第五部 その十三
―― 工業国家ダストリー国境付近 ――
辺りは黒い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうな気配がある。
天を劈くかのような凄まじい音と共に空から現れたのは、珍しくも顔に焦りの色を帯びた一念だった。
(くそっ、どこだ!? どこにある!?)
手元には筒状に丸まった羊皮紙があった。
一念は宙で止まり、飛行中に飛散した記憶と統合する為、持っていた羊皮紙を開いた。
羊皮紙にはこうあった。
《葛城だ。
吉田一念君。このメールを見ているという事は、君は今、自分がいた世界とは違う世界にいると思う。
我が研究所、国営超常現象研究所では、試験的に様々な試みをする事があるのは知っての通りだが、先日私の部屋で話した《大がかりな実験》と言うのが、君のいる世界、《アンアース》という異世界を舞台に、一念君の実戦技術を調べる為のものであったそうだ。
実に不愉快な実験だと思った。勿論私も反対したし……いや、今はそんな話をしている状況じゃないだろう。
上層部の決定を待たずに一念君に対して実験を始めた者がいる。それが君もよく知っている軍の研究施設の一つ《ワンダーランド》の連中だ。
常々我々と対立してきた奴等だが、ついにその枷を忘れて暴走を始めてしまった。本当に申し訳なく思っている。
実情実験は終了していると軍上層部から報告を受けたが、一念君の安否確認は出来なかった。
今一念君がいる世界の現状を、こちらで調べる事は出来ないが、一念君のスマートフォンのGPS情報と、報告書にある少ない情報から、異世界にあるその端末位置を探る事には成功した。
位置情報を元にこのメールを送っているが、もう一つ大事な事を伝えておく。
暴走したワンダーランドは既にその行為を止めているが、一念君に実験を課した時、もう一名、別の人間にも同様の実験を始めた。
それが君の同級生、《吉田美菜》君だ。
超能力者である君と、普通人である美菜君の実験データを採取しようとしたと考えられる。
おそらく美菜君は人質の役割も兼ねていたのだろう。
美菜君の転移位置は、君の端末より更に北であるという事のみわかっている。
場所は不明だが、その位置からであればこちらの世界に戻って来れる可能性がある。早急に美菜君を連れ、彼女から転移位置を聞き出しこちらに戻って来てくれ。
辛い思いをさせてしまって本当に申し訳なく思っている。
一念君の無事は確信に足る事ではあるが、美菜君がその世界で生きていくには非常に難しい環境であると考えられる。
彼女が無事である事を切に願う。
追伸:実験データには続きが用意されていたそうだ。間も無くその世界で大規模な戦争が起きる。急げ……》
(くそっ、美菜がこの世界に!? これ以上北に行っても何もないし、来てるとすればここら辺……しかし俺と同時期にこの世界に来たとすれば既に一年は経っている? ……くそっ、頭がこんがらがってくる!)
一念はすぐに馴染み深い美菜の顔を思い出し強烈にイメージした。そしてすぐに精神感応を発動した。
『美菜、美菜っ!』
返答はない。
『美菜、おい美菜! いるなら返事してくれ!』
やはり美菜からの返答はなかった。
焦りと気負い、そして大きな不安から重くなった肩。一念は珍しくも項垂れてしまう。
しかし、こんな事態でもめげないのが吉田一念である。
すぐにまた顔を上げ、かなりの範囲で飛びまわり、精神感応を発動する。
北のダストリーからその南にあるトレーディアへ、トレーディアから西にあるギブリグへ、そしてギブリグからトレーディアを越えて更に東、聖王国へ向かい、再び南にあるアグリカへ戻った。
(くそ……一体どこにいるんだ……美菜っ。 可能性として考えられるとすれば、寝てるか……どこか探し漏らした場所があるか……考えたくはないけどもうこの世界にいないか、くらいか……)
「む、一念。戻ってたのか。凄い形相で飛び出て行ったから心配――っ!」
一念の部屋でスマートフォンをいじっていたルーネは、様子のおかしい一念に飛びかかるように近づいた。
「おい一念、大丈夫かっ!? 顔が真っ青だぞ!」
蒼白、そう言うしかない程、一念の顔は青ざめていた。
「ルーネさん……ちょっと力を使い過ぎてしまいまして……。大丈夫、寝れば治りますから……」
一念の肩を掴む腕に力が入るルーネ。既にその腕に一念の身体は預けられていて、今にも倒れそうな様子だ。
ふわりと一念を抱き寄せ、ルーネは一言「馬鹿者」とだけ言った。
優しく抱き上げられた一念も「すみません」と、一言だけ告げると、虚ろな目を閉じ、静かな寝息を立て始めた。
ルーネは鼻息を少し漏らし、ゆっくりと一念をベッドへと運ぶのだった。
―― 魔の砂漠の東 東の果ての大峡谷 ――
魔の砂漠を抜けた先にあったものは、まるで大地が真っ二つに割れたかのような峡谷だった。
大自然が造ったと思われるその割れ目は、人間の侵入を拒み、底が見えないその闇は、魔族を歓迎しているかのようだ。
シグルドと美菜は、かろうじて存在する細く狭い傾斜の道を歩む。
美菜の足取りも砂漠の時とは変わり非常に軽くなっているが、その顔は慎重そのものだ。
足を踏み外せば例えシグルドでも助かりはしないだろうし、先にある闇はやはり自分を受け入れていないと感じたからだ。
乾いた風がその底から吹き、やがて太陽の光が届かなくなる。
シグルドはそのあたりで美菜に自身のマントを掴ませた。火を灯す訳にはいかず、彼女を守る為でもあった。
話す声も小声となり、目の前にいるはずのシグルドの気配も段々と薄れていく。
美菜もそれに倣い可能な限りの存在を消していく。
美菜の軽かった足取りにやや重さを感じた頃、シグルドの足がピタリと止まった。
(……ん?)
そう思った美菜は、視界を谷底に向けるとその体は戦慄した。
そう、闇は……闇ではなく、絶望以外の何物でもなかった。
微かな寝息で動く奴等の体。まるで力を蓄えているかのように絶望達は皆眠っている。
(一体何万……いえ、何十万の魔族がいるの……っ)
夥しい数の魔族の異様な姿。
この時シグルドは、背中に冷たい汗を一つ流れるのを感じた。
瞬間、彼は美菜の細く軽い体を持ち上げた。美菜もその意図を理解した為声は勿論の事、シグルドの手間を掛けさせるような事はしなかった。
彼の首に手を回し、少しでも腕や腰の負担を減らすように努めた。
踵を返し全力で傾斜を駆け上がる。
シグルドの余裕のない表情を初めて見た美菜は、事態の深刻さを改めて実感した。
(この世界に……間も無く絶望が始まる!)
そう思ったシグルドの予想は、近い未来に、先の大戦以上の戦争が始まる事を意味していた。
峡谷の闇から出た瞬間、美菜の口が開く。
「シグルドさん! 私は良いですから先に行ってください!」
「ならん、ここはまだ危険だ」
「お願いします。少しでも早くこの事実を世界に――」
「ならん!」
ピシャリと美菜の言を遮断した。
結果的にシグルドの体力を消耗させてしまうと判断した美菜は、再び黙る事にした。
(悪くない状況判断……寧ろ英断とも言える。一隊任せるには時期尚早かと思ったが、これならなんとかなるかもしれんな。……戦争の勝敗は別にして……な)
「美菜」
「はい……」
「師として命じる、死ぬな」
「……はいっ」
決意が込められた強い瞳。
熱く厚い返事がシグルドの眼に伝わる。何故今この場でシグルドがそう言ったのかは美菜にはわかっていた。
イースティアに戻ったらシグルドとは離れ、一人になる事を理解していたのだ。
「イースティアに着いたら美菜、お前はトレーディアに向かうのだ。私はイースティア軍を統制し防衛ラインを築く。詳しい話はギン殿から聞くといい」
シグルドはこの地に、イースティアに残る。
簡潔な指示を美菜に与えた後、シグルドが口を開く事は無かった。
峡谷から砂漠に出て、その地形を苦に感じさせない程の速度でシグルドは駆け抜けた。
日は暮れ、夜通し走り抜きまた日が昇る。そして日がまた西に傾きかけた頃、シグルドは瞳の中にイースティアの城壁を捉えた。




