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完璧令嬢の婚活 ~性悪妹を唆してカエル男に嫁いだのに、元に戻るなんて聞いていません~

 古びたステンドグラスから柔らかい光が降り注いでいた。

 司祭すらいない寂れた教会だ。せめて簡単な手入れくらいはとシーラが清めた甲斐あってか、朽ちた外壁に反して内部の居心地は良い。

 緊張を孕んだ男の声がぽつりと落ちた。


「山奥に位置するファルケンベルクは天然の要塞と言われています。敵に攻められるような戦がないこともあってか、民は穏やかな気質の者が多い」


 そこまで口にして、自嘲するように笑う。


「都のような華やかさや娯楽はありません。若い女性には退屈な土地だと思います。その上僕は、ファルケンベルク領主の長子でありながら、家督を弟に譲りたいと考えている」


 濡れた黒水晶のような瞳だ。仕立てのいい衣服の下からは潤いが保たれた緑色の皮膚が覗いている。


「何よりこのようにおぞましい見た目です。何度考えてみても、バーゲルト家のご令嬢がこの婚約に同意する利を見出すことが出来ません」


 男――アウグスト・ファルケンベルクは自虐めいた口調で告げた。


「……本当に僕のようなカエル男と結婚して頂けるのでしょうか?」


 告げられた相手、シーラ・バーゲルトはアウグストの湿った四本指を手に取った。

 しっとりとした彼の指の間には薄い水かきが膜を張っている。正真正銘、頭のてっぺんから足先までカエルの姿をした男だ。

 しかし、シーラは怯まない。それどころか、頬を薔薇色に染めてアウグストの黒々とした瞳を見つめ返した。


「わたくしはアウグスト様が良いのです。アウグスト様だからこの地へ赴いたのです」

「シーラ……」

「永遠の愛をアウグスト様に誓いますわ。ですから、どうか。どうか、わたくしの手を離さないで下さいませ」


 熱の籠った瞳でアウグストを見上げ、シーラはそっと瞼を閉じる。

 微かにアウグストが躊躇う気配があった。

 本当に触れてしまっていいのだろうか。アウグストの心の声が聞こえてくるかのようだ。

 どのくらいの間、そうしていたのだろう。やがて、シーラの唇に柔らかくて少しだけ冷たいものが触れた。


「アウグスト様……」


 一瞬で離れていった感触を惜しむように、シーラはその名を呼ぶ。次の瞬間、眩い光がアウグストを包み込んだ。


「きゃあっ!?」


 光の収縮と共に、アウグストの輪郭が形を変える。丸みを帯びたなだらかな曲線は男性的な直線へ。湿り気を帯びた緑色の皮膚はみるみる内に肌色へと変化し、代わりと言わんばかりに頭部からは豊かな緑色の髪が伸びてくる。

 まるで始めからそうであったかのように、そこには柔和な雰囲気を持った美丈夫が佇んでいた。黒水晶のようなその瞳は、親愛の情を湛えている。


「シーラ」


 名を呼ばれ、シーラはぱちぱちと瞬きをした。

 確かに先ほどまで、カエル男のアウグストが立っていた筈だ。しかし、今目の前にいるのはどこからどう見ても人間……それも見目麗しい成人男性に他ならない。


「ああ、どれほどこの日を待ちわびたことか……!」


 傍目からも整っていることが分かる顔立ちを心底綻ばせて男は笑う。


「あ、アウグスト様……?」

「はい、そうです。アウグストです。貴女のおかげで魔女にかけられていた呪いを解くことが出来ました」


 目を白黒させているシーラとは対照的にアウグストは興奮冷めやらぬといった様子で、彼女の手を握りしめる。


「驚かせてしまって申し訳ありません。ですが、これが僕の本来の姿なん――」

「触れないでくださいませっ!」


 シーラの悲鳴が響き渡った。

 呆然とするアウグストを前に、シーラは唇を戦慄かせた。


「……し、シーラ?」

「ようやく運命の伴侶に巡り合えたと思いましたのに、人間になってしまうだなんてあんまりではありませんこと? はああぁん、神よ! わたくしの、わたくしのアウグスト様をお返しくださいませぇ!」


 天に両手を振りかざし、ばたーん、とシーラがひっくり返った。

 予想だにしなかった展開を前に、アウグストは完全に置いてけぼりになっている。やがて、教会の床で豪快に大の字になったシーラを見下ろし、アウグストは茫然と口を開いた。


「気を失ってる……」


   * * *


 母親譲りの灰茶色の髪と瞳を持ったシーラ・バーゲルトはどこに出しても恥ずかしくないよう、とりわけ厳しく躾けられたバーゲルト伯爵家の長女だ。

 目を惹くような華やかさはなくとも、よく見れば整った容姿をしており、性格は控えめで奥ゆかしい。

 淑女としての評判も上々で、いずれは家格の釣り合う良家と縁を結ぶだろうとまことしやかに囁かれていた。……が、世間の評判と本人の気質は往々にして一致しないものだ。

 一見、そつのない淑女然としているシーラだが、彼女には少々変わった趣味があった。


(カエル! カエルちゃん様! はあぁん、なんて可憐で愛らしいのでしょう……!)


 地面にへばりついてスケッチした渾身の一枚を抱きしめて、シーラはくるくると自室の中でターンをした。


(まさに天が遣わせた奇跡の造形! しっとりつやつやのお肌! くりっとしたつぶらな瞳! 優雅に水をかく水かきなんて透き通るようだわ!)


 淑女として褒められた嗜好ではないことは分かっている。分かってはいるが、湧き上がる気持ちを止められっこない。好きで好きでたまらなくて、カエル愛が止まらないのだ。

 従って、見た目は慎ましやかな淑女、頭脳はカエルでいっぱいという名探偵もびっくりな残念令嬢が爆誕した。人間、一つや二つくらい変わったところがあるくらいが愛嬌あるものである、というのがシーラの金言だ。開き直りとも言う。


「お姉様!」


 ばたん、と扉が開かれる音があった。同時に駆け込んできたのは、目を奪われるようなプラチナブロンドの髪を持った美少女だ。


「ラウラ。そんなに慌ててどうしたの?」


 物的証拠(カエルのスケッチ)をスカートの下に隠し、シーラはたおやかな笑みを浮かべて腹違いの妹に向き直った。

 ラウラの横顔がクシャリと歪む。サファイアを思わせる大粒の瞳には涙が滲んでいた。


「お姉様の嫁ぎ先が決まったとお父様が……!」

「まあ。わたくしの?」


 当主である父を飛び越し、妹が先んじて情報を伝えに来る矛盾をシーラは指摘しない。代わりと言わんばかりに、シーラはぽろぽろと涙を零すラウラの背中を優しく撫でた。


「そんな風に泣いては分からないわ。ラウラ、一体どうしたと言うの?」

「だって、だって、お姉様がお可哀想で……!」


 わっと声を上げるラウラの背をシーラは辛抱強く撫でる。やがて、ぽつりぽつりと零すようにラウラは語り始めた。


「お姉様の嫁ぎ先は……ファルケンベルク領なのです……!」


 口にするのも恐ろしいといった様子で、ラウラは身体を震わせる。自然、シーラの声音も硬く、緊張を帯びたものになった。


「ファルケンベルク家の未婚の男性ですと、順当にいけば長子のアウグスト様でしょうか」

「はい……はい。ラウラは恐ろしいです。シーラお姉様の嫁ぎ先が、呪われたあのアウグストだなんて!」


 『ファルケンベルク家の長子が呪われ、世にも恐ろしいカエル男になっている』というのは、まことしやかに囁かれている噂話だ。真実かどうかは分からないが、少なくともアウグストがここ半年ほど社交の場に顔を出していないことは明らかな事実だった。


「お姉様、震えて……。そうですよね。カエル男だなんて……ああっ、ラウラは考えただけでも身の毛がよだちます。婚姻するだけでなく、ゆくゆくは純潔を奪われるだなんて!」


 いくらなんでも理不尽だわ。ラウラからお父様に何とかならないか聞いてきます。

 口にして、ラウラはさっと踵を返す。まるで嵐が去ったかのようだった。部屋の中には当事者であるシーラだけがぽつんと残される。


「……ふふっ」


 唇が愉悦を形作る。シーラはうっそりと目を細めて、ラウラが去っていった扉を見つめた。


「可愛いラウラ。本当に、願った通り」


 類稀なる美貌に恵まれた妹がその容姿にあぐらをかいて、勉学を疎かにしたことを知っている。その末に、淑女として評判の良い姉を妬んでいることも。

 だからシーラは、ほんの少しだけラウラの嫉妬心の行く先を調節してあげるだけで良かった。父が妹に激甘であるというのも幸いとしたが、まさかこんなにもトントン拍子に話が進むだなんて!


「はあぁん、これでカエルのアウグスト様と現実的かつ合法的に宜しく出来るというものですわっ! 全部狙い通り! きゃっほぅ!」


 ぐっと拳を握り締め、シーラは声高らかに宣言する。


「待っていてくださいね、アウグスト様!」



 かくしてシーラ・バーゲルトのファルケンベルク領地行きが決定した。

 カエルをこよなく愛すシーラが正真正銘カエル男であったアウグストに一目惚れし、真心を尽くしに尽くして接したことは今さら言うまでもないことだろう。

 愛は勝ち取るもの。これこそシーラの金言その二である。


   * * *


「最高の結婚相手を見つけたと思ったのに、ここぞという場面でどん底に落とされてしまいました」

「す、すみません……」


 青ざめた顔でカウチに寄りかかるシーラを前に、美丈夫がひたすら恐縮している。

 彼こそが元カエル男であり、現ファルケンベルク領主長子のアウグスト・ファルケンベルクその人である。


「まさかシーラがそこまでカエル好きだったとは思いませんでした……」


 呪いが解けて『めでたしめでたし』かと思いきや、最愛の恋人が卒倒する始末だ。しかもその理由が『カエルでなくなったから』というから驚きもする。


「その。……カエルでない僕はそこまで酷いのでしょうか?」


 アウグストはまるで捨てられた子犬のような目をしている。控えめで慎み深いと評判のシーラは、アウグストを前ににっこりと一蹴した。


「水かきも鳴嚢(めいのう)もないのは守備範囲外ですわね」

「そんな……同じ肺呼吸ではありませんか!」

「エラ呼吸から変態した肺呼吸でなければ認められませんわ」


 がーん、と言わんばかりにアウグストは立ち尽くしている。そんな彼を前に、シーラは物憂げに溜息を吐いた。


「とは言え、わたくしは既にファルケンベルク領に来てしまいましたし、今更婚約をなかったことには出来ません」


 でも、人間の男ですかぁ……。

 美醜だけで言えば間違いなく整った部類に入るアウグストを眺めながら、シーラは見るからに落胆している。


「はっ、そうですわ!」


 顔を上げ、シーラはもたれかかっていたカウチから立ち上がった。


「もう一度カエルの姿にして頂ければ良いのです!」

「へっ?」

「アウグスト様は呪いをかけられてカエル姿になっていたのですよね。でしたら、呪いをかけたという魔女にもう一度頼めば良いのです!」

「ええええええ」


 名案と言わんばかりにシーラがぱっと顔色を輝かせる。せっかく人間の姿に戻ったアウグストは目を白黒させるしかない。


「あ、あの、シーラ……」

「アウグスト様はカエル姿で生活する分に支障はなかったのですわよね」

「それはまあ、あの姿で半年ほど暮らしてましたから……」

「生活に支障がないのでしたら、カエル姿でも問題ないということですわ!」


 ぐっと拳を握りしめて豪語するシーラに、アウグストは慌てて待ったをかけた。


「待ってくださいシーラ! ようやく人間の姿に戻れたのです! なんとか――」

「それともアウグスト様は、わたくしの大好きな姿にお戻りになるのは、嫌……ですか……?」


 灰茶色の瞳を潤ませて見上げるシーラを前に、アウグストはうっと息を詰まらせる。

 可憐で慎ましく、それでいて聡いシーラにこのような二面性(カエル趣味)があるとは思ってもみなかった。まさに青天の霹靂とも言えよう。

 人間よりもカエル姿の方がいい。それなりに……いや、結構酷いことを言われている自覚もある。だが、それ以上に。


「ぐっ……分かり、ました……」

「まあ! アウグスト様、ありがとうございますっ!」


 ぱああっとシーラの瞳が輝き、それに反比例するかのようにアウグストががっくりと項垂れる。

 要するに、容姿の変化を飲み込んでしまえる程度には、アウグストはシーラにベタ惚れだったのだ。



 かくしてアウグストは再びカエル男になることになった。


「善は急げと言いますし、さっそく魔女様の所へ参りましょう!」

「今からですか!?」


 かつてない行動力を見せるシーラに、アウグストは再び目を剥いた。まるで猪だ。放っておけばこのまま走り出してしまいかねない勢いがある。


「そもそも、僕に呪いをかけた南の魔女については分かっていないことが多すぎるんです。いくらなんでもシーラには危険すぎますよ」

「南の魔女様ですね! 分かりました!」

「シーラ!?」


 僕の話、聞こえてました!? 悲鳴のような声を上げるアウグストを前に、シーラはたおやかな笑みを浮かべてみせる。


「魔女様がどのようなお人柄なのか分かっていないのであれば、尚更お会いしてみないことには分かりませんわ。百聞は一見に如かずとも言いますし、始めから穿った見方をしていれば、対話出来るものも出来なくなってしまいます」


 やろうとしていることはぶっ飛んでいるのに、口にする言葉はごくごく真っ当な正論だ。なまじカエル男という偏見の目に苦労した経験があるアウグストは、シーラの言い分に口を閉じざるを得ない。「それでも、これだけは」とアウグストは苦い表情になった。


「南の魔女は僕と顔を合わせるなり、問答無用で呪いをかけてきました。初対面にもかかわらず、です。ですから、シーラと顔を合わせるや否や……ということもあり得ない話ではないと思います」


 アウグストの言葉を聞いて、シーラはキョトンとした顔になった。


「もしかしてアウグスト様は、わたくしも魔女様に呪われるかもしれないと心配していらっしゃるのですか?」

「……ずっと、そう言っているつもりなのですが」


 肩を落とすアウグストを前に「まあ」とシーラは唇に手を当て、鈴を鳴らすように笑う。


「それこそ杞憂でしょう。魔女様が会う人すべてに無差別な呪いをかけまくっていたとすれば、この領地はわたくしの楽園になっていた筈ですから」

「ら、楽園」

「ええ。カエル人間だらけだなんてまるで夢のようではありませんかっ!」


 固く拳を握りしめ、シーラはうっとりと夢心地になった。アウグストは遠い目になっている。


「あ、あの。シーラ……まさかとは思うのですが」


 もしかしてカエル男であれば誰でも良かったのでは、という言葉をアウグストは寸前のところで飲み込んだ。


「やっぱりいいです」

「まあ。おかしなアウグスト様」


 時として真実を白日の下に晒さない方が幸せになれるのだ。アウグストはそっと目を伏せた。


   * * *


 山岳が続き、広大な森林が広がるファルケンベルク領は自然の恩恵が大きい領地だ。とりわけ南の深い森には貴重な薬草が多く茂り、いつの頃からか魔女が住み着くようになったと言われている。

 人里から離れ、森と共に生きる世捨て人。多くのまじないを操り、ある時は人を助け、またある時は呪い、その姿は老婆であったり若い女の姿であったりするという。


「少なくとも僕の祖父の代から魔女の姿は確認されているそうです。相当長い間、住み着いていることだけは間違いないでしょう」


 僕が魔女と会ったのも偶然だったのです。アウグストは言う。

 半年前、南の森で大規模なキツネ狩りが催された。逃げる獲物を追いかけている内に、アウグストはつい森の深いところまで入り込んでしまったそうだ。気が付いた時には供とはぐれ、辺りには霧が立ち込めていた。


「その時、魔女様とお会いしたのですか?」

「……ええ。魔女は僕を見るや否や、呪いをかけてきました。気が付いた時には、僕はカエル男になっていたのです」

「つまり、魔女様のことはよく分かっていないということですね」


 シーラの言葉に、アウグストは渋い顔をして頷いた。カエル男になってしまってからというもの、上を下への大騒ぎで、とても魔女どころの話ではなかったらしい。


「では尚更、お会いして確かめてみませんと!」

「やっぱりそうなるんですね……」


 すでに支度を終え、乗馬服に身を包んだシーラがふんふんと鼻息荒く頷いている。彼女の辞典には『諦める』という言葉は載っていないらしい。そこまでしてカエルを求めるのかと、シーラの情熱にアウグストは呑まれる一方である。


「馬と装備のご用意が整いました」


 音もなく現れたのは、アウグストに仕える唯一の使用人でもあるセバスティアンだった。

 無駄のない手際で出立の手筈が整った旨を報告する様は、まさしく熟練そのもの。慣れたようにアウグストは頷いた。


「ありがとう、セバス」

「本当に行ってしまわれるのですか、アウグスト坊ちゃま」

「ああ。すまないが留守を頼む。何かあった時は弟を頼ってくれ」


 アウグストの言葉に、セバスティアンは緩く首を振った。


「わたくしの主人は何時如何なる時でもアウグスト・ファルケンベルク様ただお一人でございます」


 折り目正しく頭を下げ、セバスティアンは馬の手綱を握る二人を見送った。


「それではアウグスト様、シーラ様。道中、くれぐれもお気を付けくださいませ」

「ああ。行ってくる」


 離れの屋敷から出立するアウグストとシーラを見送る者は、セバスティアン以外誰もいない。

 僻地とは言え、一領主の息子として本来あり得ない待遇だ。しかし、アウグストは「気楽なものです」と鷹揚に笑う。護衛の代わりに自ら弓と剣を背負い、鞍の上に跨る。

 供のいない生活は二人にとっていつもの延長線上でしかなく、今日はそれにちょっとだけアウグストの容姿が異なるだけだ。

 カポカポと蹄の音が鳴る。アウグストとシーラをそれぞれを乗せた馬は、踏み固められた道をゆったりと進んでいく。


「考えてみれば、アウグスト様とこのようにお出かけするのは初めてですね」


 風もなく、穏やかな陽気が差し込んでいた。まさに絶好のお出かけ日和と言えるだろう。アウグストと並んで馬の手綱を引きながら、シーラはおっとりと微笑んだ。


「そう言えば……そうでしたね」

「ふふ。屋敷の中も悪くはありませんでしたが、こうして日の光を浴びてお出かけというのも悪くないものですわ」

「シーラ……」


 言われてみれば、シーラの言う通りだ。

 自らの姿を恥じて屋敷の中に閉じこもりがちだったアウグストは、これまでシーラと共に外出などしたことがなかった。なんてことはないようにシーラは告げるが、慣れないファルケンベルク領に来たばかりの彼女には不便ばかりかけていたのだろう。改めて、自分の気が付かぬところで彼女に支えて貰ったのだと、アウグストは瞼を閉じる。


(カエル趣味だと知らされた時は驚いたものだが、やはりシーラは懐の深い女性だ)

「あっ、アウグスト様! あちらの池にカエルちゃん様が!」

「シーラ!?」


 見事な手綱捌きで、シーラが走り去るまであっという間の出来事だった。


「ま、待ってください、シーラ!」


 静止の声をかけるも、みるみる内に彼女の背中が小さくなっていく。アウグストは慌てて手綱を握りしめた。


「はいやっ!」


 一体どれほど先の池からカエルを目視していたのだろうか。アウグストが池の前で両手を組んでいるシーラに追いつくまで、それなりに時間が必要だった。


「よくあんな遠くから、これほど小さなカエルを見つけ出しましたね」

「わたくし、視力にだけは自信がございますので!」


 満面の笑顔だ。視力だけでなく、女性の身でありながら自在に操る馬術も十分大したものだという言葉を飲み込み、アウグストもまた池の前に立った。


「はあぁん、なんて愛らしいのでしょう……っ」


 シーラは両手と顔を地面に張り付け、灰茶色の瞳をうっとりと輝かせている。


「陽気を浴びて煌めく若草色の色彩も、透き通るような完璧な造形も、黒水晶の如き輝きを放つ瞳も、まさに美の化身と言って差し支えのない姿! これほど神々しいのに、同時に愛らしさも内包する矛盾。これこそ! これこそがカエルちゃん様の――」


 先ほどからずっと、ノンブレス&早口で捲し立てている。恍惚としたその眼差しはちょっと……いや、大分怪しいものの、心底カエルに惚れ込んでいる証でもあるのだろう。夢中になって口を動かすシーラは、これまで見てきた彼女のどんな姿よりもいきいきとしていた。


「そこまでカエルが好きなのなら、触ってみてはどうですか?」


 だからアウグストがシーラに告げたことに、そう大した意味はない。シーラはまるで雷に打たれたように目を丸くしている。


「それでは浮気になってしまいますわ」

「へ?」

「わたくしにはアウグスト様という心に決めたカエルちゃん様がいらっしゃるのです……」

(それって人間の僕ではなく、カエル姿の僕ってことですよね……?)


 怖くてそれ以上をアウグストは聞くことが出来なかった。このまま一刀両断されてしまえば、立ち直れる自信がない。そんなアウグストの内心を知ってか知らずか、シーラは恥ずかしそうに目を伏せた。


「それにわたくしは……その、カナヅチ、なのです。あの蓮の葉の上にいるカエルちゃん様には怖くて触れられませんわ」

「そうなのですか?」


 意外ですね、とアウグストは目を瞬かせた。類まれなる行動力に深い見識、何より乗馬すらも見事にこなしてしまうシーラだ。まさかカナヅチであるとは思わない。


「ええ。どうしても泳ぐことが出来なくて……。ですから、カエルちゃん様が自由に泳げるのは、わたくしの密かな憧れなのですわ」


 そう口にしたシーラは、眩しいものを見る眼差しでカエルを見ている。

 蓮の葉の上に乗っているカエルは、こちらの視線など知ったことではないように「ゲコッ」と鳴いていた。


 南の森はファルケンベルク家の所有する森林とされ、出入りする者となると、森林官やそれを相手取る商人といったごく限られた者となる。当然、先を進むにしたがって整備された街道はなくなり、代わりに土を踏み固めただけの道が続く。アウグストとシーラをそれぞれ乗せた馬は、細い道筋を辿るようにして進んでいった。


「随分と景色が変わってきましたね。もう南の森に入ったのでしょうか?」


 往来がぐんと減り、次第に深さを増していく木々を見上げて、シーラは声を上げた。休憩を挟みながらではあったものの、ここまでは順当に進んでいる。


「かなり近い所まで来ていますが、南の森はもう少し先に進んだところですよ。この辺りは入り口にあたるので、人の往来が少ないんです」


 そこまで口にして、アウグストは眉を潜めた。


「とは言え、もう少し人の行き来はあったと記憶していたのですが、誰にも会いませんね……何かあったのでしょうか」


 魔女に姿を変えられてからというもの、一日の大半を屋敷の中で過ごしてきたアウグストだ。どうしても最新の情勢には疎いところが出てきてしまう。だから、アウグストがその異変に気が付くまで多少の時間差があった。


「……シーラ、手綱を握って。そのまま後ろを振り返らずに走り抜けて下さい」

「アウグスト様?」

「いいから、走って!!」


 これまで聞いたことのないような切羽詰まった声だった。アウグストに言われるがまま、シーラは馬を走らせる。


「アウグスト様は!?」


 走り出して、シーラはすぐに気が付いた。これまで並走してくれていたアウグストの姿がない。慌てて振り返れば、アウグストは騎乗したまま弓をつがえている。

 不意に、茂みが揺れるのが分かった。


「っ!」


 人相の悪い男たちが次々と姿を現してくる。それだけではない。その手には手斧や短剣が握られており、遠目からでも武装していることがはっきりと見て取れた。

 盗賊だ。

 シーラが状況を把握するには十分すぎる情報が出揃っている。


「――は女を追え!」

「へい、頭!」

「承知でさぁ!」


 頭目らしき眼帯男の指示を受けた二人がシーラめがけて真っ直ぐに向かってくる。


(……アウグスト様はわたくしに離れろとおっしゃった。つまり、わたくしが離れていた方がお力を発揮しやすいと考えるべきです)


 出立前にセバスティアンから渡されていた弓と剣は相当に使い込まれていた。アウグストの腕前が如何ほどのものかは分からないものの、今となっては彼の言葉を信じる他ない。


(わたくしはアウグスト様のお荷物にならぬよう、逃げに専念するべきですわね……)


 決断すれば行動が早いのがシーラたる所以だ。


「さあ、走ってくださいませ!」


 鐙をしっかりと踏みしめ、手綱を握る。シーラの声に応えるように馬は走り始めた。


(身なりからして、傭兵崩れの盗賊と言ったところでしょうか。人気の少ない道で商人を待ち伏せていたのですね)


 ざっと見たところ、頭目らしき眼帯男を含めると、全部で六人。馬はない。内二人がシーラを追いかけてきている。


(相手に馬はありません。あまり距離を離し過ぎると、わたくしの追跡を諦めてアウグスト様の所に戻ってしまうかも)


 ただでさえアウグストは四対一の状況だ。仲間が戻って六対一になるのは、分が悪い。それならばシーラが付かず離れずの距離で二人を引っ張り回し、アウグストから距離を取った方が勝機に繋がる筈だ。


「!」


 風を切って何かが飛んでくる。

 シーラは手綱を巧みに操り、寸前のところで迫ってきた矢を躱した。


(弓使い!)


 森の中である以上、見通しは良くない。しかし、盗賊はこの辺りを熟知しているのか、シーラの動きを読み取るかのように弓を射ってくる。


「ほぅら! 早く逃げないと捕まっちまうぞぉ!」

「ぎゃはははは!」

(こちらが女だと思って完全に舐めていますわね……)


 乗馬服とは言え、その仕立ては上等なものだ。盗賊達にはこちらが『それなりに金になる相手』であることは露見していると考えていいだろう。当然、バーゲルト家のご令嬢であるシーラに戦場の経験はない。


(わたくしは魔女様に会うのですから、このようなところで躓いている場合ではありません!)


 馬を走らせながら考える。馬のない盗賊達のあの余裕ぶりを考えるなら、この道を先回りする手立てがあるのだろう。弓で馬を足止めし、荷ごとシーラを狙う。その予測が立てられるのであれば……。


(今、わたくしがすべきことは)


   * * *


 先ほど射った矢は威嚇としては十分な効果があったようだ。

 盗賊達の思った通り、細い道の真ん中を馬が駆けてくる。行く先には巨木が倒れており、これ以上進むことが出来ないことをつゆ知らず、だ。後は立ち往生するところを見計らって弓で威嚇し、女を馬から引きずり落とすだけでいい。

 荷も馬も金になるが、何より女だ。遠目からでも上物だと分かる風貌だった。貴族ならば身代金を要求すればいいし、いずれにせよ女を可愛がる方法なんていくらでもある。


「来たぞ」

「おうっ!」


 男は弦を引き絞る。狙った通り、弓は放物線を描いて馬の真横を掠めていった。


「もう逃げられないぜぇ……! さあ、馬から降りて降参しな」


 巨木に遮られ、行き場を失くした馬が嘶きを上げる。それと同時に、馬上にあった女が地面に転がり落ちる音があった。


「なんだい、ビビって転がり落ちたかぁ? 怪我でもされたら面倒――」


 そこまで言いかけて、男は口を閉ざす。馬から転がり落ちていたのは女ではなく、荷袋だったからだ。


(女はどこに……)

「ぐあぁっ!?」


 仲間の短い悲鳴と同時に、何かが倒れる音がした。

 はっとして振り返る。茂みに向かって駆けていく女の後ろ姿があった。ご丁寧にも布で石を括りつけた棒きれを握っている。


「やってくれたな……」


 仲間は既に伸びていた。恐らく先ほどの獲物で、不意打ちを綺麗に決められたのだろう。


「舐めやがって!」


 弓を背中に背負い、代わりに短剣を抜いた。相手は女一人だ。一対一であれば、力で負けることはない。

 草木を踏み分け、女が逃げた後を追う。

 そう足は早くない筈だ。何よりここで逃がして、仲間達から叱責を浴びる訳にはいかない。馬も荷も大事だが、男の見立てでは女が一番、価値が高い。

 ふと違和感を覚えて、男は足を止めた。


「おおーっと、危ないねぇ」


 見れば、草木と同系色の布が丁度男が通る足の位置に伸ばされていた。


(布に足を取られて転んだところでガツン、か。なかなか知恵の回る女じゃねえか)


 とは言え、見破ってしまえばどうということはない。罠が用意されている以上、女はこの辺りに潜伏している筈だ。怪しいのはそこの茂みあたりだろうか。


(ここまでコケにしてくれたんだ。捕まえたらただじゃおかねぇ……!)


 罠を跨いで、一歩踏み出す。目指すは人一人が隠れられそうな茂みだ。


「ぐあっ!?」


 次の瞬間、脳天に激しい衝撃があり、男の視界は暗転した。


   * * *


 どさり、と男の身体が地面に沈む。


「まあ、アウグスト様」


 男が向かった茂みの()()()()()姿を現したのは、お手製の獲物を手にしたシーラその人だ。その視線の先には、背後から盗賊を打ち倒したアウグストの姿がある。どうやら彼は四対一でも難なく勝利を収めたらしい。


「シーラ、あまり危険な真似はしないでください……」

「見え見えの罠と見せかけて、本命はこちらの分かり難い罠でしたから、わたくしは大丈夫でしたよ。あとは転んだ賊をガツーンと! ですわ!」

「だから、それが危険だと……」

「この程度の障害、わたくしのカエルちゃん様愛を前にすれば霞みますわねっ!」


 カエルへの告白もそうだったが、どうやらシーラ・バーゲルトは並大抵のご令嬢ではないらしい。いくらなんでも肝が据わり過ぎている。


「あ、はい……そうですか……」


 ぐっと握り拳を作るシーラを前に、アウグストが遠い目になったのは言うまでもないだろう。


「あら……?」


 そんな押し問答をしている内に、辺りに霧が漂い始めていた。


「シーラ!」


 慌てたようにアウグストがシーラの腕を掴む。みるみる内に辺りは霧で覆われ、先が見通せなくなった。


「まあ、どうしましょう」

「そう言ってる割に落ち着いていますね……」

「いえいえ。これでも驚いているのですよ、アウグスト様」


 口にして、シーラはおっとりと頬に手を当てる。その口ぶりでは全く説得力がない。


「はっ、そう言えばアウグスト様! 以前、魔女様に会った時も霧が立ち込めていたとおっしゃいませんでした?」

「そう言えば、そうですね……。あの時も確かに霧が立ち込めていました」

「ということは、魔女様の近くまで来たと考えられません?」


 ほくほくとシーラが顔を綻ばせるのと、辺りに甲高い声が響き渡ったのはほぼ同時の出来事だった。


「性懲りもなくまた来たのかヴォルフガング! カエルにされるだけでは足りぬか!」


 姿を現したのは黒いローブを被った赤毛の女だった。見た目こそ年若いが、その言動から察するに魔女であることは疑いようもないだろう。何よりその手の中には使い込まれた杖が握り締められており、アウグストにまっすぐ向けられていた。

 咄嗟にシーラは魔女とアウグストの間に身体を滑り込ませる。


「お待ちください魔女様! この方はヴォルフガング様ではありませんわ!」


 突然割り込んできたシーラの存在は魔女にとっても意外なものだったらしい。魔女は翡翠のような瞳を瞬かせてシーラを見た。


「む、其方は?」

「南の魔女様、お初お目にかかります。わたくしはシーラ・バーゲルトと申します。どうぞお見知りおきを」


 片足を引いて膝を曲げる最上の礼を取り、シーラは言葉を続けてみせた。


「そして、こちらはアウグスト・ファルケンベルク様ですわ」

「ヴォルフガングでは、ない……じゃと?」


 シーラの言葉に魔女は明らかに動揺していた。すかさず、アウグストが一歩前に進み出る。


「ヴォルフガングとはもしかして……ヴォルフガング・ファルケンベルクのことですか? それは僕の祖父の名です」

「祖父……? ということは、其方、ヴォルフガングではないのか」


 随分とよく似ておる。魔女はアウグストのことを覗き込むようにして見つめ、「ふむ」と口元に手を当てた。


「誤解が解けたようで何よりですわ。それで、魔女様。以前、アウグスト様をまじないでカエルにしたそうですが、もしかしてその時もヴォルフガング様と見間違えられたのでは?」

「む? むう。そうじゃな……。よく見れば、其方はヴォルフガングと瞳の色が違う。すまなかったな、妾の早とちりであった」


 出会い頭に呪いをかけられたのが『ヴォルフガングと勘違いされてのこと』だったとは、一体誰が想像出来ただろうか。そもそもヴォルフガングはすでにかなりの年齢で、到底アウグストとは似ても似つかぬ風貌をしている。


「一体おいくつでいらっしゃ――」

「まさか其方は女子(おなご)の年齢を聞くような野暮な真似はせぬよな」


 アウグストは顔をひきつらせた。南の魔女の年齢は結局分からず終いだが、恐らくそれなりなのだろう。


「い、いえ……。その、魔女殿はどうしてヴォルフガング祖父君をカエルにしようとしたのでしょうか」

「そうじゃな……ふむ。カエルにされた其方には聞く権利があるじゃろうて。よい。妾の家へ招待しようぞ」


 口にして、魔女はくるりと背を向けた。そのままついて来いと言わんばかりにスタスタと歩き始める。

 シーラとアウグストは顔を見合わせ、それから魔女に続いて歩き出したのだった。


   * * *


 魔女の住処はそこから少し歩いた湖の畔にあった。

 庭には多くの薬草がそこかしこに植えられており、少し外れには鶏と羊が放し飼いにされているのが見てとれる。

 家自体は増改築を繰り返したのか、つぎはぎだらけの奇妙な形をしていた。強いて言うならばティーポットのような形をしているのだろうか。目を瞬かせるシーラとアウグストを湖がよく見えるガーデンテーブルに案内すると、魔女は手ずから銀細工の茶器を用意してくれた。


「ハーブティーだが、どうだろうか」

「まあ。わたくし、ハーブティー大好きですわ」


 ハーブティー特有の独特の香りが広がっていく。顔を綻ばせるシーラを前に、魔女もまた嬉しそうに口元を緩めてみせる。ようやく一息ついたところで、魔女は本題を切り出した。


「月日が流れるのも早いものじゃな。あのヴォルフガングに孫が出来ておったとは」

「魔女様はヴォルフガング様とお知り合いだったのですね」

「魔女様と言うのは呼びにくかろう。バルバラで良い」


 鷹揚に告げる魔女バルバラを前に、アウグストは頷いて言葉を続けた。


「では、バルバラ殿。ヴォルフガング祖父君とはその……どのような関係だったのだろうか」

「ヴォルフガング……か」


 なにせ出合い頭にカエルになる呪いをかけてくるような関係だ。バルバラとヴォルフガングの間に一体どれほどの確執があるのだろうか。ごくり、とアウグストは唾を飲み込んだ。


「あやつはとーんだ女たらしだったのじゃ!」

「……へ?」


 アウグストの目は点になった。思わず間の抜けた声が出てしまう。

 アウグストの知る限り、祖父であるヴォルフガングは実直な男の筈だ。浮いた話などなく、既に亡き祖母と良い関係を築いていたことはファルケンベルク家の者ならば誰もが知るところだ。


「来る日も来る日も妾のところに邪魔しに来おって! やれ花だのやれ菓子だの、魔法の研究に勤しむ妾を懐柔することに余念がない。挙句の果てに突然来るのをやめおったのじゃ! 全然、妾の所に顔を出さぬようになったのじゃ……」

「それって、もしかして……」


 祖父君がファルケンベルク家の意向で祖母君と正式に婚約したからなのでは。

 咄嗟に呻き声のような声を漏らしたアウグストを前に、バルバラは翡翠色の瞳を細めて苦く微笑んだ。


「アウグストよ。妾は其方をヴォルフガングと間違え、呪ってしまった。本当にすまなかった」


 居住まいを正し、バルバラはアウグストに謝罪を述べる。


「しかし、あの呪いを解いたということは、まこと愛する人が出来たのじゃな。南の魔女であるバルバラ、心から其方達を祝福しようぞ」


 アウグストとシーラの二人を交互に見て、バルバラはニッと笑みを浮かべた。彼女の声音には二人の関係を心から祝福する響きがある。

 なんとなく場にしんみりとした空気が漂った。すかさず声を上げたのは、それまで沈黙を守っていたシーラだ。


「それでバルバラ様、折り入って頼みがございます」

「先の件もある。ふむ、妾に出来ることならば、協力しようではないか」

「まあ、ありがとうございますっ!」


 ぱあっと花が綻ぶようにシーラは微笑んだ。

 何も知らない者がその笑顔を見れば、思わず心を鷲摑みにされてしまうような可憐さだ。しかし、アウグストは次に続く言葉がいともたやすく想像出来てしまった。


「それでお願いというのは、もう一度アウグスト様をカエルにして頂きたいということなんですけど……」

「今、なんと?」


 バルバラはあんぐりと口を開けてシーラを見た。


「アウグスト様にまじないをかけてカエルにして頂きたいのです」


 両手を胸の前に組み、大真面目に力説するシーラの瞳は『本気』という文字が浮かび上がっている。バルバラは口元を引き攣らせて、シーラの隣に座るアウグストを見た。


「……アウグストよ、それはまことに其方の願いなのか?」

「シーラは僕の呪いを解いた最愛の女性です。彼女の願いを叶えたいと思っています」

「あー、それは……。ふむ。まあ、甲斐性は大事と言うしな!」


 どうやらバルバラは考えることを放棄したらしい。あっはっは、と高らかな笑い声を上げて立ち上がった。


「では、アウグストを再びカエルの姿に変えれば良いのだな」

「はい。お願いします!」

「……本当に、良いのだな?」


 キラキラとした眩い笑顔を浮かべるシーラを前に、バルバラは念を押すかのように問いかける。


「妾が与えた呪いは、その者の本質を変えた訳ではない。カエルであっても人間であっても、アウグストはアウグストなのじゃぞ?」


 何もかもを見透かすような魔女の瞳がシーラを見る。その吸い込まれそうな眼差しに、シーラは初めて灰茶色の瞳を揺らめかせた。


「それは……」


 微かな逡巡があった。アウグストは目を丸くしてシーラを見つめている。そんな彼の背後から、飛び出してきた影があった。


「危ないっ!」


 咄嗟にシーラが身を挺して、アウグストを押し出した。

 大きな水柱が立ち昇る。アウグストはすぐさま臨戦態勢に移った。


「先ほどの……くっ!」


 飛び出してきたのは、先ほど打ち倒した筈の盗賊の一人だった。どうやら完全には気絶していなかったらしく、懲りないことにここまであとを付けてきていたらしい。

 とは言え、不意を突かれなければアウグストの敵ではない。アウグストは男を捻り上げると、カチャンと抜き身の短剣が地面に落ちた。


「くそっ、離せ!」

「まったく。ここを南の魔女の住処と知っての狼藉かの」


 眉を吊り上げ、魔女は男の鼻先に杖を突きつけた。


「カエルにでもなり、アウグストのように真に愛する者を見つけるがよい」


 次の瞬間、ぼわんっという音と共に男の姿が煙に包まれた。まもなく煙が晴れてゆく。そこにあったのはドブのような色彩を持ったずんぐりとしたカエル男の姿だった。

 カエル男は「ゲコッ」と短く鳴いて、湖の中に落ちる。そのままスイーッと岸まで逃げるように泳いでいくのが見てとれた。


「やれやれ。これにて一件落着じゃな」


 バルバラは杖を下ろし、息を吐く。男を無力化したことを見届けて、アウグストは視線を巡らせた。そう言えば、シーラの姿がどこにもない。


「シーラはどこに!?」

「む? 先ほど湖に落ちたぞ」


 短く言い、なんてことはないようにバルバラは笑った。


「なに、この湖はさほど深くはない。シーラのような豪胆な女子(おなご)であれば簡単に岸に戻ってこよう」


 湖の中にシーラの姿はない。代わりに小さな水泡が水面に浮き上がっている。アウグストの血の気がさっと引いた。

『それにわたくしは……その、カナヅチ、なのです。あの蓮の葉の上にいるカエルちゃん様には怖くて触れられませんわ』

 思い出すのは、南の森目指して出立した時のことだ。小さな池を前にして、シーラは言った。どうしても泳ぐことが出来ない、と。


「シーラっ!」


 一も二もなくアウグストは湖に飛び込んでいた。

 湖の中にいくつもの水泡が浮かび上がる。さほど深さのない湖の底で、解けた長い髪が揺らめいているのが分かった。もがくようにシーラの白い指先が伸ばされている。


(今、そこへ行く!)


 灰茶色の瞳がアウグストを見るのが分かった。次の瞬間、ひと際大きな水泡がシーラの唇から溢れ出る。

 アウグストの手がシーラの手を掴んだ。

 絶対に離さない。強い意思を持って、アウグストがシーラを抱き寄せる。そのまま水面に向かって、アウグストは一心不乱に泳いでいった。


「ぷはっ!」


 水面に顔を出し、そのまま岸にシーラを横たえるが、彼女はぐったりとしたままぴくりとも動かない。シーラの呼吸が止まっていることを確認したアウグストの行動は早かった。彼女の乗馬服の襟元を寛げ、次に下顎に手を添えて、気道を確保する。

 もはや無我夢中だった。シーラを失いたくない。ただその一心で、アウグストはシーラの唇に自らのそれを押し当てた。

 一体どれほどの間、彼女に息を吹き込んだのだろう。不意に、「ごぼっ」とシーラの唇から水が吐き出されるのが分かった。


「ごほっ……ぅ…ごほっ!」


 慌ててアウグストはシーラの身体を横に向けた。シーラは苦しそうに咳き込んでいるが、咳き込めるということは息を吹き返したということだ。やがて、灰茶色の瞳がぼんやりとアウグストを映し出すのが分かった。


「アウグスト……様……」


 シーラの声はこれまで聞いたどんな声よりも、掠れて、弱々しいものだった。白い指先がそっとアウグストの頬を撫でる。


「ふふ、アウグスト様がとても恰好良く見えましたわ……。不思議ですね。カエルのお姿ではなかったのに……」

「そんなことはどうでもいいんです!」


 強い語気だった。アウグストは頬に触れたシーラの手を握り締める。


「具合が悪いところはありませんか? シーラに何かあったら……僕は生きていけません……」

「そんな、おおげさですわ」

「おおげさなどではありませんっ! どうして、分かってくれないのですか……っ」


 アウグストは一言一言、噛み締めるように絞り出す。握り締めたその手は微かに震えていた。

 滲む黒水晶の眼差しを見上げ、シーラはゆっくりと身体を起こした。


「アウグスト様……。ご心配をおかけして申し訳ございません」


 改めて真正面から見たアウグストの顔は、ただまっすぐにシーラのことを見つめていた。不意に、教会の中で告げた言葉をシーラは思い出す。

『永遠の愛をアウグスト様に誓いますわ。ですから、どうか。どうか、わたくしの手を離さないで下さいませ』

 けして離されることのなかったその手は、アウグストがシーラとの約束を守ってくれた何よりの証だ。


「貴女が無事であったのならそれでいいのです」

「はい……はい。本当に、ごめんなさい……」


 胸の内から溢れるものを抱きしめて、シーラはそっとアウグストを見た。


「それから、ありがとうございます。アウグスト様」


   * * *


 二人が南の魔女の元を去り、早いもので半年という月日が経っていた。あの後が色々と大変であり、本番でもあったのだ。

 どんな姿をしていても、アウグスト様はアウグスト様ですから。そう言ったシーラの意向もあってアウグストは人間の姿を取り戻した。ファルケンベルク家に正式に報告したのも束の間、彼の弟から「やはり家督は兄上に」と連絡が入ったのだ。

 元々アウグストの弟は騎士を目指して経験を積んでいた最中だったという。「領主として領地を治めるより、剣を握って民を守る方がやはり向いているようです」と告げられてしまうと、アウグストはそれ以上言えなかったそうだ。


 あるべきものがあるべき形へ。アウグストは領主の地位を受け継ぐことになり、それに伴ってシーラは正式に領主夫人となる。現金なもので、アウグストが人間の姿に戻ったと知れると、あっという間に本邸に呼び戻されることになった。今となっては離れの屋敷に使用人がセバスティアンただ一人だった状況が夢のようだ。


 そうしてアウグストが正式に家督を継いだことを知らしめるため、お披露目パーティーが催されることとなった。近隣の貴族は勿論のこと、その中には当然、シーラの生家でもあるバーゲルト家も含まれることになる。


(なんですの、なんですの、なんですの!)


 煌びやかなパーティー会場の外れで、バーゲルト家の次女であるラウラ・バーゲルトは地団駄を踏んでいた。


(お姉様はカエル男と婚約したとばかり思っていたのにっ! それがどうして、あんな美形が隣に立っていますのっ!?)


 ずっと姉であるシーラが目障りだった。

 容姿は間違いなくラウラの方が勝っているのだ。そうだというのに、どういう訳だかシーラはあらゆる人から信頼を勝ち取っていく。控えめでありながらも裏打ちされた確かな知識を匂わせ、ここぞという場面で機転の良さを見せつける。地道な努力が大の苦手であるラウラにとって、知識と理屈で物事を判断するシーラは鼻持ちならない存在だった。


 ようやくそんなシーラを蹴落としたと思ったのだ。

 醜いカエル男と婚約し、その生涯を暗鬱と過ごせばいい。使えるものを全て駆使してようやく排除したというのに、姉の隣には目を疑うほど整った容姿の男が立っているではないか。

 おまけにシーラがいなくなった途端、バーゲルト領の経営は傾いてしまった。

 シーラが陰ながら領地経営に貢献していたことを知ったのは、ファルケンベルク領に籍を移してからのことだ。姉が落ちぶれる様を高みの見物しようと思っていたのに、バーゲルト領に残った自分が泡を食うことになるとは思っていない。


(お姉様ばかりいい思いをするだなんて許せない! こうなったら、どんな手を使ってでもアウグスト様を篭絡して、立場を入れ替えてみせるわ!)


 ふーっ、と息を整える。

 ラウラはドレスを整え直し、壁に掛けられていた飾り鏡を覗き込んでにっこりと微笑んだ。


(ラウラは誰よりも美しんですもの。ラウラの愛らしさに振り向かない男なんていないわ)


 標的となるアウグスト・ファルケンベルクの姿はすぐに見つかった。幸いなことに、シーラの姿は近くにない。ラウラは思わず吊り上がりそうになる口元をなんとか堪えて、アウグストへと近付いていった。


「アウグスト様。この度はおめでとうございます」

「貴女は……確か、シーラの妹の」

「ラウラ・バーゲルトですわ。ラウラとお呼びくださいませ」


 大輪の花のような美しさで通っているラウラは、男の視線を引き付ける術を身に着けている。


「実はアウグスト様には密かにお耳に入れたいことがありまして、参りましたの」


 小首をかしげて、胸を寄せ、視線は上目遣いで愛らしく。ラウラの先制を受けて、アウグストが動きを止めたのが分かった。


「密かに、ですか?」

「ええ。姉、シーラのことです」


 そこで焦らすように少しだけ溜めて、ラウラは筋書きを語り始めた。


「姉はあまり素行が良くないのです。恋多き女と言うのでしょうか……。ファルケンベルク領に移ってからは知りませんが、少なくともバーゲルト領にいる頃は多くの恋人を作り、奔放に生きておりましたの」

「へえ。それは知りませんでした」


 アウグストが固い声を漏らす。確かな手ごたえを感じて、ラウラは声を弾ませた。


「ええ! アウグスト様は姉に騙されているのです!」

「恋人というのですが、それは人間の男だったのでしょうか?」


 だから、続いたアウグストの言葉をラウラは咄嗟に理解出来なかった。


「え? それはどういう……?」

「――それとも、こういった風貌の者でしょうか?」


 瞬きしたラウラの瞳の中に、世にもおぞましいカエル姿の男が映り込む。

 緑のぶよぶよとした肌に、何もかもを飲み込むような恐ろしい黒目。指先なんて異形の者としか思えぬ四本指で、挙句の果てには水かきまで付いている……。


「いやあああああああっ!?」


 甲高い悲鳴を上げ、ラウラは一目散にその場から逃げ去った。咄嗟に踏んでしまったドレスの裾が嫌な音を立てて裂けたが、そんなことを気にする余裕などどこにもない。

 転び、また起き上がり、走って逃げる。その姿は優雅とは到底言い難い。


「まあまあ。ラウラったらあんなにはしゃいでしまって」


 そんな妹を見送りながら姿を現したのは、ラウラの姉であり、同時にファルケンベルク領主夫人となったシーラその人だった。


「シーラ。……身内に対してあまり言うことではないですが、貴女の妹は随分おいたが過ぎるようではないですか?」


 ため息を吐くアウグストは、既に人間の姿に戻っている。

 あの日、必要があればアウグストがカエル姿になれるよう変化の術を魔女に授けて貰ったのだ。『シーラが溺れた時にすぐにでも助けることが出来るように』という、アウグストたっての願いでもあった。


「あれでもわたくしにとっては可愛い妹なのですよ。おしおきはアウグスト様がしてくださったようですし」


 シーラはころころと鈴を鳴らしたように笑う。


「それにしてもこーんなに凛々しくて素敵なお姿なのに、あの子ったら失礼ですわね」

「それは、カエルの姿ですか? それとも人間の姿?」


 尋ねるアウグストを前にして、シーラはうっとりと灰茶色の目を細める。


「どちらのアウグスト様も、ですよ」


 これでもわたくし、永遠の愛を誓いましたからね。そう宣言して、シーラは今度こそ満面の笑顔になってアウグストの手を取ったのだった。

最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。

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まさか妻がカエル好きな女性だとは、アウグストは露ほども思わなかったでしょうね。 笑えるながらも二人の絆をしっかりと感じられる物語で良かったです。 ラウラにもざまあがあったし、大満足です!!
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