1:戦う女、伊藤円
1:戦う女、伊藤円。
華麗に宙を舞う・・・・スリッパ。
ヌチョっ…という音とともに潰れる黒い物体。
彼女―伊藤円は勤め先の出版社で残業中にゴキブリを見つけ、たった今自分の履いているフリース生地のスリッパで決着を着けた。
「ふう。スリッパ買って帰らなきゃ。」
もう十時だよ。どこも開いてないよ。そうつっこみそうになったのをぐっと堪え、目の前で起きた戦いに唖然とする男―渡辺円。
「・・・い、伊藤?」
「・・・何?」
「お前・・・男みテッ?!」
痛ってえ!足踏むな!
「ゴキブリも殺せない軟弱男に言われたくないわ」
「ぐ・・・ごもっともです・・・。」
事の発端はこうだ。
夜九時半を回った頃、残業しているのは俺と伊藤だけになった。
伊藤はまだ二十五歳なのに多分一番仕事が出来る。
俺は先月営業部からこの編集部に異動してきたため、仕事もまだまだ。伊藤の3つ上ではあるものの、頭が上がらない。
伊藤とは今まで何度か挨拶はかわしたけれど、ちゃんと話したことは一度も無い。伊藤の時の新入社員歓迎会で「伊藤さんって呼ばれるの嫌いです。皆さん伊藤って呼んで下さい。」と言っていたので伊藤と呼んでいる、それだけ。
同じ“円”の字ってのもあってちょっと気になっていた。
話しは戻るが、俺が印刷をすべく席を立つと、隣のデスクの下から黒い物体。
「ごっごっごっ」
「どうしたんですか渡な…」
「ゴキブリ!ゴキブリ!」
「殺せばいいじゃないですか」
「・・・む、無理無理無理!」
「・・・このへたれが。」
そして話は冒頭に戻る。
「・・・伊藤。」
「・・・・。」
「・・・伊藤ってば。」
「・・・なんですか?」
「俺の名前、知ってる?」
「知りません。」
「あ、やっぱり」
「渡辺ヘタレ?」
「・・・・・・。」
「マドカ、ですか?」
「いや、エンって読む」
「・・・そろそろ帰ります。」
「それまた唐突だね」
「・・・渡辺さん。」
「はい?」
「鍵よろしくお願いしますね」
「あ、え、ちょっ!」
「・・・?」
「お、く、送って、く。」
「いいです。まだ終電まで余裕ありますし。」
「スリッパ!買わなくちゃいけないし」
「もう十時過ぎてますよ?どこも開いてません」
分かってたのか!