渇き(3)
頭が痛い。喉が渇いた。喉の痛みに耐え、俺は走った。頭の中で思考を嵐のように動かしながら。
俺のおふくろは誰だ? 親父は誰だ? 実家はどこだ? 兄弟は? 姉妹は? 親戚は? 友達は?
思い出せない。何も思い出せないのだ。頭を働かせようとすればするほど、俺は混乱した。喉が渇いた。喉がひどく渇いている。
自分が本当にマサミチという名前なのか。誕生日はいつなのか。家の場所は自分が思っているところで合っているか。仕事は何をしているのか。
だめだ。何もかも思い出せない。
俺は頭をガリガリと掻きむしった。額の辺りがズキズキと痛む。
俺は走っているうちに、水を売っている商店の前に来ていた。人がたくさん集まり、水を買い求めている。大勢の人間が人間を押しのけあって、争うように、水のペットボトルが入ったガラス容器に手を伸ばす。その様子はまるで、死体に群がるハイエナのようだ。
喉がカラカラに渇いていて、痛い。熱さにも似た痛みに耐え切れず、俺はペットボトルに手を伸ばした。
周りの競争者たちが俺の頭を押さえ、後ろに戻そうとする。引っ掻かれた頬が痛む。しかしその痛みは、喉の渇きと比べたら全く気にならないようなものだった。
周囲の声が耳に響く。俺も小さな子供の頭を押しのけ、中年の女の肩を押しのけて進んだ。子供が転び、群がる大人たちに踏まれる。子供が甲高い叫び声を上げて人ごみの中に消えた。
俺は店のじいさんの前にたどり着いた。金を渡すまで水は出してくれないようだ。ポケットから小銭を出し、じいさんに投げ渡す。代金が足りない。ポケットに入った小銭をほとんど渡すと、じいさんは床に落ちた金を数え始めた。遅い。
じいさんがようやくペットボトルを二本寄越した。手のひらにひんやりとした快感が広がる。しかし、安心するのはまだ早かった。
群がる人間の中で数人が俺が持つ水に気づいたらしく、俺や水を掴んできた。掴まれた場所に爪が食い込み、ペットボトルが小さく変形した。俺は肩やひじで強奪者たちを押し飛ばして、その場を去った。
俺は近くにある空き地まで逃げてきた。高台にあるここは、今いる場所よりも下の層が一望できるのである。数十メートルはあるだろう崖と、空き地の間には、錆びついて壊れかけている柵があるだけだ。
柵の前でペットボトルの蓋をひねるが、汗まみれの手のひらが滑って開かない。イライラしながらペットボトルと格闘する俺に、少女が近づいてきた。
「どうしたの?」
ハリのある、澄んだ滑舌のいい声だ。琥珀層には珍しい。俺が横目で見ると、その少女はツインテールの黒髪に、変わった形の黒い服を着ていた。しかしそれどころではない。
ペットボトルの開栓にいそしんでいる俺がおかしいのかもしれない。少女はクスクス笑いながら、ポケットから白い布を取り出した。
「ねえ、これを使えば開くんじゃないかしら?」
布は、真っ白に洗濯されたハンカチだった。見たこともないような純白が目に痛い。俺はハンカチを奪うと、再びペットボトルをひねった。空気が抜けるような音がして、蓋は開いた。
やった、やりきった。ようやく俺は水を飲める。体中が熱く歓喜している。俺は笑った。
さあ、早速水を飲もう。冷たく美味しい水で喉を潤そう。俺はペットボトルの飲み口に唇を密着させ、ペットボトルを傾けた。
そのときだった。俺の体がぐらりと揺れたのは。
水が手から落ち、地面に落ちる。俺の腕のあたりに、力のこもった少女の腕があった。壊れかけた柵が音を立ててちぎれた。俺が少女に突き飛ばされたとわかったのは、そのすぐ後だった。
体が傾く。俺は妙な浮遊感を覚えた。俺は、柵の向こう側に落下しているのだ。
俺の目が見開かれた。落ちたら死ぬだろうな、と冷静に考えている俺がいた。水を飲めなかったことだけが、どうしても悔しかった。
崖の上から、少女の高い哄笑が聞こえたような気がした。
■ ■ ■
「お迎えにあがりました、沙樹様」
崖の上に佇む少女の側で、シスター服を着た女が片足を立てて頭を下げた。沙樹と呼ばれた少女は、女を見下ろして笑みを浮かべる。その笑みは不敵だ。
少女、沙樹は黒いセーラー服を着ていた。上質な布で仕立てられた制服は、明らかに琥珀層のものではない。常時不遜な笑みを浮かべた口と、造形こそ優美なもののぎらりとした光が湛えられた目は、彼女がただの学生ではないことを物語っている。沙樹は動的で血のかよった雰囲気を抱いていた。
対して、修道女の装束を着た女は静穏だ。無感情な瞳に、人形にも似た作り物のような顔をしている。
「ああ、あなた、黒田の始末した人よね? ご苦労さま。明日はゆっくり休んでいいわよ。これ、雇い主権限の命令ね」
「かしこまりました。身に余る光栄でございます」
女は感情に乏しい声で言った。
「一つ、お聞きしてよろしいでしょうか?」
「何?」
「商店に集まった者たちは、なぜあれほどまでに先を争って、水を買い求めていたのでしょう? 先ほどの男もそうです。狂乱して水に手を伸ばしていましたが」
沙樹は意地が悪そうに笑った。
「あらあなた、見てたのね。まあいいわ。ほら、これ」
沙樹が女に一枚の紙を渡す。女は顔色を全く変えることなく、視線を紙にやった。
「娯楽よう。クソつまらない政務の間に、ちょっとくらい遊んでもいいじゃない?」
沙樹は優雅な足取りで崖に近寄った。満足そうな顔をして、沙樹は壊れた柵の手前から崖の下を見下ろす。
「なんてことのない。ここの住人が『元気に』なるように、水に『ちょっとしたおクスリ』を混ぜて、商店のお爺さんに売ってもらっていただけよ。水を売ってくれる限り『お水』を無制限であげるって言ったら、お爺さん喜んでそうしてくれたわ」
くるりと振り返り、女を見据える。この瞬間、女が沙樹を崖下に突き落としたら、商店に集まった「クスリ漬けの住人たち」は例の水から解放されるのか。女にその考えは浮かばない。女も黙って沙樹を見つめた。
「でも、記憶がなくなってきて、自分が誰だかわからなくなるとは思わなかったわ」
崖から離れる。沙樹は颯爽と歩いた。うっとりとした声で言う。
「ああ、不幸って、なんて美味なものなのかしら」
渇き (完)