第一章 05
※※※
「先生、霧本くんから休むって連絡ありました?」
昼休みのチャイムが鳴るなり、氷空は教壇にいるクラス担任に尋ねた。
「そういえば、まだ連絡はまだないわね。夕方になったも連絡がなかったら、こっちから家に電話して見ようと思うけれど」
教師は呑気そうに首を傾げる。
「どうしたの? 霧本くんに何か用事でもあるの?」
「ああ、いえ。大したことじゃないんです。失礼しました」
そそくさと教師の元を離れると、空席の机を眺める。
(休みか‥‥‥)
薫の疲れた顔が脳裏に蘇った。
(ああ、やっぱり忘れることは出来ないんだなあ)
ため息をつく。
薫の顔がどうしても、あの時の弟とかぶってしまう。
記憶を忘れることはできないが、記憶に触れないようすることはできる。 氷空は自分自身に小さな代償を払わせることによって、ずっとそうして来た。
あの時。あの時は自分にできることはなかった‥‥‥と思う。
だが、今は。少しならできることがあるのではないだろうか。
あの時になにが起こったのか、その手がかりを掴むことができるのではないだろうか。
※※※
霧本薫は夢を見ていた。
以前のような悪夢ではない。ただ、暗い闇をゆっくりと落ちていく夢。
深海にゆっくりと沈み込んでいくような、妙な浮遊感と孤独と安堵。
ゆっくりと深く沈むにつれ、記憶の奥底に埋もれていた断片が、泡のように次々と浮き上がってくる。
光景が瞬いた。
夕陽、
公園、
迫ってくる大きな影、
小学生の頃の友だち、彼は怯えていた。
そして見知らぬ子供。顔はのっぺらぼうのようにぼやけて見えない。
その子供がなぜか、あの少女に重なった。
あの底冷えしたような瞳。あの少女と面識はない――だが確かに見覚えがあった。
――お前はいったい誰だ?
※※※
ぼやけた視界がゆっくりと鮮明さを取り戻す。
天井から照らされる照明がやけに眩しく、薫は顔をしかめながら、ゆっくりと身を起こした。
見覚えのないだだっ広い倉庫だった。周囲には無数のコンテナが積まれており、高い壁をなしている。教室2つ分ほどの空いたスペースには、見慣れない医療器具やCTスキャンのようなものが、無造作に置かれており、薫は安物の簡易ベッドに寝かされていた。
「気がついたかい、キミ。私の言葉がわかるか?」
声が聞こえる。
顔を向けると、金髪の白人男性が薫の寝ているベッドに腰掛けていた。
男の背後には黒髪で眼鏡をかけた女性がぴったりと寄り添うように立っている。
「どうだね、私の言っている言葉がわかるかな?」
男は子供に言い聞かせるかのように、ゆっくりと言葉をかけてきた。
あきらかに欧米人の容姿をしているが、不気味なほど流暢な日本語。落ち着いた声質をしているが、どこか鼓膜がザラつくような響きだった。
「ええ、まあ」
とりもなおさず薫がうなずくのを見ると、男は意味ありげに女にめくばせをする。
「うむ‥‥‥彼女の言うとおり、発症しているのは間違いないな。私の名前はダニエル。ダニエル・エルロイ。後ろにいる彼女はエレノア・バーネットだ。失礼だが、君の身分証を拝見させてもらった。君の名前は霧本薫でいいのかな?」
ダンと名乗った男は薫の生徒手帳を掲げた。気を失っている間に身体検査をされたらしい。
「‥‥‥それより、あなたたち、誰です?」
「わたしたちはHADIA(human diversity association)という団体の一員だ。ここはまあ、我々の一時的な隠れ家とでもいう場所だ。心配しなくていい」
「HADIA‥‥‥?」
聞き覚えのない団体名に首を傾げる。
「まあそんなに固くならなくていい。君に危害を加えるつもりはない‥‥‥といっても信用はされないかな」
ダンは穏やかな口ぶりで話しかけているものの、薫はあからさまに不信感を露わにしていた。
もっとも彼らに胡散臭い目を向けたのは、HADIAという組織や目的についてではない。
まずダンという男。
金髪、碧眼、白い肌。容姿はあきらかに欧米人だが、しゃべる日本語が気持ち悪いぐらいに流暢だ。それがどうしようもなく、胡散臭い。おかげで話の内容にいまいち集中できない。
「‥‥‥あの、俺はなんでここに?」
「端的に言えば、キミは BOMES(MES対策局※1)によって処分執行されるところを助けられ、我々に保護された、ということになるかな」
「BOMES?」
聞きなれない単語に、薫は思わず眉をひそめる。
「そうだな‥‥‥まず肝心な部分から説明しよう。君はある特殊な病気を発症した。名前は内界具現化症候群、略称はMES(※2)という。現在のところ治療法は見つかってはいない」
※1 BOMES‥‥‥bureau of mind embodiment syndrome
※2 MES‥‥‥mind embodiment syndrome