいるだけで、自分は殺されるという潜在意識を無条件に、しかも強力に植え付けられてしまうような凄まじい圧迫感。ひ弱な者なら、睨まれるだけでその意識のあまり死んでしまうに違いない。実際、その女の近くにいた客たちはその姿を目に留めた瞬間、何か恐ろしいものを見る目つきとなって距離を置いたため、女の前には自然と道ができていた。

 

 人の見ためや雰囲気などには無頓着なアイカも、このときばかりは寒気を覚えるようだった。できることならこの場から逃げたいと思った。あの女とは関わりたくない。面倒なことになる。

 

 しかし、動けなかった。恐怖で足がすくんでしまって――いるのではなく、後ろの少女が逃がさまいと必死に力を込めてくるからだった。

 

 そうこうしているうちに黒ずくめの女はそばまでやって来てしまう。アイカは覚悟を決め、刺されるような思いをしながら女と向かい合う。

 

 対する黒ずくめの女は、アイカ――ではなく後ろの少女だけを見据えて、言った。

 

 「わざわざ面倒をかけてくれるな。質問に答えるだけなのにどうしてそう逃げる? お前は何か私にやましいことをしたわけでもないだろう」


 低いがはっきり女とわかる声だった。落ち着き払っているように聞こえはするが、奥底に凍り付くような冷徹さを秘めた声だ。


 アイカの後ろの少女は、目の前の女を睨み返すだけで答えようとはしない。女は冷然と続けた。


 「あくまで口を割らないのなら、こちらにも取る手段はある。さあ、選んでもらおうか。自分で喋るか、私に喋らされるか、どっちがいい?」


 間に挟まれて聞いているアイカまで恐ろしくなるような言葉だった。何のことかはわからないが、喋らされるというのはつまり、力ずくで喋らされることだというのは容易に想像がついた。しかし、この女の言う力ずくでの喋らせ方は――恐ろしくて想像ができない。おそらく、拷問にでもかけると言っているのだろう。


 真ん中で冷や汗をかいているアイカを他所に、少女は後ろから顔だけを覗かせて、前にアイカに言ったときと同じようにきっぱりと言った。


 「嫌」


 「何?」


 「自分でも喋らないし、あなたにも喋らされない。さっきも言ったでしょ。私に質問する前に、先にあなたが誰なのか教えて」


 少女の頑然な態度が意外だったのか、黒ずくめの女は感心したようにくつくつと笑った。切れ味のあるような笑い方だった。


 「自分でそう言うのなら仕方ない」


 女は低く呟いて、懐で何かを探るような動作を見せる。その行動に本能的な恐怖のようなものを感じたアイカは、反射的に声を上げた。


 「ふたりとも、ちょっと待ってくれ。俺を挟んでおいて俺抜きの会話はやめてくれないか。何のことかさっぱりわからねえし知ったこっちゃねえけど、ここにいる以上状況が知りたい。とりあえず、あんたは初めて見るけど、何者なんだ? こいつの知り合いか?」


 黒ずくめの女は動きを止めて一瞬アイカを見やったが、お前には関係ないと言わんばかりの速さで後ろの少女に目を戻す。


 そのあまりの時間の短さに侮蔑されたような屈辱を感じ、アイカは抗議の声を上げた。


 「なんだよその態度は! 俺には知る必要もねえってか? ふざけんな!」


 そして、今度は後ろの少女に向かって、


 「おい、こいつは何なんだよ! 状況がさっぱりわからねえから説明してくれ!」


 ――お前も何なんだよ、という言葉は心の中で言うに留めておいたアイカだ。


 少女は不満そうに言い返してくる。


 「知らないわよ! 会った途端に、いきなりどうしてここにいるかなんて聞いてくるんだもの。そんなこと、私の方が知りたいくらいなのに。こんな人に答えたくなかったから、その前にあなたが誰なのか教えて、って聞いただけだわ」


 アイカは余計にこんがらがった。わけがわからなかった。黒ずくめの女は白髪の少女のことを知っているかの様子だが、対する少女は相手のことを知らないと言う。しかし自分は両方とも知らない。


 双方とも異風なため、限りなくややこしかった。正体不明の少女に同じく正体不明でしかも危なそうな女。これらが何を意味するのか。


 そんなことはアイカの予想のつくものではなかったし、予想しようとも思わなかった。とにかくこの意味不明な状況から一刻も早く解放されたかった。


 と、そこに時期を得た助け船が現れる。この時ほど、アイカは彼らの存在がありがたいと思えたことはなかった。もっとも、彼らはひとつには自分たちの仕事を全うしようとし、もうひとつには危機的状況に陥っている同僚を肴にしようとしただけなのだが。


 ユオル率いる用心棒軍団である。彼らにはこの状況が、ひとりの同僚が女性ふたりに挟まれて対応に四苦八苦してるようにしか見えなかったのだろう。


 体格のいい男たちは黒ずくめの女を囲うようにして集まり、口々に喋り出した。


 「おいおい、抜け駆けはずるいぜ、アイカ」


 「そっちの子だけかと思ったら、こんな姉ちゃんまで捕まえてたのかよ」


 「いいなあ、いつの間にそんなもてるようになったんだよ、お前は」


 「こっちの姉ちゃんもなかなかいい感じだけどよ……本命はどっちなんだ?」


 「まさか、二股はないだろうな、二股は」


 この時ばかりは、彼らの軽口も頼りがいのある仲間の雄弁のように聞こえた。この緊迫した空間を解きほぐしてくれるようで、アイカは心底胸を撫で下ろせる気分だった。


 用心棒の男たちは黒ずくめの女にさえもじろじろと観察するように淫猥な視線を投げかけている。その女性に対するある種超然とした度胸にアイカは感心すると共に安心感をも抱くことができた――が、それも束の間のこと。黒ずくめの女の異常なまでに威圧的な視線は、そんな男たちの顔をも引き締めさせた。


 男たちの方も、最初からこの女が普通ではないことは勘付いていたらしい。そして、間近に見て改めてその狂気を感じたらしく、表情には出さまいとするものの睨まれた瞬間息を呑んでいるのがアイカには見て取れた。


 しかし、この男たちにも意地があるのだろう。彼らにとっては、女に怖気づくようでは男としての誇りに傷つくというものだ。ぎこちない動きでさりげなく一歩距離を置きながらも、あからさまに余裕そうなふりをしている。


 そんな彼らの様子に少々呆れて、アイカはため息をついた。期待外れもいいところだが、とりあえずこの状況を彼らに説明するために、なるべく落ち着きを払って言い放った。


 「まずひとつ、俺はこいつを知らない。次に、俺はそもそも後ろの奴も知らない。最後に、俺は今どんな状況なのか全く知らねえ!」


 すると、今度はアイカの後ろで黙っていた少女が今の発言に抗議するかのように、甲高い声を張り上げた。


 「この人は武器を持っているの! さっき見たの、この人が他の人を殺すところ! だから逃げてきたのよ。恐ろしい人だわ」


 それを聞いたアイカを含む男全員が一歩後退りした。途端に緊迫した空気が流れる。黒ずくめの女に対する目は一気に警戒の色に変わった。


 最初から人を殺しそうな雰囲気がしていたとは言え、実際に人を殺したのだと聞くと恐怖度は急激に増す。殺人を犯したことのある者とも渡り合った経験はある用心棒の男たちだが、そんな彼らでも怯んでしまうほど、囲まれている女は近寄りがたい強烈な殺人的重圧感に包まれていた。


 アイカは無理にでもこの場から抜け出そうかと思った。もはや面倒の域を越え、危険な領域に入ってきている。気持ち悪くなるような胸騒ぎがした。このまま行くと、良くないことが起きる。何故だかはわからないが、そんな予感がする。とても嫌な予感だ。そうでなくとも、人を殺したと言われるような人物と一緒にいたいと思う人間など滅多にいない。


 逃げ出すのは簡単だ。後ろの少女を無理矢理引きはがし、この場を去ればいいだけのこと。


 だが、逃げ出したら逃げ出したで、それこそ面倒なことになりそうだ。まず、少女を置いてひとりで逃げ出すなんて情けないと、店中の人間から罵られるだろう。そして、この黒ずくめの女が本当に人殺しだとしたら。


 少女はおろか、仲間たちにも危害が及ばないとは限らない。誰かが殺されているのに自分はひとりで逃げていたなんてことになったら、後味はさぞかし悪いだろう。


 それに、自分はそもそもこの店の用心棒だ。厄介な人間と対峙するのが自分の仕事だ。


 やはり仕事には真面目なアイカは、こんな状況でも自らの義務を放棄する気にはなれなかった。


 アイカは勇気を振り絞って、前にいる女にもう一度話しかけた。


 「人を殺したってのは本当か? もし本当なのだとしたら、そんな奴はこの店に入れるわけにはいかねえ。何が目的なのか知らねえけど、さっさと帰ってくれ。こいつに用があるなら、他の場所で話してくれ。頼むからここで面倒なことはしないでくれよ」


 他の男たちが来てからずっとどことなく俯いていた黒ずくめの女だが、相変わらずアイカの方は見ようともしない。前髪で顔が隠れて表情は伺い知れないが、おどろおどろしい気を漂わせているのも変わらない。


 すると、アイカの行動で勢いづいたかのようにして、他の男たちも口々に強気の言葉を発し始めた。


 「そうだ、いくら綺麗な姉ちゃんでも殺人犯はこの店には歓迎できねえぜ」


 「外で何してくれようと構わねえが、この店で手荒な真似されると困るんだな」


 「人殺したと聞いちゃ黙ってられねえな、さっさと出てってもらおうか」


 勇気を振り絞った男たちが一歩女に近づこうとしたが、直後に彼らは凍り付いたようにして動きを止める。


 黒ずくめの女がそのままの格好で口を開いたのだ。小さいが冷たく、白刃の煌めきを伴った声だった。


 「お前たち、命が惜しければ、それ以上私に近づかないことだ」


 男たちは一斉に顔を見合わせた。これは明らかな脅迫だ。言外に込められた意味はつまり、近づいたら殺すということだ。


 この黒ずくめの女が本当に人殺しなのかはわからない。白髪の少女が保身のため咄嗟にでたらめを言った可能性ももちろんあるし、むしろ、少なくともアイカには通常ならばその可能性の方が圧倒的に高く思われただろう。会ったばかりの者が人殺しだといきなり言われても、信じようにも信じるだけの材料が何もないし、ましてや発言者がこの少女だ。信じられるわけがない。


 しかし、この黒ずくめの女には、力自慢の男たちに少女の言葉を無条件に鵜呑みさせてしまうほど十分に殺気がましい気配があった。先ほどから身動きひとつしていないが、その黒の外套の内側に潜む凄まじい恐怖は水が隙間から大量に漏れ出るようにしてひしひしと伝わってくる。本能的に命の危機を感じたように、体が勝手に身構えてしまう。


 それでも、女相手に怯むことは許されない男たちの意地が勝った。――その意地の強さが、この後の悲劇を生んでしまうのではあるが。


 「……おいおい、そんなこと言って、あんまり俺たちを脅そうとするもんじゃないぜ? 例えあんたが本物の人殺しだとしても――」


 用心棒の男たちの中のひとりがそう言いながら、女に近づいて肩に手を掛けようとした。しかし、その手が目標に達することはなく、言葉が最後まで発せられることもなかった。


 アイカは身動きひとつ取ることができなかった。それほど一瞬の出来事だった。


 並の相手ならば自分が素手で相手が凶器を持っていようと十分に対処できる護身術の技量と大胆な勇気を兼ね備えた用心棒の男たちだが、そんな彼らの誰もが目を見張った。


 肩に触れられようとした刹那、黒ずくめの女が外套の中から凶器を表に出したところまでは、彼女と向かい合う形でいたアイカにはわかった。刃渡りの短い小刀だった。白銀の刃が明かりに反射して煌めいたかと思った次の瞬間には、それが近づいた男の喉元に深々と突き刺さっていた。


 「な……っ!」


 それがあまりにも不意のことだったせいで、男たちは束の間目の前で起こった出来事を飲み込めず、呆然と立ち尽くした。

 

 喉を貫かれた男は悲鳴を上げる間もなく絶命し、巨体が力を失って床に崩れ落ちる。

 

 首から溢れ出す鮮血。赤く染まっていく床。女は血塗れの小刀を片手にぶら下げている。

 

 辺りは瞬く間に悲鳴の嵐に包まれた。

 

 周囲にいた客たちは突如目に映った惨状に、我をも忘れて一斉に逃げ出す。

 

 恐怖は伝染し、実際に現場を見ていない者たちも、恐れ戦いた形相で逃げ惑う客たちにつられて慌てふためく。

 

 ある者は無我夢中で外に逃げ出し、ある者は誰にともわからず助けを乞う。またある者は、何が起こったのかを自らの目で確かめ、さらに愕然とする。

 

 阿鼻叫喚の有様だった。

 

 恐怖に戦いたのは客たちだけではない。用心棒の男たちも同じだった。

 

 彼らは目の前にいる女に対してとてつもない恐怖を感じながらも、ようやく事態を飲み込んだときには、仲間を殺されたことに対する怒りにも駆られた。

 

 強力な恐怖と憤怒が入り混じり、男たちの緊張は限界を超え、錯乱する。彼らは怒声を上げ、取りつかれたかのようにして黒ずくめの女に襲いかかった。


 他の用心棒や店員たちが集まって来て止めようとする声も届かない。恐怖に突き動かされた男たちの勢いは凄まじかった。


 アイカも我を忘れていた。竦み上がるほどの恐怖を感じたのは覚えている。だが、女を倒そうと頭で考えたわけではなかった。下手をしたら殺されると、頭ではわかっていた。


 しかし、気が付いたときには床に尻餅をついて倒れていた。左肩に熱い感触がある。血だ。


 痛みはあまり感じなかったが、触って確かめてみると、手に赤い液体がべっとりと付いた。かなり出血しているようだった。


 さっきいた場所からはいつの間にか少し離れている。周囲に人の姿はほとんどない――白髪の少女だけが、寄りそうにようにしてそばにいた。


 そして、そのつい先ほどまでいた場所では――さらに目を疑う光景があった。


 黒ずくめの女は相変わらず悠然と立っている。その周りには、何人もの用心棒の男たちが倒れている。

首や体中から血を流して明らかにもう息をしていない者から、アイカのように怪我をして苦しんでいる者もいる。


 その場を包むようにして床は血だまりになり、黒ずくめの女も外套が黒だからわかりづらいが、相当の返り血を浴びているようだった。


 まだ動ける者たちも、目の前にいる者が信じられないというような様子で女を見つめたまま動こうとしない。


 女はあくまで、白髪の少女を見据えていた。さっきまでと寸分違わぬ格好で立っており、息が乱れている様子もない。周りの人間たちのことなど気にもしていないようで、今しがた自分のやったことなど特に意味もないことだとでも言いたげな無表情で、突き刺すような視線を放っている。


 その視線の先にはもちろん、アイカもいる。アイカは文字通り生きた心地もしなかった。


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