Sincerely~月明かりの下で~
空には三つの月がある。
一番大きく明るいのが蒼の月。
一番手前の小さなのが紅の月。
間に挟まれ、一年をかけて唯一満ち欠けするのが白の月。
今、白の月は完全なる真円となり年に一度、限られた期間だけ夜空に三つの満月が揃う。
アーシャはそれを見上げながら、今更ながらここが自分が生まれ八歳まで育った世界とは異なる場所なのだな……そう思った。
アーシャが生まれた世界には月は一つしかなく、だいたい三十日ほどの周期で満ち欠けをしていた。それを一つの区切りとして、一ヶ月。それを十二回繰り返して一年としていた。
チキュウという星のニホンという島国……かつて暮らしていた場所について、今はそれくらいしか覚えていることはないけれど。
アーシャはそこで『あさみ』と呼ばれていた。
記憶の中にしかない名前。
確かこちらに来た時にはそう名乗ったはずだが、この世界の住人には発音しにくかったらしく『アーシャ』と呼ばれるようになった。
その呼び名だとて滅多に呼ばれることはない。
召喚されて十年。
世界中を違えても人は異端者に優しくはないらしい。
微かに残る元いた世界の思い出のなかで、アーシャは同世代の子供たちに爪弾きにされていた。他の子供たちには両親が揃っていたけれど、アーシャには母親しかいなかったからだったと思う。
輪に入ろうと思っても受け入れて貰えない。
それはこの世界でも同じだった。
一つにはアーシャが召喚された時、お世辞にも清潔とは言えない身なりであったことがある。この世界の住人は鼻が利く上に綺麗好きだ。最悪だった第一印象を拭うことが出来ず、召喚されることとなった条件と相俟って常に遠巻きにされてきた。
でも、それだけじゃない。
異なる世界の存在であることは深い溝として横たわる。
(……この世界。少なくとも今の時代に存在する『人間』は私だけだから……)
アーシャは自分を先導するように歩く男の背に視線を流し、切なく笑った。
二足歩行の人型ではあるが、頭部は虎……ホワイトタイガーだ。上衣の裾からは触りたくなるような見事な毛並みの長い尾が覗く。
この世界の男は種族は違っても獣頭人身に全身を被毛や鱗に覆われた獣寄りの外見をしていた。女は獣の耳や尾、或いは身体の一部に鱗などがあるだけで頭部や四肢は『人間』に近いけれど、決してそうではない。
この世界は獣人たちの世界であり、チキュウに存在していた『人間』はいないのである。
『人間』を召喚するのはやむにやまれぬ事情から。
異なる世界の存在など得体が知れず、出来れば近寄りたくないと思っていることは、この十年でイヤと言うほど痛感してきた。
アーシャが知るこの世界の住人…今いるヴィルトカッツェという国の中でも一握り以下の一摘み程度しか知らないけれど、彼らは召喚した異世界の存在を『道具』と思うことでかろうじて受け入れているだけなのだろう。
(……きっと、この人も……)
あからさまな嫌悪を向けられたことはなくともアーシェの側付きになったことは彼にとっては貧乏籤もいいところだったはず。
詳しいことは知らないけれど、彼……ヴァイスは、この国の中でも高位の家の出らしい。
庶子ということで後継者問題には関わっていないそうだが、血筋も良く衛士としてメキメキと頭角を表し、誉れ高い神子付きの近衛となったはずなのに、実際に与えられたのは神子の形代の監視役なのだから。
(ホント、貧乏籤……だよね)
神殿内で聞こえがよしにそう囁かれている噂に、アーシャは自嘲気味に納得していた。
この世界の国々にはそれぞれ守護神がおり、神子はその娘或いは息子として神の力を国の端々まで届ける代行者。生まれの貴賤や性別は問われず、額に顕れる神紋により選定されるものだと書物に書いてあった。
ヴィルトカッツェに於ける当代の神子は、王族の姫と聞いている。
星のような銀髪、真珠色の毛並みの耳と尾に青と金の色違いの瞳を持つ美しい白猫の姫君。
黒髪に黒い瞳のアーシャを嘲る比較対象として、口さがない者たちから聞かされた。
本人に会ったことはない。
アーシャの行動範囲は厳しく制限されているし、神殿の者たちも得体の知れない異世界人などに高貴な神子を会わせるなどとんでもないと思っているのはわかっている。
アーシャはその神子の形代として、この世界に召喚された。
神子は守護神の代行者であると共に、人の代表として試練を受ける存在でもある。
神は試す。
人が己が守護を与えるに相応しい存在かを。
神子は白の月が完全に欠け、その姿を空から消している間は神の加護無しに自分の力だけで神力を制御しなくてはならない。
その間だけは加護の証である額の神紋も消え、全くの無防備になってしまう。
清らかな存在である神子は魔の者に狙われやすい。快楽や苦痛で堕落させようとする。
それを凌ぐことも試練だが例外もあった。
守護神の神子選定基準は人の身には計り知れないが、条件に身体の健康は含まれない。
万が一にも神子を失うわけにもいかないための苦肉の措置……それが形代の存在である。
神子と同じ星回りの者の中から選出し、魔からの干渉を肩代わりさせるのだ。基本は神子一人につき一人の形代。複数いたこともあるらしいがそれは稀有な例外中の例外だ。
当代の神子もそれに当てはまった。
生まれつき身体があまり強くなかった神子にはその役目を継承する際に形代を用意することになったのだが、歴代で最も美しく清らかと言われる神子と同じ星回りの者はこの世界には存在しないという神託を下された。
困り果てた神官たちが更に守護神にお伺いを立てたところ、異世界から形代を招いた前例が他国にあることという神託を受け、その結果召喚されたのがアーシャだったのである。
前例はあるものの、見るからに異なる存在であるアーシャに好意を示してくれるものなどいなかった。
召喚に応える条件が『世界から消えても問題のないもの』……つまりは世界から必要ないと思われた忌まわしい存在であると認識されたことも大きかったのだろう。
独り立ちするまでは子を大事にする習慣のあるこの世界では、やせ細り何日も身体を洗っていないような外見が拍車をかけ、親に見捨てられるほど問題がある子供であったのだろうと結論付けられたらしい。
それを知った時、アーシャは嗤った。嗤いながら泣いた。
記憶の彼方。
母には男がいた。
その男と添うにはアーシャは邪魔だったのだ。
以前のように優しくしてほしくて、笑ってほしくてすがりついたのを何度も邪険にされた寂しい記憶が呼び起こされた。
召喚されるまでの数日は住処の部屋に放置されていたことも思い出して。
確かに自分が消えても母は困るまいと納得してまた嗤った。
世界にも、母にも捨てられたのだと……あの時、アーシャは諦めるということを覚えたのだと思う。
疎外されることも、魔の干渉に耐えることもしょうがないのだと諦めた。
いつかを夢見ることも、夢は夢と諦めた。
そうしないと壊れてしまいそうだったから。
だから唯一望まれている役目……形代という『道具』に徹して生きてきた。
(でも、もうすぐそれも終わる)
神子の役目は終生永続ではない。
神子を先代から引き継ぐのは個人差があるが十歳前後。次代へ受け渡すのは成人を迎えた時と定められている。
この世界での成人は十八歳。
当代の神子はあと数日で成人の日を迎える。
そうしたらアーシャの役目も終わるのだ。
その先のことはわからない。
この世界の者であるならば、役目を終えればそのまま神殿に残るもよし、俗世に戻るにしても生活の保証は手厚くなされるらしいが、自分がそれに当てはまるとは思わない。
わかっていることがあるとすれば、形代の役目がなくなってしまえば神殿の者たちは自分の存在を持て余すだろうということ。
形代の存在は知られていても、異世界人であることは国の上層部と神子を擁する神殿にしか知られていない……どうせ元の世界からも必要ないとされた存在なのだから消してしまったところで構うまい……そうなったとしても、不思議には思わないだろう。
むしろ、その可能性が高いと思っている。
(……できるだけ苦痛なく眠るように死ねる手法を取るくらいの慈悲はあってほしいけど……)
アーシャもその結末を受け入れる覚悟は出来ている。
否、そうなっても仕方ないと諦めていた。
心残りがないとは言わない。
目の前の背中を見つめながら思う。
この十年の月日の中で、アーシャと最も近しい関係だったのは彼だった。
近しいとは言っても親しいわけではなかったけれど。
そういう性質なのか、はたまたアーシャと話すことなどないのか、自分の前では寡黙で言葉を交わすことなど年に数えるほどだけれど……数日に一度許された散歩に付き添ってはくれるのは必ずヴァイスだった。
護衛というより監視の意味合いが強いのだろうが、それでも……アーシャを急かすことなく付き合ってくれた。
召喚されて時から言葉は通じたが、文字が読めることにも気づいてくれたのはヴァイスで、彼の進言があって月に一度書物が与えられるようになった。
アーシャの部屋にある必要最低限の日用品以外も全て彼の心遣いによるものだと気付いたのはいつだったか。
初めて引き合わされた時、八歳の痩せっぽちで寄る辺ない子供に、当時十代後半だったという彼は多少なりとも憐れみを覚えたのかもしれない。
その眼差しに、態度にアーシャに対する嫌悪や蔑みがないだけでも嬉しかったのに。
言葉少なな優しさを示されて、アーシャが彼に心を寄せるようになったのは当然だった。
自分とは違う、獣の頭部……それも元の世界では猛獣とされるくらい迫力がある顔から表情を読むことはできず、口元には牙が覗く。
上半身も毛皮に被われているし、大きな手と指先には鋭い爪。
でも。
恐ろしいと思ったことはない。
琥珀色の瞳がとても綺麗で、美しい縞模様のある純白の毛並みはベルベットのようなのを知っていた。
(……あれはここで暮らすようになってしばらくしてからだった)
こんな風に散歩をしていて、ふと襲ってきたどうしようもない寂しさに泣き出したアーシャを抱き上げてくれた腕を覚えてる。
慰めの言葉はない。
ただ、抱き上げてアーシャがすがりつくままにさせてくれただけ。
顔を埋めた首筋はモフモフと柔らかくて温かくて……気がついたらベッドにいた。いつの間にか泣き疲れて眠ってしまったアーシャを運んでくれたのだろう。
召喚されてからの日々、決して短くはない十年間の数少ない優しい思い出は全てヴァイスに繋がっている。
視線も言葉は交わさなくても、ほんの僅かな時間でもこうして一緒にいられることが嬉しかった。
逞しい背中を見つめていると、是非もなく押しつけられた役目を果たそうという気持ちになれた。
異なる世界の存在であることも、種族の違いもなんの障害にもならない。彼を慕う気持ちだけが、この世界にただ一人だけの『人間』という孤独からアーシャを支えてきた。
役目を終えて心残りがあるとすれば、もうヴァイスと会えなくなる……そのことだけ。
(だからって……どうにもならない)
ここにこうしていることは彼にとってもやむないこと。
神子のために形代を生かし、逃げ出さないようにするのが役目。
(でも、もうこの人だって解放されていい……神子様が還俗されれば、この人も一緒に神殿を出ていける)
衛士になったのは自身が選んだことのようだか、神殿付きになったのは神子に付き従ってのことだと他の衛士達が噂していた。
神子の母と彼の実家は縁戚らしい、とも。
別れは目前に迫り、覆す術もない。
なら、せめてこの背中を目に焼き付けて起きたかった。
そうやってじっと見つめていたからだろうか、彼が足を止めて振り返った。
「……っ」
アーシャは驚いて固まってしまう。
これまでアーシャの歩調を確かめるために時折肩越しに顔を向けることはあっても、身体ごと向き直るのは、それこそ幼い頃以来だ。
琥珀色の瞳がこちらを見下ろしている。
射竦めると言ってもいいほど強い視線。
強張ったままのアーシャに、ヴァイスの頭上の耳がヒクヒク動いた。長い尾が不機嫌そうに揺れる。
「……私が怖いか?」
「っ!?」
問い掛けに息を呑んでしまった。
これまで交わした数少ない会話は、実は会話とも言えないものばかり。例えば挨拶だとか、礼だとか……ヴァイスの受け答えは相槌を打つくらい。アーシャが覚えてる限りで唯一会話として成り立ったのは文字を読めるか聞かれたときだけだと思う。
後にも先にもこんなに驚いたことはない、というくらいアーシャは驚いていた。
「もう一度聞く……私が怖いか、アーシャ」
「……いいえ。あ……あの、ごめんなさい。お、驚いてしまって」
アーシャ自身、久しぶりに単語以外を口にした。
なにより。
「……私の名前……」
名前として呼ばれたのはどれくらいぶりだろう。
この世界の住人にとってはアーシャの名前など便宜上の記号のようなものなので、呼ばれることなど殆どない。
「私がお前の名を呼ぶのはそんなにおかしいか?……アーシャというのが本来の名ではないことは知っているが、すまないな。我々には発音しにくいのだ」
「……」
唖然と。
ただ唖然とするしかできない。
「おまえが驚くのも無理なからぬことだな。この神殿でのおまえの扱いを考えれば……私とて、こうして向き合ってちゃんと話すのは初めてなのだから。もう……十年も近くにいたというのに」
ヴァイスが自分のことを『私』というのも初めて知った。
いったい彼はなんのつもりなのだろうか?
「……アーシャ、あと数日で神子様は成人を迎え退かれる。おまえの形代としての役目も終わる……おまえはどうしたい?」
なにを言っているのかわからなかった。
違う。
理解したくなかった。
諦めることが当然で、死ぬ覚悟も出来ている。
役目を終えた後のことなど考えたこともなかったから。
「……わ、私の処遇は神官の方々が考えることでしょう」
かつて母に、生まれ育った世界に要らないと捨てられたように。
形代という役目が終われば要らないものになる。
そう決まっているのだ。
「私はおまえに聞いている」
真摯な眼差しに、苛立ちが込み上げてきた。
「貴方こそ……何故そんなことを聞くのです?聞かれたところで、私が要らないモノになることは変わらないっ。変な同情や罪悪感ならいりませんっ」
嘘だ。
ヴァイスが自分のことを気にかけてくれるなら、本当はなんでもいい。
そこに彼の感情はなく、ただ命じられたらからというのでも構わない。
だけど。
それを彼の口から聞きたくはなかった。
顔を逸らし、唇を噛む。
「要らないというなら、私が貰おう」
ヴァイスの言葉はアーシャが予想していたどれとも違っていた。
あまりのことに思わず彼を見てしまう。
「なっ……なにを言っているんですか。意味がわからない……なんだってそんなこと……」
なんで、と。
それきり紡ぐ言葉を持たず俯いた。
「憐れみ、罪悪感……それもある。おまえが初めて私のまえで泣いた時、神子様のためとはいえ、この世界の事情を異界の娘に背負わせていいものかと思った……それからずっと小骨が喉に引っかかったようにその思いは消えなかった」
そうして己自身に、押し付けて当然と考える現状に苛立ちを覚えずにはいられず、罪悪感から目を合わせることも言葉をかわすことも避けてしまった……そう彼は告げる。
「だがそれではいけなかったのだと、やっと己の愚かさを認めることが出来た……気づいてしまったんだ。十年……おまえが僅かにでも笑ったところを見たことがない、と」
「…………」
「初めの内は神子様の身代わりに受ける試練に悲鳴や泣き声をあげていたのに、いつしかそれさえも途絶えてしまっていたことに」
与えられるのが痛みでも快楽でも、度を越したそれらは苦痛でしかなく……助けを請うたところで無意味だと悟ってからは、声を殺して堪えるようになっていた。
助けを呼ばなければ、誰も来なくて当然なのだと思い込もうとしたから。
「試練の時が終わると、おまえの唇や腕は噛み痕だらけで……どうにかしてやりたいと思ったんだ。その役目を代わることは出来ない。おまえを連れて逃げることも私には選べなかった。神子様やこの国の安寧を量りにかけてまで、おまえに心をかけてやれなかった」
その埋め合わせをしたいだけなのかもしれない、と男は自嘲するように言った。
「私は自分の心を軽くしたいだけの卑怯者かもしれないな……だが、おまえの笑った顔を見てみたい、そう思う気持ちに嘘はない」
「……そんな……そんなことを今更言われたって……」
アーシャは途方にくれたようにヴァイスを見上げた。
「そうだな……今更と詰られても当然だ。だがまだ遅くないと、どうか言って欲しい。この十年、おまえに何もしてやれなかった私にもまだ出来ることはあるのだと証明させてくれ」
差し出された手のひらと彼の顔を交互に見やる。
「……貴方はそう言ってくれても、神殿が許さないでしょう?」
やむを得ず召喚という方法をとったものの、神殿のものたちにとっては異端は認めがたいものであるはず。
幽閉か死か、それ以外の選択など許すはずもない。
「おまえの言うことももっともだが……根回しは済んでいる。神子様を通じて守護神が当代最後の託宣として下される手筈だ」
「……え」
「神子様はもともとおまえのことに心を痛めていらした。自分の身体が人並みであれば、そのような責を負わせることなどなかったのに、と」
「…………」
「守護神とて召喚とは即ち拐かしの罪と変わらぬということをご理解されている。一方的にこの世界に連れ去られたおまえには救済される権利があり、神はそれを保証してくださるそうだ」
「…………」
「神殿は閉鎖的な場所ゆえ、凝り固まった考えを過ちと質すには時間がかかる。アーシャ、おまえが知るこの世界は神殿の中だけだ。それだけじゃないことを私はおまえに知ってほしい。神殿の外にも偏見はあろう……だが、おまえを受け入れる者もきっといる。少なくとも二人……私や神子様はおまえを拒絶したりしない。何が待ち受けていたとしてもいつだって、今度こそ私が盾になるから」
いつか、おまえの笑顔を見せてくれ……男はそう言って笑った。
表情は相変わらず読めない。
だけど。
そう、確かに微笑んでいるのだと伝わってきた。
「…………貴方は」
嫌悪や蔑みはなくても、疎まれてはいるのだろうと思っていた。
あるいはどうでも良いのだと。
でも……そうではなかったらしいことにまだ気持ちが追いつかない。
「ん?」
「貴方はなにもしなかったわけじゃない……」
先導しながら、アーシャの歩調に合わせて歩いてくれた。
ささやかでも言葉を交わしてくれた。
アーシャの世界が閉じてしまわぬようにしてくれた。
彼がしてくれたことから目を逸らし、卑屈な考えに凝り固まっていたことに気付けば恥じ入るばかりだ。
ヴァイスの言葉に応えたい。
どれくらいぶりかに湧き上がってきた積極的な気持ちに衝き動かされてもどかしく唇を動かす。
「貴方がいたから……私は心を失わずにすんだ……」
「……アーシャ」
「……未来を願っていいのなら……私は貴方と共にいきたい」
行きたい。
生きたい。
そのどちらの想いも込めて請う。
いつしか流さなくなった涙が、ポロリと零れ落ちた。
忘れてしまった笑い方も思い出せたらいいと思う。
震える手でアーシャがヴァイスの手を取ると、彼は眩しいものでも見るように目を眇めた。
昔と同じように抱き上げられ首筋に顔を埋めるとやっぱりモフモフで、日向の匂いがする毛皮に懐かしさで更に涙が止まらなくなる。
胸の奥、熱く甘く痛みを齎すこの気持ちをどうしたらいいのだろう。
「ああ、共にいよう」
ヴァイスがグルグルと喉を鳴らしながら言う。
ネコ科の動物と同じなら、彼は機嫌をよくしてくれたのだろうか。
それならば嬉しい。
同情や罪悪感でも構わないから。
ヴァイスがアーシャを要らないと、いつかその日が来るかも知れなくとも……アーシャの中で彼への思慕が明確な愛になったこの瞬間だけはきっと覚えていよう。
そう、思った。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
設定だけはがっつり作ってしまったので、もしかしたら長編として連載するかもしれません。
そのときはお付き合いいただければ幸いです。
・ちょっとだけ解説・
ヴァイスの職業である衛士というのは、騎士のようなものであると思ってください。世界観に合わせて敢えて『騎士』ではなく『衛士』という言葉を選びました。