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自転車アブノーマル  作者: 謎の自転車乗り
1章.出会い、始まり
5/9

4.

 それから何事も起きずに3日が過ぎた。アイカは変わらず仕事に精を出していたが、何となく晴れない気持ちでいた。

 

 少女を見つけられたのはいいが、結局貯金を取り返すことはできなかった。それだけだったら未だに腸が煮えくり返るような思いでいたに違いないが、むしろ妙な後ろめたさに襲われる。

 

 悲鳴を上げ、階段を落ちていく少女。振り乱される白い髪。打ち所が悪ければ、怪我では済まなかったかもしれない。幸い大怪我には至らなかったようだが、あの様子では手首の骨にひびが入っていたとしても不思議ではない。

 

 ――ちょっと大人げなかったかな。

 

 アイカはいつになく決まり悪く感じていた。面倒だと感じたら誰彼かまわず殴り飛ばしてしまう彼だが、今回は相手が悪かったのかもしれない。実際あんな、おそらく12、3歳くらいの少女を相手にするのは初めてだった。勢いに身を任せて手を下してしまったわけだが、子どもにも平然と暴力をふるえるほど自分は血も涙もないわけではないのだと気づかされるようだった。もしくは、単に子どもだからというわけではなく、あの少女だからだったのか――。

 

 「まあだくよくよしてんのかよ。お前らしくねえな」

 

 夜も更け、店の賑わいが安定してきたところで店主のセナが話しかけてきた。

 

 「くよくよなんかしてねえよ」

 

 アイカはむっとなって答えたものの、セナの顔からは馬鹿にするような嘲笑が消えない。

 

 「ほんとかあ? 別に隠すことなんかねえんだぞ。顔にくよくよって書いてあるぜ。悩みがあんなら遠慮なく言えって」

 

 「はあ? 悩みってなんだよ。金盗まれた話は全部したじゃねえか。これ以上話すことはねえよ」

 

 「それ以外に何かあんだろ。照れるなって。別に馬鹿にしたりしねえからよ。お互い隠し立てはなしだぜ」

 

 そう言うセナは明らかに悪意のこもった笑みを浮かべている。馬鹿にしているのが丸見えだ。

 

 アイカは呆れて言い返そうとしたが、その前に新たな人物が口を挟んでくる。

 

 「よっ、恋する男! 俺は応援してるぜ。がんばれよ!」

 

 同じくセナに雇われている用心棒仲間のユオルだ。アイカとは同年代で、黒髪を後ろで束ねられるほどに伸ばしている。身長も体格もアイカと似ているが、目はどちらかと言うと柔らかく、顔だけ見ると物腰柔らかそうな男だ。アイカと違って女性や色事には興味津々な男である。

 

 「誰が恋する男だ。誰も恋なんかつまんねえことしちゃいねえよ」

 

 アイカは大真面目に言い返したが、ユオルもセナも一緒で聞き入れようともしない。

 

 「照れるなって! その子のことが好きになっちゃったんだろ? いいじゃねえか。泥棒娘と恋に落ちた男の物語。感動的な話だぜ」

 

 「てめえ、いい加減にしないとぶん殴るぞ」

 

 「怖い怖い。怒るなって。実際綺麗だったんだろ? その子。いいじゃねえか。今はちょっとちっちゃくても、何年かすればすぐにいい女になるぜ」

 

 「話をすり替えるな! 俺は綺麗だからって恋をすることもなければ、いい女になったって恋なんかしねえよ」

 

 アイカがじわじわと拳を振り上げそうになっているのを尻目に、セナが素知らぬ顔で感慨深そうな声を上げる。

 

 「いいねえ。俺も会ってみてえなあ。そんな綺麗な子ならよ」

 

 アイカは怒りを通り越して呆れ返った。これ以上このふたりの相手をするのは面倒だ。さっさとこの場を離れて仕事に戻ろう。

 

 にやにやと痴話を続けるふたりに背を向けて、アイカはその場から離れようとした。随分と無駄な時間を過ごしていた。店内のどこかで揉め事でも起こっているかもしれない。

 

 そうして店内を見渡したアイカは、目に入ったものが信じられず、一瞬立ち尽くしてしまった。この状況で、この会話をした後で、最も想定外だった人物の姿が目に入ったのだった。

 

 その衝撃があまりに大きくて、アイカはしばらく動くこともできずにその人物を見つめてしまった。皮肉にも、女性の美貌に胸を打たれた男さながらだった。

 

 向こうもいつからそこにいたのか、こっちを見ていたので、少し距離を置いて見つめ合う形となった。

 

 突き刺すような視線を投げて来るのは、異様に濃い青い瞳。この距離を置いても吸い込まれてしまうように深い青。

 

 この泥酔した客でごった返す店の中でもひときわ異彩を放つその白い髪の持ち主は、紛れもなくあの少女だった。

 

 4人掛けのテーブルをひとりで占領し、何を飲むとも言わずにただじっと座ってこちらを見ている。その目には心なしか怒りが込められているようであり、視線は刃のように鋭い。

 

 少女は左手首から手の甲までを覆い隠す形で包帯をぐるぐる巻きにしていた。額にも鉢巻のように包帯を巻き、腕など、体の見えている部分だけでもあちこちに傷がある。

 

 それでも、そんな痛々しい姿とは裏腹に、その目線からは底知れない力が感じられた。恨み、そして堪え切れない怒りが、目を通してじんじんと伝わってくるようだった。

 

 どうしたらいいかわからずにいるアイカを見兼ねたのか、少女は痺れを切らしたように立ち上がり、ずんずんと歩み寄ってきた。その足取りからもかなりの腹立たしさが伺える。


 アイカはちんぷんかんぷんだった。


 何故この少女がここにいるのか。ここは酒場なのだから、大の大人だったのなら客としていたとしても何もおかしくはないが、これはどう見てもこの場所には不釣り合いな少女だ。


 様子からしてこの少女は始めからアイカを探してここにやって来たかのようだった。そうなのだとしても、何故? 怒っているようだが、そんなに怒らせるようなことをしただろうか。


 こんな怪我をさせたことに対してだろうか? しかし、元はと言えばそうなったのも原因はこの少女。いわば自業自得だ。本来ならアイカの方が怒るべき立場にあると言える。


 疑問、不安、焦燥、怒り、驚愕――様々な感情が胸で渦巻いて動けないアイカの元に少女はやって来た。

 

 「お……お前、どうしてここに――」

 

 アイカはかろうじて声を出したが、それも遮られた。少女が何も言わずに腕をひったくるように掴んできたかと思うと、そのまま店の出入り口の方へアイカを引っ張り始めたのだ。

 

 物凄い剣幕だった。あっけに取られて抵抗もできないアイカは、みるみる店の外へ向かって連れ去られていく。彼にとって不運だったのは、まだすぐ近くにいたセナとユオルにその現場をしっかりと目撃されていたことだった。

 

 「おい、もしかして……」

 

 「おお? アイカ、お前、こんな所にまで……」

 

 彼らの言葉をはっきりと聞き取ることはできなかった。ただ、彼らが顔に好奇の色を湛え、淫猥な視線を投げかけてきていることは確かだった。

 

 ◆

 

 連日の晴天も途絶え、今夜は雨がぱらついている。アイカを店から連れ出した少女はしかし、雨など物ともしない様子で、足を緩めることなく酒場の建物の裏手に回った。

 

 表通り沿いには種々雑多な酒場が並び、夜中だというのに昼間のように、もしくはそれ以上に煌々としていて眩しいくらいだが、一歩裏に回れば世界が変わったように辺りは夜の闇に包まれる。酔漢たちのやかましいほどの活気が嘘のように遠ざかり、代わりに顔を出すのは寝静まった街を支配する静寂だ。


 泥酔した者が闇に潜む魔物のようによろめいているのがちらほらと見受けられたが、少女は構わず突き進む。路地を進み、酒場街の明かりがぎりぎり届くか届かないかというところまで来ると、くるりと向きを変えてアイカと向き合った。

 

 その怒りとも悲しみとも取れる感情が滲み出ている目に、アイカは口を噤まざるを得なかった。本来ならばアイカの方が怒り嘆くべき状況であろうが、少女のその眼力とも言える圧倒的な気迫を前にしては思わず怯んでしまう。アイカと比べて頭ふたつ分も背が小さいのに、見上げてくる視線には大の大人にも引けを取らない強さがあった。

 

 アイカが頭をかつてない勢いで空回りさせていると、少女は不意に懐から何かを取り出して、痛めていない右手ですっとアイカの前に差し出してきた。

 

 ペンダントのようだった。暗くてよく見えないが、糸のように細い銀の鎖の先に、指でつまめるほどの大きさの銀の入れ物が付いていて、そこに宝石がはまっている。

 

 なんてことはない、ただのペンダントだ。飾り物が好きな女性なら誰でも持っていそうな代物。何の意図があってこの少女は自分にこれを差し出してくるのだろう?

 

 アイカはさらに混乱した。アイカの狼狽を見て取ったのか取らなかったのか、少女は有無を言わせぬはっきりとした口調で、言った。

 

 「これ、直して」

 

 「……は?」

 

 アイカはぽかんとした。少女の言葉の意味がわからなかった。

 

 少女はしかし、お構いなしに続ける。

 

 「この前階段から落ちたときに壊れたの。だから、直して」

 

 よく見ると、少女の手から垂れ下がるペンダントの2本の鎖は先が繋がっていない。少女の発言からするに、切れてしまっているのだろう。階段から落ちたときというのは、先日の出来事のことだろう。あの逃走劇の最後、階段から転げ落ちたはずみで切れてしまったに違いない。

 

 

 ――だから、直して?

 

 

 アイカは意味が呑み込めず、唖然とした。こういう場合は、自分が悪いのだろうか? 自分が直すべき立場なのだろうか?

 

 「な……直してって、お前よお。確かに転ばせたのは俺だけど、元はと言えばお前が――」

 

 アイカがそこまで言ったところで少女がすかさず口を挟む。

 

 「やっぱり。何か投げてきたの、あなたなんでしょ」

 

 「うげっ」

 

 墓穴を掘った。言い逃れできたかもしれないとアイカは思うも後悔先に立たず。

 

 少女は構わず詰め寄ってくる。

 

 「これ、大切なものなの。壊れてるままじゃ嫌だから、直して」

 

 「壊れてるままじゃ嫌だから、ってなあ、お前……。元はと言えば、お前が悪いんだろ! 直してとか言う前に、俺から盗んでいった金を返せ!」

 

 アイカはやっとの思いで反論したが、少女の反応は素っ気なかった。


 「もうない」

 

 「はあ?」

 

 「いらなかったから、他の人にあげちゃったわ」

 

 開いた口が塞がらないというのはこのことを言うのだろう。アイカは呆れかえるあまり、少女の無邪気な顔をしみじみと見つめてしまった。

 

 「とにかく、これ、すごく大切なものなの。あなたのせいで壊れたんだから、直して」

 

 ごく当たり前のように言いのけてくる少女に、アイカは思わず感心してしまうほどだった。

 

 しかし、こうとなっては引き下がるわけにはいかない。アイカも負けじと言い返した。

 

 「あの金だって、俺にとっては大切なものだったんだ! 大切なものだからって言うんなら、まず俺の物を返せ!」

 

 「返せって言われても、もうないんだもの! ないものは返せないわ」

 

 「お前なあ……。人の物盗んでおいてその態度はないだろう。そっちがその気なら、こっちだって取る手はいくらでもあるんだぞ」

 

 至って本気で言ったつもりのアイカだが、少女は素知らぬ顔でそっぽを向いた。

 

 「……が悪いのよ」と、少女はぼそっと何かを呟いたがアイカには聞き取れず、聞き返すと、今度は面と向かって、はっきりと言ってきた。

 

 「大切なもの持ってるのにぼーっとしてるのが悪いのよ」

 

 「な……」

 

 「そんなに大切なものなら、普通、あんなに目立つところで表に出さないじゃない。ぼーっとしてるから、どうでもいいものかと思ったのよ」

 

 少女の理不尽な言い分に、アイカは頭に血が上っていくのをひしひしと感じた。


 「どうでもいいものだからって盗んでいい理由がどこにあるってんだ!」

 

 「盗んじゃいけない理由なんてあるの?」

 

 「な……何だとお……?」

 

 アイカの感情は怒りを通り越して驚愕に変わった。人から物を盗むことはいけないというのが常識のつもりで生きてきたアイカだから、盗んではいけない理由はもちろん考えたことがない。咄嗟に言い返そうとしたが、しどろもどろになってしまった。

 

 「盗んじゃいけない理由なんて……そりゃあいくらでもあるに決まってるだろ!」

 

 「例えば?」と、わざとらしく首を傾げる少女。

 

 「例えば……人の物ってのはその人が汗水たらして金稼いで手に入れたものだろ。それを他人が黙って盗んでいいわけがねえ」

 

 「どうして?」

 

 「どうしてってなあ、お前。そんなこともわかんねえのか。人が苦労して手に入れたものを他人が何の苦労もなしに奪う。どう考えても道理に反してるし……そりゃ、その人の苦労を奪ってるのと同じようなもんだぞ。言い換えりゃ、そいつの人生奪ってるのと同じようなもんだ」

 

 少女は少し考えたようにしてから、あどけない表情で言った。

 

 「でも、私、そうするしか物を手に入れる方法がないの」

 

 これまた違う意味で唖然としたアイカだった。

 

 「それしか方法がないって、どういうことだよ。家はないのか? お前みたいな子どもなら、親に頼めばいくらでも手に入るだろ」

 

 アイカは真摯に聞いた。すると、少女は少し俯き、心なしか寂しそうな表情になって、答えた。

 

 「家もないし親もいないわ。自分が誰なのかもわからないんだもの。こうしか方法がないのよ」

 

 その言葉に面食らい、アイカは慌てて聞き返す。

 

 「家もなくて親もいない? 火事でも起きて失くしたってことか?」

 

 「ううん、わからない。自分の家がどこにあって、親が誰なのかも覚えてないの。知ってる人もいない。何も覚えてない。だから、こうしてひとりで生活するしかないのよ」

 

 「何だよそれ。記憶喪失ってことか?」

 

 「だから、何もわからないの」

 

 アイカは急に気まずくなって口を噤んでしまった。状況がどんどんややこしくなっていく。家がなくて親もいない? 何か不幸が起きて失くしたというなら別段おかしなことはないが、自分が誰なのかわからない? 何も覚えてない? だからひとりで泥棒生活を送っている?

 

 頭をこんがらせるアイカを前に、少女は痺れを切らしたようにして最初の覇気を取り戻した。

 

 「とにかく、そんなことは何でもいいから、早くこれ直してって言ってるの!」

 

 「待て待て待て待て! それとこれとは別だろ! それに、何でも良くねえよ。その話、もっと詳しく聞かせろよ」

 

 「どうしてそんなこと話さないといけないの。今は関係ないでしょ」

 

 「関係なくねえよ。場合によっちゃ……何か助けてやれるかもしんねえし」

 

 アイカは言ってすぐに内心後悔した。何故こんなことを言ってしまったのか自分でもわからなかった。

 

 親のいない子ども、つまり孤児に関わるなんて、普段のアイカなら真っ先に避けようとする面倒事だ。親を失くして傷ついている子どもを慰め、世話をし、必要あらば孤児院に連れて行く。孤児院に入れたところで、そこで全部終わりとは行かないだろう。連れて行ったものの責任として、それから先も何かしら関わらないといけないに決まっている。

 

 そんな面倒なことは死んでもやりたくないと思うのに、何故かおかしなことを言ってしまった。

 

 少女はきょとんとしてアイカを見つめた。

 

 「助けてくれるの?」

 

 アイカは慌てて取り繕うようにして答えた。

 

 「助けるっつってもそうだな、別に大したことしてやれるとは思わねえけど……そうだな。ちゃんと話してくれたのなら、俺の金を盗んだ弁解くらいは受け入れてやれるかもしれねえな」

 

 アイカは言いながら内心で自分を責めまくった。

 

 ――ああ、何言ってんだ俺! そんなこと言ったら、金返さなくてもいいって言ってるのと同じようなもんじゃねえか!

 

 しかし、もう取り返しはつかない。

 

 曖昧な返事に納得できなかったのか、少女は不満そうな表情をあらわにし、懐疑の目を向けてきた。

 

 「そんなこと言って、逃げようとしてるんじゃないの?」

 

 「馬鹿、何で俺が逃げなきゃなんねえんだ。立場が逆だろ」

 

 少女は答えず、さらに不審がる様子で言ってきた。

 

 「じゃあ、変なこと考えてるとか」

 

 「変なことってなんだよ」

 

 「いやらしいこととか」

 

 「ば……馬鹿野郎!」

 

 これには思わず本気で怒ってしまったアイカだった。

 

 「誰がお前みたいな盗っ人相手にそんなこと考えるか!」

 

 しかし少女は怪しむ様子を崩さない。

 

 「だって、今までにもいたんだもの。助けてくれるとか言って、下品なことしか考えてない人たち」

 

 「俺をそんな奴らと一緒にするな!」

 

 言いながら、アイカは何となくこの少女の経験が想像できた。確かに、いくら子どもとは言え、比類ない容姿を持っている少女だ。それが家もない親もいないと言うんじゃ、てきとうなことを言って我が物にしようとする下劣な人間がいてもおかしくはない。

 

 根本的な問題は何もわからないが、今の言葉で少女がひとりこんな生活を送っている理由が垣間見えた気がした。

 

 アイカの激昂をものともせずに、少女はさらに軽蔑の眼差しを投げかけてくる。

 

 「本当に違うの?」

 

 「ちげえよ! 何もかもがちげえ。俺はそんな下賤なことは考えねえよ」

 

 「本当かしら?」

 

 「本当だよ!」

 

 すると少女は困ったような表情になり、少しの間考え込むようにしてから、言った。

 

 「じゃあ、これ直してくれたら、信じてあげる」

 

 再び目の前に差し出されるペンダント。アイカは呆然自失とした。

 

 「だからだからだから、まずお前の身の上の話をしろってんだよ! 直すか直さないかの話はそれからだ!」

 

 「嫌」と、少女は一言。

 

 「嫌って、お前なあ……。話さないのなら、俺もそれは直してやらねえぞ」

 

 「まず直して。そしたら私も話すわ」

 

 「逆だろ逆! お前、自分の立場がわかってんのか? 俺は逃げようと思えばいつでも逃げれるし、お前を叩きのめそうと思えばいつだってそうできるんだぞ。つまり、それが直るか直らないかはお前次第なんだぜ」

 

 「私、もうこんなに怪我したのに、もっと怪我させられるの?」

 

 「だから……、それもこれもお前次第だって言ってんだ!」

 

 これはだめだ、とアイカは悟った。この少女と話していても埒が明かない。そもそも、話になっていない。話が噛み合わない。

 

 今すぐにでもこの場を放棄したいところだったが、貯金のことが諦められない。少女がもうないと言っているのだから返ってくることはなさそうだが、諦めきれるわけがない。

 

 この少女にしても、このまま野放しにしておく気にはなれない。


 どうしたものか?


 このまま問い詰めるべきだろうか。だが、この少女から話を聞き出すのには相当な苦労が必要になりそうだ。

 

 

 ――ああ、めんどくせえ!


 

 と、アイカが葛藤していた矢先だった。

 

 酒場街の方から誰かが大声で呼んでくるのが耳に入った。

 

 「おおい、アイカ! そんなところにいたのか。愛の密会は後回しにして、とりあえず戻って来てくれ! ちょいとまずいことになってら!」

 

 通りの明かりを背に呼びかけてくるのはセナだった。ついさっきまでちゃらけていた彼が焦った様子でいるのは尋常ではない。

 

 そこでやっと、アイカは長いこと職場を放棄していたことに気が付いた。少女の問題もあるが、今は戻らないといけない。頭に引っかかる節があるのは置いておいて、セナがこうして平静を欠いた物言いをするのは、決まって店で大きな面倒が起こったときだけだ。

 

 急に現実に戻って来たような気持ちで、アイカは急いで店に戻った。後ろで少女が何かを喚いているのが聞こえたが、あえて無視した。何だかんだ仕事には真面目なアイカの義務感が勝ったのだ。


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