黒百合の休日
修道女の装束を着た若い女が、石英層の商店街を歩いていた。
琥珀層のそれほど雑多な様子ではなく、住人は瑠璃層の者たちと比べると、気品が足りない。治安はあまり良くないはずだが、琥珀層ほどではないのだろう。人々の顔つきには、多少生活を楽しもうとするだけの気力と余裕があった。
それに対し修道女の女は、生気のない作り物のような顔と、無感情な黒い目をしていた。陶磁器のように傷一つない、白い肌は、黒いシスター服に映えている。
女はきびきびとした足取りで歩く。その動きには一切無駄がないが人目を引くことはない。修道女の服という奇異な服装にもかかわらず、誰からも注目されることはなかった。
彼女はリカと呼ばれている。本名はない。そのわけは、彼女の仕事と大きく関わっていた。
石塊城には、頂点の地位を占める絶対君主がいる。王と呼ばれるその人物は瑠璃層の最深部に後宮を作って居住し、全くと言っていいほど顔を見せない。影から石塊城を操っているのだ。
リカはその王の、手足になって働いている修道女の集団「黒百合」の一員なのである。
女中や秘書と言うと語弊がある。リカたちの業務は、主に隠密。調査や反乱分子の捕縛、時には反乱組織の要人の拉致や邪魔になる人物の暗殺を行うこともある。
黒百合の任務は「絶対君主の地位と名誉を守り、石塊城の秩序を守ること」だ。ゆえに、黒百合の女たちは本名がある者であっても決してそれを明かさず、どこにも心を映さず、王の手足となっている。
今日は休暇である。リカは、屋外で緊張を解くようなことは絶対しない。今突然刺客に襲われたとしても、すぐに服の下にある武器で応戦できる。それが容易にできるほどまでに、リカは幼い頃から訓練を受けていた。そのために生きているのだから、彼女は自ら、それを当然だと思っている。
すれ違った少年こちらに視線を向けていることに気づき、リカは注意しながらも、気にしない素振りを見せて、すたすたと歩いて行った。少年が走って逃げていくような目つきをすることもできるのだが、印象に残ってしまっては面倒である。
少し進むと、また視線が他人とぶつかった。今度は、高校生程度の少女からの視線である。リカがちらりと少女を見ると、少女は急いで視線を戻した。
気にしないようにと考えながら、曲がり角を曲がったところで、また視線を投げかけられた。今度は、中年の女である。今日は他人から見られることが多いな、と怪訝に思い、リカは意識をして目線を逸らした。それでも、視線はついてくる。
いくつもの視線がリカにぶつかる。彼女は心底気疲れしていた。リカは投げかけられる視線を振り切るように、早足で歩くが、視線は消えなかった。
視線、視線、視線。リカは内心、動揺していた。こんなに視線を向けられたことは、生まれて初めてである。
あの視線たちは、決してリカを非難する種類のものではない。それはリカもわかっている。すれ違う人の中には、ほっこりとした笑みを浮かべている者もいるのだ。
このように注目されるようでは、黒百合の構成員は失格だ。リカは慌てて、路地裏に逃げ込んだ。
薄暗い路地裏に逃げ込んだリカは、ほっと一息つく。もう、慣れない視線に煩わされることはない。
彼女は後ろを振り返り、さきほどから背後にいた、複数の追跡者に、感情の乏しいな目を向けた。
白と黒の毛が生えたしなやかな肢体に、つぶらな瞳。頭の上にピンとたった三角の耳。
一般的に子猫と呼ばれる生き物である。後ろからついてきたこの小さな生き物が、いかに人々の心を癒すものなのか。また、妙齢の少女にそれがついてきている状況が、いかに可愛らしいものであるかを、リカは知らなかった。
リカは、そっと手近な一匹の顔を覗き込む。そして彼女は、通常と同じ表情のまま、頬を桃色に染めた。