第五話 グリュム海
グリュム海域まで、残り一キロ――。
「霧が濃くなってきたな」
パイロットスーツに着替えたハクバが艦橋に姿を現すと、アーチボルトは目を丸くした。
「おいおい! まさかお前も出るのか?」
「レイモンドたちだけに任せるわけにはいかないだろう?」
ハクバは漆黒のヘルメットを小脇に抱え、不敵に笑う。
「しかしなぁ……。わざわざ奴らにお前の機体を見せることもあるまい?」
「グリュムの霧だ。レーダーも光学機器も役には立たない。俺の機体を目に焼き付けるのは、奴らが死ぬ間際だけさ。いい冥土の土産になるだろう?」
アーチボルトは呆れたように鼻を鳴らした。
「よぉし! グリュムへ突入する!」
境界線などない。だが、乳白色の霧が視界を覆い、レーダーモニターにノイズが走り始めた瞬間、そこはもうグリュムの海域だ。
甲板下、格納庫。
待機中のレイモンドは、愛機の足下で水を口に含んでいた。
相手は裏社会の海千山千、ルー商会。下手を打てば食われるのはこちらだ。喉が渇くほどの緊張感に襲われるのは無理もない。
だが、その近くから聞こえてくる声は違った。
「はい! 上がりー!」
「くっそぉ! ビンス、お前強すぎだろ! イカサマか?」
機体の足元で、ビンスと整備クルーたちが車座になってババ抜きに興じている。
これから戦闘になるかもしれないと言うのに、余りにも平和な光景。レイモンドは何か言おうとして、やめた。あいつはいつだってこうなのだ。
ベサリウスが霧の中を数キロ進んだ頃、CDCから報告が入る。
「衛生カメラで艦影捕捉! 一二時の方向、貿易船一隻!」
クリスの鋭い声。ハクバは手元のタブレットで衛生カメラのズームした映像を確認する。
「……普通の貿易船に見えるが」
アーチボルトは警戒しすぎだったかと息を吐いたが、ハクバの目は細められたままだ。
「いや、甲板のコンテナを見ろ。映像はラグいが、サイズが通常の倍はある。アバランサーの全高は小型でも一五メートル、大型なら一八メートルを超える」
「……中に、入っていると言うのか?」
「俺の杞憂だといいがな」
「ルー商会から入電! 回します!」
通信士の叫び声が、艦橋の空気を張り詰めさせた。
「こっちへ繋げ」
艦長席の左側にある柱に取り付けられている受話器を取って数秒待つと、声が聞こえ始める。
『听得见吗? 雇佣兵这帮家伙』
ノイズ混じりのスピーカーから中国語が響く。
アーチボルトは不快そうに顔をしかめ、通信士を睨んだ。
「何と言っている! わからん」
通信士が慌ててコンソールを操作し、自動翻訳を割り込ませる。
『……あー、聞こえているか? 傭兵の野郎ども』
電子合成された無機質な機械音に変換されるが、その尊大なニュアンスまでは隠せていない。
「ああ、感度良好だ。随分と丁寧な挨拶だな」
アーチボルトは受話器を握り潰さんばかりの力で握りしめ、ドスの利いた声で返した。
『他意は無い。仕事の話をしよう』
「結構なことだ。それで、護衛の目的地はどこだ?」
『カナダ沖の公海上でいい。アラスカ方面へ運びたい荷物だ。そこから先は現地の者に引き継がせる』
「了解。ならば、さっさと出発し――」
『待て』
一方的に話を切られ、アーチボルトの眉がピクリと動く。
「……何だ?」
『相互の監視として、そちらの人員を一人、こちらの船に寄越せ。こちらも一人送る』
「どういう意味だ?」
『お互いの利益と信頼のためだ。……この条件は飲んでもらう』
アーチボルトは無言でハクバへ視線を投げた。
艦橋内のスピーカーでやり取りを聞いていたハクバは、即座に首を横に振った。
「却下だ。人質交換に応じるつもりはない」
『何故だ? 裏切りを防ぐ保険のようなものだろう』
「必要ない。我々は金で雇われた傭兵だ。契約以上の誠意は持ち合わせていない」
『背後から撃たれるのは我々も怖いのでな』
「くどいぞ。我々にメリットのない裏切りはしない。……人質は出さん。飲めないなら交渉決裂だ」
アーチボルトは吐き捨て、叩きつけるように受話器を置いた。
その瞬間。
通信士の悲鳴のような報告が艦橋に響き渡る。
「濃霧の向こうに熱源反応! 右舷より巡洋艦一、左舷よりミサイル駆逐艦一! 急速接近!」
「やはりな! 最初から囲むつもりだったか!」
ハクバは弾かれたように駆け出し、手すりを飛び越えて格納庫への直通ハッチへ滑り込む。
「おい、ハクバ!」
「総員戦闘配置だ! 俺が出たらレイモンドたちも上げろ! ベサリウスを前に出し過ぎるなよ、沈むぞ!」
「クソッ、やっぱり面倒なことになったな。総員、第一種戦闘配置! レッド・アラートだ!」
アーチボルトの怒号と共に、艦内にけたたましい警報音が鳴り響く。




