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2章

一週間のちょうど真ん中、水曜日。今日も、俺はバイトへ向かうために電車に揺られている。学校の最寄り駅からわずか数駅乗るだけだが、夕方にせまるこの時間帯は電車の空席も仕事を終えた大人たちで埋まっていて、気だるい身体を休める事ができない。しょうがなく扉に寄りかかり、ぼーっと、辺りを眺める。

 車両内には、俺と同じ学校の制服を着た学生がちらほらといるが、皆友人と連れ立っているでもなく俺と同じように、ぼんやりと空を眺め物思いに耽るか、運良く座れた人は携帯電話の画面を熱心に見つめている。この時間帯に電車で帰路につく生徒はたいてい同じ顔ぶれで、名前は知らなくても顔は覚えているものだ。車両の後方にいる俺から一番離れた所にたっている男はいつも、ヘッドフォンを付け、時折つま先でリズムをとる。目をつぶり心酔している様子は端から見ると、少し面白い。そんな彼のすぐ近くに座っているあの女子は、俺と同じタイミングで電車に乗り込むはずなのに、なぜか悠々と座席に座っている。彼女なりのテクニックがあるのかわからないが、正直うらやましい。

そんな事を考えながらふと、自分の目の前、俺のいる扉とは反対側の扉のそばに、見知った顔を見つけた。クラスメイトのオザキだ。数日前に、俺の不注意で鞄を彼女の机に強くぶつけてしまった。そのときは俺が一方的に話しかけるだけで、まともに会話をしたことがない。それどころか、他の誰かと話しているところさえみたことがない。いつもはこの電車に乗っていなかったはずだけど、どうしたんだろうか。俺はオザキとの間に数人のサラリーマンが壁になっているのをいいことに、少しだけ観察を続ける。黒く重苦しい前髪に遮られた目元は鋭く窓の外を眺めていた。何かを睨め付けているのか、はたまた、乗り物酔いをしていて心底辛いのを我慢しているのか。まあ、いくら詮索したって答えの出るものではないだろう。

 俺は、オザキから目を離すと特になにを眺めるでもなく呪文のように心の中で唱える。明日はバイト休み、明日は家に直帰。扉が開くたびに人の増える電車の中で、妙な湿気と、泥のような沈黙に身体をゆだねる。

 電車が線路を走る音だけが、俺の意識を現実に引き留めていた。


****


「おつかれさまです」

 会社の扉を開けるとともに、挨拶はしたが返事はない。いつもは、タケさんの座っているデスクももぬけの殻だ。今までこんな状況がなかっただけに、少し戸惑う。とりあえずオフィスに足を踏み入れるが、人の来る気配はない。誰を呼ぼうにも勝手が分からず、ぐるぐると視線を漂わせること数分、ようやくこちらに向かってくるハイヒールの音がしてきた。

「あっ、サキチくん!学校、ご苦労様」

 俺の姿を確認するとともに、元気な声を掛けてくれたのはコウヅキさんだ。

「コウヅキさんもおつかれさまです。……今日はどうしたんですか?来たら誰もいなくてビビったんですけど」

「ああ、今日は新しいアルバイトの面接があってね。それで、今いろいろ準備してたところ」

「そうなんですか。新しいバイトって、……誰か辞めたんですか」

「それが、ちがうの。うちの会社、基本的に誰かが辞めたら穴埋めで求人紙に広告を載せるんだけど、今日来た子は六ヶ月も前の求人をみて電話してきてね、もうその分は新しい子が入ってきたから必要ないんだけど一人くらい増えたって問題ないだろうって、上の指示で面接することになったってわけ。まあ、数がいるに越したことはないし、素質も必要だから、多くの子を面接するに越したことはないからね」

「なるほど、でも今まではそういう事って無かったですよね」

「そうね、元々あの怪しげな求人広告じゃ人は集まらないし。それに今回の子も六ヶ月も前の広告に電話してくる素っ頓狂な子だし」

 まだ、会ってもいないのにずいぶんな言いようだな。雇うことになったらどうするんだろう。

「それで、今日は」

「ああ、タケノウチがそっちに付きっきりになるから今日は私と二人でやることになるわね。良い?」

「はい、大丈夫です」

「そう、じゃあ先に部屋に行って準備しておいて。私も支度したらすぐに行くわ」

 わかりました、と返事をするかしないかのうちにコウヅキさんはせかせかと歩いていった。

 その背中を見送り、俺も潜入の準備をするためにいつもの部屋へと向かった。


****


 いつも潜入に使うこの部屋もずいぶんと見慣れた。このバイトを始めた頃は部屋に置かれた沢山の機械に、得体のしれない恐怖を抱いていたこともあったが、俺も成長したようだ。

 ベッドのそばに荷物を置き、枕元に置いてあったヘッドフォンを手に取る。右耳にあたる部分に着いているスイッチを押すと、電源が入っていることを示す赤いランプが点灯した。いくら仕事に慣れたとはいえ、俺ができるのはこれくらいだ。特にすることもなくなってベッドに腰掛けていると、扉が開きコウヅキさんが部屋に入ってきた。急いで来たにもかかわらず、息も身なりも乱していないコウヅキさんは本当に尊敬する。

「昨日の続きよね」

「はい」

 そう俺に確認すると、デスクの上に置いてあるパソコンで昨日の昨日の潜入データを出しているようだ。

「ウツギセイジさん、よね」

「そうです」

「オッケー」パソコンの画面から目を離さないまま、返事をした。「今日はどこまでいく?」

「行けるところまで、と思っているんですけど。俺明日休みなんでやれるだけやりたいな、と」

「そうね、じゃあそうしましょう」

 コウヅキさんは確認を終え、パソコンのそばにあった資料を手に取りこちらに近づいてくる。

「そういえば、相談したいことがあるんですけど」

「ん?どうした」

 ベッドに腰掛ける俺の真正面に開いてあったイスにコウヅキさんも座る。

「小説家っぽい物ってなんですかね」

「え?」

「あ、ほら、具現化して持って行くものに迷ってて。とりあえずいつも使うのでハンマーは持っていくんですけど」

 潜入した夢の中で使う道具は、たいていの場合現実の世界にいる間に目で見て、潜入直前に頭に思い浮かべ具現化する。夢の中でもできないことはないけど、時間がかかるし、具現化する物の像もうまく結ぶことができなくて、効率が悪い。潜入できる時間は九十分と決まっているけどあれはあくまで現実世界での時間経過が九十分なだけであって、人間が七時間の睡眠で七時間分の夢を見ないように、夢の中の時間はとても短いのだ。具現化に時間を使うを暇はないので、潜入する前に策を練って厳選した道具を持って臨むのだ。

「小説家っぽい物、そうねぇ。原稿用紙とか」

「今まで紙を道具として使ったことはないんですよね」

「そうなの?それじゃあ、ベレー帽とか」

「……それは、漫画家じゃないですか」

「あ、そっか」

 さも、驚いたかのように目を見開いたコウヅキさんに少しだけ落胆する。真面目なんだけど、どこか抜けてるんだよな、この人。「あ、わかった!万年筆はどう?」

「万年筆……いいかもしれません」

「筆記用具ってのはよく使うし、いいんじゃない?」

「あ、でも俺、万年筆ってよくわからないんです。本物を見たことがなくって」

「えっ、本当に?はあ、現代っ子ね。時代だわ。私が学生の頃は入学祝いといえば、万年筆と腕時計って相場が決まってたのに。ちょっと待ってて」

 そんな風習聞いたこと無いけどな。そもそも、入学祝いなんか貰ったことがない。コウヅキさんは俺が思っている以上に年がいっているのかも。

そんなことを考えていると、コウヅキさんは自分のペンケースから一本のペンを取りだした。「ほらこれ、見せてあげる」

 そういわれ手渡されたのは、黒くて艶があってどっしりと重いペンだ。

「これが万年筆ですか」

「そうよ、私が大学に入るときに祖母が入学祝いにくれたの。万年筆を持つと大人になったって気がしてうれしかったわ」

 コウヅキさんは懐かしむように目を細めて笑った。俺の手に乗っているこの万年筆はコウヅキさんの歴史だ。落として傷つけでもしたら大変だ、慎重に扱わないと。

 そっと蓋を開けると、鋭い金色のペン先が現れた。

「へえ、こうなってるんですね」

「本当に見たこと無いのね。ジェネレーションギャップだわ」

 感慨深くため息をつくコウヅキさんをよそに、俺は話を進める。

「インクってどうやって出るんですか?」

「ああ、それはね」ちょっと貸して、と俺の手から万年筆をとったコウヅキさんはペン先と本体を少しねじって外した。「このペン先のお尻の部分にカートリッジを刺すの」

 確かに、持ち手の外されたペン先の後ろ部分には、黒いインクの入った小さなタンクのような物が刺さっている。

「なるほど、意外と簡単なんですね」

「そうね、私の持ってる物より少しだけ古いタイプだと、ちょっとした器具を使ってインクを瓶から移してたみたいだけど……詳しくはわからないわ」

 そういってコウヅキさんは外したペン先をまた元に戻す。「まだ見る?」

「はい、もう少しだけ」

 俺はコウヅキさんから万年筆を受け取った。ちゃんとしっかり観察しておかないと、上手く具現化できずに、役立たずなガラクタと化してしまうからだ。何度も蓋をつけたり外したり、ペン先を眺めたりと、念入りに万年筆を眺める。

「いけそう?」

「……はい、大丈夫です」

 しっかりと全部を見終えた上で、万年筆をコウヅキさんに手渡した。

「じゃあ、潜入はじめましょうか」

「はい」

 それを合図に俺はヘッドフォンを装着しベッドに横たわり、コウヅキさんは機械を操作するためパソコンの前に座った。

「じゃあ最終チェックをします。依頼人はウツギセイジさん。依頼は三十三年前に書いた小説の原稿の在処」

「はい」

「昨日の続きなので、第二の部屋から始まります。準備はいい?」

「大丈夫です」

「では潜入を開始します」

 その言葉を最後に部屋は沈黙に包まれた。そして徐々にベッドフォンからいつもの音が流れてくる。たちまち意識は遠のきはじめた。いつも使う手になじんだハンマーと、コウヅキさんの万年筆。その二つを強く頭に描きながら、俺は夢へと落ちていった。


****


 意識は浮上し、目も開けているはずだがなにも見えない。部屋の明かりがついていないのだ。俺は昨日見たウツギさんの部屋を思い出しながら、本当になにも見えない部屋を歩く。

 少し前に進むと、脚に柔らかい物が触れた。ベッドだ。このベッドに沿って右に、右に、と進めば、リビングに続く扉があったはず。部屋の明かりのスイッチはそこにあるはず。先ほどまで触れていたベッドから離れ数歩、ついに壁に触れた。このまま前方に行けば扉が、と壁紙の凹凸をなでながら扉を探す。

 ようやく、堅くひんやりとした木の扉に触れた。そしてそのままドアノブに触れる。もちろん開くことはなく、その手を今度は、ドアに這わせて肩より少し下の辺りまで、上げる。最後にその手を右にスライドさせると、ようやく明かりのスイッチを見つけた。

 スイッチを入れると、天井の真ん中にある電気が煌々と灯り、暗がりに慣れた目を焼く。そのまぶしさに目を細めながら部屋を見渡すと、昨日見た部屋とあまり変わらないようであった。真っ白なベッドの上にアトラクタの箱が置かれ、そのベッドを囲むように六台の本棚が並べられている。俺がさっきまで立っていたであろう場所には、ハンマーと万年筆が転がってる。

「ん?」

 ベッドを挟んで俺と反対側に何か置かれているようだ。俺は扉からはなれ、そこへ向かう。置いてあったのはチェストだった。ベッドの上で生活しているウツギさんに使いやすいようになのか、ベッドと高さがそろえられ、びったりとくっつけるようにして置いてある。引き出しが三つついていて、上にはなにも置かれていない。

 俺はそのチェストの前にしゃがみ、一番上の引き出しを開ける。中にはなにも入ってなかった。気を取り直して上から二番目の引き出しも開けてみる。そろそろ何かはいっていてもいいと思ったが、空っぽであった。

「はあ、何かはいっていてくれよ」

 と、手を合わせてから最後の引き出しを開けると、白い封筒が入っていた。とりあえず手がかりになりそうな物が見つかって一安心だ。早速、それを手に取る、はがきサイズの真っ白な封筒、外側には英語でOPEN→CLOSE→OPENと書かれている。

「何かの暗号か?」

封はされておらず、中を見る封筒と同じ真っ白なポストカードが入っていた。とりあえずそれをとりだし内容を確認する。

「……なんだこりゃ」

 内容は数字であった。本当に数字しか書かれていない。白い紙の真ん中に無数の数字が散りばめられていた。

「1、150、2、124……」

 不規則に並ぶ数字は紙の中央だけ集中しており、それも不可解だ。よく見ると書かれた数字は一から百五十まで、一つもかぶっていない。また数字の前に黒い点が付いている。

「あ、わかった」

 これは、やったことがある。そう思い、俺は万年筆をとりに戻った。

「早速役に立つな、コウヅキさんの万年筆」

 これは、感謝しなくちゃ。そうして、俺はチェストに上にカードを置いた。

「これは一から順に、線でつなげるんだ」

 それは、小学生の時にやったパズルだった。一から順番に二、三と線で繋ぐと最後に絵が浮かび上がるという仕掛けだった。そのパズルと同じ形をしている。

 さあ書いてみよう、意気揚々と紙にペンをおろしたはいいが、インクが出ない。出ない上に書き心地が最悪だ。紙をやたらとガリガリ引っかいてしまう。

「そういえば、万年筆の使い方を聞くの忘れたな」

 てっきりふつうのペンと同じように使えると思っていたのに。こうなるんだったら鉛筆とかにしておけば良かった。悔やんでも遅いので、とりあえず紙の隅にペンをくるりと回しては、書く、回しては書くの繰り返しで、インクが出るのを待った。ようやくインクの出が安定したところで、問題にはいる。

 一から二、二から三と丁寧にまっすぐ、素早く線を引いてく。半分まで引き終えたところで、全体図を眺める。

「やっぱりそうだ」

 ちょうど鍵の背の部分、丸く大きな部分が浮かび上がってた。その調子だと、自分に活を入れ続きを書く。それからすぐに線を繋ぎ終えた。真っ白な紙に現れたのは、黒く縁取られた真っ白な鍵。

「いや、鍵は黒いんだ」

 俺は描かれた鍵を真っ黒に塗りつぶす。多少白いところが残っているけど、まあ大丈夫だろう。

「それで?」

 自問自答がむなしく部屋に響く。このポストカードはどうすればいいんだろうか。何かないかと部屋を見渡すと、さっきまでこの便せんが入っていた封筒が床に置いてあった。そうだ、たしか封筒に何か書いてあったはずだ。俺は封筒を手に取り、文字を確認する。


OPEN→CLOSE→OPEN


 開けて、閉じて、開ける、か。とりあえず、ポストカードを封筒に入れる。封のあたりを 明かりに照らすと水でくっつくタイプの糊が着いているようだった。俺はそれを舐めて隙間のないようにしっかりと封をした。

「オープン、クローズ……」

 今までの動作をおさらいする。真っ白な封筒を照明にかざすと少し乱雑に黒く塗られた鍵のシルエットが見えた。

「オープン、と」

 封筒の端をビリビリと破き、中を覗くと鍵があらわれた。

「お、すげー」

 封筒と傾け、滑り落ちてきた鍵を手で受ける。それと一緒に出てきたポストカードを確認すると、鍵の形にすっぽりと穴が開いていた。

 しかし、ここまでくるのに結構時間がかかったな。早く次の部屋に行きたい。はやる気持ちを抑え、俺はアトラクタの箱に鍵を刺す。

 そのまま右に回すと、カチリと鍵の開く音がした。蓋が開き中を確認すると同時に瞼が重くなる。そうして、そのまま意識を手放した。


****


 次の部屋は前の二部屋とは違い、様子がだいぶ変わっていた。あれだけびっしりと本が詰まっていた本棚が、所々虫にでも食われたように、すかすかになっている。本が減っているのだ。

「ん?どうしたんだ」

 これも鍵を探すヒントの内なのか、と感くぐってはみたが、見当が付かない。本棚以外に目を向けると、チェストの上に紙か置かれていることに気が付いた。

 一枚の紙、大きさは縦二十センチ弱、横が十五センチ弱、といったところだろうか。なにやら文字と小さな穴が開いているようだ。

 手にとり、見るとその文字は何かの文章になっているようだった。

 

 私とあなた ○人で○人

 ○人でいれば他より勝る

 ○人でいれば他より劣る

 私とあなた ○人で○人

 いっそ○人で○つなら


 用紙の右下には、二九七、裏を確認すると二九六と書かれいる。

「これは、マズい」

 穴あきの文章は、何を表しているのか。この紙をどのように使うべきなのかさっぱりわからない。ウツギさんに関することなのだろうか、それともただ単に鍵の在処を表しているのか。穴の開いた部分にはいったい何が入るのだろうか。三ミリ程度ある文字と同じ大きさの穴だから一文字しか入らないのだろう。全部同じ文字なのか、それともばらばらか? 

「はあ」

 本当に見当が付かない。このまま時間を食うだけなら、と俺は本棚に目をやる。虫食いになった本棚に残る多種多様な本。それらに統一性は無いようだ。

「マズいぞ、マズいぞサキチ」

 自分で自分を奮い立たせる。一つ前の部屋に時間をかけすぎたため、夢の中に潜入できるのも後少しだけだ。何か少しでもヒントを……と、六台もある本棚をいったりきたりしてみるが、特にめぼしいものはなく、無情に時間は過ぎてゆく。


……そして


ーーー潜入終了です。


 機械的なアナウンスとともに、俺の体は力を失い床へと倒れ込んだ。


****


 耳を塞いでいたものが外れ、周囲の音がだんだんと鮮明になっていゆく。

「ご苦労様、サキチくん」

 目を開くと寝ている俺のすぐ横で、コウヅキさんが顔をのぞき込んでいる。

「あ、っ……お疲れさまです」

 寝顔を間近で見られてたなんて、恥ずかしい。思わず顔を両手で覆う。

「どうだった?」

 コウヅキさんは近づけた顔を離すことなく話を続ける。

「超微妙です。ていうか、顔、近すぎませんか?」

「ああ、ごめんごめん」

 やっと、俺から離れたコウヅキさんはベッドのそばのイスに座る。俺は、顔を覆った手を外し起きあがる。

「マジで微妙です。あんなに手こずると思いませんでした」

「ホントにね、そばで見ててもそうだったわ。後半はウンウン唸りながら眉間にしわ寄せてもがいてたわよ」

「それは、……本当ですか?」

 そう聞くと、コウヅキさんは肩をすくめて見せた。それは肯定か、それとも否定か?

「まあ、そんなこともあるわよ。最近調子が良かったから自分に求めるものが大きくなってるのかもしれないし。他の子もだいたいこんなものよ」

 そういってデスクに手を伸ばし、書類をとるコウヅキさんを横目に見ながら、俺はひっそりとため息を付く。今回の仕事は簡単だといった昨日の自分を恥じる。周りにほめられるあまり調子づいていたんだ。本当に恥ずかしい。

 そう気を落としていると、突然ドアが開きタケさんが興奮気味に部屋に入ってきた。

「すごい子を見つけたよ!」

「どうしたの、タケノウチ君」

「それが、面接にきたあの子、女の子なんだけど、その子が本当にすごいんだ」

「タケさん、さっきからすごいしか言ってませんけど」

「ああ、本当に、すごい子なんだ。サキチくんも面接の時にやっただろう?瓶から鍵を取り出すミッション。あれ面接にくる八割の子は具現化もできずに終わることが多いんだけど、今回の子は具現化も成功するし、それに……」

「それに?」

 タケさんがやけに溜めるものだから、コウヅキさんも俺も息をのむ。

「それに、こんな大きな岩を出したんだ!」

 タケさんは両手を目一杯広げて言った。

「は?」

 コウヅキさんは思わず声が出たようだが、俺はぐっとこらえた。

「は?って、すごいと思わないか。こんな大きさのものを頭に思い浮かべて、それを具現化するなんて。大きいものを大きいと捉える素直さ、それにしっかり重いんだ。想像するときに重みまで思い浮かべることができる感性の豊かさ……」

「まあ、たしかにそれはすごいけどね……」

「それで、瓶はどうしたんですか?」

「ああ、瓶?どうだったかな、潰れたかな?」そういって頭をポリポリとかくタケさん。「その岩が、あまりにもデカすぎて瓶も箱も、本人も下敷きになっちゃってね、緊急脱出したよ」

 あまりにも突飛な結末に声が出ない。興奮冷めやらぬタケさんと、静まり返る俺らの間にはかなりの温度差がある。

「で、その子はどうしたの?」

「もちろん、雇うことにしたよ」

「……大丈夫なんですか、その子」

「もう全然、問題なし。これから訓練していけばいいし、本人もやる気十分」

 タケさんがそういうのであれば別にいいけれど。

「もう契約は済んだの?」

「ああ、彼女は親の許可なしにバイトができないって書類を持ち帰ったよ。職務内容はいちよう秘密にって伝えたけど」

「タケさんの話を聞いてる限りだと、無理なんじゃないですかね」

「僕もそう思ったんだけどね。でも、両親は理解あるんでって颯爽と帰っていったよ」

 まあ、なんというか、自由な子なのだろうか。

「聞く限りじゃ大型新人って感じね」

「そうなるだろうね。鍛えようによっちゃ、サキチくんもあっという間に追い越されるかもしれないな」

 ちくり、と胸が痛んだ。

「ちょっと、やめてあげてよ。サキチくん今日の潜入の成果がいまいちで落ち込んでるんだから」

「おや、そうなのかい?」

 さも意外だという顔でタケさんは俺を見る。

「たまたまですから」

「強がってるだけよ、さっきなんて溜め息ついてたのよ」

「ま、調子の悪い日なんて誰にでもあるさ。それで、どこで躓いたんだい?」

 ふてくされる俺をそっとなだめるようにタケさんは話しかける。

「三つ目の部屋で、白い紙に穴あきの文章が書いてあるんです。それがヒントなのは間違いないんですけど、その文章がいったい何を示してるのかさっぱりわからなくて……ウツギさんに関することかもしれないし、違うのかもしれない」

「なるほど」タケさんは顎に手を当て考え込む。「ウツギさんって作家だったよね」

「はい、そうです」

「じゃあ、本を読んでみればいいんじゃないか?」そういわれ、ハッとした。「小説は作家自身の考えで書かれるものだろう。生き写しでしかないんだ。ウツギさんのことも小説を読むことでわかるかもしれない」

「そうね、そう考えるといままでの依頼者の誰よりも内面を知りヒントを得られ得るかもしれないわ」

 コウヅキさんの言うとおりだ。そう考えるだけでさっきまでの陰鬱とした気持ちが晴れやかになり、希望が見えてきた。

「ありがとうございます」


****


「まあ、明日は仕事休みでしょう?」

「はい、学校の図書室に行ってウツギさんの本、探してみます」

 そう答えると、コウヅキさんはあきれた顔をする。

「……あんまり根詰めすぎないようにね」

 この仕事に熱中するのも程々にしろ、という意味なのだろう。でも、俺は仕事が楽しくてたまらない。せっかく、二人にヒントを貰ったんだ。調べて、潜入して、早くウツギさんに報告してあげたい。

「じゃあ、俺帰ります」

「ああ、お疲れサキチくん」

「また、金曜日にね」

 二人に別れを告げると、俺は会社を後にした。


 夕暮れともなると、やっぱり少し肌寒い。衣替えしたばかりの半袖に肩を竦めながら、駅へと歩く。

明日は、図書室に行こう。それでもし、本が置いてなかったら帰りに本屋によって、家に帰って夜通し読もう。そして金曜日に、あの部屋の謎を絶対に解いてやろう。そう、燃える思考の隅で、ふと我に返る自分がいる。焦っているのかもしれない。新しく入るバイトの子が、あんなに絶賛されることに。訓練しだいでは、俺よりも……と。今までパッとしなかった俺の人生で唯一他人に誉められ、頼りにされ、感謝されるこの仕事。そこで、エースと呼ばれ、少なからず期待されている。そこから陥落するとしたら、と考えるだけで地の底まで落ちそうだ。緩く頭を降り、下降ぎみの思考を振り払う。大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせながら、俺は帰路を急いだ。


****


 明くる日、木曜日の放課後、俺は図書館へと足を向けた。一階の端にあるその部屋へ入るのは、実は今回が初めてだ。入り口の引き戸を開けると、古びた本の乾いた匂いが、鼻を抜ける。想像していたよりもずいぶんと広いな、とあたりを見回すと、受付のところに見覚えのある姿があった。

日当たりのわるいこの図書室にぴったりなオーラをまとう彼女は、クラスメイトのオザキだ。昨日の電車に引き続き、二日連続で会うなんて。でもまあ、同じクラスだから毎日顔を合わせてるっちゃあ会わせてるんだけど。図書委員だったのか、と暢気なことを考えている間、カウンターに座っているオザキは手に持った文庫本から目を離さない。入ってきた俺に気づいていないのか、ただ興味がないだけなのかはわからないが、下手に目があったりするよりましか。そう思い、俺は目的の本を探す。

ウツギさんの出版した二冊の本、青の憧れと、黄の香り。俺の読みでは有名な賞を取ったという青の憧れの方は置いてあってもおかしくないのではと思うんだけど。とりあえず、入ってすぐのところにある本棚に目を向ける。図書室の本はジャンル別に分かれているようだ。この本棚は歴史の本、その隣は図鑑や古い写真集。意外にもいろんな種類の本が置いてあるんだな。図書室の中をゆっくり、本棚の一台、一台を確認しながら進む。古典、ミステリ、ライトノベル。教科書で見知った名前から聞いたことのない作家までたくさんの本が並んでいる。ウツギさんの本はいったいどのジャンルに属するんだ?純文学か、恋愛小説か、はたまたホラー小説。よくよく考えたら俺が知っているのは本の外装と奥付だけだ。となると、いっこうに本が見つからない今、すべきことは、あきらめて本屋に行くか、……オザキに聞くかだ。

 本棚に向けていた体を翻しカウンターにいるオザキに近づく。彼女はあいわらず本を読んでいる。熱中しているのか、瞬きもせずまなざしは本に釘付けだ。あまりの集中っぷりに足音を立ててじゃまするわけにはいかないと、不思議と忍び足になる。無駄な労力を使いやっとのことで、カウンターに付いたが、オザキは顔を上げる様子がない。 

「あの……」

 できるだけ驚かせないよう小声で話しかけると、オザキは本に向けていた目線をゆっくりとこちらに向ける。

「どうしました?」

 意外にも、高く澄んだ声であった。

「あー、探したい本があるんだけど」

 俺がそういうと、オザキはカウンターの上にあるパソコンを見やった。

「タイトルか、作家名があればあのパソコンで探せますけど」

「じゃあ、お願いします。作家の名前はウツギセイジで……その人の本であれば、何でもいいんだけど」

 するとオザキは、慣れた手つきでパソコンに入力していく。俺はその様子をじっと見るしかない。

「一冊だけあるみたいです。青の憧れ」

「そう!それ、借りたいんだけど……」

 そう言いきる前に、彼女はすっと立ち上がりカウンターから出てきた。本のあるところまで案内してくれるのだろう。その後を俺も続く。

 到着したのは、純文学の本が集められた本棚だ。オザキはその前で立ち止まると、一番上の棚から順に、背表紙を指でさらりとなでながら、本を探してくれている。彼女の唇が「ウツギセイジ」と音もなく唱えるのを俺は横で見ているしかなかった。

しばらくすると、本を撫でていた手が止まった。そこにはウツギさんの部屋でみたのと同じ青のカバーが掛かったあの本があった。オザキはギュウギュウに詰まった本と本の間に細い指を差し込み、目的の本を取り出す。「この本ですか?」

 そう差し出されたのは間違いなくウツギセイジの処女作、青の憧れであった。

「そう、これです」

 俺が答えると、オザキはきびすを返し、カウンターへと向かう。無駄のない動きだ。図書委員という義務をきっちりとこなしている。俺はまたいそいそとオザキの後を歩く。

「図書カードを」

 カウンターに付いたオザキにそう言われ、はっとした。あっそうだ、図書カード。入学したときに新入生全員が配布されている図書館を利用するためのカード。一度も使ったことがないから存在を忘れていた。

「ちょ、ちょっと待って」

 俺はカウンターの上に乱雑に鞄を置くと、中身をひっくり返す勢いでかき回しながら探す。たしか、生徒手帳の中にしっまってあったはずだが、肝心の生徒手帳が見あたらない。鞄の中には勉強道具に、ケータイ、マンガ、弁当、ジャージとそりゃまあたくさんのものが詰まっていて小さな手帳一つ探すのに一苦労だ。

「ウツギセイジ、好きなんですか?」

 その声を聞いて俺は、はたと鞄を漁る手を止めた。声の聞こえた方に目をやると重たい前髪に遮られたオザキの目が一心にこちらを見つめている。

「え?ああ、好きっていうか、急に読まなきゃいけなくなって」

 語尾が尻すぼみになる。まさか、オザキから話しかけていくるなんて思わなかった。それに、ちゃんと目をみて話しかけてくるなんて。いつも教室でみる、暗いイメージの彼女からすると、少し意外だ。

「そうなんですか。私、この本前に読んだことがあって、なかなか面白かったですよ。おすすめです」

 そういうとオザキは、口元をほんの少しだけほころばせた。その様子に、俺は目を疑う。

「あのさ、俺たち同じクラスだよね?」

 思わず聞いてしまった。目の前にいるオザキといつも教室でひとりぼっちのオザキが同一人物とは思えない。

「そうですけど」

 オザキは訝しげに、俺をみる。

「じゃあ、俺の名前知ってる?」

「はい、サキチくん、ですよね」

 当たり前だというように、淀み無く答えるオザキ。大した交流もないのに名前を覚えているのか。

「オザキってそういうタイプなの?」

「そういうタイプ?」

「俺、もっと暗くて、何考えてるかわからなくて、友達がいなくて……あ、ごめん」

「?」

 俺の失言に気づかなかったのか、首を傾げるオザキ。

「要するに俺、ひどい勘違いをしてたっていうか」

 いたたまれない気持ちになって、俺は思わず口をつぐんだ。 

 そのまま、オザキも俺も声を出すことはなく二人の間に居心地の悪い空気が流れる。この状況を打開するために俺は話を逸らすことにした。

「その本、どんな話?」

 俺は彼女の手元にあるウツギさんの本を指さす。

「え、これですか?えっと、一組の夫婦の話で、最初は至ってふつうの生活をしているんですけど、そのうち、徐々に二人の関係が狂愛じみていくんです」

「狂愛ってどんな感じ?」

「元々二人は幼なじみみたいなもので男の方は女の優しさと、淑やかさに、女の方は男の強さと聡明さに強い尊敬と憧れがあったんです。そして成長して、結婚をしてお互いはもっとも尊敬する人を手に入れることができた。最初の内は絵に描いたような甘い夫婦生活を送るんですけど、そのうちに愛が執着に変わって、憧れと混じりあい、得体の知れないものへと成長するんです」

「それ、ホラーじゃないよね」

 あまりにもおどろおどろしいあらすじと、オザキの絶妙な語り口調に、俺の頭にはヴァイオレンスで血みどろな光景が浮かぶ。

「大丈夫です。その一種の純粋な愛から、狂愛に至るまでの描写が意外に淡泊で、清潔感すら感じる位なんですよ。もし自分が誰かを愛することがあれば、この二人のようになるのかもしれない、と思わせるくらい過程が自然なんです。それが少し怖いですけど」

 そう話すオザキは生き生きしているように見えた。本が好きなんだなあと純粋に思える。

「おすすめのシーンとかは?」

「おすすめのシーン?そうですね……」オザキは本を手に取ると、ぱらぱらとめくった。その手は迷う無く目的のページを開いた。「最後のあたりで女が男のために手紙を書くんです、その手紙、っていうか詩なんですけど。私とあなたは……っていう始まりで、この夫婦の愛のあり方を示す重要なシーンなんです」

「へえ、……ちょっと待って、私と?」

「?私とあなたは二人で一人」

「ちょっと見せて」

 そういって俺はオザキの手から本を受け取った。開かれた本の左側のページには


 私とあなたは 二人で一人

 二人でいれば 他より勝る

 一人でいれば 他より劣る

 私とあなたは 二人で一人

 いっそ二人で 一つなら


という、詩が書かれていた。

 これだ、昨日あの部屋でみた紙に書かれていた穴あきの文章。よく見れば紙の大きさと本の大きさもほぼ同じだ。

「……これだ」

「え?」

「俺、これを探してたんだ!ホント、ありがとう!」

 あまりの興奮に我を忘れて、オザキの手を取り握手をする。オザキは驚いた様子ではあるが、俺にされるがままであった。

「あの、おめでとう」

「マジで、助かった」

これさえあれば、俺を悩ませたあの謎も解けるに違いない。良かった……本当に。

「……えっと、サキチくん?」

そう声を掛けられようやく俺はオザキの手を握りっぱなしな事に気がついた。

「あっ、ごめん」

我に帰ると、急に握手を一方的に交わしたり、一人で興奮したり、これじゃあまるで変人だ。不快な思いをさせてしまったか、と俺はサッと手を離した。

俺が離したオザキの手は、しばらくその場にとどまったが、すぐにパッと自分の顔を覆った。

その様子に俺は、気分でも悪くしたのかと心配になったがやがて「……ふふふっ」と少女然としたいかにもオザキらしい控えめな笑い声が聞こえた。顔を覆ったまま笑う彼女が、教室で見るそれとも、電車で見た彼女とも思えなくて、なんだかこの空間がとても暖かい気がして

「……っく、ハハハッ」

つい、つられて俺も笑ってしまった。



***


ひとしきり二人で笑終えた俺とオザキとの間に、白々しく他人行儀な壁は一切なくなっていた。

「オザキって、想像してたのと違うな。もっと近寄り難くて、なんていうか、無愛想なんだと思ってた」

目の前にいる本人に対して本当に失礼だけど、野暮ったい前髪に隠されてはいるが、人懐こい笑顔を浮かべるオザキは俺の想像とはまったくことなっていた。

「私もサキチくんのこと、ちょっと意外だなって思った。さっきなんか大声出して、私の手、ぶんぶん振り回すんだもん」

 話し方も同級生と話す、したしげなものに変わっていた。

「俺、今日ここにきて良かった」

 本も見つかったし、あの部屋の謎も解けた。それにオザキへの誤解と偏見も解くとこができた。

「私も今日はいい日だと思う」そういったオザキの顔は晴れやかだった。「あ、そうだちょっと待ってて」

 そういうとオザキはカウンターから離れ一人本棚を目指した。いったに何をしにいったのだろうか。その背中を見送りつつ、そうだ、と俺はその間に生徒手帳を探す。結局鞄の中ではなく、外ポケットに入っていた。あっという間に帰ってきたオザキの手には一冊の本があった。

「私、サキチくんの名前知ってるっていたでしょう?」

「ああ」

 ついさっきのことだ、オザキに俺が同じクラスにいるってしってるかと聞いたときに即答された。

「なにも私がクラスメイトの名前を全部知ってるってわけじゃなくてね、ほら見て」

 目の前に差し出された本を見ると、見知った名前があった。

「ホンダ”サキチ”?」

「そう、私の大好きな作家。二年生になって初めてクラスで自己紹介をした時に、サキチって名前を聞いて、羨ましいって思ったの。この作家と同じ名前で」

 なるほど。確かにサキチって名前は俺自身も他に聞いたことがない。じいちゃんにつけられたこの名前は古めかしすぎてちょっとコンプレックスだ。

「ホンダサキチってどんな作家?」

「私小説家っていうのかな、作家自身が経験したことを小説にして書き残すの。エッセイとも、日記とも違うんだけどとにかく、このホンダサキチって人の本は面白いのよ。本当にこんな事したのかって、聞きたくなるくらいいろんな経験をしててね、どんな人生送ってるんだーって感じ」

 本当にこの作家が好きなのだろう。目は野暮ったい前髪の奥できらきらと光り、声は弾んでいる。

「そんなに面白いんだ」

「そう、だから、読んでみない?」

 そう、オザキに聞かれ俺には断る理由がなかった。

「もちろん、じゃあ一緒に借りてくよ」

「よかった。私、本の趣味が合う友達がいなくてこの作家についても誰とも語り合ったことがないの。読み終わったら感想、聞かせて?」

 それにも、もちろんと答え俺は生徒手帳から図書カードを取り出しオザキに渡す。彼女はそれを手に取るとバーコードリーダーで慣れたように貸し出しの手続きをする。

「じゃあ、返却日は二週間後だから」

「わかった、早めに読む。読み終わったらまたここに来るよ」

 そういうと、オザキは首を縦に振った。

 借りた本と、図書カードを鞄にしまい、出入り口に向かう。戸に手をかけたところで俺は後ろを振り返る。

「じゃあな、オザキ。また明日」

 カウンターにいるオザキは、少しだけ間を空けて

「また……」

 と、いい少しだけ頭を下げた。いい慣れていないのかどこかぎこちない動作に少しだけ笑みがこぼれる。それがばれないようさっと向きなおり、俺は図書室を出た。


****


 いつもより重みを増した鞄をベッドにおろす。図書室を出た後、すぐに帰宅し今の時間は午後六時を回ったところだ。自室に帰った俺は、着替えもそこそこに鞄を開き二冊の本を取り出す。ウツギセイジの「青の憧れ」と、ホンダサキチ「私」。

「とりあえず、明日はバイトだから」

 俺は「私」を鞄に戻すと、「青の憧れ」を手に取り、ベッドに横たわった。青い表紙をめくり数ページぱらぱらとめくる。めくられたページの起こす風で、本の少し黴びたような古いにおいが俺の鼻をくすぐる。パートから帰ってきた母が晩ご飯の支度を終えるのが七時過ぎだからあと一時間ぐらいは読む時間があるだろうか。そう考えながら俺は、一度本を閉じ読みやすいように体制を整え、そしてもう一度、本を開くのであった。


****


 白く鋭い朝日が目にしみる金曜日。いつも通りの時間に学校へと着いた俺は、ゲタ箱で靴を履き変えるハナムラを見つけた。

「はよ、ハナムラ」

「あ、おはよー、サキチ。……どうした?元気ないみたいだけど」

 相変わらず派手なメイクのハナムラは、黒く縁取られた目をさらに大きくした。

「昨日、夜中に本読んでて寝不足」

「本?珍しいね。何、徹夜?」

「いや、寝落ち。慣れないことはするもんじゃないね」

 昨日は晩御飯を食べた後も、黙々と本を読んだのだが久々に読む本に俺の体が着いていけず、結局半分を読破した後そのまま眠ってしまったのだった。

「顔パンパンだよ、マッサージしな、マッサージ」

 そう言いながらハナムラは自分の顔をこすってみせる。俺はそれをまねしながら、彼女と一緒に教室へ向かう。

「そういえばハナムラ、今日遅くね?いつも俺より先に来てるのに」

「ああ、それね。今日は髪の毛巻くのがあんまりうまくいかなくって」

 ハナムラは、綺麗にカールした長い髪の毛先をクルクルと指に巻いてみせる。

「いつも気になってたんだけど、朝の準備ってどのくらい時間かけてるんだ?」

「日によるけど、そんなにかかってないと思うよ。朝起きて顔洗って、ご飯食べて、着替えて、メイクして、髪の毛セットして一時間くらいかな」

「一時間!?」

 指を折り朝の様子を語るハナムラに、思わず仰天する。

「……そんなに驚かなくてもいいんじゃない?」

「いや、一時間ってすげーなって思って」

 朝起きてから家を出るまで三十分とかからない俺からすると、準備に一時間は未知の領域だ。

「女の子は、時間がかかるの」

 トゲのある声に、俺は思わず萎縮した。

 そうこうしているうちに、教室へ着いた。ガラガラ戸扉を開け先にハナムラに続き教室へはいる。ふと辺りに目を向けると、オザキがいつもと変わらず、ぽつんと席に座っているのが見えた。

「はよ」

 あくまで自然に挨拶をしたつもりだったが、ハナムラにはそうは見えなかったようだ。

「誰に挨拶したの?」

 そう聞かれ、オザキだと答えるのが急に恥ずかしく感じられた。なにも答えず肩をすくめると、ハナムラは特に興味もなさげに席に着いた。その様子に安心し、またオザキを見ると、こちらを見る様子もなくただ席に座り、先生が来るのを待っているようだった。

 昨日は、仲良くなれたと思ったんだけど、ほんの少しだけ、胸が痛んだ。それを振り払うように、俺も席に着く。時計を確認すると、朝のホームルームまで後十分。まだいける。俺は鞄から本を出すと、時間を惜しむように読書に没頭するのであった。


****


「おつかれさまです」

 いつもと変わらない会社の扉を、意気揚々とあける。今日は、いける。ウツギさんの「青の憧れ」を学校で読み終えることができた。予習はばっちりだ。水曜日のような情けない事態にはならない……はずである。

「お、サキチくん、ご苦労様。ちょっと来てくれるかい」

 入ってすぐのデスクで仕事をしていたタケさんは俺をみるなり手招きをする。その声の調子で、決していい知らせではないことを本能が悟った。しかし、嫌々ながらも俺はタケさんの話を聞かないわけにはいかない。

「なんですか」

「……なんだい、そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。今日の潜入のことなんだけど、三十分くらいで終わらせる事ってできないかな」

「へ?」

 唐突なタケさんの提案に、思わず情けない声がでてしまった。

「今日これから、例の新しいバイトの子がくるから研修をやろうと思うんだ。でも、今日はどの潜入機械も空いてなくてね」

「それで、俺が早めに終わらせて、新しいバイトに譲れと」

「随分トゲトゲしい言い方をするね」

タケさんはわざとらしく肩をすくめる。

「俺、今日すごいやる気あるんで」

「それは、この部屋に入ってきたときからわかってたよ」

「じゃあなんで」

 やる気のある人間を差し置いて、なんの利益も上げない新人に時間を費やすのはどうかと思う。

「君以外の潜入者は、君みたいに優秀なわけじゃないんだ。みんな依頼人の決めた締め切りがあったりして、ヒーヒーいいながら箱を開けてる。その点、サキチくんの依頼は締め切りがないし、潜入の進行状況もまずまずだ。君に頼むのが一番妥当じゃないかな」そう、厳しい口調でいわれ、俺は押し黙ってしまう。「それに、もうこの前の謎は解けたんだろう?君ならこの三十分で一部屋くらい余裕だと思ったんだけど」

 そこまでいうと、タケさんは俺の言葉を待つように、黙ってしまった。

 そうやって持ち上げればホイホイ納得すると思って。本当にこの人はどこまで、お見通しなんだ。

「これからも俺の仕事は、その新人に邪魔されなきゃいけないんですか?」

「いや、彼女のシフトは基本的に土日だけ。君は木土日が休みだろう?邪魔されるどころか顔も合わせることすらないんじゃないかな」

 今回、一度きりって事か。……しょうがない。

「今回だけです」

「良かった」そういうと、タケさんはパソコンに何かを打ち込み始めた。「もう、部屋でコウヅキさんが待ってるから行ってこい」

 用意周到にもほどがあるんじゃないのか。

「俺が、ぐずってたらどうするつもりだったんですか」

「君がそんなことをするだだっ子だなんて思ってないからね」

 パソコンの画面から目を離さずに答えた。

「行ってきます」

 なにもかも、計算通りか。大人にこうも簡単に転がされる自分が憎い。

 それでも結局、俺は今日も行くしかないのである。


*****


 一日ぶりの潜入だ。水曜日に見たあのときと全く変わらない部屋の様子。チェストの上にはあの紙が置いてある。それを確認すると、俺はまず本棚へと向かった。青いカバーのかかった「青の憧れ」それを手にとると、俺はチェストへと向かった。その上に置いてある紙も手に取り、俺はその場にしゃがみ込む。本と紙。今回の鍵はこの二つから、導かれる。紙を確認すると、穴の空いた例の詩と左下には二九七と記されている。裏返すと、右下に二九六と書かれていた。

「これは、ページ数だ」

 物語の後半、作中で愛し合う二人の関係を表す詩。その詩が書かれているページを開く。

「二九七ページ」

 やはりそうだ、間違いない。穴あきの紙をそのページにあてがうと、ぴたりと一致した。


 私とあなたは 二人で一人

 二人でいれば 他より勝る

 一人でいれば 他より劣る

 私とあなたは 二人で一人

 いっそ二人で 一つなら


 作中、幼なじみであった男女は二十歳を機に結婚をする。その時に、女は男と同じ名字になるのだが、男と女は「同じ名前」だったのだ。男はサトナカカオル、女はクリタカオル。夫婦同姓の日本で彼らは、夫婦でありながら、同じ名前「サトナカカオル」として、生きることになる。それが、詩の前半、「二人で一人」につながるのだ。お互いに憧れ、尊敬し合う二人の愛は、日を追うごとに異常さを増し、そして「混じりあう」ことが、彼らの愛の枯渇を潤すものだと信じてやまないのである。それが、最後の「二人で一つなら」なのだ。


「異常だ」

 そう思った。尊敬する人間に出会ったことのない俺には無縁なことなのかもしれない。共感できる話ではなかった。尊敬し、愛するあまり、その人間になりたがることが。

 ふと、意識が別のところに飛んでしまったのに気がついた。まずいまずい。今日は時間がないのに。

 穴の空いた紙と、本を重ね合わせ、穴あきを埋めることができた。後は鍵の在処を見つけるだけだ。俺にはもう見当がついている。

「こう、だろう?」

 左側のページに乗っていた紙を裏返し、右側のページに乗せる。右下には二九六の文字がある。

 こうすることで、紙の穴は、また別の文字を浮かび上がらせた。

「か、ー、て、ん、の、う、し、ろ」

 カーテンの後ろ。これが答えだ。

 外はおそらく明るいのだろう。隙間から少しだけ光が差し込むカーテン近づく。開けるまでもないと思った。大きな窓を覆う、カーテンの端をぺらりとめくると、黒い鍵がくっついているのが見えた。

「ご名答」

 今回はすんなりと終えることができたようだ。俺は鍵を手に取ると、ベッドの上に置いてある、アトラクタの箱を開けた。


*****


「はい、おつかれ」

 俺が目を覚ますか、覚まさないかのうちにコウヅキさんはヘッドフォンを取った。

 早く夢から脱出することができたためか、体に疲労感はない。

「何分でした?」

「えーっと、二十五分ってところね」

 コウヅキさんは、近くに置いてあった時計で確認する。

「やれば、出来るものですね」

「こんな芸当、そんなに出来るものじゃないけどね」

 コウヅキさんは、俺をほめるような口振りでいった。

「じゃあ俺、帰ります」 

「……そう、ゴメンね。また月曜日、よろしくね」

 後に控えた新人の為か、早々に身支度を始めるコウヅキさんに、一言告げると、俺は家路を急いだ。


*****


 昨日、バイトから帰ったあとは、なにをするでもなく、そのまま寝てしまった。少しでも、暇な時間があると新しく入ってきた新人に着いて考えてしまう。研修はうまくいったのだろうか、成功か、失敗か。……失敗してしまえばいいのに、と心の隅に毒が滲む。そんな自分に嫌気がさしてもうなにも考えたくないと眠ってしまったのだった。そのせいで、今は朝の五時。土曜日なのに。早い時間に寝てしまえば早い時間に目が覚めるのが健康優良男児の宿命で、二度寝に持ち込もうとしても、どうしても頭から考えごとが抜けない。少しでも、マイナスな方向に思考が傾けば、目をぐっと瞑り、深呼吸をし、ごまかすしかない。こんな憂鬱な休日は久しぶりかもしれない。ベッドから起きたとしても、まだ家族も寝静まっているこの時間、親兄弟に、老人並に早起きな事がバレたらしばらくネタにされるだろう。そう思うと、ベッドから起きあがることもできない。なにもするきがないのに、寝ることも出来ない。潜入に使う、あの、変な音、ヘミなんちゃらを貸してくれないだろうかと切に願う。

 こんな風に、ろくでもないことを考えながら、頭はどんどんさえ渡ってゆく。どうしよう。なにかする事はないか。

「そうだ」

 俺は、ベッドの脇にある机に手を伸ばす。そうしてひっつかんだ一冊の本。ホンダサキチの「私」。わたくし、と読むんだそうだ。オザキに感想を聞かせてくれと頼まれた本。私小説家という肩書きにふさわしいタイトルのように思われる。俺は、枕元にある小さなランプに明かりを灯し、その本を開いた。


*****


「あら、おはようサキチ。なに、どこか行くの?」

 リビングに降りると、母が一人、テレビを見てくつろいでいた。

「ちょっと、駅前の本屋まで」

「朝ご飯は?」

「いらない。すぐ帰る」

 そう、母に告げると、俺は本屋へと向かった。


*****


 駅前の本屋までは、自転車で十数分。開店間もない本屋に人はまばらだった。入店してすぐ、俺は目当ての本を探す。ホンダサキチ、ホンダサキチ。あった。文庫コーナーの隅にその本はあった。置いてある三冊すべてを手に取ると、俺はレジへと向かう。会計を終え、足早に店を出ると俺はまた自転車に乗り家へと急いだ。

 家を出て一時間もしないうちに帰ってきた息子がさも珍しいのか、母は何かをいっていたが、耳を素通りした言葉に俺は生返事で答えるだけでだった。

 自分の部屋のドアを閉め。鞄の中身を出す。今さっき買ってきたばかりの本は、三冊とも一様に分厚く、読むのにはだいぶ時間がかかりそうだ。

 ホンダサキチ、不思議な人間だ。朝、読んだ「私」は彼の青年期、自分自身という確固たる精神が築き上げられたその時期をそのままに書き起こした小説だ。十七歳、俺と同じ年であるはずのホンダサキチは今まで見たどんな同年代の人間よりも理知で賢く、大人びていた。他人に依存することなく、他人の評価に左右されることなく、ただ自分自身を信じることをよしとし、保護者の影を感じさせることがない。十七歳にして立派な一人の人間であったのだ。

 それが、とても、きらびやかで、強く感じた。なぜこうも、自分を信じることが出来るのか。作中ではいとも簡単にそれらをしてしまうホンダサキチがうらやましかった。一人で立派にたっている、彼が本当に。なんだか胸がすくような気がして、読んでいて鼻の奥がツンと痛くなった。読んでいるうちに、外は明るくなったが、それにも気づかないほど俺は集中して読んでいたらしい。なれない読書に目は痛い、ずっと同じ体勢で読んでいたから、節々は痛いし、腕はしびれた。けれども、読むのをやめようとは思えなかったのだ。

 最後の一文を読み終え、本を閉じたときに感じたのは、喪失感。どこか、ホンダサキチの思考と一体化していた俺の脳がより所をなくしむなしさが胸に残った。ひとりぽっちにされた気分だ。

 そうして俺は思い立つとともに、ベッドから飛び起き、本屋へと向かったのだった。

 目の前の三冊の本を眺める。早く読んでしまいたい。早朝から本を読み、すでに疲労感のある目をこすりながら、そう思った。一種の麻薬のようだ、と陳腐なたとえが脳裏によぎった。

「運命かなあ」

 声に出してみると、なんて軽い言葉なんだ。我ながらクサいセリフだと思う。でも、そう思ってしまうほどに胸は高鳴っていた。ただただ面白い、そんな感想しか浮かばないが、こんな気持ちは初めてだった。


そうして、俺の休日は過ぎていった。


****


 週明けの月曜日、いつも通り学校を終え俺は会社に来ている。

「タケさん、今日は俺、やりますよ」

 デスクに座るタケさんに俺は意気揚々と宣言する。

「なんだい、随分とやる気だね」

 異様な俺のテンションに若干引き気味のタケさん。

「はやく、行きましょう」


****


 第四の部屋。目を開けると、また様子が変わっている。前回よりも本の数がぐっと減っているのだ。六台ある本棚に一冊、二冊入っているか、といったところだろうか。アトラクタの箱は相変わらず真っ白なベッドの上に鎮座している。そしてその横には

「ブックエンドか?」

 L字型の金属で出来たブックエンド……だろう。本棚に入れた本が倒れないようにストッパーの役目をするそれが二つ置かれていた。

「ブックエンドってことは、本を立てるんだろうか」

 部屋をぐるっと見渡すと、本棚には本当に数える程度しか本が置かれていない。とりあえずすべて集めてみよう。

 部屋中を回り、本棚に置かれていた本たちを回収する。その数、七冊。集め終わったところで一度、床にすべておろした。ざっと見たところ、ウツギさんの著書「青の憧れ」と「黄の香り」があるのが伺えた。その他の本にこれといった統一性はなく、タイトルを見ると、~殺人事件と銘打たれた探偵小説や、草原のと冠づけられた植物の画集のようなものまで、多種多様だ。強いていうのであればすべて大きさは同じだ。一般的なハードカバーの本の大きさと同じだといってもいいだろう。

「これをどうする」

 本を眺めながら思わず腕組みをし、頭をひねる。それぞれの頭文字を取るのでもない、適当に並べてみたところで何かヒントが浮かび上がるでもない。

 そうこう考えていると、だんだんと意識が遠のき、目の前がかすんでゆく。先ほどまで見えていた表紙の文字が徐々に薄くなり、表紙の色と一体化した。青、黄色、赤、緑……。そうか。そういうことか。目の前に並べられた本のカバーの色をもう一度よく見る。ウツギさんの著書二冊は、青と黄色。例の探偵小説はバイオレンスな赤色していて、植物図鑑は緑色だ。その他も、スペイン旅行記は太陽の国らしくオレンジ色で、宇宙の神秘という本は青よりも深い藍色をしている。紫色のカバーがかかった本にはワインのたしなみ方と書かれている。この七つの色を使って構成されるのは、虹。虹は七色である。

「あ、でも」

 ここでふと気がついた。俺は虹が七色なのは知っているが、どの順番で色が並んでいるのかは知らない。

「これは一般教養の範囲内なのか?」

 まさか、そんなはずはないよな。こんなこと学校で習っただろうか。思わず、両手で顔を覆う。落ち着け、この部屋のどこかにヒントがあるはずだ。虹、虹といえば空。そうか、空だ。

 俺は、勢いよく立ち上がるとカーテンの閉め切られた窓へと向かう。この部屋は照明でいつも明るく、つい窓の存在を忘れてしまうのだ。真っ白なカーテンを思い切り引くと、目の前に大きな虹が見えた。

「ん?」

 窓には大きな矢印が書かれている。窓の上から、下に向かって刺された矢印だ。

「上から順番に並べろってことか」

 改めて、虹を見る。その虹は真っ青な空に大きなアーチを描き、人間の生活するグレーと緑の混じる大地に足を置いている。ウツギさんの住むこの部屋は高層マンションから見る虹は、他の建物に邪魔される事なく今まで見たどんなに虹よりも綺麗なような気がした。

 虹の色は上から順に、赤、オレンジ、黄、緑、青、藍、紫であった。さっそく、並べてみよう。床に置いていた本を、一冊づつ立てブックエンドで挟んでみる。左から順に、赤から紫まで。これで合っているはずだ。並べた本を上から眺めると、本の小口に文字があるのが見えた。

「ほ、ん、だ、な、の、う、え」

 本棚の上か。この部屋にある本棚は皆一様に背が高く、背伸びをしてようやく本棚の上を探る事が出来る。

「イスとかあればいいのにな」

 そう思いながらも、俺は一台一台必死に探していくしかなかった。三台目でようやく、手に何かが触れた。

「!これか」

 指先でちょちょいと引き寄せ、手に取る。

「っ!」

 つかみ、降ろそうとした手に鋭い痛みが走った。俺は思わず手を離した。勢いよく離してしまったそれは、本棚の上に留まることなく、床に落ちた。

 痛みに握り込んだ手を開くと、ほんの少しだが血が滲んでいた。

「なんなんだ、こりゃ」

 幸いきずは深くなく、出血も少なかった為安心はしたが、この傷を作ってしまった元凶を見て思わず血の気が引いた。

「ナイフ……?」

 俺自身、潜入に道具としてナイフを持ち込むことはある。しかし、床に転がっているナイフは俺の出したものではない。本来ならば、銀色に鋭く輝いているはずの刃は、どんよりと曇り、古びた印象のそれに時間の経過を感じる。

「ウツギさんの私物か?」

 手にとってみても、やはり俺の具現化したものではない。俺は、サバイバルナイフ程度の小さなものしか持ち込まない。このナイフはそれよりも一回り大きい。やはり、ウツギさんのものだろうか。

「これ、使わないよな?」

 ウツギさんが、なんの為に、部屋にナイフを置いたのかはわからない。今一番重要なのは、アトラクタの鍵をいち早く見つけ、箱を開けることだ。

 そう思い直し、俺はナイフを本の入っていない本棚に置き、鍵を探す。ナイフに傷つけられた右手が痛み、聞き手ではない左手を、必死に本棚の上にのばす。

 五台目でようやく、ものが見つかった。今度は傷つけられることのないよう、慎重に手に取る。

「はあ、良かった」

 左手に握られていたのは、見慣れた真っ黒な鍵であった。俺はそれを箱に差し込むと右にゆっくりと回す。パズルのピースが見えたのをきっかけに、意識はだんだんと遠のく。その最中、本棚に置かれた古びたナイフが、なぜか脳裏にふとよぎった。


*****


 第五の部屋。目を開けると、また部屋の様子が違っていた。先ほどまでは確かにあった六台の大きな本棚は姿を消し、部屋にはベッドしか置かれていない。大きな窓にかかっていたカーテンもなく、真っ青な空が見られる。

 少し、部屋の臭いからは生活感が消え、乾いた木の臭いがする。

「新築の香り?」

 使用感のないこの部屋の様子を見る限り、ウツギさんがこの部屋に越してきたときの記憶なのだろう。まだ、部屋に物が置かれておらず、とりあえず必要な物だけが置かれた状況だ。本棚の無い分、かなり広くなった部屋を見渡すと、今まではベッドの上で白と黒のコントラストで存在を主張していたアトラクタの箱が、床に置かれている。

「怪しい」

 確実に怪しい。今までアトラクタの箱が置かれていた分、満足に見ることが出来なかったベッドを調査してみる。真っ白なベッドの横に立ち、掛け布団をめくりあげると、意外なものが見つかった。

「鍵?」

 アトラクタの鍵だ。でも、それで箱を開けることは出来ない。なぜなら

「プリントされてるのか」

 真っ白なシーツに、人くらいの大きさがあるアトラクタの鍵がプリントされていた。今回はこれがヒントに違いない。いったいこのやたらバカデカい鍵をどうすればいいのだろう。俺はベッドに腰をかけた。絶妙なスプリングだ。俺の部屋にある十年選手のオンボロベッドとは大違い、ウツギさんはこんなにふかふかなベッドで一日過ごしているのか。足の悪い分、身動きのとれないウツギさんにとってここは快適な場所でなければならないってわけか。

「少し羨ましいな」

 こんな気持ちのいい場所で、一日寝てていいなんていわれたら、俺は天まで昇りそうだ。俺は、主がいないのをいいことに、そのままベッドに寝そべってしまった。

「夢の中で寝たらどうなるんだろうか」

 そんなくだらないことを考えながら俺は天井を眺める。天井には電球の三つ着いた、照明が設置されている。カーテン伸されていない部屋は明るく、電球に明かりは灯っていない。

「あ、」

 三つの電球がトライアングルを描くその真ん中に、怪しげなものを見つけた。ベッドに寝ころぶ俺が身じろぎする旅に、それはきらきらと何かを反射する。

「よっこいせ」

 俺は、足場の不安定なベッドの上に立ち上がると、それをよく観察する。半球型で金ぴかなそれは、近づく俺の顔を、おかしく移す。鼻が大きくなったり、でこが広くなったり。

「ちょっとやってみるか」

 俺はその半球型のそれの写し込む範囲から体を避ける。すると、先ほどまで俺の顔を映していたそれは、ベッドのシーツに書かれた鍵を見事なまでにくっきりと映していた。

「これか」

 この半球型の何かに、鍵を映すためにこんなに大きく描かれていたのか。納得、納得。そこまではわかったけどいったいこれは何なんだ?

 もう一度、俺はそれに顔を近づけよく観察する。直径五センチ程度の、まるいなにか。さわって確かめようと、人差し指を近づけたそのとき、ふれたそれは、かちりと音を立てた。


 パリン、と電球がはかない音を立てて割れた。その破片が、俺の顔に降り注ぐ。

「うわっ」

 突然の出来事にあわてふためく俺は、バランスを崩し、ベッドから落ちた。

「なんなんだよ、ホントに」

 先ほどの部屋といい、今の出来事といい、下手すると事故につながっていた可能性だってある。今日は、着いてない。

 受け身をとり損ね痛む腰をさすりながらベッドの上を確認すると、アトラクタの鍵が電球の破片とともにそこにあった。どうやら、半球型のあれはスイッチで、あれを押すと電球が割れ中から鍵が現れるという仕組みだったみたいだ。

「破片が目に入ってたらシャレになんねー」

 いったいどんな風にスイッチを押せば正解だったんだ?恨めしく、天井を眺めるが答えは見つかりそうもなかった。それにもうそろそろ時間だろう。とりあえずは順調に二部屋をこなすことが出来たようだ。よかった。俺はアトラクタの箱に鍵を指し、回し、ふたを開けた。


****


「おつかれ、サキチくん」

  タケさんが書類に何かを書き込んでいるのが見えた。おそらく今日の俺の成果を記録しているのだろう。

「お疲れさまです」

「君の言ったとおりだったね。随分と調子が良かったようだ」

 そう誉められると悪い気はしない。

「そうだ、今日初めて怪我したんです、ここに」

 そういってナイフで切ってしまった右手を見せる。しかしそこには、何の傷跡もない。「あれ?」

「ああ、夢の中で付いた傷は現実には持ち込まれないよ。本当に怪我をしているわけじゃないからね。疑似怪我ってところかな」

「そうなんですか」

 綺麗さっぱりなくなってしまった怪我に、なんだかむなしさを覚える。そういわれてしまうと、ナイフで切ったときのあの痛みも、嘘みたいに思えてくる。

「それにしても、怪我ってどうしたんだい」

「それが、部屋にあったナイフで手のひらを切ってしまったんです」

 第四の部屋から移動する最中、脳裏によぎったあの鈍く光るナイフ。

「サキチ君はナイフなんて持ち込んでないよな?」

「はい、ウツギさんのものっぽいです。それに今日は電球が割れて頭の上に降り注いだり大変だったんですから」

 少しだけ身の危険を感じた、潜入だった。

「危ないなあ。これからはきちんと安全確認しなさい。いくら現実に怪我をすることがないからって、夢の中で傷を負ってしまえば痛みは同レベルだからね」

「はい」

 夢の中で、瀕死状態になるとしたらとてつもない痛みなのだろうか。想像するだけで、気が遠くなる。

「じゃあ、おつかれ」

 タケさんは資料をまとめると部屋を出ていった。俺も、身支度を整え、後に続く。会社をでるその瞬間、ウツギさんのナイフがふと脳裏をよぎった。確かに俺の手を鋭く傷つけたあのナイフ。右手を見てもやはり傷はない。この年になると、怪我をすることもだいぶ少なくなって、血を見たのが久しぶりだったからかもしれない。少し心が動揺しているのかも。

 ひらいた手のひらをぎゅっと握り、俺は駅を目指した。


****


 火曜日。ウツギさんの家を訪ねて、正式に依頼を受けたのが今からちょうど一週間前。昨日、第五の部屋までいって、残りは、ちょうど後半分。早ければあと一週間で終えることが出来るだろう。

「おつかれさまです」

 いつも通り会社に着くと、珍しくタケさんとコウヅキさんの二人に出迎えられた。

「あら、サキチくんご苦労様」

 ふたりしてパソコンをのぞき込んでいたようだ。

「どうしたんですか」

「ああ、なんでもないよ」

 タケさんはそのまま、パソコンの画面を消し、デスクの周りの資料をまとめはじめる。コウヅキさんも、素知らぬ顔で準備してくると言い残し、どこかへいってしまった。

「……なんでもないってなんですか?逆に気になるんですけど」

「いや、本当に君には関係ないことだから」

 それは、決して冷たい言い方ではなかった。むしろ半笑いでにこやかな場だっただろう。しかし、俺の胸はジクリと痛んだ。いったい、この二人はなにを熱心にのぞいていたんだろうか。会社のパソコンだから、もちろんこの会社に関することだろう。随分と楽しそうに見ていたが、いいことでもあったのか。この会社でいいことといえば、もちろん業績が上がることだ。会社としてそれが、一番うれしいことに違いない。……俺以外の誰かが、手柄をあげたのか? 新人か、はたまた別の人間か。俺以外の誰かが……

「サキチくん?」

 タケさんに名前を呼ばれ、はっとした。

「っあ、すいません」

 今のたった一瞬浮かんだ、俺の悪い想像。それが、じわりじわりと胸に広がるのを感じた。

「大丈夫かい?体調でも悪いのか」

 心配そうに顔をのぞき込まれ、とっさに顔を逸らす。

「大丈夫です!それより、早く行きましょう」

 空元気、というにふさわしいだろう、自分でも滑稽だと思うほど明るい声を出し、俺は部屋へと向かった。そうでもしなければ、俺の頭は、どんどん悪い方向に落ちていってしまうだろうから。


*****


「折り返しね」

 コウヅキさんが、資料を確認しながらいう。

「はい」

「一週間で半分とは、対したものだよ」

 タケさんがいう。いつも通り誉められているのはわかるが、俺は口元をいびつに歪ませることしかできない。二人の目線をごまかすように、俺はヘッドフォンをし、ベッドへと横たわった。

「準備オッケーです」

 その言葉を合図に、二人も位置につく。


ーーーー潜入開始

 

 その声が聞こえるとともに、俺の意識は遠ざかってゆく。ただその間、俺の胸からわだかまりが消えることはなかった。


*****


 目を開けて真っ先に飛び込んできたのは、白い床だった。今までの部屋とは違う。目に飛び込んでくる光も格段に多く、鋭い。

 なぜか、視線を上げてはいけない気がした。心拍数があがるのを、どこか他人事のように感じた。心を落ち着かせる為にゆっくりと鼻から呼吸をすると、鼻孔に消毒液の臭いが染みた。あまりにも濃密なその臭いに、頭の前のあたりが暑く火照る。視界はだんだんとぼやけ、目は涙をこらえるようにジクジクと痛みだす。泣いてしまいそうだ。しかし、心の隅にはどこか怒りに似たトゲトゲしいものを感じる。様々な感情が入り乱れ、口を開けば悲鳴がでてしまうに違いない。

 いったい、なんなんだ、これは。いままでの経験で、対処の出来な事態。俺の頭は、フルスピードで状況を整理しようとつとめるが、熱が上がるだけで、一向に答えは見えず、床に向けた視線をただ左右に揺らすだった。

 そして一瞬、金縛りにあったように固まっていた体が、強ばりを失った。ようやく、顔を上げることができた俺が見たのは、真っ白なベッドと、鉄格子のついた窓、四方八方ただただ真白な壁であった。それらが、目で見ているのか、脳の錯覚なのか、目の前で大に小にと迫ってくる。

 ハッと呼吸が乱れる、泣き崩れてしまいそうな感情を押さえつけようと、胸のあたりをぎゅっとつかむ。ただただ呼吸が苦しくなり、俺は床に膝をついた。口からは酸素が出ていくだけで一向に、入ってこない気がした。苦しさに、頭を振る。体はだんだんと重くなり、そのうち床にはいつくばるように倒れ込んだ。はぁはぁと荒い吐息が、耳に入る。そうして、ついに俺は意識を手放した。




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