渇き(1)
喉が渇いた。
喉に何かがつっかえるような違和感がある。俺は部屋の隅に置いてあるペットボトルの蓋を回して開け、喉をうるおす程度の水を飲んだ。気持ち悪くないほどに生ぬるい液体が胸を下っていく感覚がする。うまい。
琥珀層の人間にとって水は貴重だ。家に水道を引いていない者も少なくない。ごく最近まで、俺も近所の井戸から水をくんでいた。
琥珀層の井戸水は水道の水よりも汚れている。腹を下すものも多いのだが、水道代も水道を引く代金も、俺たちがびっくりするほど高い。少なくとも俺の住む長屋には水道から水を出せるような金の余裕がある奴は、誰もいないのである。
夕飯の材料と水を買いに行こう。そう思い、俺はすれたサンダルを履いた。
近所の酒場の女が看板を拭いていた。派手なピンクのミニスカートが揺れる。脚立の上で背伸びをしているので、スカートの中が見えそうだ。掃除をするためなのかパーカーを着ているが、その下はキャミソールのような露出の多い服だろう。
木枯らしが吹いた。俺は小さく身震いする。冬によく短いスカートが履けるなと、感心した。
開け放たれた入口の向こう側から、ノイズがかったラジオの音が聞こえる。看板は濡れた雑巾で拭かれて湿って光っていた。俺が看板を見上げると、女が俺に話しかけた。
「あ、正道じゃん。買い物?」
正道は、俺の名前だ。俺はこの女と話をしたことがない。なれなれしいな、と怪訝にも不思議にも思いながら返事をした。
「あ? そうですけど……なんで俺の名前知ってんすか?」
「やだー。おとといの夜にお店に来たじゃん。クリスよ、クリス。一緒に飲んだんでしょ?」
「は?」
この女と飲んだ覚えはない。喉がイガイガしていた。俺の返答に、整えられた眉が不満そうに歪む。女、クリスは舌打ちした。
「覚えてないならいいや。一緒に飲んだ男に忘れられるなんてねー」
そう呟きながらクリスは看板掃除に戻る。彼女が数回看板を吹いた時に、扉の奥で別の女が驚きの声を上げた。
「クリス! 大変だよ!」
「なにー? また石英でバスジャックでもあったの?」
「あの誘拐事件! ほら、長官の娘が死んだやつ! あの犯人が自殺したって!」
クリスは看板を拭く手を止めて大股で酒場の建物の中に入る。その動きは飲み屋の女らしくない、がさつなものだった。
誘拐事件のことなら俺も知っている。少し前に瑠璃層のお嬢さまが行方不明になり、琥珀層のアパートで死体となって見つかったのだ。多少歩けば行けるような場所だから、よく覚えている。
俺は用事があって行けなかったが、見物に行った友達から話は聞いている。例の少女は裸で血まみれになって死んでいたそうだ。誘拐犯の男は、目玉が飛び出していたとも聞いた。
このことはラジオや新聞では報道されていないらしい。石英層の人間はきっと知らないだろう。
瑠璃層の人間は俺たちのような貧乏人にとって雲の上の存在だ。若い女ならなおさら、触れられない存在である。その「キヨラカ」で「シンセイ」な体が、この汚い掃き溜めで無防備に転がっていた。誰が触ろうが弄ぼうが、抵抗も拒否もしない状態で。考えるとゾクゾクする。
俺は遠くで鳴る、ラジオの音を聞く。男性アナウンサーが神妙な声色で語っていた。
『一昨日、瑠璃十七地区の住宅が火事になり、焼け跡から男性の遺体が発見された事件で先ほど、遺体は住宅に住む黒田実氏とわかりました。黒田氏は財務長官の秘書で、一昨日から行方不明になっていました。独立警察の調べによりますと、黒田氏は出火時刻の十分ほど前に警察に110番をし……』
「え、秘書? 誘拐された子の親って、何長官だっけ?」
クリスは同輩らしい女に聞いた。女は「うーん」と悩みながら答える。
「財務長官じゃなかったっけ?」
「うわ、じゃあ、雇い主の娘を殺したってこと?」
『独立警察は、焼身自殺と見て操作を進めています。続いてのニュースです』
俺は次のニュースになったことを確認すると、商店に向かって歩き出した。