序章
西暦2025月9日、午前3時25分。
霧雨が降りしきる夜だった。人口200万人規模の余里館市はうっすらと肌寒く、まるで街そのものが眠りについたかのように静かだった。
街灯は雨に覆われた街を朧気に照らし、信号機の鮮やかな色灯は、濡れたアスファルトを艶めかしく彩っている。道の端々に出来た水たまりは音をたてることなく、無数のかすかな波紋をつぎつぎと生み出しては消えていた。そして、街を取り囲むようにして建設された十三基の巨大な内界エネルギー集積アンテナは、無防備に雨を浴びつつ、黙々と糧となる人々の心を吸い上げている。
冷たく湿った空気は淀んだ夜の底に少しずつ沈殿し、積もっていた。
本当に静かな夜だった。赤ん坊の微睡みのように穏やかで安らかな夜だった。時間すら時を刻むのを忘れて眠っているのではないか。雨と街の灯り以外、この世には何も存在していないのではないか――そう錯覚してしまうほどに。
街の大半の人々は眠りについている。
平穏な日常が崩れ落ちていることも知らず、今日の続きである明日を待ちながら。
濡れた暗闇の底を少女は駆けていた。
肩から斜めに下げた、ボロボロのショルダーバッグが激しく揺れる。
纏わりつくような雨を切り裂くように走り、大通りを抜けて細い路地へ。
しばらく走ると目の前に、高さ二メートル程度の壁が立ちふさがる。袋小路だ。だが、少女はスピードを落とすことなく、壁に向かって駆け寄ると、なんの躊躇いもなく跳躍した。
ブロック塀に手をかけ、いともたやすく反対側にある空き地へ。しなやかに着地すると少女はピタリと壁に身を寄せ、息を潜める。
しばらくすると、複数の慌ただしい足音が聞こえてきた。
「MFF、どうなってる?」
「反応が読み取れません。ここらへんは特に共有思念領域の“ほつれ”がひどくて‥‥‥」
焦燥を押し殺した声が壁を通してかすかに聞こえてくる。
「くそ――っ」
短い唸り声。
「いや・・・・・・だが、まだ遠くにいってないはずだ。所轄の警察に連絡を回せ。発見したらこっちに再優先で伝えるように言え」
「しかし主任、この辺りのMFF値が臨界点をこえてないってことは、アイツは発症者じゃないんじゃ‥‥」
男たちの声には、焦りのほかに微かな怯えが混じっていた。
「お前ら、あの廃ビルにあったあの死体を見ただろ。あんなの、どうみたってMESを発症したヤツの仕業だ。もしアイツが発症者じゃないとしたら――」
「アップセッター‥‥‥ですか?」
言葉を引き継ぐように、一人がおそるおそる尋ねる。
一瞬、思い沈黙がその場を支配した。
「いや、そんな奴はいない。アップセッターなんてヤツは存在しないんだ」
主任と呼ばれた男は苛立ちに満ちた声で言い切った。
「とにかく全員、装備は解除しておけ。いざという時は躊躇うな。これ以上の外界化現象は阻止するんだ」
やがて、男たちは複数のチームにわかれると、街の隅々に散っていった。
彼ら気配が消えるのを確認すると、少女は大きく息を吐き出し、立ち上がった。
霧雨に包まれた街灯の淡い光が、その華奢な姿をぼんやりと照らす。
暗闇と同化したような濃紺のブレザーとスカートに身を包み、胸元には鮮血を思わせる真っ赤で小さなリボンが結わえている。
彼女に漂う空気は凍てつくように寒々しいが、それは消して降りしきる雨や気温によるものではなかった。
(‥‥‥迂闊だった、奴らがすでに動き出していたなんて)
あの男たちの言葉を聞くまでもなく、彼女の皮膚感覚は、すでにこの周囲の共有思念領域がほころび始めていることを感じ取っていた。それはつまり、この地域のどこかに少女以外の幻覚者が存在しているということだ。MES発症者、または発症寸前の者、あるいは、それ以外の者が。
(でも、それだけじゃない――)
冷えきった瞳がある一点を見定める。
彼女の視線の先には、壁にスプレーで大きく描かれ落書きされた一文があった。
『幻覚者はすぐそばにいる。滅びの日は近い』
この街で同じ落書きを目撃したのは、これで三つ目だ。
間違いない。この街ではもう一つの外界化現象が生まれつつある。いや、生み出そうとしている者がいる。今までのものとは比べ物にならないほどの巨大で、禍々しいものが。
「滅びの日は近い――か」
薄桜色をした唇から、呟き声が漏れる。
次の瞬間、少女の姿は音もなく暗闇に溶け込み、消えた。その場に残された彼女の殺気と焦燥は、霧雨によって少しずつ四散していく。