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第九話 立場の違い

「はぁ……」


「お疲れのようですね」


 漆黒の公用車。内閣総理大臣専用車である。その広々とした後部座席に、星波の重いため息が落ちた。

 バックミラー越しに、秘書官の藤九郞が気遣わしげな視線を向けてくる。


「……大人げない真似をしたわ。一国の総理ともあろう者が」


「SPたちも肝を冷やしていましたよ。総理があそこまで感情を露わにするとは予想外だったようで」


「そうよね……。頭に血が上っていたわ。未熟な証拠だわ」


 星波は自嘲し、足を組み直し、ドアのアームレストに肘をついて、流れる車窓の景色を睨んだ。


「良いのではありませんか? 人間らしさがあって――」


「良くないわ。私は星波静香である前に、内閣総理大臣なのよ」


 藤九郞の慰めを、彼女はあえて拒絶した。


「この身も心も、すべては国民のためにある。そこに個人の感情が入り込む余地なんてあってはならないのよ」


 少しでも隙を見せれば、メディアが群がってくる。指導者とは、常に完璧な存在で無ければならないのだ。


「……十一時から、イタリア首相とのホットラインです。どうされますか? 何かお腹に入れますか?」


 非公式の電話会談か。議題は安全保障とアバランサー技術の供与枠組みだろう。タフな交渉になる。


「……いいえ、結構よ。資料を整理しないと。周辺諸国の情勢もきな臭くなっているし、頭に入れておくべき情報が山積みだわ」


 目頭を揉み、自身にスイッチを入れ直す。

 車列が官邸のゲートを潜ると、早朝の視察を聞きつけた記者達のフラッシュが、まるで銃火のように焚かれた。


「相変わらず、地獄耳ね……。藤九郞、前言撤回」


 車を降りる直前、星波は小さく笑って見せた。


「やっぱり、コーヒーとサンドイッチをお願い。……愚痴ばっか言ってられないから」


「はい。いつものカフェによって戻ります」


 藤九郞の返答を聞いてから、彼女は表情を引き締め、カメラの放列の中へと降り立った。


 同日。北海道沖、太平洋。

 鉛色の空と海の間を、巨大な鋼鉄の塊が進んでいく。空母ベサリウス。

 日本の領海内に入り、すでに政府からの航行許可も得ている。目的である輸送船団との合流ポイントは近い。


「アメリカの熱気よりはマシだが……こっちは芯まで冷える風だな」


 船尾の甲板。レイモンドは多少上着を着込んでいるが、甘い。襟を立てながら、なぜかソーダ味のアイスキャンディーを加えていた。


「北海道の十月だ。すでに冬と言ってもいいだろう」


 手すりに寄りかかり、ハクバはジッポライターを鳴らした。

 紫煙を吐き出し、視線の先にあるはずの陸地――水平線の彼方を見つめる。

 視界には捉えられないが、海図はこの先には日本があるはずだ。


「へぇ。詳しいじゃねぇか。さすがは日本人か」


 レイモンドが茶化すように笑う。


「血、だけはな」


 ハクバは短くなった煙草を携帯灰皿に押し込み、乾いた声で返した。


「故郷の記憶なんて、持ち合わせちゃいないよ」


「そういや、お前、親は日本にいるのか?」


 レイモンドの何気ない質問。決して深く詮索しようという意図はなかった。

 だが、ほんの一瞬――ハクバの瞳から一切の光が消え、恐ろしいほどの冷酷さが底を覗かせた。

 瞬きを一つして、ハクバはすぐにいつもの飄々とした態度に戻る。


「さあな。どっかで生きてんじゃないか?」


 それきり会話は途切れ、ハクバは船尾の安全柵に寄りかかりながら、肌寒い潮風に目を細めた。

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