或る淑女の手記より
落書きと染みだらけの壁。積み上げられた建造物。上層部は権力を手にした者の理想郷、下層部は犯罪と悲劇の巣窟と化したその場所は、天を侵すようにそびえ立つ。
独立した一つの国として発展を遂げてきた石塊城。そこは顔の見えない絶対君主を崇め、アジアの文化と似て非なる独特の文化が発達していた。
君主とその臣下たちは、一般住民に支配者階級への絶対服従を求めた。事実上石塊城は上層部は支配者階級の人間が、下層部は被支配者階級の人間たちが住まう場所として区画されている。上層の瑠璃層、下層の琥珀層、その中間の石英層。住人の階層意識は、各層の行き来を困難にしていた。
いつしか琥珀層のスラムが肥大化し、城下の治安が悪化する。そのせいで、石塊城は事実上孤立したのである。
この物語は、石塊城で起こった事件に関する物語である。
■ ■ ■
冬の朝。瑠璃層のとある屋敷に、硬いノックの音が響く。
「おはようございます。長官、お目覚めの時間です」
秘書の黒田実が、重厚な色の扉をノックする。部屋の中から返事はない。
きっちり整えられた髪に、上質なスーツ。黒いメタルフレームの眼鏡の向こうの目は生真面目そうな光が湛えられている。皺が刻まれた頬には、微かに疲れがにじみ出ていた。
黒田は長官の心中を憂い、悲痛な表情で目を閉じる。思いつめたように目を開くと、扉をそっと開いた。
「長官、おはようございます」
照明が消された部屋のベッドの上に人が座っている姿を、黒田は目にした。座ってうなだれている彼こそが、石塊城財務長官かつ黒田の雇い主、北条健太郎である。
「長官、本日の予定をお伝えしてよろしいですか」
「ああ、頼む」
黒田は健太郎に断り、部屋の明かりをつける。黒田はここ最近、健太郎が朝、自ら明かりをつけていないことに気づく。
先日、健太郎の一人娘が琥珀層に住む男に誘拐され、行方不明になった。名は北条珠江。年は十七。瑠璃層に住まう良家の子女を集めた学校で、優秀な成績を収めていた。そして、誘拐された一週間後には、絶対君主の後宮に側室として輿入れすることが決まっていた。
その二週間後に、琥珀層の集合住宅で若い男女の遺体が発見された。琥珀層での暴行や殺人は日常茶飯事だが、財務長官が血眼になって探していた最中に起きた事件である。凄惨な事件だったので、琥珀層の住人の間でしばしの間話題になっていたこともあり、すぐに事件は独立警察を使って調査された。
鑑定の結果、女性の遺体は北条珠江と断定された。
男は瑠璃層からの支配に抵抗する、反乱分子だと認定された。現場にあったノートの内容と筆跡調査によって明らかになったのである。そのノートを含めて、現場から押収された物は、全てが厳重に処分されることとなった。
そしてその処分を担当することになったのが、財務長官秘書――黒田実なのである。
「本日の予定は以上です」
黒田は事件が起こる前の通りに、その日の予定を読み上げた。健太郎は力ない顔と目を、床に向けている。娘の遺体と対面してから、ずっとこの状態なのだ。
健太郎はもともと、爽やかで明るく、家族思いの紳士だった。冗談を言って黒田を笑わせることもよくあった。黒田は十数年健太郎の下で働いているが、これほどまでに意気消沈した彼は、全く見たことがなかった。
「今から出かける支度をする。しばらく一人にしてくれ。その方が、気分が楽なのだ」
「かしこまりました」
部屋を出て、扉をそっと閉める。ふと、一人になった健太郎が、自室の中で自ら命を絶ってしまわないか不安になった。
その心配を無理矢理ぬぐい捨てるために、黒田は唇を噛み締めながら、早足でその場を去った。
その日の午後、黒田は早めに帰宅した。彼は、例の遺留品の処分準備をするためだ。
黒田は周囲に誰もいないことを確認すると、自宅の玄関の鍵を閉め、チェーンをかけた。自宅の中に人が誰もいないことを急いで確認すると、自室の中に入り、ドアとすべて窓を施錠した。
仕事机につくと、胸元のポケットにすべての鍵を入れ、新しい、小さな鍵を取り出した。仕事机の引き出しにそれを入れ、回す。中から、二つのノートを出した。
一つは小さいサイズの、厚いノートだ。高級感のある、黒いカバーがついている。黒田が仕事のために使っているノートだ。
もう一つは、A4サイズの大学ノートだ。これは、百人の人間に聞けば、九十九人の人間が「異常だ」という感想をもつような外観をしていた。
表紙に血が飛び散った跡が、裏表紙にべっとりと血に浸かった跡が、残っているのである。一度血に染まって乾いたそのノートは、紙が硬く変質していた。
このノートは、北条珠江が殺害された現場に残されていたノートである。このノートの記述によって、誘拐犯が瑠璃層に仇なす反乱分子と認められたのだ。
黒田はその血染めのノートをためらわずにぱらぱらとめくる。あるページでその手を止めると、続いて普段遣いのノートを手馴れた様子で開いた。
二冊のノートを前に、深呼吸する。そして黒田はペンを強く握り、追い立てられるように書き始めた。
■ ■ ■
私は、身の危険を案じてこの記録を残すこととした。私が消えると共に、事実までもが闇に葬られることがあってはいけないのだ。
遺留品は、厳重に処分されることとなった。なぜ、わざわざ私が処分することとなったのかは、存じていない。なぜ厳重な処理をするのか、それも私は知らない。問いただしても、独立警察の鑑識の者は、決まり悪そうに口を閉ざすばかりだった。
この事件には、裏があるのかもしれない。独立警察の者の反応からそう疑った私は、事件について独自に調査した。
その過程で、私は、事件現場の写真を拝見した。独立警察が到着する前に、近隣住民が写した写真である。
それは、凄惨ながらも、淫靡な雰囲気の漂う現場だった。部屋の明かりは暗い照明が一つで、薄汚れた部屋の真ん中にはシーツが変色した、乱れた布団が敷いてある。鏡が倒れて割れていたが、この鏡の元々の用途は、記述するまでもないだろう。
珠江嬢と断定された女性遺体は、男の遺体の隣に、一糸纏わぬ姿で倒れていた。首には大きく切り裂かれた大傷があり、凶器は鏡の大きな破片とわかった。死因は頸部の傷からの、出血多量。全身に小さい火傷や、同様な打撲の跡があった。頬には涙が乾いた跡があった。
傍らには、ノートとボールペンが置いてあり、ボールペンは半分以上が血に染まっていた。これが例の、反乱分子という男の正体を暴いた、ノートである。
男の遺体は、二十代後半ほどと推測される。服を着ていたものの、注視することが難しいほど、酸鼻を極める姿をしていた。左の眼球が大きく損傷しており、眼孔から突出……これ以上の詳細な描写はあえて控えておく。眼球以外はどこも大きく損傷していなかったという。死因はショック死。解剖の結果、凶器は珠江嬢の傍らのボールペンとわかった。
女性遺体が珠江嬢の遺体だとわかった時点で、この事件は監禁致死事件か、第三者による犯行、もしくはその両方と推測された。しかし、同時に奇妙な点がいくつも発見された。
まず、現場の足跡。血液や鏡の破片の上に、第三者の足跡は発見されず、その他の痕跡も見られなかった。このことから、この事件は第三者の犯行ではないとわかる。
次に、二名の血痕。現場には大量の血痕が残されていたが、男の血液は珠江嬢の血液より下層に広がっていることが判明した。しかも、珠江嬢と男の血液はほとんど混じり合っていない。つまり、珠江嬢が首を損傷するよりも前に、男は死んでいたということだ。珠江嬢は男に殺されていないのである。
そして、鏡の破片の上の血痕。破片の下には血液は見られず、その上に男の血液が付着していた。つまり、鏡が割れた次に男が眼球を損傷し、最期に珠江嬢の首が裂かれたと言って間違いないのだ。
最期に、凶器とみられる鏡の破片とボールペン。鏡の指紋は珠江嬢のもののみだった。ボールペンには前述の通り、大量の血液が付着しており、血液は男のものだったが、その血液の上に、珠江嬢の指紋が残っているのだ。しかもそれは、書くためにボールペンを握った形をしていた。
第三者はいない。珠江嬢は男には殺害されていない。鏡は珠江嬢が亡くなる直前に割れたのではない。そして、男が眼球を損傷した後、珠江嬢はボールペンを使用している。
この事件は、珠江嬢が起こしたと推測して、間違いない。その上、珠江嬢が自ら命を絶ったのも、間違いないのである。
しかし、なぜ珠江嬢が? 彼女はなぜ、助けを求めずに、自殺したのであろうか? 私は、現場に残されたノートを拝見した。
この事件には裏があるという、私の疑念は確信に変わった。
男が書いたと思わしき内容も、筆跡も、どこにも見られなかったのだ。男が反乱分子だという証拠は、この世のどこにも存在しなかったのである。
以下は、例のノートの一部を書き写したものだ。
(以下 現場に残されたノートより)
私は今、小さな照明一つの、暗い暗い部屋の中におります。日も時計もないこの部屋で、私が時間を知る方法はありません。
ここは、琥珀層の更に奥深くにある、小さな部屋です。ここは、琥珀層の民が住まう場所だと聞きましたが、とても人間が満足に住むことができる場所だとは思えません。
さて、私は、日記を書く事にしました。日にちがわからないため、日記とは言い難いのですが。私の気持ちを書きなさいと、私をここに閉じ込めた男の人は言いました。
彼は、琥珀層の住人です。瑠璃層にいた理由は、私がお利口にしていたら教えてあげる、と言いました。私の白い肌と長い黒髪は、とても綺麗だとも言いました。当然です。琥珀層の住人が一年働いても、到底買えないような化粧水を毎日使っているのですから。
私は今まで、きちんとしていたつもりです。今まで身なりを正し、行いを正し、懸命に勉学に励んでまいりました。彼は、母に叱られたことで、屋外で悩む私に声をかけました。少しの間家を空けるだけで、私は楽になれると言いました。今になっては、とても後悔しています。
お利口に、と言われるのは、とても心外です。靴を揃えることもできない者に所作を口出しされる筋合いは、全くございません。
お父様、お母様、申し訳ございません。私は、馬鹿なことをいたしました。叱られても仕方ありません。どうか、私を見捨てないでください。私は今、部屋から出ることを許されていないのです。
一刻も早く、石英層の監視者たちが私を探しに来ることを願っております。
時間を知りたくはない気がしてまいりました。
ここには美しい花も、私を安心させてくれる太陽もありません。清潔な服も、家具もありません。磨かれた皿の上に乗った、美味な食事もありません。ここの空気を吸った時間など、知りたくはないのです。
私は、ここの部屋の主に、たくさんのことを指図されました。書きたくはないのですが、部屋の主が、次の機会に詳細に書きなさいとおっしゃったので、書く事に致します。
まず、彼は私に、常時裸でいることを命じました。そして、部屋の主人の言ったことに服従し、返事をし、彼を主と呼ぶ。このようなことを命じました。
これを書いている今、涙が溢れております。琥珀層の住人である彼に、なぜこのような屈辱的な仕打ちを受けなければいけないのでしょうか。私には、到底理解が及ばないのでございます。
後ろで、彼が昨夜のことを書くように命じていますので、涙が止まりませんが、書き残すこととします。
まず、彼は私を手錠で固定しました。そして、細かな指示を出し、私はそれに従いました。その指示の内容は大変屈辱的で、私は泣きましたが、彼は私が彼の指示を聞かないと、私のでん部を叩くなどします。口調はあくまでも穏やかなのですが、私は怖くて泣きました。
指示を聞けば、優しく扱うのですが、それは割愛することとします。私には、到底書く事ができないのです。彼は、私の反応が、一般的にどのような評価を受けることなのかを説明しました。私はどうにもできずに、ただ泣きました。
お許し下さい。
誰に対してかわかりません。ただただ、許されることを願ってやまないのです。
ここに来る一週間後に、私は瑠璃層の、後宮に行く予定でした。瑠璃層の見目麗しい女や、優秀な女が集まる場所だと私は聞いています。部屋の主は、仰りました。衣食住は整っているけれど、ここと本質的には何も変わらない場所だ、と。
それどころか、精神の安楽がないそこは、生き地獄だとも、彼は私にお話になりました。
お母様は、お勉強やお稽古に励めば、幸せに生きていけると仰ったのです。それが間違っているはずがありません。
私は少しずつ、ここでの暮らしに安らぎを覚えるようになりました。気づいたことがあります。私は、叱責されることがありません。言うことを聞けば、褒めていただけます。命令を聞かなくても、頬を叩かれたり大声で叱られたりすることがないのです。叩かれることはあります。しかし、それによって私の心がひどく傷つくことはありません。
それを部屋の主に伝えると、彼は私の頭を撫でました。その手つきは、猫の頭を撫でるようでした。私は、その手つきにさえも、温かい何かを感じるようになってしまったのです。
もう、私には何が正しいのか、何が間違っているのか、全くわかりません。わからないのです。愚かな私を、許してください。(きっと、この話を部屋の主にしても、彼は私をお許しになる気がしています)
私は先ほど、恥ずかしい言葉を口にしました。なぜでしょう。このような言葉を口にするたびに、不思議な快感を覚えるのです。部屋の主を、主と呼び、主から教えられた数々の恥ずかしい言葉を口にするたびに、心が満たされます。
私は、重い重い圧力のような何かから、解き放たれた気がしています。この文章を両親が見たら、どんなにお泣きになるでしょうか。だけども、主は私を、成長したね、と褒めます。不思議と、私はそれに納得しました。主の言う何もかもは、私を納得させるのです。
私の精神から、徐々に両親や周囲の大人のニオイが消え失せていきます。主になぶられ、いたぶられ、辱められるたびに、彼らの面影が、私の心の中で霞んでゆくのです。だけど、私の理性と良心が、それを拒絶するのです。
今日は、疲れました。主が手を招いておられます。きっと、まだ眠れそうにはありません。疲れきって眠る状況の心地よさを、私に教えてくださったのは、主でした。
この日記を書くとき、私はとても安心しています。これを書いているときに、私は悦を感じています。それは、なぜなのかわかりません。
でも、違うんです。私はこんなだらしのない人ではありません。私はこんな、自尊心の欠片もない人間ではありません。私は、こんな、嫌な臭いのする場所にいて、いい人間ではありません。琥珀層に住む卑しい人間の腕の中で快感を覚えるような、そんなあられのない人間では、けっしてありません。
ごめんなさい、私は先ほど、鏡をわりました。布団の横にある鏡です。私が鏡を覗くと、裸の女が映っていました。首から胸にかけて、赤い跡がついていました。髪は乱れ、恥ずかしい場所はどこも隠そうともしません。私の恥ずかしい心の内と目の前の鏡の中の女の姿と重なって、私は鏡を割りました。鏡を叩き、引き倒して、大声を上げて、割りました。私は腕を切りました。ごめんなさい私は悪くありません 全てあの人が悪いんです 私をこんなにしたあの人のせいなんです ごめ(この先はインクが行を逸脱していて、読解不可能)
主は、わたしが なきつくと、頭をなでて くださいました。それなのに 私は あの やさしい 目を
あるじ やはり 私は あなたなしでは いられません。せめて いきばが なくなった わたし を もう つかれました。(文字には、血液とみられる赤黒い液体が滲んだ跡がある)
(以上がノートの抜粋である)
以上の記述は、途中から筆跡に乱れがあるものの、全て同一人物によって記されたものであると、筆跡鑑定で明らかになった。
部屋からは、縄や拘束具が数多く発見された。これらの器具の一部には、珠江嬢の髪の毛が付着していた。
私は、珠江嬢が幼い頃から彼女と付き合いがあった。財務長官は子煩悩で、よく家族で公園で遊んだり、石英層の視察に行っていたのだ。秘書である私も共に外出をしたことが何度もある。
珠江嬢は、大変美しい少女だった。くっきりとした、ちょうど良い高さの鼻。一途な眼差し。形の良い小さな唇。黒い直毛は背中の真ん中まで伸ばされ、幼少時から変わっていない。地味な色のカチューシャは、彼女の清純な顔立ちを引き立てた。
まさに、白百合である。彼女は、バラでも、たんぽぽでもない。バラのような華やかさはないし、たんぽぽのような土臭さもないのだ。
彼女を、淫らな事象と重ねてはいけない。珠江嬢はそんな気持ちを駆り立てさせる女性だった。だがそれを、やすやすと乗り越えた男がいた。彼女を辱めた男が、現実に存在したのだ。私はその事実に、戦慄に近いものを覚える。
……だが彼女は、いったいどちらが幸福だったのだろうか?
現在、ふと私の心を、この問いがよぎった。長官の前では口が裂けても言えない。だがどうしても、家庭での珠江嬢の表情には、常に影があったように感じるのである。
彼女の会話や所作、服装は、完璧だった。そのように、朝から晩まで教育を受けてきたのだから、当然ではあるが……。
私は、認めたくないのだが、ノートの彼女の文章には、解放感があるように感じた。男を主と認め、縋る過程に悦びを見出したのか。違うのか。認めたくない。認めたくはないのだ。だが、家庭内での彼女は、とても窮屈そうだった。完璧な所作の中に、彼女の全身全霊での苦しみが、こちらにまでひしひしと伝わってきたのである。
もし、私の邪推が正しければ、男が死んだ時の、珠江嬢の絶望は計り知れない。生まれて初めて解放感を与えてくれた者が死んだのである。彼女が琥珀層で生きる術はない。助けを求めて保護されれば、また息の詰まる生活に逆戻り。彼女が自ら命を絶った理由は、そこにあるのではないだろうか。
私は、例のノートを拝見し、彼女が幸福だったような錯覚を得てしまった。そんなはずがないと、私は言い聞かせた。そんな考えに至ってはいけないと、家族の悲しみを思いだし、自らの罪を自覚した。
ともかく、私は見てはいけないものを見てしまい、知ってはいけないことを知った。明日の朝には、もう命はないだろう。
もし私がこの世から消されることがあっても、どうかこの手記は隠し通して欲しい。この真実が後世に遺されることを、私は願ってやまない。
……私は、
■ ■ ■
そこまで記した黒田は、背後に人の気配を感じ取った。皺が刻まれた、荒れた頬が、小刻みに震える。眼鏡の鼻あては、汗で鼻の上を滑っていた。
彼は、無駄な努力とはわかっていたが、少しでも命を延ばすために、部屋の扉と窓を全て施錠していたのだ。
絶対君主の元には「黒百合」と呼ばれる隠密集団がいる。彼らは、施錠などで妨げられるような者たちではない。それは、黒田自身もよく知っていた。
黒田は、黒百合の姿を、まだ見たことがない。黒田は財務長官の下で働いているとはいえ、ただの秘書だ。隠密集団の詳細など、知るはずもないのである。
黒田は背後に立つ人物に、震える声で語りかけた。
「こ、これは、親類に宛てた遺書だ。中身を見るなどという野暮なことはせずに、私の兄の元へ、届けてくれないだろうか?」
無駄だとはわかっているが、黒田は乞うた。言葉を発しなければ、すぐさま殺されてしまうような気がしていたのだ。
「頼む、こ、殺して欲しくはないが、せめて、これを兄のもとへ、届けてくれ。後生だ。頼む……!」
黒田は震える手でノートを閉じた。それが、精一杯の機転だった。
背後の刺客はわざと、刃物の重い音を立てた。黒田は短く悲鳴を上げて、咄嗟に振り返った。
振り返った先では、細身の剣を右手に持った修道女が、無感情の黒目を、黒田に向けていた。その表情は、作り物のように生気がない。
黒田は目を見開いた。女だとは思わなかったのだ。黒い修道女の装束に、白い肌が映えている。彼女は骨の髄まで地に染まっているはずの暗殺者にしては、あまりに小綺麗すぎる出で立ちだった。彼は、夢を見ているような心地で、修道女を見つめていた。
修道女の姿の死神は、その時を見逃さなかった。ターゲットが気を抜いた絶好の瞬間、彼女は音もなく床を蹴り、黒田の喉を一文字に切り裂いた。声帯と頚動脈を損傷した彼は、声も上げずに倒れ伏した。
それは、全く無駄がない「処理」だった。
修道女は黒田が倒れふしたのを確認すると、音もなく机に歩み寄る。黒手袋をした右手は、容赦なく黒田のノートを開いた。ページをめくり、黒田の記述を確認すると、続いてその横にある、例の遺留品のノートの中身を見る。
そしてポケットから液体の入った瓶を出し、ノートの上にそっとこぼした。鼻をつく刺激臭が、辺りに広がった。
無表情な殺人者は机から少し離れ、マッチをすると油漬けのノートの上に投げる。小さな机の上に、火の手が上がる。修道女は燃え上がるノートと机を背に、窓より黒田の自室から去った。
燃え上がる机の傍らで、微かに息があった黒田は、もがきもせずに伏していた。悔しさに涙がこぼれそうになる瞳にそっと、まぶたで蓋をする。
黒田は、助けを呼ぼうともしなかった。同居者はいない。他の人間に危害が及ぶことは、おそらくない。
黒田は「真実」と共に眠ることを決心したのである。
後日、財務長官は職を追われる。秘書である黒田実が、長官令嬢と、彼女を拉致監禁した誘拐犯を琥珀層の集合住宅で殺害し、その後自宅で焼身自殺をしたと、報道されたのである。
奇妙な殺人事件は、黒田という「第三者の黒幕」の出現で幕を閉じた。
黒田と、死を覚悟した彼の手記は闇に葬られ、日の目を見ることはなかった。彼の悲壮な覚悟は、誰も知らない。