「病弱な幼馴染が心配なんだ」と私との約束を全て破った婚約者様へ。〜看病に専念できるよう婚約破棄して差し上げたのに、なぜ彼女が『仮病』だと知って泣きついてくるのですか?〜
エドウィン様が約束を破るのは、いつも同じ言葉から始まる。
「すまない、リアーナ。ユリアンヌの具合が悪くて」
今日は私の誕生日だった。
王都で一番予約の取れないレストラン。三ヶ月前から押さえていた席。私が「楽しみですね」と言った時、エドウィン様は「ああ、もちろん」と笑ってくださった。
その笑顔を信じて、新しいドレスを仕立てた。髪飾りも新調した。侍女のマリーが「お似合いです」と目を輝かせてくれた時、私は本当に嬉しかった。
けれど今、私の目の前にいるエドウィン様は、申し訳なさそうに眉を下げながら、決して翻ることのない決定事項を告げている。
「ユリアンヌが高熱を出して、医者を呼んだんだが心細いと泣いていてね。彼女には僕しかいないんだ。わかってくれるだろう? リアーナは強いから」
——強いから。
その言葉を、今年だけで何度聞いただろう。
「……ええ、もちろんですわ」
もちろん。もちろんですとも。
仕立てたばかりのドレスの裾を握る指先に、少しだけ力がこもった。でもそれだけだ。泣いたりしない。すがったりもしない。
だって私は——強いから。
侍女のマリーが、私が一人で戻ってきたのを見て息を呑んだのがわかった。でも何も言わなかった。黙ってドレスを脱ぐのを手伝い、髪飾りを丁寧に外し、温かい紅茶を淹れてくれた。
「リアーナ様」
「大丈夫よ、マリー。もう慣れたもの」
紅茶のカップを持つ手が震えていないか、確認した。震えていなかった。
本当に、慣れてしまった。
§
思い返せば、兆候は婚約当初からあった。
エドウィン・サンベルク侯爵家嫡男。金色の髪に澄んだ碧眼。社交界の花形で、誰にでも優しい完璧な紳士。
私——リアーナ・グレイヴェル伯爵令嬢との婚約は、家格の釣り合いも良く、周囲からは「お似合い」と祝福された。私自身も、穏やかで心優しいエドウィン様のことを慕っていた。
けれど婚約から半年もしない頃、彼の幼馴染であるユリアンヌ・ミルフォード男爵令嬢が王都に出てきた。
生まれつき身体が弱く、地方の療養地で暮らしていた彼女が、少しでも良い医師のいる王都で治療を受けることになったのだという。
「リアーナ、紹介するよ。僕の幼馴染のユリアンヌだ。身体が弱いから、力になってやりたいんだ」
初めて紹介された時のユリアンヌ嬢を、私はよく覚えている。
銀色の髪に、透き通るような白い肌。線の細い身体。伏し目がちの睫毛。確かに、見るからに儚げで——守ってあげたくなる風貌をしていた。
「初めまして、リアーナ様。ご迷惑をおかけして申し訳ございません」
小さな声で、おずおずとそう言ったユリアンヌ嬢に、悪い印象は抱かなかった。
むしろ応援したいとさえ思った。遠い療養地から一人で王都に来るのは心細いだろう。エドウィン様が気にかけるのも当然だ。
——そう思っていた時期が、確かにあった。
§
最初の約束破りは、夜会だった。
「すまない。ユリアンヌが咳き込んで止まらないらしい。僕が傍にいないと不安がるんだ」
仕方ない、と思った。病人なのだから。
次は、私の父が主催した晩餐会。エドウィン様は私のエスコート役だった。
「悪いが、少し遅れる。ユリアンヌの薬を届けてから行くよ」
結局、エドウィン様が来たのは晩餐会が半分以上終わってからだった。婚約者不在の伯爵令嬢に向けられる視線がどういうものか、エドウィン様は想像もしなかっただろう。
でも私は笑って「お気になさらず」と言った。
三度目は、馬車の中で二人きりの時だった。突然の使いの者が来て、ユリアンヌ嬢が発作を起こしたと告げた。
「すまない、リアーナ!」
エドウィン様は馬車を飛び降りて走っていった。
御者台の従者が気まずそうに私を見た。私は微笑んで「屋敷に戻してちょうだい」と言った。
四度目。五度目。六度目——
もう数えるのはやめた。
数えていたら、おかしくなりそうだったから。
§
ある日、私はユリアンヌ嬢を見舞った。
エドウィン様が「君が来てくれたらユリアンヌも喜ぶ」と言うから、花束を持って彼女の借りている屋敷を訪れた。
ユリアンヌ嬢は寝台の上で、薄い掛布に包まれていた。蒼白い顔。力のない微笑み。絵に描いたような病人。
「リアーナ様、わざわざありがとうございます。……ごめんなさい、エド……エドウィン様のお時間をいつもいただいてしまって」
涙ぐんだ目で、そう言った。
「いいのよ。エドウィン様は優しい方だもの。あなたが元気になることが一番大切だわ」
本心だった。この時は。
けれど、帰り際に廊下で聞こえた声に、私は足を止めた。
ユリアンヌ嬢付きの侍女が、もう一人の使用人と話している。
「お嬢様、お見舞いの方がお帰りになった途端にお元気になられて。さっきまでのお顔が嘘みたい」
「いつものことでしょう。エドウィン様がいらっしゃる時だけ咳が出るんだもの」
くすくすと笑う声。
私は静かにその場を離れた。
聞かなかったことにした。
——だって、確信がなかったから。
使用人の噂話で人を疑うのは、伯爵令嬢としてすべきことではない。そう自分に言い聞かせた。
§
決定的だったのは、学院の卒業記念舞踏会の夜。
これだけは、と思っていた。卒業は一度きり。最初のダンスは婚約者と。それが社交界の慣例であり、この日ばかりは流石のエドウィン様も——
「リアーナ、本当にすまない」
舞踏会の会場で、開始直前に告げられた。
「ユリアンヌが血を吐いたと連絡が来た。命に関わるかもしれない。僕が行かないと——」
周囲の視線が、私に突き刺さった。
憐れみ。嘲笑。同情。好奇。
伯爵令嬢が婚約者に卒業舞踏会で置き去りにされた。明日にはこの噂が社交界中に広まるだろう。
エドウィン様は私の返事を待たずに走り去った。
「すまない」と叫びながら。
私は一人、会場の隅に立っていた。
誰もダンスに誘ってくれなかった。婚約者のいる令嬢をダンスに誘う殿方はいない。
どれくらいそうしていただろう。
「——あの」
声をかけてきたのは、一人の男性だった。
黒髪に、深い紫紺の瞳。長身で、纏う空気が冷たい。学院では見かけない顔だった。
「壁の花にしておくには惜しい。よければ一曲」
それが、アレクシス・セルケルシュタイン辺境公爵との出会いだった。
後から知ったことだが、彼は学院の卒業生として来賓に招かれていたのだという。
「……ありがとうございます。でも私、婚約者がおりますので」
「ここにいない婚約者に義理を立てる必要があるのか?」
端的な物言いだった。でも不思議と嫌な感じはしなかった。
事実だったから。
「……では、一曲だけ」
差し出された手を取った。
その夜、彼は一曲だけ踊って、静かに去っていった。名前を聞く余裕もなかった。
ただ、紫紺の瞳だけが記憶に残った。
§
卒業舞踏会の一件は、予想通り社交界を駆け巡った。
「グレイヴェル伯爵令嬢が婚約者に捨て置かれた」
「サンベルク侯爵家嫡男は、男爵令嬢に御執心らしい」
「哀れなリアーナ様」
哀れ。
その言葉が一番堪えた。
父は怒っていた。グレイヴェル伯爵家の面目を潰されたのだから当然だ。しかし侯爵家との関係を考え、表立った抗議は控えていた。
母は心配そうに私を見ていた。何か言いたそうにしていたが、結局何も言わなかった。
そしてエドウィン様は——
「本当にすまなかった、リアーナ。でもユリアンヌは本当に危なかったんだ。結果的に大事には至らなかったけれど、あの時僕が行かなかったら取り返しのつかないことに——」
お見舞いに来た翌日、いつもと同じ謝罪をする彼を、私は静かに見ていた。
「エドウィン様」
「なんだい?」
「ユリアンヌ嬢の容態はいかがですか?」
「ああ、もう落ち着いたよ。医者も、当面は心配ないと。ただ、やはり精神的に不安定でね。僕が傍にいると安心するらしい」
嬉しそうに、ではない。使命感に満ちた顔で、エドウィン様はそう語った。
「僕が守らなければ」という顔。「僕にしかできない」という顔。
その表情が——私への「すまない」よりもずっと生き生きとしていることに、ようやく気づいてしまった。
エドウィン様は、ユリアンヌ嬢を守る自分が好きなのだ。
病弱な少女に頼られ、必要とされ、支えになれる自分。それが彼の自己像の中心にある。
私は「強い」から、その自己像に入り込む余地がない。
——ああ、そうか。
最初から、こういうことだったのか。
「エドウィン様。一つ、お尋ねしてもよろしいですか」
「もちろん」
「来月の王宮晩餐会、ご一緒いただけますか。王家主催ですので、婚約者の同伴が求められます」
「来月? ああ——うん、もちろん。今度こそ必ず」
今度こそ必ず。
その言葉を、私はもう信じていなかった。
案の定——
王宮晩餐会の前夜、エドウィン様の従者が手紙を届けに来た。
『ユリアンヌの容態が急変した。申し訳ないが、明日は行けない。君なら一人でも大丈夫だろう。すまない。 エドウィン』
手紙を読み終えた私を見て、マリーが唇を噛んだ。
「リアーナ様……」
「マリー、お父様にお目通り願えるか聞いてきてちょうだい」
「え?」
「婚約破棄の相談をしたいの」
マリーの目が大きく見開かれた。でもすぐに、まるで長年待っていた言葉を聞いたかのように、力強く頷いた。
「——はい、すぐに」
§
父は、私の言葉を黙って聞いていた。
「……確かか?」
「はい。もう十分に待ちました」
「こちらから破棄を申し出れば、グレイヴェル家の沽券に関わる」
「このまま続ける方が、よほど家名を傷つけます。社交界ではすでに笑い者です」
父は長い沈黙の後、深く息を吐いた。
「——お前の好きにしなさい。後始末は私がつける」
お父様、と呼びかけようとして、やめた。泣きそうになったから。
代わりに深くお辞儀をして、部屋を辞した。
§
エドウィン様に会ったのは、三日後のグレイヴェル家の応接室だった。
ユリアンヌ嬢の看病で来られないかと思ったが、「大事な話がある」という招待状には流石に来てくれた。
——ああ、来てくれるんだ。「大事な話」なら。
私の誕生日も、卒業舞踏会も、王宮晩餐会も「大事」ではなかったのに。
「リアーナ? 改まってどうしたんだい。大事な話って——」
「婚約を解消していただきたいのです」
エドウィン様が固まった。碧い目が何度も瞬きをする。
「……は?」
「婚約の破棄を、お願いに参りました」
「待ってくれ。何を言って——なぜ?」
「ユリアンヌ嬢のことが心配でいらっしゃるのでしょう? 婚約者の義務に縛られていては、看病にも専念できませんわ。どうぞご自由になさってください」
「違う! 僕は——ユリアンヌは友人で、ただ心配なだけで——!」
「ええ、存じておりますわ」
私は微笑んだ。穏やかに。完璧に。伯爵令嬢として一分の隙もなく。
「ですからこそ、お気持ちの重荷を下ろして差し上げたいのです。エドウィン様は優しい方ですもの。婚約者がいるのに他の女性の元へ通うことに、きっと心を痛めていらしたでしょう?」
「リアーナ——」
「もうお辛い思いをなさらなくて済みます。ユリアンヌ嬢のお傍に、思う存分いてさしあげてくださいまし」
エドウィン様の顔が蒼白になった。そして——おそらく彼の人生で初めて——彼は「すまない」では済まされない事態に直面した。
「待ってくれ。考え直してくれないか。僕は——確かに至らなかった。でも、これから改めるから——」
「改められるのですか? 明日ユリアンヌ嬢が倒れても、私を選べますか?」
沈黙。
長い、長い沈黙。
エドウィン様は答えられなかった。
答えを口にすることは、自分の本心を認めることだと——おそらく本能的にわかっていたのだろう。
「——お答え、いただけませんわね」
私は立ち上がった。
「婚約破棄の書類は、こちらで用意いたします。エドウィン様はご署名くださるだけで結構です。社交界には『双方合意の円満解消』と発表しますので、サンベルク家のお顔は潰しません」
「リアーナ……!」
「どうか、お幸せに」
振り返らなかった。
振り返ったら、また「次こそは」という言葉に絆されてしまいそうで。
でも応接室の扉を閉めた瞬間、涙が一筋だけ頬を伝った。
それが、エドウィン・サンベルクへの最後の涙だった。
§
婚約破棄の噂は、社交界を瞬く間に駆け巡った。
「伯爵令嬢の方から破棄を申し出たらしい」
「男爵令嬢に負けたんですって」
「気の毒に。でも、次のお相手は難しいでしょうね」
そんな囁きが聞こえてくる中、父のもとに一通の手紙が届いた。
差出人は——セルケルシュタイン辺境公爵家。
「リアーナ。セルケルシュタイン公爵家から、お前との婚姻の打診が来ている」
「……セルケルシュタイン?」
辺境公爵。国境を守護する要衝を治める名家。当主は若くして家督を継ぎ、辺境を見事に統治しているという。
——そして、社交界では「氷の公爵」の異名で知られている。
「あの……冷酷で知られる方では」
「冷酷かどうかは会ってみなければわからん。少なくとも書面は極めて礼儀正しい。領地経営の手腕は本物だ。——お前さえ良ければ、会うだけ会ってみてはどうだ」
断る理由がなかった。
正直、婚約破棄直後の私に申し込みが来ること自体が驚きだった。しかも公爵家から。
顔合わせの場に現れたのは——あの夜の人だった。
黒い髪。深い紫紺の瞳。纏う空気は変わらず冷たい。
卒業舞踏会で、壁の花だった私を一曲だけ踊りに誘ったあの人。
「——あの時の」
思わず声が漏れた。
「覚えていたか」
アレクシス・セルケルシュタインは、薄い笑みを浮かべた。笑うと少しだけ冷たさが解ける。
「あ……失礼しました。あの、なぜ私に?」
「壁の花にしておくには惜しいと言った。あれは社交辞令ではない」
直球すぎる言葉に、不覚にも頬が熱くなった。
「……辺境は不便で退屈だと聞きます。都の令嬢が嫁ぐには厳しいかと」
「不便なのは事実だ。だが退屈かどうかは人による。——少なくとも、約束を破る婚約者に待たされる退屈よりはましだと思うが」
この人は。
容赦がない。
でも——嫌ではなかった。
包み紙に包まれた空っぽの優しさより、剥き出しの率直さの方が、今の私にはよほど温かかった。
「……お話を、お受けいたします」
§
辺境の屋敷に嫁いで、最初に驚いたのは——アレクシス様が約束を守る人だということだった。
何を当たり前のことを、と思うだろう。でも私にとっては当たり前ではなかった。
「明日の朝、領地の北側を案内する」と言えば、翌朝きちんと玄関に立っている。
「夕食は一緒に取る」と言えば、どれだけ執務が忙しくても食卓につく。
最初は待ち構えていた。
「急用が入った」「仕方ない事情がある」——そういう言葉は一度もこなかった。
「アレクシス様」
「なんだ」
「……約束を、いつも守ってくださるのですね」
「約束を破る方が労力がかかる。守る方が合理的だ」
合理的。
この人はなんでも合理性で片づける。でも私は知っている。昨夜、執務室の灯りが深夜まで点いていたのを。夕食の時間に間に合わせるために、昼の仕事を前倒しにしていたのだ。
それを合理的と言い張るこの人が——少しだけ、いとおしかった。
§
辺境での暮らしは、確かに都とは違った。華やかな夜会はない。流行のドレスを着る機会もない。
代わりにあったのは、広大な穀倉地帯と、素朴だが温かい領民と、終わりのない領地経営の仕事。
「リアーナ、これを見てくれ」
アレクシス様が書類の山から一枚を引き抜いて差し出す。
「北の村の灌漑設備が老朽化している。予算配分を見直したいが、キミの意見も聞きたい」
「——私の意見、ですか?」
「キミの学院での成績を見た。数字に明るいだろう」
エドウィン様は一度も、私に意見を求めたことがなかった。「リアーナは何も心配しなくていいよ」が口癖だった。
心配しなくていい。何も考えなくていい。ただ笑って待っていてくれればいい。
——ああ、私はあの人にとって、人形だったのだ。
綺麗に飾られて、都合の良い時だけ取り出される人形。
「……拝見します。こちらの項目ですが、工法を変えればもう少しお安くなるかもしれません。父の領地で似た工事をした時の記録があるはずです」
「助かる」
短い言葉。でもアレクシス様の紫紺の瞳が、ほんの一瞬だけ柔らかくなったのを、私は見逃さなかった。
§
ある雨の日のことだった。
午後の仕事を終えて居間に戻ると、アレクシス様が先に来ていた。——珍しいことではない。珍しいのは、その手に包みを持っていたことだ。
「何ですか、それ?」
「今日、誕生日だろう」
息が止まった。
「——覚えて、いらしたのですか」
「婚姻届に書いてあった。忘れる理由がない」
包みの中身は、辺境では手に入らないはずの上等な紅茶葉だった。私が好きな種類。たった一度、好みを聞かれた時に答えただけなのに。
「あの……アレクシス様、これ——」
「気に入らなかったか」
「いいえ! いいえ、とても……嬉しいです」
涙が出そうだった。
エドウィン様は三年の婚約期間で、私の誕生日を一度もちゃんと祝ってくれなかった。いつもユリアンヌ嬢の「急病」が入って。
なのにこの人は——婚姻届の日付を覚えていて、忙しい中わざわざ取り寄せて。
「紅茶ごときで泣かれると困る」
「泣いていません」
「目が赤い」
「元からこういう目です」
「その記憶はないが」
反論できなくて、私は黙って紅茶の包みを抱きしめた。
アレクシス様は何も言わず、ただ隣にいた。
§
転機は、領地の視察の日だった。
馬で北の村を回っている時、突然の雷雨に見舞われた。近くの東屋に駆け込んだものの、私は馬から降りる際に足を捻ってしまった。
「大したことはありません。少し休めば——」
「歩けるか」
「……少し、痛みますが——」
「乗れ」
は? と思った瞬間、アレクシス様は躊躇いなく背を向けた。
「え、あの——」
「雨が強くなる前に屋内に入る。背負った方が早い」
「し、しかし人目が——!」
「この雨の中、誰が見る。早くしろ」
辺境公爵に背負われるなど前代未聞だった。けれど足は本当に痛くて、雨は本当に強くなっていて、アレクシス様は本当に面倒くさそうにしていたけれど——その背中は広くて、温かくて。
「……重くないですか」
「羽のようだ」
「お世辞はいりません」
「事実だ。もう少し食べろ」
こんな状況でも食事の心配をしてくる人。
おかしくて、ありがたくて、胸の奥がじんわりと温かくなって——ああ、と思った。
ああ、私——この人を好きになっている。
あの夜、足を冷やしながら居間で過ごしていると、アレクシス様が薬湯を持ってきた。
「使用人に頼めばよかったのに」
「今夜は手が足りない。雨で北棟の雨漏りが出た」
「だからアレクシス様自ら薬湯を——?」
「合理的な判断だろ?」
また合理性。この人は。
「……アレクシス様」
「なんだ」
「私、あなたに嫁いでよかったです」
沈黙が落ちた。
言ってしまってから、少し後悔した。重かっただろうか。政略結婚の相手にそんなことを言われても困るだろうか。
「……ああ」
低い声で、アレクシス様はそれだけ言った。
でも彼の耳が赤くなっているのを、私は見た。暖炉の灯りのせいにするには、あまりにもはっきりと。
この人は冷酷でも冷たくもなかった。ただ不器用なだけだった。
温かさの表現方法を知らないだけの人。
でもその不器用な温かさは、甘い言葉を並べるだけの誰かよりもずっと——確かだった。
§
辺境で穏やかな日々を送っていた私のもとに、思いがけない便りが届いたのは、嫁いでから半年が経った頃のことだった。
差出人は、王都の社交界に顔の広い友人——レイチェル・アッシュフォード伯爵令嬢。
『リアーナ、大変なことが起きたわ。ユリアンヌ・ミルフォードの病気が仮病だったことが発覚したの』
手紙を持つ手が、一瞬だけ止まった。
でもすぐに、ああ、やはりそうだったのかと——波が引くように静かな納得が広がった。
レイチェルの手紙には、事の経緯が詳しく書かれていた。
きっかけは、ユリアンヌ嬢が通っていた薬局の主人の告発だった。
ユリアンヌ嬢が定期的に購入していた「薬」は、実際には軽い催吐剤と、肌を蒼白に見せる粉末——つまり、病気を装うための道具だったのだという。
薬局の主人は長年黙っていたが、ユリアンヌ嬢がエドウィン様との交際を公然と見せびらかすようになったことで良心の呵責に耐えかね、医師会に報告したらしい。
医師会が調査に動き、ユリアンヌ嬢の主治医——実は彼女の遠縁にあたる人物——が偽の診断書を発行していたことまで明るみに出た。
『エドウィン様は真っ青な顔で、ユリアンヌの屋敷に乗り込んだそうよ。そしてユリアンヌは泣き叫んで、全ては「エドウィン様に傍にいてほしかっただけ」と白状したんですって。社交界は大騒ぎ。サンベルク侯爵家の面目は丸潰れ。——正直に言うわね、リアーナ。ざまあみろって思ったわ。あなたがどれだけ我慢してきたか、みんな知ってるもの』
私は手紙を折りたたんで、静かに引き出しにしまった。
「何の手紙だ」
執務の合間に茶を飲みに来たアレクシス様が聞いた。
「王都のお友達からです。元婚約者の話でした」
「ほう」
「ユリアンヌ嬢の病気が仮病だったそうです」
アレクシス様は紅茶のカップを口元に運んだまま、表情ひとつ変えなかった。
「知ってたか?」
「確信はありませんでした。でも——疑わしいとは、思っていました」
あの日、ユリアンヌ嬢の屋敷の廊下で聞いた侍女の会話。
気づかないふりをした。気づいてしまったら、エドウィン様との関係だけでなく、多くのものが壊れてしまうと思ったから。
「確認しなかったのか」
「確認して、どうなったでしょう。私が告発すれば、嫉妬に狂った婚約者が病弱な少女を陥れようとしていると映ります。エドウィン様もそう受け取ったでしょう」
アレクシス様はしばらく黙っていた。それから、ぽつりと言った。
「——損な性分だな」
「よく言われます」
「でも、おかげで私は幸せだ」
え?
アレクシス様は紅茶を飲み干して立ち上がった。
「キミをもらえたからな」
それだけ言って、執務室に戻っていった。
残された私は、空になったカップと自分の赤い顔を見比べて、どうしたらいいかわからなくなった。
——この人は。こういうことを不意打ちで言うから困る。
§
ユリアンヌ嬢の仮病発覚が社交界を揺るがせた。
レイチェルからの続報によれば、ユリアンヌ嬢は社交界を追放同然の扱いを受け、ミルフォード男爵家は急速にその信用を失いつつあるという。偽の診断書を発行した医師は医師免許を剥奪され、ユリアンヌ嬢自身も詐欺罪で訴追される可能性があるとのことだった。
そして、エドウィン様。
三年間、病弱な幼馴染を献身的に支え続けた優しい紳士——その美談が、全て虚構の上に成り立っていたと知った彼は、社交界から姿を消したらしい。
かつてはエドウィン様の優しさを称えていた人々が、今は手のひらを返したように彼を嗤っている。「騙される方が悪い」「婚約者を蔑ろにして偽りの病人に通い詰めるとは」「伯爵令嬢を捨てて男爵令嬢の仮病に尽くすとは、とんだ道化だ」——
私はそれらの噂を聞いても、胸がすく思いはしなかった。
ただ、遠い場所の出来事のように感じただけだった。
だってもう——私の日常はここにあるのだから。
灌漑設備の改修計画を一緒に見直すアレクシス様。
領民たちとの収穫祭に並んで出席する夕べ。
不器用に「旨い」と呟きながら、私が選んだ茶菓子を食べる横顔。
——最近は何も言わなくても、私のカップに紅茶を注いでくれるようになった、あの大きな手。
§
秋の終わり、辺境に珍しい来客があった。
マリーが動揺した顔で私の部屋に来て告げた。
「リアーナ様、エドウィン・サンベルク様が——門前にいらしています」
一瞬、時が止まった。
それから、深く息を吸った。
「……お通しして。応接室へ」
応接室に入ると、エドウィン様が立っていた。
最後に見た時とは別人のようだった。頬がこけ、目の下に深い隈がある。金色の髪には手入れが行き届いていない。碧い目は充血して、かつての輝きを失っていた。
「リアーナ——!」
私の姿を見るなり、エドウィン様は駆け寄ろうとした。が、私が一歩も動かなかったことで、その足が止まった。
「……お久しぶりです、エドウィン様。辺境まで大変だったでしょう」
「リアーナ、聞いてくれ。ユリアンヌのことは——全て僕が馬鹿だった。騙されていたんだ。彼女の病気は全部嘘で——」
「存じております。友人からお手紙で伺いました」
「君を傷つけた。約束を何度も破った。取り返しのつかないことをした。——でも、僕は君のことを——」
「エドウィン様」
静かに、でもはっきりと遮った。
「こちらにおかけになってください。立ったままでは疲れるでしょう」
エドウィン様は、言われるまま椅子に座った。かつての堂々とした侯爵家嫡男の面影はなく、その姿は縋るものを失った子供のように頼りなかった。
「リアーナ、もう一度やり直せないだろうか」
「やり直す?」
「僕は間違っていた。本当に大切なものが何か、ようやくわかったんだ。——君だった。最初から、ずっと君だったのに」
その言葉を——一年前の私が聞いたら、どうしただろう。
たぶん、泣いて喜んだ。飛びついて許した。「次こそは」と信じた。
でも今の私は違う。
「エドウィン様。一つだけ、お聞きしてもよろしいですか」
「なんでも聞いてくれ」
「もしユリアンヌ嬢の病気が本物だったら——今日、ここにいらっしゃいましたか?」
エドウィン様の顔が凍りついた。
「彼女が本当に病弱で、今もあなたを必要としていたら——あなたは私のもとに来ましたか?」
答えは、沈黙だった。
それが全てだった。
「ユリアンヌ嬢が仮病だったから戻ってきた。つまりエドウィン様が後悔しているのは『騙されたこと』であって、『私を蔑ろにしたこと』ではありませんよね」
「違う——!」
「では、なぜ仮病が発覚する前に来てくださらなかったのですか。婚約破棄から半年の間、一度も便りすらなかったのに」
エドウィン様の口が開いて、閉じて、また開いた。でも言葉は出なかった。
私は立ち上がった。
「エドウィン様。あなたは悪い人ではありません。ただ——私を見ていなかった。三年間、一度も。私の誕生日を忘れ、舞踏会で置き去りにし、晩餐会を欠席し、そのたびに『すまない』と言いながら、同じことを繰り返した」
「リアーナ——」
「今の私の旦那様は、約束を守る人です。私の意見を聞いてくれます。不器用ですけれど、いつもちゃんとそこにいてくれます。——その『いつもそこにいる』ということが、どれほど得難いことか。あなたに教えていただきました」
皮肉で言ったのではない。本心だった。
エドウィン様がいなければ、私はアレクシス様の不器用な優しさの価値を、ここまで深く理解できなかっただろう。
「お帰りください、エドウィン様。辺境の秋は冷えます。お風邪を召される前に」
「——リアーナ、頼む。もう一度だけ——」
「もう遅いです」
はっきりと言った。
「もう遅いのです、エドウィン様。——私は今、幸せですので」
応接室の扉が開いた。
いつの間にか——たぶん最初から——廊下に立っていたアレクシス様が、無言で入ってきた。
紫紺の瞳が、一度だけエドウィン様を見た。値踏みするような視線ではなく、ただ事実を確認するような——「これが、あの男か」とでも言いたげな冷静な目。
「客か」
「お帰りになるところです」
私がそう言うと、アレクシス様は小さく頷いた。
そして、ごく自然に——本当にごく自然に、私の隣に立った。それだけなのに、その存在感が全てを語っていた。
ここが、この人の居場所。
私の隣が、この人の場所。
エドウィン様はしばらく私たちを見つめ、そして——崩れるように椅子から立ち上がり、一言も発さないまま応接室を出ていった。
足音が遠ざかっていく。
やがて、馬車の車輪が砂利を踏む音がして——それも消えた。
「……行ったか」
「はい」
「大丈夫か」
ぶっきらぼうだけれど、確かに心配している声。
「大丈夫です。——大丈夫ですよ」
振り返ると、アレクシス様の紫紺の瞳がまっすぐに私を見ていた。
怒りでも嫉妬でもない。ただ、静かな確認。
——泣いていないか。傷ついていないか。
「アレクシス様」
「なんだ」
「紅茶を淹れます。少し、一緒にいてくださいますか」
「断る理由がない」
不器用で、素っ気なくて、甘い言葉なんて一つも言えない人。
でもこの人は——いつも、ここにいる。
約束を守って。
言い訳をせず。
ただ、静かに。
温かい紅茶を淹れながら、私は思った。
あの卒業舞踏会の夜、壁の花だった私の手を取ってくれた人が、今は毎日隣にいてくれる。
人生はたまに——ほんのたまにだけれど、壊れた約束の先に、もっと確かなものを用意してくれていることがある。
「——リアーナ」
「はい?」
「紅茶を入れすぎだ。カップから溢れている」
「っ——! す、すみません!」
「……まったく」
アレクシス様が布巾を手に取って、溢れた紅茶を拭いてくれる。
文句を言いながら。面倒くさそうな顔をしながら。
でもその手は——やっぱり優しかった。
§
後日談をひとつだけ。
レイチェルからの手紙によれば、エドウィン・サンベルクは侯爵家の跡取りを弟に譲り、辺境の修道院に入ったという。ユリアンヌ・ミルフォードは社交界から完全に締め出され、どの家の門も開かれなくなったらしい。
そして——
『ねえリアーナ、あの「氷の公爵」が領民の前で奥方の手を引いて歩いていたって噂が流れてきたわよ。辺境では「うちの公爵様はいつから溺愛公爵になったんだ」って話題になっているそうじゃない。いいわね、幸せそうで。今度遊びに行くから覚悟なさい!』
手紙を読んで、思わず笑ってしまった。
溺愛だなんて。本人が聞いたら「合理的な行動だ」と言い張るに決まっている。
「何を笑っている」
「いいえ、なんでも。——あ、アレクシス様」
「なんだ」
「手、繋いでいただけますか」
「……なぜ」
「なんとなく、です」
数秒の沈黙。
それから——大きな手が、無言で私の手を包んだ。
冷たい手。でも、すぐに温まる。
いつだってそうだ。最初は冷たくて、でもじきに温かくなる。
この人のように。
この人との日々のように。
「……手が冷たいな。今夜は暖炉の薪を増やす」
「ありがとうございます」
「礼を言われることではない」
「言いたいから言っているのです」
アレクシス様は何も言わなかった。でもそれで十分だった。
甘い言葉よりも、大仰な誓いよりも、ずっと確かな——この人の答え。
窓の外では、辺境の短い秋が静かに暮れていく。
繋いだ手の温もりが、今日もちゃんとここにある。
【了】




