囲われサブリナは、今日も幸せ
思い付いたの全部詰め込んだら、何やかんやで五万字超えてました。心折れずに最後まで読んでいただけたら嬉しいです。
「サブリナァ〜、きみとの〜こんやくを〜はきさせてもらぅ〜」
「じいや、もっと感情を込めなくては、練習になりません!さぁ、もう一度!」
「お嬢様、老体に、これ以上は無理でございます。どうか、お許しを………」
丸眼鏡越しに見える小さな瞳をショボショボと瞬き、長年この屋敷に仕えるシルベスターは、シワシワの手を胸元で組んで懇願した。人より長い手足のせいか、はたまた、ひょろ高い身長のせいか、その姿はカマキリに良く似ている。
カンタンテ公爵家の一人娘であるサブリナは、普段決して我儘を言わぬ、穏やかで心優しい娘だ。そんな彼女が、あまりにも思いつめた表情で頼み込むので、老執事は、致し方なく『婚約破棄ごっこ』に付き合っていた。
しかし、その回数が百を超え、自分の声がかすれ始めたので、流石に止めることにしたのだ。
「じいやしか、お願いできる人がいないのに、私を見捨てると言うの?ふぇっふえっふぇーーーーん」
四阿のテーブルに顔を突っ伏し泣き崩れるサブリナ。少女から乙女へと変わりつつある十二歳の彼女は、羽化した蝶の様な美しさを持ちながら、まだまだ幼さの残る立ち居振る舞いをする。
薄っすらと化粧を施した顔をゴシゴシと手で擦り、スンスン鼻を鳴らす姿を、少し離れた生け垣の向こう側から覗き見ていた婚約者のクリストファーは、
『泣き声も可愛いなんて、本当に、ズルいな』
とお門違いなことを思っていた。
彼の座右の銘は、『人生は、サブリナを愛でる為にある』だ。彼女を見つめる瞳は、優しさに満ちている。
ただ、この青年、人間を
『サブリナとサブリナ以外』
に分けている。それ以外に対する態度は、今も昔も変わらない。
そう、全く変わらないクズなのだ……。
十八年前、クリストファーは、世界に名を轟かせる軍事国家ミリアムの第五王子として生まれた。その大きさは、一般的な赤子のほぼ倍はあり、歴代の王子を取り上げた産婆ですら腰を抜かした。
「血が止まりません!誰か、医師を連れてきてください!」
産婆の叫び声に宮殿内が騒然とし、走り込んでくる医師団に道を開けるので精一杯だった。
「痛い、痛い、痛い。憎らしい顔だこと。本当に、見たくもない!早く、連れて行って!」
錯乱状態で暴れるソラリスを、医師団が必死に押さえつける。その壮絶な光景に恐ろしくなった産婆は、赤子を抱えて部屋を飛び出した。
「二度と連れて戻らないで!捨ててくれても良いわ!」
出ていく背中に、ソラリスが絶叫を上げる。その形相は、悪鬼の如く、目は釣り上がり、怒りで真っ赤に充血していた。
彼女は、元は、他国の王女だった。末っ子ということもあり、蝶よ花よと可愛がられ、愛されるのが当たり前だと思っていた。父も母も兄も側から離れないものだから、ずっと母国で暮らせるのだと、信じて疑っていなかった。
しかし、十七歳の春、国と国の架け橋となるべく、無理矢理ミリアムへと嫁がされた。夫となる男は、故郷では見たことのない大柄で粗暴な人物だった。
「お前が、ソラリスか」
「はい」
「見目は良いな。もう少し笑えないのか?」
「え………」
「まぁ、いい。侍女達は、勝手に使え。足りないものがあれば、言えば揃えさせる。俺を煩わせなければ、何をしてもいい」
一方的にカイザーが言いたいことだけ言う初対面は、あっけなく終わった。それでも、いつか、彼が自分を愛してくれると思っていた。何故なら、母国では、彼女は常に特別扱いだったからだ。
一年後、第一子であるアレクサンダー第一王子を産んだときは、自らの使命を果たせたと喜んでいた。自分に似た線の細い、やや女性的な面立ちの我が子が、愛おしくて仕方なかった。
「これからは、ここで、私の家族を増やしていくのよ」
出産後、息子を見に来ることすらしないカイザーに不満を持ちながらも、ソラリスは、明るい未来を夢見ていた。
それなのに、自分の与り知らぬ所で後宮建設が決まっていた。見目麗しい女が、カイザーの側妃として召し上げられる。中には、結婚間近の伯爵令嬢までいた。後宮内に響く鳴き声を聞く度に、彼女の心は死んでいった。
母国では白百合と評された気品のある容姿は、表情筋が動かなくなったことで、逆に威厳が際立ち、王妃らしくなったとも言える。
ただ、カイザーの好みからは程遠くなった為、寵愛を得られることはなかった。
そんなソラリスが再びカイザーの子をなしたのは、アレクサンダーを産んで十年目のことだった。
「お止めください」
酒に酔ったカイザーが、何を思ったのか突然ソラリスの寝所に現れた。
「煩い。お前は、王妃だろう?俺を受け入れる責任がある」
酒臭い男からは、愛情など一欠片も感じられなかった。拒否しようにも、力では勝てない。助けを呼ぼうが、誰も来ない。
しかも、残酷なことに、数ヶ月後、月のものが来なかった。産む前から我が子を憎む母親に子を託せるはずもなく、その後、クリストファーは、乳母に育てられた。誰からも愛されない赤子は、誰も愛さない子供へと育った。
クリストファーが十一歳になる頃、王太子になったアレクサンダーと王太子妃との間に、三つ子の息子が生まれた。その時点で、かろうじて残されていたスペアという存在価値すらなくなった。だからといって、それを気にするような繊細な心を、彼は、持ち合わせていなかった。
まさに傍若無人を人型にしたようなクリストファーは、ある日、庭園の一角で王妃主催の茶会準備が進められているのを見つけた。いたずら心に火がつき、どこからともなく一匹の豚を用意すると、
「そら、行け!」
食器が並べられたテーブルの上に投げた。
ブヒブヒ
ガシャンガシャン
暴れる豚と逃げ回る侍女達。取り押さえに来た近衛兵も、走り回る豚に手を焼いている。
「クリストファー殿下、何故このようなことを!」
正義感と忠誠心で苦言を呈する者が、クリストファーの前に立ちはだかり、必死に説得しようとする。
「貴方は、この国の第五王子なのですよ!兄上であられるアレクサンダー殿下をお支えするのが貴方の役目!」
クリストファーは、その様子を、憮然とした表情で眺めていた。
『俺は、誰かを支えるために生まれたんじゃない。それに、いつ、産んでくれと頼んだ?勝手に産んで、勝手に人の価値を決めるな』
物心ついたときから燻る感情は、更にクリストファーを荒ぶらせる。
「うるさい!俺の前に立つな!」
年の割には発育した逞しい腕で、バシッと殴れば、相手は軽く吹っ飛んだ。
「ガハッ、だ、だれか、殿下をお止めしろ……」
そう言われても、誰一人、クリストファーに近づく者はいない。
「ふん!最初から、そうしておけばいいものを」
人並み外れた腕力で邪魔者を捻じ伏せれば、彼の視界は、精神的にも物理的にも、非常に良好なものになった。
『ミリアム王家の悪魔』
そう陰口を叩かれる彼を、父であるカイザーは、野放しにしている。アリのように這いつくばる護衛達を足蹴にする様は、退屈を持て余す王の娯楽の一つだったからだ。
臣下から訴状が上がっても、
「好きにしろ。殺せるものなら、殺せばいい」
と鼻で笑っていた。こうして、クリストファーという化け物は、スクスクと育っていった。
しかし、十四歳になった頃、永遠に続くと思っていた立場が突然危機に陥った。
「カイザー様、どうかお慈悲を」
王座に座るカイザーの足にすがるのは、一番の寵愛を賜る側妃プルメリア。普段なら、その美貌で王を虜にする彼女が、髪を振り乱して泣きわめいていた。
「あの子は、まだ十五歳になったばかりなのですよ!なのに、結婚相手が、四十三歳だなんて!私より年上ではないですか!」
第四王子だったプルメリアの息子が、十五歳という若さで二十八歳も年上の女性と政略結婚をすることになったのだ。跡継ぎの居なかった兄の急死により、突如王位を継承した東の国の女王は、脆弱な基盤を固めるために、どうしても強力な後ろ盾が必要だった。
そこで、ミリアム王家から王配となりうる子息を貰い受ける為に、理不尽とも言える通商条約を受け入れたのだ。実質、属国化と言っても過言ではない。戦争にかかる莫大な金額と人材的損失を考えると、たった一人の人間を渡すだけで得られる対価としては十分過ぎるだろう。
しかし、我が子を奪われる母親は、黙っているわけにはいかない。
「なぜ、私の子なのですか!第二、第三王子の婚姻を破棄させて、送り出せば済む話ではありませんか!」
既に他国から嫁を貰い、子までなす彼らを離婚させれば、外交問題になることは、馬鹿でも分かる。普通の側妃が、ここまでゴネれば、即座に首が飛んでいただろう。
しかし、カイザーは、笑いながらプルメリアの顎を掴んだ。
「何故か、お前には怒りがわかぬ。しかし、言うことを聞かぬ者には毒杯を与えねばな」
チラリとカイザーが視線を向けた先に居たのは、プルメリアの息子達だった。
「選ばせてやろう。どの子供をお前の代わりにする?」
「え?」
そこで、プルメリアは、やっと状況を飲み込めた。自分の代わりに、子供が毒杯を飲まされそうになっているのだ。カイザーに、子供への愛情など砂の一粒分すらもない。
「全員でもいいぞ?」
「あ……お許しを……私が浅はかでございました」
絶望に崩れ落ちたプルメリアを、侍女達が支えて退出する。ざわつく家臣達の動揺等興味のないカイザーは、口元をニヤつかせながら隣に座る王妃を見た。
「ソラリス、どうだ?こんなに簡単に国が手に入るなら、お前の所の不用品も、他国に王配として贈ってしまうのも妙案だと思わないか?」
今回のような前例が出来たことで、王妃以外にも四人の側妃を持つ子沢山なカイザーは、婚姻していない不必要な息子達の新たな使い道に気づいてしまった。他国に王配として出荷し、自国に有利な条約を結び、その後も裏で操り人形として死ぬまでこき使う。戦争をせずに領土を広げられるとあって、カイザーは、第二、第三の出荷先選定に熱中し始めた。
「………」
カイザーの横で、無言を貫くソラリスは、内心ムカついていた。確かに、クリストファーは、彼女にとって不用品以下である。愛息のアレクサンダーが王位を得る時の差し障りになるやもしれない。
だが、たかが側妃が産んだ下賤な子供と、元王女である自分が産んだ子供を同列にされることが気に食わなかった。これは、プライドの問題である。
クリストファーは、理不尽な理由で手当り次第に人を殴るため、家臣達からの受けが悪い。外に追い出せるとなれば、皆が、喜んで協力するだろう。いつも自分を蔑ろにする臣下達の思惑通りにことが運ぶことも、全くもって癪である。
「便箋と封筒を用意して」
自室に戻り、最初にやったことは、手紙を書くことだった。宛先は、王の右腕とされるミョルニール・カンタンテ公爵。筋骨隆々の体を持ちながら、切れ者と知られる頭脳の持ち主で、この国の宰相を担っている。伴侶を病気で早くに亡くした彼が、妻に生き写しの一人娘サブリナを溺愛しているのは有名な話だ。手放す気など全く無く、将来的には娘に婿を取ろうと考えてるという。
「それなら、クリストファーでも良いでしょう?」
ソラリスは、ミョルニールにクリストファーとの婚約を打診した。
しかし、
「誠にありがたい申し出ではございますが、まだ、娘は八歳。どうかお許しを」
短い文面から拒否感が溢れている。歩いた跡に屍が転がると噂される第五王子に、可愛い娘を傷物にされてはたまらない。しかも、婚姻の意味すら分からぬ幼児である。
頑なに首を縦に振らなかったミョルニールに対し、ソラリスは、母国で王になっていた兄を動かし、彼に圧力を掛けた。
『我が国との友好のためにも、甥との婚姻を考えて欲しい』
物言いは丁寧だが、拒否権の無い命令だ。こうして、ソラリスは、『断れば、国際問題』と言う最終奥義を発動し、とうとう力技でクリストファーとサブリナの顔合わせまで持ち込んだ。
だが、ミョルニールも、大国の宰相を務める男。最後の最後になんとか、『娘が気に入らなければ断れること』を前提条件に入れた。眼光鋭いクリストファーに会えば、気の弱いサブリナは、確実に怯えるだろうと期待して。そして、運命の出会いが訪れる。
クリストファー、十四歳。
サブリナ、八歳。
場所は、王家所有の植物園。
春の日の中、花は咲き乱れ、天国のような美しさ。そこに降り立った妖精かと見紛うばかりの美少女が、
「は…はじめまして、サ…サ…サ…サブリナ・カンタンテ……と、もうしましゅ」
緊張のあまり、自己紹介で噛んだ。
「あの、あの、あの………もうしわけございません」
自分の犯した失態に、恥ずかしさでプルプル震えるサブリナは、ポロリと一粒の涙を流した。サワサワとそよぐ風に、フワフワとしたクセのある彼女の柔らかなプラチナブロンドの髪が揺れる。大泣きしたいのを必死に我慢し、キュッとスカートを握りしめる小さな手。
この世の愛らしさを全て凝縮したような姿に、クリストファーは、雷に打たれたような衝撃を受けた。今まで彼の周りには、鉄仮面の如く表情筋が動かないソラリスか、一様に暗い顔をした侍女しか居らず、健気で可憐な少女など生まれて初めて見たのだ。突如自分の胸に沸き起こった感情を理解しきれず胸を押さえ、サブリナを凝視する。
そんなクリストファーに気付いたミョルニールは、
「大丈夫だよ、サブリナ。さぁ、こちらに来なさい」
と自分の体で娘を隠した。不安からサブリナは、ピタリと父親の足にしがみつく。
「よく頑張ったね」
頭を撫でられ、サブリナは、眉をへニョリと下げた。そこで再び、クリストファーは、『庇護欲』という新たな感情を手に入れた。
『彼女が、俺の妻に?あぁ、なんて、最高なんだ』
それが愛なのかと言われると、些か歪すぎて他人の理解を得ることは難しいだろう。
しかし、クリストファーの心の中に、他には代えがたい特別な人として刻まれた。普段、暴力によって物事を解決する彼だが、決して頭が悪いわけではない。この小さな壊れ物のような少女が、自分を怖がっていることくらい感じていた。
『先ずは、距離を詰めなければ……』
一計を案じたクリストファーは、いつもの極悪非道さをひた隠し、
「『私』は、クリストファー・ミリアム。クリスと呼んでくれるかい?サブリナ」
と優しい微笑みを浮かべて自己紹介をした。
普段、人を睨んだことしかない瞳と怒鳴り声しか上げたことのない口が、緩やかな弧を描くと、なんと、完璧な王子様が出来上がったのだ。深い緑色の瞳に、襟足を短く切りそろえた銀色の髪。大きな体を曲げて小さな自分に視線を合わせてくれる紳士的な態度。
他人に免疫のないサブリナは、節穴としか言えない瞳を煌めかせ、薄ピンク色に頬を染めた。
今が、畳み込む時だと気付いたクリストファーは、さっと片膝を芝生の上につき、八歳児の手の甲に口づけた。
「な!なんてことを!」
汚れのない娘に、唇をつけるなど、許せるわけがない。ミョルニールは、サブリナを抱え上げると、王妃だけに頭を下げ、そのまま走り去った。
残された二人の反応は、真逆だ。
『もう、無理だわ。これで、何もかも終わりよ』
ソラリスは、諦めの境地に達し、さっさと自分の部屋へ引きこもった。もう二度と、クリストファーの顔も見たくない。殆ど無かった親子の縁は、ここで完全に途切れた。
一方のクリストファーは、
『サブリナが、欲しい!』
強烈な欲求に目覚めた。こうなると、無駄に行動力のある男は、猪突猛進だ。可愛い婚約者との未来の為に、あのクリストファーが、思いもよらぬ行動を起こした。
先ずは、彼女を怖がらせないように、王子らしい礼儀作法を学ぶ必要がある。そこで彼が目をつけたのは、実兄であるアレクサンダーだ。軍事国家であるミリアムは、カイザーを筆頭に荒くれ者が多く、それが当たり前とされている。
しかし、アレクサンダーだけは、違った。王妃ソラリスが母国から教師陣を呼び寄せ、王太子としての教育をほどこしたのだ。正しい王子の見本としては、最高傑作である。
そして、昔から勘が良いクリストファーは、目で見て覚えれば大抵真似る事が出来るという特技を持っていた。
「それで、私の元に来たと?」
「あぁ」
「どう見ても、人にものを頼む人間の態度とは思えないが?」
眼の前で腕組みをして踏ん反り返るクリストファーに、アレクサンダーは、顔を引きつらせた。元々、仲の良い兄弟ではない。それどころか、言葉を交わすのは、今日が初めてだ。
それなのに、クリストファーは、緊張感すらなく、断られるとも思っていない。
「別に、手取り足取り教えろとは言ってない。ただ、側で観察させろと言っている」
「命令口調を直してから出直してこい」
アレクサンダーの言い分はもっともだ。二十四歳と十四歳。兄であり、王太子である彼のほうが、弟より遥かに地位が高い。
しかし、クリストファーの恐ろしさを知る護衛は、冷や汗どころか卒倒寸前だ。彼が本気で暴れれば、王太子を守りきれるか分からない。
だが、一触即発と思われた空気は、
「ははははは」
アレクサンダーの明るい笑いによって解かれた。
「まさか、お前が、女のために、ここまで来るとは思わなかった」
アレクサンダーは、感慨深げに呟いた。クリストファーが生まれたばかりの頃、近づくことをソラリスから禁じられていた彼は、それでも、時々隠れて弟を覗きに行っていた。たった一人の、母を同じくする兄弟。側妃の産んだ異母弟とは、違う何かを感じていた。
そして、一度だけ、指先を握られたことがあり、その事をふとした時に思い出すのだ。年々獣のようになっていくクリストファーを、アレクサンダーが悲しい目で見つめていたことを知るものは居ないだろう。
「好きにしろ」
アレクサンダーは、それだけ言うと書類に目を落とした。そして、再びクリストファーを見ることはなかった。
その後、アレクサンダーの周りを彷徨くクリストファーが度々目撃され、近衛兵は、日々極限の緊張を感じていた。もしもの時を考え、人員も、通常の倍に増やされた。
しかし、そんな周りの心配をよそに、クリストファーは、淡々と仕事をこなすアレクサンダーを遠目に眺めるだけだった。時折、自分の姿を窓ガラスに映し、見様見真似で挨拶や微笑みの練習を重ねている。
傍から見れば、これが、あの悪魔か?と聞きたくなるほど、洗練された動きになっていた。言葉遣いも、完璧とは言わないが、失礼にならない程度には、丁寧な言い回しを使いこなしている。
ただ、客観的に判断してくれる人間がいないため、
「これで、あっているのか?」
と疑問に思っても、悲しいかな、正解が見つからない。
それは、そうだろう。アレクサンダーが相手にしているのは、事務官等の大人達。幼いサブリナへの接し方とは、全く違う。社交的な外面は、逆に彼女を戸惑わせることになるだろう。
この作戦は、失敗だったかと、アレクサンダーが諦め始めた時に、
「「「ちちうえーーーーーー」」」
小さな子供達が、突然執務室に走り込んできた。三年前に生まれた三つ子は、全く同じ顔をしていて見分けがつかない。
「走ってはいけません」
後ろからユッタリと歩いてきた王太子妃は、腹がはち切れんばかりに大きくなっていた。次の出産も双子らしい。
「大丈夫かい?リリエッタ」
身重の妻を気遣い、アレクサンダーは、立ち上がってソファーへと誘った。
「えぇ、ありがとうございます。アレク様」
「ほら、よく顔を見せて」
アレクサンダーは、ハンカチを出すと、妻の額に薄っすらとかいている汗を拭ってやった。
何にもおいて優しくされる、他国から嫁いできてくれた妻。
沢山の子供に囲まれ、愛する夫に寄り添われる幸せな日々。
それを手に入れることが出来なかったソラリスに、アレクサンダーは徹底的に女性の扱いを教育されていた。
故に、彼は、優しさでこうしているのではない。こうすべきだと教えられ、それを実行しているだけなのだ。
しかし、
「「「ははうえばっかり、ずるーい」」」
ソファーに座ったアレクサンダーの服を子供達が引っ張ると、自然と微笑みを浮かべた。
「コラコラ、危ないだろう?悪いが、菓子とお茶を持ってきてくれ」
「「「わーい、ちちうえ、だいすきー!」」」
妻に対する演技じみた優しさとは違い、目に入れても痛くないと思っているのがヒシヒシと伝わってくる本物の愛情。
『………コレだ』
壁にもたれて眺めていたクリストファーは、何かをつかんだ気がした。
その日から、彼は、アレクサンダーと子供が戯れる時のみ近くに寄ってくるようになった。近衛兵の緊張は更に高まり、精神をゴリゴリにやられた者達が離職願いを出したが、受理されることはなかった。
なんとか、人並みの立ち居振る舞いを手に入れたクリストファーだが、次の問題は、ミョルニールがサブリナに会う許可をくれないことだった。一人娘を取られまいと、無理難題を押し付けてきてくる。
腕立て千回
素振り一万回
それに必死に食らいつき、達成すると、また、次の課題が提示され、いつまで経っても面会許可がおりない。
「お義父様、次は何をすれば宜しいのでしょうか?」
「殿下に、お義父様と呼ばれる筋合いは御座いません」
『ミリアム王家の悪魔』を前にしても、一歩も引かないミョルニールに、クリストファーは、妙な楽しさを感じ始めていた。
一方のミョルニールは、自分にだけ下手にでる第五王子に薄気味悪さを感じていた。
「サブリナと私が結婚すれば、いずれ、貴方を、父と呼ぶことになるでしょう。問題ありません。」
「問題だらけです。私は、まだ認めておりません。サブリナを守れるだけの力を見せて頂かねば!」
一体何からサブリナを守るつもりなのか?過剰戦力とも言えるクリストファーに、ミョルニールは、騎士団での訓練も課した。
「そんなことで良いのですか?」
返事をしたその足で実践訓練に赴き、その日の内に実力を見せつけた。なにせ、人を殴り、蹴り、骨を叩き折ることについては、天賦の才能を持っている。
「はっ、他愛も無いな」
地面に転がる騎士達を見ながら、クリストファーは、拳についた血を拭った。
すると、
「剣なら、負けはしなかった……」
負け惜しみを呟いた者の一言が、新たな被害を生み出す。
「なら、次は、剣だな」
クリストファーは、壁に立てかけてあった木刀を手すると、
ビュンビュンビュン
と音を鳴らして振った。
「さあ、もう一戦始めよう」
そこからは、生き地獄だった。拳から剣へと戦い方を変えてからも、剛腕を振り回すだけで、周りの人間が吹っ飛んだ。
「ははははは、これは、いい!拳が痛くならなくて済む」
次々と人をなぎ倒していく内に、クリストファーの剣は、悔しいかな、舞うがごとく軽やかな動きを見せ始めた。右に振り抜いたかと思えば、返す刀で左へと打ち込む。通常なら、鍛錬と修練と忍耐で勝ち得るはずの「剣聖」と言う称号に相応しい剣技。生まれ持っての才能を見せつけられ、その場にいた者達は、絶望を覚える。
「なんだ、なんだ、歯ごたえのある奴は、いないのか!」
喜々として人を殴り続けるクリストファー。その剣が、
ガキン
大きな鉄製の盾に受け止められた。
「殿下、貴方の腕前は十分分かりました」
盾の向こう側から顔だしたのは、ミョルニール。若かりし頃、戦の最前線にも立ったことのある彼は、鉄壁の防御を誇る防衛線の要だった。
「貴方を娘の婚約者として認めましょう」
「本当ですか?」
「ただ一つだけ、条件が……」
周りで見ていた者達は、宰相であるミョルニールがクリストファーを諌めてくれるのだと安堵した。
しかし、その期待は、大きく外れる。
「娘を傷つけないで頂きたい」
「傷つける?そんな有り得ないことを、態々約束する必要があるのでしょうか?」
「無論です。あの子は、私の宝」
「私にとっては命」
「あの笑顔を奪う者あらば、何人たりとも許しはしません」
「そのような者が現れたら、私がこの手で屠ってやりましょう」
睨み合いかと思われた二人の視線が、フッと和らいだ。戦闘態勢から身を起こすと、無骨な手で握手を交わす。サブリナ至上主義の二人が、同盟を結んだ瞬間だった。
ミョルニールは、サブリナさえ安全で幸せなら、国が滅んでも気にしない。
クリストファーは、サブリナが求めるのなら、世界を征服して捧げることもやぶさかではない。
サブリナにだけは優しい二人は、その点においては、似た者同士だった。
「くれぐれも、サブリナを頼みます」
「サブリナと二人で、カンタンテ公爵家をもり立てていくと誓いましょう」
王家(第五王子)と公爵家(宰相)が組めば、サブリナを危険な世界から完璧に守り切ることができるだろう。考え方を今までの正反対へと変えたミョルニールは、クリストファーを徹底的に育て上げることを決めた。たとえ、戦闘狂の獣であろうとも、自分が亡き後も、サブリナを守りきれる男は彼しか居ないのだから。
「これで、良いだろうか?」
髪を直しながら鏡に問うても、返事はない。やっとサブリナと会えるとあって、クリストファーは、柄にもなく寝不足だった。カンタンテ公爵家の応接間でも、座ることもできず、壁際を右へ左へと歩く。その姿は、まるで迷子の犬のようだ。
「クスクスクスクス」
廊下の方から、小さな笑い声が聞こえてきた。振り向くと、フワフワの髪が、開いた扉の隙間から見えている。そーっと顔を出してきたのは、サブリナだった。パチパチと瞬く目は、好奇心一杯の輝きを秘めており、クリストファーへの警戒心や不快感は、感じられなかった。
「おやおや、サブリナは、いつから覗き見をする悪い子になったのかな?」
アレクサンダーが息子達に言い聞かせる口調を真似て、クリストファーは、最初の一声を掛けた。
「覗き見では、ございませんわ!ごきげんよう、クリス様」
慌てて扉の向こうから飛び出し、サブリナは、習ったばかりのカーテシーをしてみせた。フラフラと左右に揺れるのは、体の割に頭の比重が大きい子供特有のバランスの無さだけでない。今日初めて履いた少し大人びたヒールのせいでもある。
八歳のサブリナにとって、体の大きな十四歳のクリストファーは、大人と同じだ。それに相応しくあろうと背伸びをする姿に、乙女心が見える。
「今、薔薇が見頃ですのよ」
澄ました顔をするも、耳が真っ赤になっていた。
「では、エスコートをしてもよろしいでしょうか?」
わざと恭しく手を差し出すと、
「よろしくってよ」
小さな手を大きな掌にチョンとのせてくる。
『このまま持ち帰るわけには、いかないよな?』
芽生えた衝動をグッと押さえ、クリストファーは、案内されるままに庭を歩いた。途中、靴ずれをしたサブリナを抱えあげるという幸運にも恵まれ、気分は、最高潮だった。
しかし、四阿の近くまで戻ってきた時、ヒソヒソと話す声が聞こえてきた。
「お嬢様、本当に、大丈夫なのかしら?お相手は、王族でしょ?」
「子供を、本気で相手するわけないじゃない。多少、粗相しても許されるわよ」
不用意に噂話をするのは、メイドでも一番下の雑用係専門の者達だった。大きな商家の娘が箔をつける為に、時々短期間だけ公爵家に雇われることがある。単なる行儀見習い扱いの為、本来なら、この庭に立ち入ることすら出来ない身分だ。
しかし、何を間違ったのか、休憩時間に美しい花々に誘われ、こんな所まで歩いてきてしまったようだ。
「でも、お嬢様って、なんか変なんでしょ?」
「まぁ、限られた人以外近づけないらしいから……」
もし、両手がサブリナで塞がっていなければ、きっと彼女達の細い首は、クリストファーにへし折られていただろう。
しかし、耳を抑え、青くなってカタカタ震えるサブリナを投げ出すわけにはいかない。クリストファーは、近くにあった石を蹴飛ばし、メイドの一人に当てた。
「痛い!」
キッとこちらを睨んできたメイドだが、自分を攻撃した人物の素性に気付いて目を見開いた。あのまま喋り続けていれば、サブリナについて、もっと酷い言葉を発していたかもしれない。
クリストファーは、サブリナの目を片手で塞いだ。そして、女達を蹴倒そうと一歩踏み出した時、彼より先に別の者が棍棒で殴り二人の意識を刈っていた。
「誠に、申し訳ございません。お怒りは、ごもっとも。しかし、今は、お嬢様の方が大事です。どうか、屋敷の方へお戻りください」
片膝をつき、頭を下げるのは、今朝クリストファーを応接室まで案内したシルベスターという名の老執事。その後ろで、倒れたメイド達は、姿が見えぬよう、無表情な別のメイドによって木の陰に押し込められた。平民が、公爵令嬢を侮辱したのだ。
ただで済むはずはないが、
「確かに、そうだな」
クリストファーは、サブリナを最優先し、大股で来た道を戻り始めた。
連絡を受け、ミョルニールは、全ての仕事を放棄して緊急帰宅した。子供部屋に駆け込むと、クリストファーの腕に抱かれたまま、娘はスヤスヤ眠っていた。
「殿下……サブリナは……」
「さっき、眠ったばかりです。しかし、私の服を掴んで離しません」
ベッドに寝かせたほうが良いのは分かっているが、必死に縋る手を振り解くことも出来ない。どうすれば、一番彼女の為になるのかと頭を悩ませていると、
「もし、可能でしたら、暫くそのまま抱いてやって下さい」
サブリナを溺愛するミョルニールから思わぬ申し出がされた。これには、逆に、クリストファーの方が困惑する。
「いいのですか?」
「はい。今の娘には、貴方が必要なようですから」
その一言で、事の重要さを肌身に感じたクリストファーは、サブリナを抱きしめる腕に力を込めた。
「事情をお伺いしても?」
「正式に婚姻を結ぶまでは、秘密にと思っていたのですが……サブリナは、少々変わったところがありまして……」
歯切れの悪い物言いから、あまり良い話ではないと予想できた。
「死んでも、口外いたしません。もし、信用出来ないようでしたら」
クリストファーは、指輪を外すとローテーブルの上に置いた。それには、王族にのみ許された印が刻まれている。身分を保証するものであり、命の次に大切なものであった。
「これをお預けします」
「そこまでは」
クリストファーの覚悟を見て、ミョルニールは、娘の秘密を明かすことにした。
「娘は、一度見聞きしたものを、忘れたくても、忘れることが出来ないのです」
この呪いのような才能に気づいたのは、サブリナが三歳、母親の葬儀が執り行われている時だった。
突然彼女が、
「おとうさまは、わたしをすてるの?」
と泣き出したのだ。理由を聞くと、参列者の中にいた親戚が、幼いサブリナに色々吹き込んだようなのだ。
「サブリナ、大叔父様は、何て言ったか覚えているかい?」
父の質問に、サブリナは少し間を置き、三歳とは思えぬ口調で語りだした。
おんなには、しゃくいは、つげない
おとこの、あとつぎが、ひつようだ
ようしをとるか
さいこんして、あらたに、こどもをつくるか
どちらにしろ
おまえは、こうしゃくけにとって、じゃまものだ
うまれてこなければ、よかったのに
ははおやと、いっしょに、しねば、よかったのに
あぁ、やくびょうがみめ
おまえは、いらないこなのだ
おまえは、いらないこなのだ
おまえは、いらないこなのだ
壊れたように同じ言葉を繰り返し始めたサブリナに、式場にいた全員が、顔色をなくした。ただでさえ母親を亡くしたばかりの幼子に言う言葉ではない。
大叔父は、直ぐに捕らえられ、縁を切る手続きが取られたが、サブリナは熱を出し、長い間ベッドから離れることができなくなった。
「その日以来、あの子の身の回りの世話は、そこに控える執事のシルベスターとメイドのルシエルにのみ任せています。今日は、普段と違う動線をサブリナが辿った為、前もって邪魔者を排除出来なかったようです」
「そうか……私を喜ばせようと庭に出たのが間違いだったか」
「いえ、サブリナには、屋敷内だけでも不自由がないようにと行動に制限はくわえておりません。知人にどうしてもと頼まれ、迎え入れたメイド達の人間的未熟さを、見極め切れなかった私達の不手際です」
互いに自分のせいだと気に病むが、それより大切なことは、この後、どうやってサブリナを慰め、立ち直らせるかだ。
「幸い、今回は、殿下が側にいてくださり、最悪の事態を免れました。感謝いたします」
クリストファーが止めなければ、あの馬鹿なメイド達は、延々と無駄話を続けただろう。人の噂話は、時間潰しには丁度よい。有る事無い事織り交ぜて、人を傷つけることなどお構いなしに、可笑しく笑えば満足なのだ。
「今後は、私も、サブリナを守ることに協力しましょう」
「それは、心強い。どうか、宜しくお願いいたします」
まだ八歳のサブリナの人生は、これからの方が、ずっと長い。その全てを守ることは、不可能に近いかもしれない。
しかし、クリストファーは、どんな汚い手段を使っても、彼女を守りきろうと心に誓った。
「あ、クリス様……」
「やぁ、私の眠り姫。ご機嫌は、いかがかな?」
クリストファーの腕の中で目覚めたサブリナは、意識がハッキリしないのか、ぼんやりとした表情をしている。
「私……眠ってしまったのですね」
「とても可愛い寝顔だったよ」
「なぐさめは、要りませんわ」
「心外だな。本心を疑われては、私も泣いてしまうよ」
優しく語りかけるクリストファーに、サブリナは、悲しげに微笑んだ。
「クリス様は、こんな子供にも優しいのですね」
「そうかな?他の者からは、(悪魔としか)言われたことがないよ」
「私も、もう少し早く生まれたかった。そうしたら……」
『子供だから粗相しても許される』
そう思われていることが辛かった。少しでもクリストファーに相応しくなろうと、慣れないヒールを履いたことすら不相応で恥ずかしかった。いくら大人びた喋り方をしようとも、八歳であることは、変えられない。
今も、赤子のように抱っこされ、あやされている状況に、サブリナは、情けなくて俯いてしまった。
クリストファーは、彼女の頭頂部を眺めながら、内緒話をするように囁いた。
「ねぇ、サブリナ。君は、とても本が好きなんだね」
「え?」
「この部屋の本棚には、素敵な本が詰まっている。見たことのない本も、沢山あるね」
「あ、あれは、シルベスターが作ってくれたのです」
サブリナは、その特殊性から他人との関わりを極力排除されており、本を読むことだけが、唯一気兼ねなく楽しめる娯楽だった。
しかし、元々絵本や童話は種類が少ない。出版されている物は、全て読み終えてしまっていた。そこで、昔から絵と文章が得意だったシルベスターが、サブリナの為だけに手作りで本を作ってくれるようになったのだ。
「私の宝物なのです」
それまで読んだシルベスターの本を思い返し、サブリナの頬に、やっと笑みが戻った。
「ねぇ、サブリナ。私にも、本を贈らせて貰えるかい?」
「いいのですか?」
「あぁ、(国立図書館には)本が腐るほど余っているからね。(勝手に)持ってきても、誰も気づかないよ」
所々入るクリストファーの心の声はサブリナには聞こえない。ただ素直に喜び、両手を口に当てていたが、
「さっき、お義父様に、聞いたよ。君の才能は、素晴らしいね」
と言われ、ビクリと体を強張らせる。
クリストファーに嫌われないか、怖くなったのだ。
しかし、トントントンと優しく背中を叩かれ、徐々に力が抜けていく。
「サブリナが、沢山の本を読んで、それを活用出来れば、益々このカンタンテ公爵家は発展するよ」
「私が、そんなことを?」
「あぁ、君にしか出来ないことだよ」
考えたこともなかった。父に守られることが当たり前で、自分が家族の為に何かしようと思ったことがなかった。
「ちゃんと、本は、選ぶよ。怖い本なんて、持ってこないから安心して」
「ふふふふ、クリス様と一緒なら、そんな本も読んでみたいかもしれません」
忘れる事が出来ないのなら、芽生えた悲しみは、より大きな幸せで塗り潰せばいい。そう結論づけたクリストファーは、サブリナに溺れるほどの愛を注ぐと決めた。
そして、サブリナも、マイナスにばかり思っていた自分の特性が、思いもよらないアドバンテージになる事を知った。
『もっと、知識が欲しい』
小さなサブリナの心に、大きな野望が生まれた。
あれから、はや、四年。十八歳になったクリストファーは、劇的に身長が伸び、彼を見下ろせる人間は、誰一人いなくなった。
サブリナを守るために磨き上げた剣の腕前は、他国にまで聞こえるほどだ。その噂を聞きつけた百戦錬磨の猛者達がミリアムに集まり、彼との対戦を望んだ。
しかし、
「誰が、剣術で対戦すると約束した?」
『砂で目潰しをした後、殴る蹴る』という原始的な戦い方で勝ち逃げし、高笑いするクリストファーは、成長しても安定のクズだった。
『何事も腕力で黙らせる男』
と思われがちな彼だが、実は、謀略という知的な分野においても類まれな才能を持っていた。相手の弱みを握り、生かさず殺さず使い倒すのは、得意中の得意だ。サブリナの為に調べた国立図書館の館長に関する秘密は、本の貸出に、とても役立った。
この点において、父親であるカイザーの血を一番色濃く受け継いでいるのは、彼なのかもしれない。
しかし、派手に動き回って下手に父の手駒にされぬよう、この能力は、サブリナの為だけに使われている。
こんな最低最悪なクリストファーだが、サブリナとだけは、きちんと向き合い、良好な関係を築いてきたと自負していた。こうして不意に訪れても、咎め立てされないくらいには、ミョルニールの信頼も勝ち得ている。
両手に下げるずっしりと重い袋の中身は、彼女の為に購入した異国の本だ。
あの八歳の出来事から、本を娯楽ではなく、自分が公爵家の役立てる一つの方法だと考えるようになったサブリナは、もう一つの才能を開花させていた。
それは、『速読』だ。訓練によって身につけられる技術であるとは言われているが、彼女の場合、スピードと記憶定着率が違う。
しかも、その知識を使いこなせるだけの思考力も高い。社交に向かない彼女は、クリストファーと出会わなければ、家に引きこもるだけの悲観的な未来しかなかった。
しかし、今や国随一の読書量を誇り、『知識の集積』にかけては右に出る者はいない。
屋敷から一歩も外に出ず、黙々と本を読み、公爵家で働く者ですら選び抜かれた人間しかお世話をさせてもらえない深窓の令嬢サブリナは、貴族達から変わり者だと思われていた。しかも、アノ第五王子の婚約者。いつしか『公爵家の読書狂』と呼ばれるようになっていた。
そんな彼女が新しく読める本は、新刊か異国の本、そして、庶民が読む娯楽本くらいだ。
そして、話は、冒頭へと戻る。
何故か婚約破棄されるという馬鹿な妄想を信じ込み、一生懸命努力を重ねる可愛いサブリナ。
その不安げな姿が、自分への愛の深さの裏返しのように感じられ、クリストファーは、口元が緩むのを抑えられない。もっとよく見ようと前のめりになったその時、
カサッ
たまたま木の葉が頭に当たり音を立ててしまった。
気配に気づいたシルベスターが視線だけこちらに向ける。そして、馬の形に刈り込まれている生け垣の尻尾部分から覗くクリストファーを見つけ、そっと顔を横に振った。どうやら、今は、出てくるなと言うことのようだ。
「お嬢様。貴女を溺愛される殿下が、学園の卒業式に婚約破棄を申出されるなど、有り得ないではないですか」
「だって、そう書いてあったのですもの」
「何に書いてあったのですか?」
「予言書よ」
サブリナが隠し持っていた本を机の上に出した。
『平民の聖女が、なんやかんやで王太子妃になっちゃった、テヘッ♡』
何ともふざけた題名の本だが、今、巷で人気の少女向け娯楽本だ。その表紙に、
『予言書』
と書かれたメモが付いている。筆跡を分らないようにする為か、わざと利き腕とは違う手で書いた時のような乱れた文字だった。
この本の存在は、数日前、クリストファーの元に情報として上がってきていた。内容が内容だけに、現在禁書扱いになっており、見つけ次第警邏隊が没収する事になっている。
登場する第五王子の名は、クリフトファー。そして、婚約破棄される公爵令嬢の名前は、サブリミ。非常に酷似している。その上、婚約が結ばれた経緯や、二人の別名とされる『ミリアム王家の悪魔』、『公爵家の読書狂』といったものが全く重なる形で出てくる。
この作品が、この国の第五王子クリストファーとその婚約者サブリナをモデルにしていることは明らかだ。特に、当て馬として登場するサブリナに関しては、実在の人物とは程遠い内容であり、名誉毀損で訴えても良いレベルである。
出版社も分からない謎の書籍は、半月ほど前に噴水広場や公園の露天で格安販売された。その数が驚くほど多く、すべての回収には未だ至ってない。
こんな悪書をサブリナに手渡さぬよう、屋敷の者達も、クリストファーも最深の注意を払っていた。それなのに、今、現実に目の前に本があるのは何故なのか?
同じことを思ったのか、シルベスターは、テーブルの上に置かれた薄い本を他に取ると、
「お嬢様、この本は、何処で手に入れられたのですか?」
と問いただした。
「今朝、起きた時に、枕元に置いてあったわ」
昼夜問わず、サブリナの部屋の前には、クリストファーの息が掛かった王家暗部の精鋭が、常に二人体制で立っている。部外者が侵入したとは考えられない。となると、本を持ち込んだ犯人は、護衛が部屋への出入りを許す顔見知りの使用人だと推定される。
身分も、経歴も、何重にもチェックを入れて雇用したはずなのに、一体どこに漏れがあったのか。クリストファーの瞳が、人でも殺しかねない冷酷な光を宿す。
「そうですか、枕元に。それ以外に、何か変化はございませんでしたか?」
「それは………」
キュッと唇を噛みしめ、サブリナは、チラリと背後に立つメイド、ルシエルを見た。幼き頃からサブリナ専属として甲斐甲斐しく世話をしてくれていた彼女に向ける視線は、いつもの天真爛漫さはなく、とても悲しげで苦しそうだ。
一方のルシエルは、普段から無表情の為分かりにくいが、視線が微妙に揺らいでいるように見えた。
「お嬢様、申し訳ございませんが、少々目を閉じて頂けますか?」
「えぇ、じいやが、そう言うなら」
サブリナは、素直に目を閉じた。その瞬間、シルベスターが、
ヒュン
老体とはにわかに信じがたい早業で、ルシエルの首に手刀を打ち込み、床に倒れ込む前に抱き上げた。カカシのようにヒョロヒョロとした細身の何処に、そんな力が隠れているのか。彼は、そのまま足音もなく四阿の外に行くと、クリストファーの脇に控えていた護衛に無言で引き渡した。
「自白剤の使用を許可する。殺すな。己の罪を後悔して、床を這いずるまで追い込め」
クリストファーは、小声で護衛に指示を出すと、何食わぬ顔でシルベスターと共に四阿へ戻り、サブリナの前に立った。
「お嬢様、目を開けてくださいませ」
シルベスターの声に、サブリナの長いまつ毛に縁取られた瞼が、ゆっくりと開く。
「クリス様……」
「やぁ、サブリナ。君が欲しがっていた隣国の本が手に入ったんだ。直ぐに読ませたくて持ってきてしまったよ。迷惑だったかい?」
巨大な体を縮こまらせ、わざと捨てられた子犬のように弱気な声音で囁くと、サブリナは、弾かれたように目を見開き必死に首を横に振った。サブリナは、とても優しい。優しいゆえに、哀れなものを捨て置けない。
なので、彼女には高圧的に接するよりも、自信なさそうに微笑む方が効果的なのだ。サブリナのすべてを知り尽くす男クリストファーは、今日も狡猾であった。
「シルベスター、申し訳ないけど飲み物を用意してくれるかい?少々喉が渇いてね」
優しい王子の仮面を被ったクリストファーが、サブリナの横に近過ぎる距離で座った。通常運転なので咎めようもない。
「かしこまりました」
シルベスターは、一礼すると、ティーセットを用意するために下がった。この時点で護衛も下がり、今、この庭にはサブリナとクリストファー以外の人間は居ない。
もし、刺客が何処から襲ってこようとも、彼の剣で原型が分からぬくらい切り刻まれることだろう。
「サブリナ、こっちを見て」
泣いて赤くなった目を見られたくなくて顔を背けるサブリナを覗き込むように、クリストファーは頭を下げる。
「サブリナを泣かせた悪い本は、これかな?」
例の本をクリストファーが手に取った事に気付いたサブリナは、慌てて顔を上げ、本を取り戻そうとジタバタし始めた。
しかし、クリストファーは、右腕でヒョイとサブリナを抱えると自分の膝の上にフワリと下ろした。これも通常運転なため、サブリナは、驚くことなく愛しい人の腕の中に収まった。
「まったく、ふざけた名前の本だね」
「最近、庶民の娯楽本は、このような題名のものが多いのです。本を買うにはお金がかかるので、予め内容が分かりやすいものが好まれるようです」
「私には、全く内容が推察出来ないけどね」
クリストファーのホトホト呆れたと言いたげなため息に、ほんの少しサブリナの口元が綻んだ。
「サブリナ、間違い探しをしようか」
「間違い探しでございますか?」
「あぁ、この本の中に書かれていることと、本当の私達とを照らし合わせれば、嘘しか書かれていないと分かるだろ?」
クリストファーは、太い指で器用にページをめくった。
「先ずは、登場人物の名前からいこうか。サブリナ、私に教えてくれるかい?」
「クリフトファー殿下とサブリミですわ」
「ほら、名前が違う」
「そうですけれども」
不満げに頬を膨らますサブリナが可愛過ぎて、クリストファーは、思わず頬にキスをした。
「クリス様!」
「ごめん、ごめん。それで、このクリフトファー殿下とやらの性格は?」
「残虐にして、苛烈。戦闘を好み負け知らず。しかし、ヒロインによって、優しさを取り戻します。サブリミには……笑顔すら見せません……」
読んだ時の悲しさを思い出したのか、サブリナの眉が情けなく下がる。クリストファーは、落ち着けるよう、トントンと背中を軽く叩いてあげた。
「ほーら、全然違うじゃないか。私は、サブリナ(だけ)に微笑むだろ?戦闘も好きじゃないよ(負けたことはないけど)。苛烈なんて言葉、私に似合うと思う?」
サブリナの前では、苛つくことも烈しい怒りに見舞われることもない。常にそよ風のような柔らかさで接している。
それ故に、彼女は、知らない。騎士団から悪魔と呼ばれるクリストファーの、残虐と言う言葉すら生易しい無慈悲な一面を。
「その次は、えーっと、サブリミ?の性格は、サブリナと同じなのかな?」
「いえ、全く違います。本好きな描写をしているくせに、癇癪を起こして図書館に火を付けるシーンがありました。私なら、死んでもこのようなことは致しません。本は、過去から未来へと知識を繋ぐ架け橋。粗末に扱う者など天罰を受けるべきです」
「そうだよ。天罰を受けるべきだね」
フンスと鼻息荒く怒るサブリナの頭を撫でながら、クリストファーは、この本の作者に最も残虐な天罰を与えてやろうと心に決めた。
「ほら、ほんの少し考えただけで、私達とは全然違う人達の話だって分かるだろ?」
クリストファーの巧みな誘導で、サブリナの表情も少しずつ和らいでいく。
「それなのに、何故か愛しのサブリナは、婚約破棄の練習をシルベスターと繰り返している。私がどれほどショックを受けたか、分かるかい?」
「申し訳ございません。ただ、私は、自分が身を引くことでクリス様が幸せになれるならと思ったのです。でも、突然言われたらショックで心臓が止まってしまうかもしれません。なので、シルベスターと予行演習をして耐性をつけようと思ったのです」
「うん、努力の方向性が驚くほど間違っているね」
「そうなのでしょうか?」
「サブリナ、これからは、努力する前に私に一声掛けよう」
「はい。分かりましたわ、クリス様」
サブリナが、クリストファーが突き出した右小指を小さな手で包み込んだ。これは、約束を誓う時の二人の儀式。小指と小指を絡ませるには、大きさ、太さが違い過ぎることから編み出されたスタイルだ。
『婚約破棄ごっこ』に一応の決着がついたのを見計らい、シルベスターがワゴンを押して戻ってきた。お茶だけではなく、サブリナの大好きな甘味も載せて。
「まぁ、こんなに沢山?」
色とりどりのケーキや様々なフレーバーの焼き菓子、ドライフルーツに異国の砂糖菓子。一つ一つは小さめだが、趣向を凝らした甘い物を前に、サブリナは、すっかり気持ちを持っていかれる。
「じゃあ、私も、一つ頂こうかな」
「えぇ、是非」
「サブリナのおすすめは?」
「迷ってしまいますわ。あぁ、このチョコにナッツを加えたクッキーは、甘さ控えめですが香ばしさと歯ごたえの良さが秀逸ですの。甘い物が得意でない殿方にも、丁度良い茶請けとなりますわ」
嬉々として甘味を食すサブリナを見て、クリストファーもシルベスターも、ほっと胸を撫で下ろす。
サブリナは、完全記憶を持つが故に、辛い出来事が起こると長く心を煩わす。あくまでも、今回の件は、架空の物語であり、サブリナには関係のないことだと言い含めなくてはならない。
「あの、クリス様」
「なんだい、サブリナ」
「さっきの本のお話、よくよく考えれば、辻褄の合わないことばかりでしたわ」
「どんなところが?」
「ヒロインは、第五王子のクリフトファー殿下と結ばれて王太子妃になられるのです。でも、王太子妃になるには、王位継承第一位の第一王子と結ばれなければなりません。我が国なら、アレクサンダー様ですわ」
「そうだね。第五王子が王太子になるのは、(兄弟全員を抹殺しないと)確率的に極めて低いと言えるね。もしかして、サブリナは、王太子妃になりたかったのかい?」
「いいえ」
「本当に?」
「はい」
「今からでも(サクッと兄弟全員を始末したら)間に合うかもしれないよ?」
「いいえ、私は、クリス様と二人でカンタンテ公爵家を盛り立てていく所存です!」
「ふふふ、私は、サブリナが望むなら、何でも実現してあげるからね」
「はい」
微笑み合う二人。クリストファーの「何でも」の意味を、サブリナが正確に理解することは一生ないだろう。
「あと、もう一つ」
「なんだい?」
「聖女が王都で大流行した疫病を、神聖魔法で治癒させたのですが」
「魔法なんて、(子供だましの)御伽噺のよう(で、胸糞悪い話)だね」
「いえ、そうではなく、本に登場する疫病が、34年前に東の国で流行したものと酷似しておりました。彼の国では、既に、特効薬が開発されております。四年前、第四王子殿下の婚姻では、結納品として我が国にも献上されたはず」
何度もいうが、サブリナは、今まで得た記憶を全て維持している。クリストファーが戯れに見せた献上品目録(閲覧禁止書類)も、隅から隅まで頭に入っているのだ。
「同じ病気なら、薬を配ったほうが早く沢山治るのではないかと思いまして」
「それでは、聖女の見せ場はなくなるね」
天才なのか天然なのか。珍しくまともなクリストファーの指摘にも、首を傾げて不思議そうな顔をしている。
「お薬は、必要ありませんか?」
「そうじゃなくて、これは、作り物のお話だから」
「しかし、『予言書』などと書かれては、やはり気になります。もしもに備えておくことは、決して無駄にはならないかと」
サブリナは、常に『自分ならどうするか』を念頭に置き本を読む。その視点から、一人でも多くの人を助けるにはどうすれば良いか、真剣に考えているのだろう。サブリナの心根の優しさに、
「分かったよ、今後の流行も視野に入れて薬の国内生産が出来ないか、お義父様に伝えておくよ」
と答えた。
それを聞いて、やっと納得出来たのか、サブリナは、目の前に置かれたクッキーを手に取り口に運んだ。
しかし、モグモグと噛むスピードが、どんどん落ちて、気付けば空中をボンヤリ眺めていた。
「それにしても、この物語を書いた方は、どうして第五王子のクリフトファー殿下を王にしたかったのかしら?兄弟が仲違いする原因にしかならないのに…」
気になることがあると、そればかり気になってしまうサブリナは、頬に手を添え考え込む。本の中では、ただ、第五王子が王太子になったと締めくくられているだけで、その経緯は有耶無耶にされている。
「それに、弟が兄に取って代わるには、相応の実績が必要よ。あ、だから、わざと疫病を流行らせたのかしら?そうなると、聖女と言う存在自体、怪しい。人民を掌握するために、民を救ったように見せかけて、特効薬を配っただけなのかも」
あくまでも『予言書かもしれない』という立ち位置から思考をめぐらし始めたサブリナは、ブツブツと独り言を始めた。
すると、その横に立つシルベスターが、ポケットから出したペンとメモ帳にサブリナの言葉を一言一句書き記し始めた。その筆さばきは、目にも留まらぬ早業で、流れるように文字が紙に記されていく。
カンタンテ公爵家では、サブリナの独り言は、「神の啓示」と呼ばれるようになっていた。その膨大な知識量と解析を可能とする思考能力の高さで、この四年間に何度も領内の災害を未然に防いできたのだ。今や、どのような些細なことも、聞き逃さずに記録することが、シルベスターの最も重要な仕事になっている。
「あの疫病を人工的に発生させるには、やはり、患者を国内に引き入れるのが効率的。飛沫感染、接触感染、どちらも考慮に入れて、あれほど劇的な感染拡大を起こすには、どうしたら良いのかしら?より狭い空間と不衛生な場所で、感染者を確実に量産し、一気に市街へとばら撒く…」
頬をムニムニと摘みながら、サブリナは、該当するエリアを頭に浮かべる。
「火種となる患者を国内に入れないように出来れば良いけど、まだ発病していない保菌者の存在を考えると不可能ね。発病者が見つかったら、速やかに隔離することが最も重要な事だけど、永続的な改善策としては、貧民街の衛生面改善と生活水準向上ね。何か、大量雇用出来る公共事業があれば良いけど……」
サブリナの思考が、どんどん違う方へ進みだしたのを見計らい、
「サブリナ。私の相手もしてくれないと」
クリストファーは、わざとらしく拗ねてみせた。
「あ!クリス様、申し訳ありません。一人物思いにふけってしまいました」
「そんなサブリナも可愛いから良いのだけど、紅茶が冷えてしまう。先ずは、お茶会をしよう」
「えぇ!楽しいお茶会を致しましょう」
サブリナは、その特殊性から、社交を禁じられている。一度覚えると忘れられないと言うことは、悪口や嫌がらせも忘れられないと言うことだ。
だから、サブリナは、物語に出てくるお茶会に憧れがあり、とても楽しみにしている。たとえ、参加者が婚約者と老執事だけであろうとも。
「あ……でも……ルシエルが……」
普段なら古参メイドのルシエルも、その輪に加わるため、空いたスペースにサブリナの目が泳ぐ。黙り込んでしまったサブリナを、クリストファーは、太く逞しい腕で、そーっと抱きしめた。
「あの(恩を仇で返す下等)メイドに、何か言われたんだね」
「………」
「言わなくて良いよ(思い出して辛くなるから)。大丈夫。私が一生(囲い込んで)君を守るからね」
涙目のサブリナは、ヤンデレ気質のクリストファーが内心抱いている邪な欲望など気づかずに、心配かけまいと健気に微笑んだ。
「はい、それからの記憶は、全くございません」
捕縛されてから丸二日経ち、ルシエルは、尋問室で、止まることのない涙を流していた。全ての始まりは、実家である子爵家から、母の危篤を知らされたことだった。慌てて帰ると、母は、ピンピンしており、拍子抜けはしたが、素直に家族の無事を喜び晩餐を共にした。
そこから、プツリと意識が途絶えている。そして、先程目を覚ますと、全身に打撲痕が残っており、奥歯も欠けていた。
しかし、その痛みが、意識を覚醒させてゆき、自分の失態に絶望した。
カンタンテ公爵家では、屋敷外で飲食することを禁じている。それは、毒や薬が混入される恐れがあるからだ。自分の身に危険が及ぶだけなら良い。
だが、それが原因でサブリナに危険が及べば、カンタンテ公爵だけでなく、クリストファー第五王子の逆鱗に触れることになる。
「私は、なんてことを……」
先の戦争で夫を無くしたルシエルは、子をなさぬまま実家へと送り返された。婚期も逃し、再婚もできぬ彼女をサブリナの側仕えとして雇い入れてくれたのは、遠縁であった今は亡きカンタンテ公爵夫人だった。
ルシエルは、その恩を返すべく、身を粉にして働いた。漆黒の闇と評された美しい黒髪を一纏めの硬いお団子にし、動きやすさ重視で、黒のメイド服を着る。匂いを嫌うサブリナの為に化粧も一切せず、女性としての見た目は、全て捨てた。
病弱で、産後の肥立ちが悪い公爵夫人に代わり、赤子のサブリナをあやした。そして、可愛いサブリナは、ルシエルにとって、何者にも代えがたい存在になった。傷つける者は、刺し違えてでも成敗すると息巻いていたのに、その自分が、まさかサブリナ本人を傷つける存在になるとは。
「君は、かなり強い暗示にかけられていた。『クリフトファー殿下は、聖女と結ばれるべきだ』。自白剤による尋問に、何度も、そう答えている」
「クリフ……?」
「あぁ、君は、何度も、クリフトファー殿下と叫んでいた」
尋問官の言葉に、益々混乱してきたルシエルは、頭を抱えガンガンと机に打ち付けた。目は焦点を無くし、どこを見ているのか分からない。
「やはり、夕食には、睡眠薬だけじゃなく、精神を操り易くする何らかの薬が混ぜられていたようね」
「あの不安定さを見るに、可能性はあるな」
「血液検査は?」
「今、急がせている」
横で会話の一部始終を聞いていた白衣姿の面々は、手元に集まった大量の情報を精査するのに忙しい。何故なら、子爵家の者達が、同様に厳しい尋問を受け、その報告が続々と上がってきているからだ。その内容は、一様に、
意識を失う直前、何かを口にしている
血液検査で、複数の違法薬物を検出
自白剤使用時には、『クリフトファー殿下と聖女が結ばれる』と妄言を吐き続ける
時間経過により自我を取り戻すものの、錯乱状態が続く
というものだった。
サブリナがあんな怪しげな本を信じ込んだのは、ルシエルに
『本当に、この本の通りになるの?』
と聞いた際、深く頷かれたことに起因している。生まれた時から世話をしてくれたルシエルに対し、深い信頼を置いている故の悲劇である。
サブリナとクリストファー(オマケで老執事)のお茶会の最中に、子爵家の当主家族から小間使いに至るまで、ルシエルの関係者は全員が捕縛されている。屋敷内から忽然と住人が姿を消しても、それを警邏隊に知らせる者がいなければ、しばらく気づかれることはない。
それに、自白剤の使用過多でもし命を落としたとしても、その亡骸は、闇に葬られるのだ。
「それにしても、あの悪魔は、手加減をしらない」
「しっ!不用意な言葉は、命を縮めるわよ」
捕縛者達への激しい尋問は、全てクリストファーの指示であることを皆知っている。カンタンテ公爵家の者達も、サブリナを守る為なら、どんな手段でも取る覚悟がある。
だが、クリストファーのやり方は、常軌を逸していた。正直、サブリナ以外は、人間とすら思っていない。
故に、サブリナの命が何者かに奪われでもしたら、クリストファーは、犯人を探し出すなどといった面倒な手順など踏まない。
自分以外の人間が誰一人いなくなるまで手当り次第に抹殺し、その後サブリナの後を追うだろう。
「兎に角、この世の為にも、カンタンテ公爵令嬢には、心穏やかにいて頂かないと」
「そうだな」
サブリナを守る為だけに集められたクリストファー直属の部下達は、主の恐ろしさを一番よく知っていた。
「水質検査には、何も引っかからないだと?」
上がってきた報告に、クリストファーは、目を細める。それだけで、普通の人間なら卒倒するが、
「しかたねーだろ。出ねぇもんは、出ねぇ。街中の井戸を手下使って調べたんだ。嘘は、言ってねーよ」
砕けた口調で答える男は、ソファーの背もたれに深く沈み、両足を目の前のローテーブルに乗せている。血を彷彿とさせる赤髪。猛獣のような険しい人相。ひと目見て、ただならぬ空気を醸し出している。
彼の名は、デラル。クリスの訓練相手として冒険者ギルドから派遣された強者の一人だ。年齢は、三十代。クリスに負けず劣らずの巨体で、ソファーは、その重みにミシミシと音を立てている。
「でも、なんで、急に、水質検査とか言い出したんだよ」
「お前には、関係ない」
「はぁ?それが、年上に使う言葉遣いかよ」
「それを言うなら、俺は、王子だ。頭が高い」
互いに、遠慮のない二人の掛け合いに、周りに控える護衛達は生きた心地がしない。
しかし、唯一戦闘訓練で歯ごたえのある相手だったデラルを、クリストファーは、珍しく気に入っていた。雑な物言いも咎めることはなく、したいようにさせている。
ルシエル達の状況から、クリストファーは、ある予想を立てていた。
皆が広く口にする水を介し、思考力を低下させる薬を徐々に摂取させ、例の本を通じて暗示状態に陥れる。そうでなければ、あのようなつまらない本が、あそこまで爆殺的に人気になるわけがない。
では、何故、金と手間を掛けてまで、そのような事をしたのか?
それは、クリストファーを陥れるためだ。それを裏付けるように、今、宮廷内では、あの本の著者がクリストファーではないかと噂され始めている。
世論を操作し、第五王子こそが王太子に相応しいという流れを作ろうとしているのだと。馬鹿馬鹿しくて、笑い飛ばしたい所だが、消えることなく燻り続ける噂に、悪意を感じる。
真犯人は、余程、アレクサンダーとクリストファーを仲違いさせたいらしい。現に、王太子派の貴族達からクリストファーへの尋問を求める声も上がってきていた。
クリストファーとしては、身の潔白を晴らし、サブリナを傷つけた犯人を血祭りに上げたい。
しかし、肝心の薬が井戸から検出されないのでは、仮定の立証は難しい。
考え込むクリストファーに、デラルが、
「でも、確かに、最近、町中変な雰囲気だとは思っていた」
と声をかけた。
「どんな風に?」
「なんだっけ。ほら、あの変な本が出回ってんだろ。お前をモデルにしてるとか言う。ふざけんなよな。お前があんな生易しい男かよ」
「お前の感想など、どうでも良い」
「まぁ、そう言うなよ」
デラルは、机から足を降ろすと、今度は膝に手を置き、前のめりになって、対面に座るクリストファーに顔を近づけた。
「仕事中に例の本を読んでたギルドの受付嬢に、『コイツは、人殺しを何とも思わないバーサーカーだぞ』って教えてやったら、『クリフトファー殿下は、そんな人ではありません!!』って激怒しやがってな。普段大人しい性格なだけに、違和感しかねぇ」
「で?」
「本を読んだ直後から、突然性格が変わるって、おかしくないか?」
「直後?」
「あぁ、直後だ。別の受付嬢から例の本を受け取るまでは、いつも通りだった。それが、本を読み出して暫くすると、ボーーッとした表情になってな。ありゃ、なんか、ヤベーヤツだ」
語彙力は欠如しているが、デラルの観察眼は確かだ。
「よくよく町中見てみたら、視点の合ってねぇ奴が、ゴロゴロしてる。一応、本の方は、手の回る範囲で回収しておいた。これは、受付嬢が、持っていた分だ」
デラルは、無造作に薄い本を一冊床に投げ捨てた。
「中身は、見たのか?」
「まぁな。内容的に虫唾は走るが、変わったところはなかった。ただ、平民が手にするには、装丁が凝り過ぎだ。こんなもん、安価で売ったら赤字になるだけで、利益なんて生みださねぇよ」
確かに、表紙には、美しい絵が施され、紙も上質。わら半紙に一色刷りが一般的な平民仕様の本とは、一線を画している。
「お前ともあろうもんが、後手に回ってんのか?」
「こちらの予想の100倍以上の本を売りさばいていた。ゴミムシの癖に、巧妙な手口だ」
「待て待て。あの本を捨て値でそんだけ売れば、大赤字で倒産するだろう」
下手をしたら、小国の国家予算など消し飛ぶ。
「相手は、最初から儲ける気なんてない。これは、我が国を混乱に陥れるための、巧妙に仕掛けられた罠の一部だ。」
クリストファーは、予想以上の大物が隠れていることに気づき、眉間にシワを寄せた。
人知れず、これだけの本を用意し、流通させるのは、国外の人間にはむずかしい。しかも、クリストファーが今までに起こした騒動について、詳しすぎるのだ。まるで側で見ていたかのような描写に、虫唾が走った。
「うわぁー、お前、マジで恐ろしい顔してるぞ。婚約者ちゃんの前では止めておけ」
「煩い。帰れ」
「なんだよ、折角協力してやってんのに」
「金は、払っている」
「はいはい、坊やに殺される前に帰るとしましょーか」
デラルは、金貨が入った袋を片手に持つと、巨体を揺らしながら出ていった。
その後ろ姿を眺めながら、クリストファーが、
「今すぐ、ギルドの受付の血液を調べろ」
と指示を出した。この命令が、正当な協力を仰いでの検査を意味しているわけではない事を、部下達は十分に知っている。人知れず攫い、血を抜き、調べる。その後、受付嬢がどうなろうとも、クリストファーが気にすることなどないのだ。
「かしこまりました」
部下の一人が頭を下げ、駆け足で部屋を出ていった。その一時間後、受付嬢の血液から、複数の薬物が検出されたと報告が上がってきた。
「ごめんね、サブリナ。君を煩わせることだけは、避けたかったんだけど」
「そんなこと、おっしゃらないで下さい。私とクリス様は、二人で一人なのですから」
膝の上に乗せた婚約者の愛らしさに、つい、いつもの溺愛モードへと突入してしまいそうになる自分をクリストファーは、必死に抑える。今は、それよりも先に、解決しなければならないことだらけなのだ。
目の前のテーブルには、この数日での騒動を出来るだけ簡潔に感情を入れない箇条書きで記載した報告書がのっていた。かなりの枚数だが、サブリナは、すでに隅から隅まで読み込んでいる。一切証言者の名前は載っていないが、無論、ルシエルの供述書も入っていた。生まれてから十二年。ずっと傍で支えてきてくれた侍女へのサブリナの愛情は、家族と同じくらい深いものなのだ。
「クリス様。私、敵を討ってあげたいのです」
「あのメイドの?」
「えぇ。卑怯な手で陥れられ、幸せだった人生を壊されたルシエルの為にも、敵は討たねばなりません!」
ルシエルは、日に日に薬が抜けていき、そして、日に日に衰弱していった。それは、正気を取り戻す程に、犯した罪の重さに耐えられなくなってきているからだ。再び薬を盛られることを恐れ、食事を摂ることを拒否し、神にサブリナの幸せだけを祈る。
己が救われることなど露一つ考えない真摯な姿に、流石のクリストファーも多少の哀れさを感じている。
「では、暫し、お待ちくださいませ」
サブリナは、クリストファーの膝の上から降りると、集中するため、目を閉じてゆっくりと息を吐いた。
クリストファーがサブリナに依頼したのは、市民が無意識に投与されていると思われる薬の摂取経路。井戸以外にも、様々な水場を虱潰しに調査したが、全く手掛かりが見つからない。
そうこうしているうちに、本に登場した疫病に似た症状の患者が、貧民街で見つかった。
サブリナのお陰で対策を施していた為、直ぐに隔離され、王家に結納品として献上されていた特効薬を投与すると、直ぐに改善が見られた。疫病の正体がわかれば、後は、感染拡大を抑えつつ、患者数を減らせば未曾有の疫病大流行は抑えられる。
しかし、安堵したのも束の間。町中に、ある噂が流れ出したのだ。
『聖女が、疫病を治してくれた』
確認できた患者数は、まだ、十人にも満たない。それなのに、噂だけがどんどん広がり、教会に感謝の祈祷をする人の列が並びだす。そして、助けてくれなかった王家への不満を口にしだすのだ。
戦争と侵略ばかりに注力し、国民を顧みない王、カイザー。聖女と共に自分達を助けてくれたクリフトファー殿下こそ、王に相応しい。
自国の王子の名前すら、ちゃんと覚えていない民衆は、創作された本の内容と現実の区別すらつかなくなっている。まだ、王都の人口の数パーセントにしか満たない動きだが、今止めないと、大きな渦となって世論を動かしてしまうだろう。
「では、始めます」
心の準備を整えたサブリナが、クリストファーに声をかけた。側に控えていたシルベスターも、彼女の言葉を逃すまいと耳をそばだて、ペンを持つ手に力を込める。
「ふぅ…………。まず、人を操る手順としては、意識を混濁させる薬を何かしらの手段を用い摂取させた後、例の本を読ませることで洗脳状態に陥れているの?でも、井戸には、何も入れられていない。そして、同じように街に住んでいても、クリス殿下のお友達のように洗脳されていない人もいる」
クリストファーは、内心、『デラルは、お友達じゃない』と訴えたかったが、思考を邪魔せぬよう言葉を飲み込んだ。
「生活用水に混ぜられていないとなると、小売されている飲み物か食材。でも、あまり高価なものは頻繁に買えないし、摂取頻度が多くないと効果も出ない。特に野菜などは、水洗いの際、薬も流れ落ちてしまうわ。加熱調理による熱変化も考慮に入れると、主食のパン類に出来上がった後で塗り付ける方が確実に人の口に入れられる?でも、味の変化に気づかないでいられるかしら?庶民の口に入るのは、複雑な味付けのされていない素朴なパンのはず………。なら、新しく出来た店で、見たこともない味付けパンが安く売られてたらどうかしら?皆、一度は、買ってしまうかも」
ここまで聞いて、クリストファーは、紙に指示を書き、部下に渡した。
『最近出来たパン屋で、不自然に安く販売する人気店がないか探せ。あった場合、有無を言わさず取り押さえろ』
可能性は低くとも、全てを潰す。クリストファーは、その点、人並みの躊躇や罪悪感を持ち合わせていない。
「でも、パンだけじゃ、それほど多くの薬は摂取させられないわ。やはり、飲み物に入れるのが簡単。味の変化に、気づきにくいもの。でも、安くないと何度も口にしないわ。水……水……炭酸水?あ!!あの本にも出てきたわ。確か、セリフは……『これを飲むと、口がサッパリするのよ』。少量で満足感を得るために調味料を多めに入れた具材をパンに挟んでいた。それを食べて驚いた王子様に炭酸水の瓶を手渡してあげるの。濃い味付けに刺激のある飲み物。薬を混入するには、理にかなった組み合わせかもしれない」
サブリナの考察を聞き、クリストファーは、内心、落胆していた。既に、炭酸水の湧き出る水源も、調査済みだ。結果は、白。サブリナが辛い思いをしてまで分析を試みてくれているのに、成果を得られないのなら、初めから頼まなければ良かったと唇を噛む。
しかし、サブリナの考察は、ここで終わらない。
「炭酸水って、確か、特殊な栓が付いた瓶に入っているのよね。炭酸が抜けないように。そんな高価な容器を使っているのに、なぜ安いのかしら?そうだわ、確か、再利用してるのよね。最初は瓶込みの値段で販売して、お店に戻すとお金が返ってくる。本当に、面白いシステムだわ」
ポンと手を叩いて笑うサブリナの横で、再びクリストファーが指示を書き、部下に渡した。
『空き瓶の洗浄工場を封鎖しろ。誰一人、逃がすな』
水質ばかりにこだわっていたが、容器の内側に吹きかけておけば、販売される頃には溶け込み、人の口に入る。デラルのような男達は、料理の共にビールやワインと言った酒を選ぶが、炭酸水は、大人から子供まで普通に口にする。
しかも、値段に左右されず、高価な飲み物を口にできる貴族には、馴染みが薄い。市民に的を絞って薬を投与するには、格好の飲み物だ。
「それにしても、ギルドの受付嬢が気になるわ。本を見た瞬間、深い洗脳状態に陥るとは考えにくいもの。もっと、何処か別の場所で、繰り返し刷り込まれていたんじゃないかしら?本は、あくまでも洗脳を起動させる為のきっかけとか?」
その可能性を考えていなかったクリストファーは、サブリナの神々しい女神のような横顔を見つめ、自分の胸の当たりに手をおいた。どんな強敵を前にしても高鳴らない心臓が、ドッドッドッドッと音をたてている。
母から愛情を与えられなかったクリストファーは、愛の貰い方も与え方も知らない。
たが、サブリナの為なら、己の血肉全てを差し出してもいいと思っている。そんな狂信的な愛を一身に受けていることを当たり前のように思い始めているサブリナも、また、普通では無くなっているのかもしれない。強烈に熱のこもった視線を向けられながらも、平然と思考の海を漂っている。
「人が集まっても不自然ではなく、長時間いても不審がられない。人が集中して耳を傾け、相手のこと全て信頼してしまう……劇場?違うわね……学校?お話を聞けない子の方が多そう……あ………教会?」
全ての点が線で繋がったのか、サブリナが泣きそうな顔でクリストファーを見上げてきた。
「クリス様………空き瓶の洗浄は、孤児院の子供達の良い働き場所なのです」
懇願するように震える手を胸の前で組むのは、きっと慈悲を求めるが故。操られたとしても、罪を犯せば罰せられる。
しかし、頼る者のいない子供達が、孤児院の運営に携わる教会に、良いように利用され捨てられていくのを黙って見逃せば、今後、サブリナは、罪悪感で死んでしまうだろう。
「分かっているよ、サブリナ。子供達は、私が責任を持って保護しよう」
「ありがとうございます、クリス様!」
二人が手を取り微笑み合っている横で、クリストファーの部下達は、教会と孤児院を押さえる為に走り出していた。
最終的に、この一件は、思いもよらない形で決着を見ることになった。
首謀者は、第四王子を生んだ側妃プルメリア。元は、亡国の末姫であった彼女は、戦利品としてミリアム国の後宮へ入れられた。
彼女自身、自分の身の上を必要以上に嘆く弱い人間ではない。逆に、子を多く産み落とすことで、宮廷内での勢力を増やすことに専念していた節がある。たとえ子が王になれなくとも、上位貴族としてミリアム国の中で強い発言権を持つようになれば、誰も彼女のことを無下にできないと考えたのかもしれない。
しかし、その思惑が、突如として崩れた。そう、あの第四王子の婿入りである。東の国の王配とは名ばかり。一人、異国に渡った彼を待っていたのは、東の国の人間からの憎悪と、母国からの途切れない命令。歳の離れすぎた妻には、既に夫がおり、愛人としてそばに侍っている。しかも、二人の子供は、自分より年上だった。
聞けば哀れな話だが、プルメリアは、第四王子の敵討ちに、このような騒動を起こしたのではない。元々、それほど愛情深い人間でもないのだ。
一番の理由は、第五王子が他国への婿入りを逃れたことだ。しかも、代わりに出荷されたのは、自分の息子である第六王子。その後も、自分の勢力となるはずだった王子達が国外に追いやられる可能性が出てきた。
やられた分は、やり返さなければならない。
彼女が後宮で貫いてきた信念だ。この際、第一と第五を一度に苦境に追いやり、逆に我が子を王へと押し上げればいい。
あまりにも、浅はか。後宮という狭い世界で生きているプルメリアは、第五と侮るクリストファーの本当の恐ろしさを知らなかった。
「カイザー様を呼んで!私に、このような仕打ちをして許されると思っているのですか!」
地下牢に入れられたプルメリアは、無言で警備を続ける男を怒鳴りつけた。
しかし、これといった反応は返ってこず、相手はピクリとも動かない。悔しさに歯噛みするも、為す術もなく、泥とカビで汚れたドレスの汚れを少しでも落とそうと手で擦ったら、余計広がり無残な状態になった。
己の美しさを愛したプルメリアは、常に最上級の物を身にまとい、社交界の中心に立っていた。愛されない王妃に見せつけるように、カイザーと踊る時が最も高揚した。今日も、新しく作らせたドレスを身に纏い、パーティーの主役になる予定だった。
それが、部屋から出た瞬間、背後から手加減なく殴られた。その瞬間、意識が飛び、次に気づいたら、この牢屋に入れられていたのだ。
彼女は、まだ、知らない。己が立てた計画が露見していることも、すべての証拠が押さえられていることも。そして、カイザーからクリストファーへ、プルメリアの処遇を決める決定権が移譲されていることも。
カイザーは、プルメリアを寵愛していたわけではない。この国に残っていた彼女の子供達は、既にこの世にいない。それどころか、次の側妃の選定が、もう始まっているのだ。
「何故、私がこのようなめに……」
呆然とする彼女の耳に、
カン…カン…カン
誰かがこちらに向かって歩いてくる足音が聞こえた。
「カイザー様!」
助けが来たと思い、慌てて鉄格子を両手で掴む。
しかし、目の前に立っていたのは、熊のように大きな男だった。そんな巨体を持つ人物は、ミリアム国には一人しかいない。
「第五」
「よお、女狐」
冷ややかな視線が、プルメリアを射抜く。ガタガタと震える彼女の足元に、クリストファーが、
「土産だ」
と言って、何かを投げた。
「ひっ………」
プルメリアは、口から出そうになった悲鳴を両手で塞いだ。その丸い物体には目が2つ付いており、潰れているが、鼻と口もあった。泣きぼくろの位置が、プルメリアのよく知る人物によく似ていた。
「ソイツが、全部話したぞ」
彼は、プルメリアの従兄弟で、輿入れする際、子を為せなくなる処置まで施して、この国に付いてきてくれた腹心だ。今回の計画も、頭脳明晰な彼の立案だった。
教会には、亡国から密かに逃げ延び、神官として身を立てている者達が居た。協力を仰ぐと、今後の出世を確約することで話がついた。
プルメリアは、ただ、国庫を私的に流用し、金を工面したに過ぎない。馬鹿な人間が立てた夢物語のような計画は、淡雪のように脆く崩れる。
「もう、お前の仲間は、一人もいない」
クリストファーが抜いた剣には、血がベッタリと付いていた。消えた人間は、一人や二人ではないのだろう。刃こぼれした剣が、それを物語っていた。
「お前の国の兵士達は、敗れると分かっていながら降伏することなく、最後の一人まで戦い続けたらしいな。敵ながら、感服していたんだが……」
クリストファーは、剣を顔の前まで持ってくると、鼻で笑った。
「まさか、洗脳された戦う人形だったとは……お粗末なもんだ」
プルメリアの母国では、戦での恐怖を克服させる為、戦士に興奮剤と思考を奪う薬を投与していた。
『国のために死ね』
命令を遂行する最高の兵士達は、人工的に作られた人間兵器でしかなかった。その技術を秘匿し、己の為だけに使っていたプルメリア達元王族は、一体何人の人間を自分達の『肉の盾』にしたのだろう。
「安心しろ。お前の人を操る技術、今後は俺が、使ってやろう」
クリストファーの口角が、ニーッと上がる。
しかし、目は、全く笑っておらず、プルメリアの鼻先に剣を向けると、切っ先で柔らかな皮膚をツーーッと線を引くように切り裂いた。すると、辺りにプンと血の匂いが広がる。
一瞬何が起こったのか分からなかったプルメリアは、金縛りにあったように動けなかった。
しかし、現実を認識し始めると後ろに向かって倒れ込み、ジリジリとお尻を擦って後退りした。
「ご、ご、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。クリフトファー殿下!」
許しを請おうと叫んだプルメリアに、
「ははははは、敵の名前くらい、ちゃんと覚えておけ!」
クリストファーが笑いながら、剣を前に突き出した。プルメリアの右肩から噴水のように吹き上がる血が、雨のように彼女自身に降りかかる。
『私なら、死んでもこのようなことは致しません。本は、過去から未来へと知識を繋ぐ架け橋。粗末に扱う者など天罰を受けるべきです』
クリストファーの頭の中に、サブリナの声が木霊した。
『そうだよ。天罰を受けるべきだね』
胸の中で、あの時返した返事を繰り返す。
例の本を書いたのが、このプルメリアだと、床に転がる頭が白状していた。教会の説法で、懺悔室で、孤児院で、繰り返し洗脳された者達が、最終的に従うよう命令を下す為の切っ掛けは、実は、本の内容ではない。
表紙に描かれた模様に巧妙に隠された亡国の国旗。それを目にした瞬間、死を恐れぬ人間兵器にされた兵士同様、刷り込まれた命令に背けない傀儡が出来上がる。
プルメリアは、最も犯してはならぬ罪を犯した。それは、クリストファーの愛する者を侮辱したことだ。あの妖精の如き美しさと女神の如き優しさを持つサブリナを、面白おかしく本のネタにした。
サブリミ。
この名前は、ワザと一文字変えたのではない。プルメリアは、勘違いして覚えたままの名前で、好き勝手にサブリナを貶めたのだ。今回の計画に全く無関係な彼女を、聖女の当て馬としたのは、クリストファーへの当てつけだ。
わざわざサブリナに本を届けさせたのも、彼に溺愛されるサブリナに、嫌がらせをするためだ。引き籠もりの小娘になら、何をやっても反撃などされないと高を括っていたのだろう。
ただ、罪を裁かれたからと言って、クリストファーのプルメリアへの憎しみが消えることはない。癇癪で図書館を焼き払い、婚約者に粗略に扱われ、婚約破棄されるサブリミは、今後も屋敷から一歩も出ないサブリナへの市民のイメージ像として根深く残るだろう。
「楽に死ねると思うなよ」
クリストファーは、絶妙に急所を外した。止血をすれば、命に別状はないが、二度と右腕は動くまい。こうして、日々、少しずつ体が欠けていく恐怖を与えられるプルメリアの精神は、どこまで持つのであろうか。その疑問に答える者は、ここには居ない。
「クリス様、擽ったいです」
「サブリナが、意地悪を言う」
「違います!クリス様が、頭を首元に擦りつけてくるから、擽ったいのです!事実を申したまでのこと。意地悪では、ございません!」
サブリナを膝の上にのせ、大型犬のように擦りつくクリストファーは、暫く会えなかった寂しさを埋めているだけだ。そのことに不満を言われるなど、心外でしかない。
「慣れてもらわないと、結婚してから大変だよ?」
「け、け、結婚!」
「そうだよ。四年後、サブリナが十六歳になったら私と一緒に住むんだ」
今、広大な敷地の一部に、サブリナとクリストファーの新居が建て始められている。大きさは、小振り。サブリナとクリストファーだけの楽園で、連れて行く人材は、老執事シルベスターと一人のメイドだけ。食事は、全て本宅から運ばれる。一応、ミョルニールたっての希望で、彼の泊まる部屋も用意された。多分、度々泊まることになるだろう。
「楽しみだね」
「は、はい」
両手で顔を隠してしまったサブリナの表情は見えないが、声に嬉しさがのせられている。母を亡くし、家族が減る体験しかしていないサブリナは、家族が増えることを何よりも楽しみにしているのだ。
その前に、クリストファーは、万全の体制を整えるために、今回の一件で判明した不安要素を全て取り除く気でいる。
この騒動の後始末は、思った以上に厄介なものだった。何せ、炭酸水以外にも、教会で配られた炊き出し、孤児院がバザーに出していた焼き菓子、そしてプルメリアの支援で新規開店されたパン屋等にも、同様の手口で違法薬物が混入されていたからだ。
教会としては、一部の関係者が起こした不始末として捜査に全面協力しているが、その範囲が大きすぎて全容が掴めていない。洗脳された人間は、更に他の人間を洗脳し、ねずみ算式に増えていた。末端まで調べきれるか、今の時点では、何も分からない。
ただ、薬を絶たれた事で、ルシエルのように現実に目覚める者も出てくるだろう。夢から覚めて、幸せかどうかは、分からないが………。
それ以上に問題なのは、父カイザーが、息子クリストファーの婚約者であるサブリナに会いたがっているということだ。表面上は、今回の騒動を解決に導いた彼女の貢献を表彰する為。
だが、裏では、サブリナを側妃候補に入れようと画策しているらしい。まだ十二歳の幼気な少女をだ。そこには、クリストファーに力をもたせ過ぎたくない思惑と、近頃反抗的な宰相への牽制があるのだろう。サブリナを人質に取られれば、ミョルニールは、どんな悪事であろうと手を染めるだろう。
『そろそろ、挿げ替え時か……』
別に賢王でなくていい。ただ、サブリナが心穏やかに過ごせれば。そして、その傍に、自分と彼女の愛する者達がいれば、あとは、好きにやれと思っている。その目的のために、カイザーは、邪魔者でしかなくなった。
クリストファーは、サブリナとの時間を割いてまでカイザー王排除に動き出した。先ずは、挿げ替える頭がいる。烏合の衆をまとめ、国民のために働くなどと、自分は、そんな面倒な役回り、やる気もない。ならば、適任者に丸投げするしかない。
「こんばんは、兄上」
「窓から入ってくるのは、泥棒と刺客だけかと思っていたが、まさか、お前も入ってくるとはな」
以前、礼儀作法の見本としてクリストファーに追いかけ回されたアレクサンダーは、久しぶりに会う弟に苦笑した。
山のように大きなクリストファーと、細身の体に母親似の小さな顔が乗っているアレクサンダー。パッと見ただけでも正反対の二人は、得意分野も正反対だ。
アレクサンダーは、幼少期より王になるための教育をソラリスから受けている。挿げ替える頭としては、かなり上等な部類に入る。
「こんな夜更けに、何の用だ?」
「そろそろ兄上も、王太子に飽きてきたかと。兄思いの弟は、その道筋を整えに来たというわけですよ」
クリストファーの丁寧なようで微妙に違う妙な口調と冷ややかな笑みに、アレクサンダーは得体のしれない恐ろしさを感じた。目の前の男が、幼き頃、自分の指を掴んだ赤子と同じだと考えてはいけない。喉がカラカラに渇いてきたが、アレクサンダーは、努めて冷静に話すことに決めた。
「父上は、まだご存命だぞ……」
「人間、ある日突然何が起こるか分からないですよ。コケて頭を打って死ぬ……とか?」
「クリストファー、何をするつもりだ」
「何も……。ただ、兄上が、王になったら、俺とカンタンテ公爵家には手出ししないで頂きたい。それを守っていただけるのなら、生きてる間くらいは支えて差し上げても良いですよ」
アレクサンダーは、震える手を握りしめた。眼の前に立つ男は、人ではなく、得体のしれない何かだ。平気で人の命を狩り、その手で無垢な婚約者を抱きしめる。その事に疑問も持たず、敵となれば、今この瞬間にでもアレクサンダーを亡き者にするだろう。
自分が王となった時に、敵対して最も困るのは、クリストファーだ。誰の言うことも聞かない男を御すことは不可能。ならば、向こうからの申し出を受けたほうが賢い。しかも、自分は、血の繋がった兄。殺される確率は、他の者より低いだろう……。
アレクサンダーは、薄々父であるカイザーに危険が及ぶのであろうと想像した。
しかし、顎を小さく引き、同意を示した。カイザーは、既に臣下の信頼を失っている。このまま居座れば、いずれ国は滅びるだろう。
「では、良い夢を」
それだけ言うと、クリストファーは、部屋を出ていった。
アレクサンダーは、その後も、彼が出ていった窓をいつまでも見つめていた。
「カイザー様、湯浴みの用意が出来ました」
「うむ」
今一番のお気に入りである側妃の元で、昼日中だというのに湯浴みに興じる。この後、サブリナを連れてクリストファーが謁見にやってくるからだ。身だしなみを整える前に、多少乱れたことをしても、さしたる問題はない。
悦に入るカイザーは、ベロリと舌なめずりをした。サブリナは、母親に生き写しと聞いている。その昔、ミョルニールと連れ立ってパーティーに来たのを一度だけ見たが、輝くような美しさを放っていた。カイザーに召し上げられぬよう、早くに幼なじみのミョルニールと婚約を結び、結婚直後まで留学をしていたらしい。
ミョルニールが、宰相を目指したのも、軽々しく嫁を奪われないだけの実績と地盤を確保するためなのだろう。すっかり忘れていたが、今回の騒動で、あの美貌と類まれな頭脳が手に入るのなら、息子の婚約者だろうと知ったことではない。
「カイザー様、お飲み物を」
側妃に出された発泡酒は、ピリリとした辛さの中に、果実の甘みもあり、大変飲みやすかった。
「もう一杯」
「はい」
コポコポコポコポ
グラスに注がれる薄ピンク色の液体。湯に浸かったまま、カイザーは、キラキラ輝く酒を美しいと思った。
ゴクゴクゴク
三口で飲み干すと、再び杯を重ねる。気づけば、ボトルを一本飲み干していた。
「はは……飲みすぎたか……」
グラリと揺れる体を、誰かがしっかりと支えてくれた。そして、成人男性が3人掛かりでないと持ち上がらないカイザーの体を軽々ベッドへ運ぶ。
「お疲れなのです。暫し、お休みになられたほうが」
耳元で囁くのは、側妃ではない。
低く、静かな、男の囁き声が頭に響く。
「ごあんしんを。あとのことは、すべておまかせください」
朦朧とする意識の中で、カイザーは、不思議な幸福感を覚え、赤子のような安心した微笑みを浮かべ眠りに落ちた。
『他愛も無い』
寝息を立てるカイザーを見下ろし、クリストファーは、濡れた腕を側妃の差し出す布で拭いた。既に、この後宮は、クリストファーが掌握している。 決して洗脳したのではない。彼女達は、皆、自分の意志とは無関係にカイザーに召し上げられた被害者だ。プルメリアのような強かな女は、珍しい。親兄弟を人質に、愛する者から引き離され、憎む男の子を宿す。女性として、命を削るような地獄の日々。
そこから解放してくれると言うのなら、悪魔の手だって取る。
「荷物をまとめておけ。直ぐに、自由の身だ」
「ありがたき幸せ。この御恩は、一生忘れません」
「忘れろ。ここでのことは、全てな」
『全て』
その意味を理解し、側妃は、深く頷く。この外界から遮断された場所で、カイザーは、突然病気となるのだ。そして、遺言書を直筆で作成し、全権をアレクサンダーへと移譲する。引退後は、気候の良い場所で療養生活……という筋書きをクリストファーが作り上げるのだ。
プルメリアより奪った洗脳の技術は、薬とやり方さえ分かれば、恐ろしい程単純なものだった。
『まぁ、多少薬の量を間違えて死期が早まったとしても、悲しむ者すらいない男だ。実験気分でやれば良い』
プルメリアが、もし最初からカイザー自身に洗脳を行い、影の王として君臨していれば、クリストファーすら手が出せなかっただろう。
しかし、死なれてしまっては元も子もないことから、薬の投与に消極的だった。手加減をし過ぎ、自分への好意を底上げするくらいにしか効力を発揮できなかったのだ。
クリストファーなら、そんな生半可なことはしない。今後も、この技術を、サブリナとの穏やかな生活のために、いくらでも使うつもりだ。その辺りの常識や人間性は、持ち合わせていないのだから。
「ここを出たら、なるべく遠くに逃げろ。俺に、殺されたくなかったらな」
「………はぃ」
クリストファーの威圧に、側妃は、怯えた表情で後退りした。そして、弾かれたようにクルリと身を翻すと、部屋から走り出ていった。背後から、大きな手が追ってくるような錯覚に陥ったのだ。その認識は、間違いではない。あと数秒この場に留まっていれば、問答無用で頭と体が離れていただろう。
残されたのは、穏やかな表情で眠り続ける男とクリストファーのみ。こうして、カイザー王治世三十年の歴史は、呆気なく閉じられた。
ルシエルは、今日も神にサブリナの幸せを祈っていた。手足は枯れ木のように細くなり、水分を失った皮膚が、ポロポロと剥がれ落ちている。土人形のように、そのまま崩れ落ちてしまうのではないか?見張りをしている兵士ですら、彼女の信仰にも似た主への思いに、密かに感銘を受けていた。あと数日、そのまま放置すれば、きっと事切れていたことだろう。
しかし、祈りの姿勢のまま気を失ったルシエルが再び目を開けた時、目に映ったのは、愛してやまないサブリナの顔だった。
「ルシエル、死ぬことは許しません」
責める口調で告げるサブリナは、最後に見た時よりも随分と痩せていた。幼い頃から、彼女に食事を運んでくれていたのはルシエルだった。それが、シルベスターに代わった事で、食事の度にルシエルを思い出すのだ。どんなにクリストファーが励まそうとも、だんだんと食が細くなり、軽い体重が益々軽くなった。なのに、クリストファーに頼まないのだ。ルシエルを助けてくれと。それどころか、必要以上に明るく振る舞うサブリナに、流石のクリストファーも、白旗を上げた。愛する人の傍に、不可抗力とはいえ一度裏切った者を側に置くのは許せない。
しかし、ルシエルを完全に失えば、サブリナは、いつの日か、微笑むことを忘れるだろう。
「さぁ、食事を摂るのです」
サブリナは、サイドテーブルの上に置かれた深皿から一匙のスープを掬い上げた。そして、見せつけるように飲んだ。そのスプーンを使って、もう一度スープを掬うと、ルシエルの乾いた唇まで運ぶ。
ポトリ
雫が口の中に落ちた。舌先が、薄味の旨味を感じる。もう、体内の水分は全てなくなったと思っていた。そんなルシエルの瞳から、涙が流れた。
「私は四年後には、クリス様と結婚します。新居には、シルベスターと貴女以外連れて行く気は、なくってよ。だから、早く体を治しなさい!」
精一杯語気を強めて命令を下すサブリナの目も、涙で潤んでいる。血よりも濃い二人の関係は、ミリアム王家の悪魔の剣でも切れるものではなかったらしい。隣の部屋でサブリナ達の会話を聞き、クリストファーは、
『サブリナから食事を与えてもらえるなら、病気になるのも手か……』
と、またもや、お門違いの事を考えていた。
王位に就いたばかりのアレクサンダーの評判は、まずまずのものであった。恐怖政治で押さえつけた先王とは違い、臣下の意見に耳を傾ける穏健派。特に、側妃として娘を召し上げられていた貴族達からは、後宮の解体などを通して一定の支持を得ている。 母ソラリスの後ろ盾もあり、政権の移行は、問題なく行われた。
そして、国民の間に戦争のない新たな時代への期待感が膨らみ始めた頃、ひっそりと先王カイザーの死が公表された。形だけの喪を一年終えると、王都を中心に様々な改革が打ち出されていった。貧民街だけでなく、国民全体に清潔で安全な飲水を提供するための水道が整備され、その工事に多くの生活困窮者が雇用された。カイザーの後宮運営と戦争好きに回されていた無駄金が無くなったことで、経済、医療と教育にも力を入れることが可能となる。金が回りだすと、潤いを求めて文化も賑わいを見せ始めた。
国民が、口々にアレクサンダー王を褒め称えるようになるが、その影に、先王時代から宰相を務めるミョルニール・カンタンテの(サブリナから託された)助言があることは知られていない。
そして、賑わう王都の片隅で、もう一つの大きな波が来る予兆が出始めていた。
『婚約破棄される練習をしていたら、何やかんやで婚約者と国を救っちゃた、テヘッ♡』
どこかで聞いたことのあるような題名の付いた本が、孤児院で制作され始めたのだ。その内容は、妖精の血を引く公爵令嬢が、魔女によって書かれた本『平民の聖女が、なんやかんやで王太子妃になっちゃった、テヘッ♡』に隠された陰謀に気づき、未然に防ぐ冒険活劇。
冒頭は、純真無垢な主人公が、魔女の書いた本の内容を信じ込み、婚約破棄される練習に勤しむコミカルなシーンから始まる。その後、少々彼女を好きすぎる(ヤンデレ)婚約者と二人で協力し、探偵さながらの推理を働かせ、魔女に囚われた子供達まで助け出し、この国を救う話だ。内容は子供向け童話で、文字の勉強にも役立てられるように簡単な単語を選んで書かれている。
「あ、ここ、また間違えてる!」
手書きで作成されているため、完成前には、必ず年長者のチェックが入った。そして、必ずと言っていいほど、訂正が入る。
「ごめんなさい」
「私達を助けてくださった方の名前を間違えるなんて、言語道断なんだからね!」
難しい言葉で怒られても、今一つピンとこない。
しかし、自分が大失敗してしまった事は理解できているので、目から涙がポロポロと溢れた。この孤児院で初めて習う文字は、自分の名前ではない。
『サブリナ・カンタンテ』
彼らを救った一人の公爵令嬢の名だ。何故か、『サブリミ』と間違える子供が多く、その訂正に運営を任されるシスターも困り顔だ。
「これは、絶対間違えてはいけないお名前よ。この孤児院を支えてくださっている大恩人なのですから」
朝夕、食事の前には、サブリナの名を呟き、祈りを捧げる。何度も、何度も、根気よく教えるしか近道はないのだ。
だが、当のサブリナは、このことを知らない。この孤児院に多額の寄付をサブリナ名義でしているのは、実は、クリストファーだ。子供達を保護すると約束した彼は、新たに一つの孤児院を建て、洗脳されていた子供達を一箇所に集めた。
ここで再教育し直し、恩人であるサブリナに仕える人材へと育てるためだ。いつまでも、シルベスターやルシエルも生きてはいない。彼らの代わりになれるのは、サブリナに対して、神への信仰にも近い崇拝を持つ者だけだ。壁にかけられたサブリナの姿絵は、聖母のような微笑みを浮かべ、優しく子供達を見下ろしていた。
その後、この本は、学校や他の孤児院へ、文字を覚えるための教本として配布された。奇想天外な内容と、少女が大人顔負けの活躍をすることが子供達の心を掴んだ。勉強嫌いな生徒まで、コツコツ写本をして自宅に持って帰るので、教本としてこぞって採用する学校が増えた。
こうして、子供達を中心に人気を博し始めると、大人達の中からも本を求める声が出始めた。忙しい彼らは写本する時間などない。出版社に問い合わせがくるようになるが、登場人物に実在の公爵令嬢と同じ名前が使われているため、簡単に手が出せなかった。
そんな時、
『本、交換します』
露天が並ぶ下町に、そう書かれた旗を掲げる小さなテントが現れた。
「嫁が欲しがってたから、助かったよ」
「まいどあり」
最後の一冊を手に走り去っていく男を、孤児院の中でもリーダー格のルルとララが見送った。よく似た面立ちの二人だが、兄妹ではない。先に孤児院の前に捨てられ、シスターにルルと名前づけてもらった男の子が、新たに捨てられた赤子にララと名前をつけたのだ。
「ルル兄、そろそろ片付けよう」
「ララは、座ってろ。俺が、やるから」
体も大きく、頭も良いルルは、孤児院の女の子の憧れだ。回収された本を箱に詰めるルルを、頬を赤らめてチラチラ見ている。
「ララ、今日は、何冊集まった?」
「え?あ、えっと、五十冊。持ってきた分が、全部なくなったもん」
「んー、まだまだ回収しきれてなさそうだな」
このテントでは、クリストファーの支援を受ける孤児院の子供達が、自分達が写本したものと、『平民の聖女が、なんやかんやで王太子妃になっちゃった、テヘッ♡』を交換している。他の本とは交換出来ないため、噂を聞いた者は、自宅の本棚を必死に探し始めた。そして、ホコリを被った装丁ばかり美しい、しかし内容の薄い本を見つけることが出来た者は、喜び勇んで交換所へと走ってくる。
そうして集められたものは、孤児院経由でカンタンテ公爵家へと献上され、焼却処分された。毎回持ってきた分が全て交換されるので、まだまだ王都に眠る本が存在するのだろう。
「あんな本、誰が書いたんだよ」
「本当よ!サブリナ様への冒涜だわ」
「俺らが、なんとかしないとな」
「えぇ、そのためなら、何千冊でも写本するわ!」
前の孤児院では、ご飯すら十分に与えられず、朝から晩まで炭酸水の瓶を洗わされていた。その頃の事は、思い出そうにも霞がかかったようにボヤけている。
しかし、今の孤児院へ来てからは、顔色もよく、皆モリモリご飯も食べられるようになった。そんな幸せをもたらしてくれたサブリナを、侮辱する本など中身も見たくはないが、野放しにするわけにもいかない。
「ララ、最後の一冊になるまで集めるぞ」
「ルル兄、私、今日も帰ってから写本するわ」
「おう」
夕暮れ時に、片付けたテントを手押し車に乗せ、二人は熱く語らいながら帰路についた。
「まだ、こんなに残っているのか」
回収された本をビリビリに破き、火に焚べるシルベスターは、苦虫を噛み潰したような顔をした。その鋭い眼光と険しい横顔は、いつもの温和なイメージからかけ離れている。
彼には、あまり知られていない過去があった。父親は某伯爵、母は平民のメイド。女好きな貴族にありがちな婚外子として生まれた。母のお腹にいるうちに、屋敷から追い出された彼は、母が亡くなった後、七歳で孤児院に引き取られた。そこに至るまでの生活を多く語ることはないが、病気の母親の面倒を見ながら、悪事に手を染めたことも一度や二度ではなかったようだ。
「お名前は?」
孤児院暮らしの初日、シスターに名前を聞かれた時、彼は、嫌な顔をした。男に騙され捨てられた母は、それでも男を憎みきれず、息子に似た名前を付けていたのだ。その名を呼ぶ時の母は、妙に女の顔をしていた。
「馬鹿でも糞でも勝手に呼べば良いだろ」
「じゃぁ、貴方は、シルベスター。私の弟の名よ」
のちに、シスターの弟が、貴族の馬車に轢かれ、既に亡くなっていたことを知った。そんな名前を贈ってくれたシスターに報いようと、幼いながらに一生懸命考えた。
母は、貴族の家でメイドを出来るくらい裕福な家の出身だったらしく、遺品の中に何冊か古びた本が入っていた。それをよく読み聞かせしてくれていた事を思い出したシルベスターは、記憶と本の内容を突き合わせる事で文字を覚えた。
「シスター、こんなのを書いてみたんだ」
有り合わせの材料で作った小さな絵本は、思いの外面白く、シスターを喜ばせた。
「シルベスター、貴方、天才だわ!」
彼女は、自分の少ない蓄えの中から筆記用具と紙を買ってくれた。それで勉強を続けろという意味だったのだろうが、彼は、それを元に、また絵本を作った。
前回より質の良い材料だった為、市場で売ると、意外に良い値段で売れた。味をしめたシルベスターは、せっせと絵本を作っては、孤児院にお金を入れた。貧しいながらも、皆で助け合い、細やかな幸せを感じる日々。
しかし、十歳になった時、正妻が跡継ぎを産めなかったらしく、突然引き取りに来た伯爵家に無理矢理屋敷に連れて行かれた。
シルベスターが十八歳になった頃、何者かに不正を暴露され、某伯爵は、爵位まで失った。
「おめでとう。見事な没落だったよ」
元平民の貴族から元貴族の平民になったシルベスターに握手を求めてきたのは、カンタンテ公爵家の跡取り息子だった。学園内で浮いた存在のシルベスターを、親友と呼んで肩を組むような変わり者だった。
「折角自由になれた君には申し訳ないけど、我が家に勧誘しようかと思ってね」
どうやら、彼は、シルベスターが伯爵家の情報を告発した本人だと知っていたようだ。
「無論、君が絵本を売って寄付を続けている孤児院への援助は惜しまないつもりでいるよ」
どこまで調べられたのか分からない。
しかし、下手に逆らっても手練手管で絡め取られそうだ。シルベスターは、苦笑しながら彼の手を取り、カンタンテ公爵家の一員となった。
あれから、半世紀以上経った。親友であった前当主とその妻は、残念ながら、領地に帰る途中土砂崩れにあい、サブリナが生まれる数年前に亡くなってしまった。早くに家督を継いだミョルニールを支えるために、陰日向と働き続け、疲れ果てると、
「なぜ、私だけが働かされているんだ。早く迎えに来い」
と友の墓前で愚痴ることもあった。
しかし、ミョルニールからサブリナを託され、人生が変わった。
「私にしてくれたように、娘を守ってほしい」
その言葉の中に、自分への信頼を見たシルベスターは、全身全霊でサブリナを守り、育てることを誓った。
こうして、読書狂のサブリナに仕えるようになったのは、彼にとっては、運命だったのかもしれない。子供向けの本をすぐに読み終わってしまった彼女のために、再び筆を執った。完全記憶を持つサブリナは、一冊の本を繰り返し読んだりしない。そんな彼女が何度も読み返す本は、シルベスター作の絵本だけだった。
今回、サブリナを主人公とする本を書くことになって、彼は、今までの知識のすべてを盛り込むことにした。
冒険を盛り込んだ、子供達に分かりやすい内容
妖精など、あくまでも物語なのだと思わせる非現実的要素
自分達と同じ子供が大人をやり込める痛快さ
誰でも読める、難しすぎない単語
教材として使用可能な正しい文体
どれも完璧に仕上げた本が、子供受けすることは最初から分かっていた。
シルベスターは、本を破る手を止めて、じっと手元を見た。
「こんな本に、私の書いたものが、負けるはずないでしょう」
あえて題名を似せたのは、プリメリアの書いた本を、魔女が書いたものとして作中に登場させたから。人間とは不思議なもので、似たものは、より鮮烈なイメージが残っている方を覚えている傾向にある。本の最初に一度しか出てこない題名と大好きな絵本の題名、どちらが記憶に残るかは、考えなくても分かるだろう。幾重にも趣向と罠を凝らした名作は、大ベストセラーとして、長く親しまれる本となった。
「サブリナ、どうかな?」
「素敵です!素敵過ぎます、クリス様!」
サブリナとクリストファーの結婚まで、まだまだ時間があると言うのに、気の早いクリストファーの差配で、新居が建ってしまった。入居は結婚後だが、今日は、サブリナに内部を見てもらい、変更希望箇所があれば伝えてもらう約束だ。
しかし、壁一面の本棚を見た瞬間からサブリナの気持ちは舞い上がり、床から足が浮いてしまっているような気分になっていた。
「ここの全ての棚に本を並べて良いのですか?」
「その為の棚だからね」
逆に、本以外の何を置くのか聞きたいが、サブリナの喜びように、クリストファーは彼女の観察を優先することにした。
扉を開けるたびに、感嘆の溜息をつく婚約者。
カーテンの刺繍一つ一つに、眼を見張る婚約者。
見方を変えれば、囲い込むための鳥籠に、自ら飛び込んでくる愛おしい小鳥。
壁に背を預け、腕組みをしてサブリナを見つめるクリストファーの瞳が、ほんの少しの悲しさを見せた。
もし、彼女が特殊な能力を持たずに生まれてきていたら、もっと自由な世界を見せてやることが出来ただろうか?
いや、クリストファーは、間違いなく囲い込み、一生、外に出さなかっただろう。自分のような恐ろしい男の妻になる事が、世間一般では、幸福ではなく地獄であることをサブリナは知らない。そして、一生気づかせてはならない。クリストファーの仄暗い決意とは裏腹に、
「クリス様!二階のお部屋も、とっても可愛いですわ」
階段の上からクリストファーを見下ろすサブリナは、世界で一番幸せな少女だった。
「サブリナ、そろそろ『お茶会』にしよう」
クリストファーが声をかけると、サブリナは、2階から足取り軽く下りてきた。ここには、台所がない。飲み物も、一声かければルシエルが母屋から持ってくる。まだまだやせ細ったままだが、最近では、サブリナのお茶会にも参加するようになっていた。
大好きなクリストファーに、家族同然のシルベスターとルシエルに囲まれ、今日も、サブリナは満面の笑顔を浮かべる。仕事でなかなか屋敷に居られないミョルニールは、このお茶会に参加できないのを心底悔しがっていた。
しかし、今日以降、更に悔しがることだろう。
「今日は、お客さんをお招きしているんだ」
クリストファーがパンパンと手を打つと、カルガモのように一列に並んだ子供達がトコトコと行進してきた。先頭は、年長者のルルとララ。その後ろを、年功序列で十六歳から三歳の子供が総勢二十人以上並んでいた。皆、一様に胸を張り、興奮のあまり顔を真っ赤にしている。
サブリナは、生まれてから今日まで、限られた人間としか接触したことがない。それなのに、突然多くの子供が登場したことで、息を止めてしまった。
「大丈夫だよ、サブリナ。ゆっくり息をして」
「すぅ………はぁ……」
「そうそう、上手だよ」
クリストファーに抱き上げられ、サブリナは、必死に自分を落ち着かせようと深呼吸をした。子供達も、子供達で、崇拝するサブリナ様が混乱する様子に、自分達も混乱している。不安を少しでも和らげようと、隣の者と手を繋ぎ、唇を噛み締めていた。クリストファーに背中をトントンしてもらい、少し落ち着きを取り戻したサブリナは、自分以上に緊張している子供達に気付く。
「あ……クリス様、下ろしてください」
赤子のように、あやされている姿を見られたことに、急に恥ずかしさを覚えた。
「気にしなくていいのに」
「私が、気にするのです!」
足をバタバタ動かし、クリストファーの拘束から逃げ出すと、サブリナは、公爵令嬢として相応しい見事なカーテシーをしてみせた。
「わぁ………てんしだぁ」
一番小さな男の子が、素直な感想を思わず口から溢すと、隣にいた女の子が、ゴツンと拳で殴った。サブリナ様に直接言葉をかけることは許されていない。
「この子達は、君の孤児院から来たんだよ」
「私の?」
「そう。彼らは、君の家族になれるかな?」
「家族?」
「何が起きても決してサブリナを裏切らない、永遠なる味方」
サブリナが驚いた表情で子供達を見ると、全員が真っ赤な顔をして激しく頷いている。
『家族』
その言葉は、サブリナだけでなく、彼らも心から欲するものなのだ。血が繋がらなくとも、支えて、助け、癒やし、共に歩む仲間。
「少しずつ慣れればいい。今日は、顔見せのために全員連れてきたけど、今後は、少人数で来させるよ。庭の草抜きや、本の整理とかからやらせればいいんじゃないかな?」
クリストファーの言葉に、サブリナは、控えめに頷いた。まだ、いつものメンバー以外が側に居ることに慣れるとは思えない。
しかし、一生会えないのも嫌だなと思った。
「あ、また、みてる」
「こら、気づかないふりをして」
カンタンテ公爵家の庭で草むしりをするのは、ララと年少の子供達。ここに来るのは、お茶会参加を含めて三回目だ。まだ難しい仕事は出来ないだろうと、シルベスターから草むしりを命じられ、
「この辺りをお願いします」
と連れてこられたのは、サブリナの部屋からよく見える一角だった。
「お嬢様、そんなに気になるのでしたら、一階に下りられてみては?」
カーテンの隙間から庭を覗くサブリナに、シルベスターは、紅茶を入れながら提案をしてみる。
「いきなりは、無理ですわ」
「では、その窓から、手を振ってみるというのは?」
「もっと、無理ですわ」
「いっそ、カーテンを全開にされては?」
「ルシエル、じいやが、私に、意地悪をいうのよ」
サブリナは、ルシエルの腰に抱きつくと、お腹のあたりにグリグリと顔を押し付けた。
「サブリナお嬢様、御髪が乱れます」
「そんなの、ルシエルが直してくれたらいいじゃない」
他人と関わることへの不安が、サブリナを消極的にしてしまう。でも、気になって、何度も覗き見をしてしまうのだ。
「今日来ている中に、ララという娘がいます。彼女は、今日が最後なのです。せめて、その子だけでも、声を掛けてやって下さいませんか?」
サブリナの髪をブラッシングしながら、珍しくルシエルがお願いをしてきた。
「え?どこかへ、行ってしまうの?」
「彼女は、とても美しい字を書くことと、手先が器用なことが認められ、王都内にある仕立て屋へ就職が決まったのです」
孤児院も、大きくなった子供をいつまでも置いておくことは出来ない。子供達の世話係として残る者もいるが、その殆どが住み込みで働く場所を見つけて出ていかなくてはならない。ララ以外にも、ルルが、クリストファーの口添えで騎士見習いになることが決まっている。
「それなら……すこしだけ……話してみようかしら……」
全員とは無理でも、一人だけならなんとかなりそうな気がしてきた。
「あぁ、サブリナ様」
ララは、サブリナを目にした瞬間床に跪き、両手を組んでお祈りを始めた。
「シ、シルベスター、彼女は、どうしたのかしら?」
「お嬢様、お気になさらず」
気にするなと言われても、どうしたら良いのか分からずオロオロしている間に、ララは、一通りの祈りを終えたのか、立ち上がり一礼をした。
「先ずは、質問を。ハイかイイエで答えるよう、申し付けております」
思っていた『交流』と違ったサブリナは、尋問のようなスタイルに戸惑いながらも、気になっていたことを聞くことにした。
「はじめまして。私は、サブリナ・カンタンテです。貴女は、ララで良いのかしら」
「ハイ!!!!!」
ララのあまりの勢いに、サブリナは、少し体が後ろに反ってしまう。
「草むしりをありがとう。辛くはない?」
「イイエ!!!!」
「小さな子達は、とても貴女を慕っているようだけど、離れるのは寂しくない?」
「………」
返事をしなくても分かる。ララは、唇を噛み、泣くのを必死に堪えている。
「そうよね。離れて寂しくないわけないのに、失礼な質問をしてしまったわ」
「イイエ」
「貴女は、とても頑張りやで、お世話上手だと聞いたわ。これからも、貴女らしく生きてね」
「ハイ!!!!」
一際大きな返事をしたララに、シルベスターが軽く頷いた。すると、ララは、ポケットからボロボロの紙を取り出して、そーっと広げた。最後に、手紙に書いた内容を読み上げる許可を貰っていたのだ。何度も書き直し、クリストファーとシルベスター、更にはルシエルの検閲も受け、問題なしとされたものだ。
ゴクッとつばを飲んでから、ララは、大きな声で読み上げ始めた。
親愛なるサブリナ・カンタンテ公爵令嬢様
はじめまして、私は、ララと申します。
私達を助けてくださって、ありがとうございます。
毎日、とてもご飯が美味しいです。
小さな子達も、モリモリ食べて、大きくなって、いつか、サブリナ様のお役に立てるようにと頑張っています。
私の夢は、サブリナ様にお洋服を作ることです。
四年後、サブリナ様が着られるウェディングドレスを一針でも縫えるよう、精一杯努力します。
そして、いつか、全てのお洋服を作らせて頂けるように、王都一の縫い子になります。
ですので、その暁には、どうか、カンタンテ公爵家に雇い入れて貰えないでしょうか?
それを心の支えに、死ぬ気でがんばります。
どうかよろしくお願いいたします。
ララより
読み終えたララの顔は、涙でグチャグチャだった。物凄い熱量を向けられ、何故ここまで好かれているのかイマイチ理解できていないサブリナは、腰が引けている。
しかし、周りを見ると、シルベスターもルシエルも、満足げに頷いていた。
「よ、よろしくてよ」
よく考えれば、自分に人選権があるとは思えないのだが、サブリナは、泣き続けるララを慰める為に、そう返事をした。
すると、
「有り難き幸せ!!!」
床に頭を打ち付けんばかりにララに土下座をされて、サブリナは、とっさにシルベスターの後ろに隠れた。
一方のララは、無表情なルシエルによって、小脇に抱えられて部屋から連れ出されていった。
「ねぇ、じいや」
「はい、お嬢様」
「世の中の子供は、皆、あんな感じなのかしら?」
若干恐怖を感じるサブリナに、
「多かれ少なかれ、孤児院の子達は、あんな感じです」
と真顔で答えた。
「ちょっと、怖いかも……」
「直ぐに、慣れます」
全く慣れる気がしない、サブリナだった。
その後、あの事件の被害者でもあった彼らが全員巣立った後、その役割を終えた孤児院は、ひっそりと閉鎖された。
しかし、そう遠くない未来に、卒業生全員が、それぞれに得意分野を伸ばし、カンタンテ公爵家へと戻ってくる。
最年少で騎士団長まで登りつめたルル。
貴族がこぞって縫い子として指名をしたララ。
その他にも、パティシエ、髪結い、庭師等、皆がサブリナを喜ばせたい一心で努力した結果、名を馳せる程の腕前を持っていた。それぞれの子に、それぞれの物語があるのだが、それをサブリナが知ることはなかった。
サブリナが十四歳になった年、学園から入学を催促する通達が何度となくカンタンテ公爵家に届いた。第五王子の婚約者にして、カンタンテ公爵の一人娘。貴族の務めとして、学園に通うべきだというのが、学園側の主張だ。
貴族令嬢は、通常家庭教師を自宅へと招き、勉強以外にも礼儀作法等を学ぶ。なので、十四歳から十六歳の間は、学園で社交を学び、人脈を作ることが目的とされている。たとえサブリナが国立図書館の全ての書籍を暗記し、それを使いこなすだけの能力があったとしても、それは通学を拒否する理由にはならないらしい。
「クリス様、私、どうしたら…」
落ち込むサブリナを膝の上に置き、クリストファーは、柔らかさの増した彼女の体を優しく抱きしめた。
「サブリナ、安心して。私が、どうにかするから」
「どうにか?そんなこと、可能なのですか?」
「私は、この国の第五王子だよ?」
ニッコリと微笑むクリストファーに、サブリナは、心配げな表情を浮かべる。
「私のせいで、クリス様のお立場が悪くなったりしませんか?」
「いざとなったら、領地へ二人で逃げればいい」
「え?」
「城壁でグルッと囲んで、誰も入れないようにするんだよ」
「ふ、ふふふふ、ご冗談を」
クリストファーは、いたって真面目だ。誰も超えられない壁を建設すれば、クリストファーは、サブリナを独り占めできる。ただ、そんな大事にして、サブリナの心を悩ませることもしたくはない。
「まぁ、一日だけまって。上の人と話してくるから」
クリストファーがウィンクをしておどけたように笑うから、王子として、学園長に直談判でもしてくれるのかと思っていた。
しかし、その後クリストファーが向かったのは、この国の一番上の人の執務室だった。
「と言うわけだから、よろしく頼む」「昔も言ったと思うが、お前のソレは、人にものを頼む態度ではないぞ」
自分を見下ろし、胸を張る弟に、アレクサンダーは、大きな溜息をついた。父であるカイザーの死に、クリストファーが関わっている事は、薄々感じている。
しかし、彼が動かなければ、国がなくなっていたのも事実。たかが小娘一人、学園に通わなくても問題ない。逆に、クリストファーに暴れられたら国が乱れる。
「分かった、分かった。言いたいことが、それだけなら帰れ」
面倒事は避けたいアレクサンダーは、眼の前の仕事を片付けながら生返事をした。
不承不承なのが伝わったのだろう。クリストファーの目が据わった。
「そうだ、この前お義父様が提案した街道修繕の効率化と建築構造の見直し案」
「あぁ、あれは、素晴らしいものだった」
「考えたの、俺の婚約者だから」
アレクサンダーは、にわかには信じられなかった。建築経費を半分に抑え、街道沿いの雇用にも言及し、構造強化にまで触れた報告書だった。ミョルニールが妙にニヤニヤしながら手渡してきたので、特に記憶に残っている。
「それ以外にも、お義父様が出した提案書には、大抵彼女が関わっている」
「そんな重要情報を私に教えていいのか?」
「無論、他言無用だ。喋った瞬間、頭と体が離れることは、覚悟してくれ」
どうりで、人払いを強要したはずだ。アレクサンダーは、納得がいくと、天才を手中に収めるには、化け物の言うことを聞くしかないことを悟った。
「最善を尽くそう」
「最初から、そう言え」
鼻を鳴らし、不服感を隠しもせず、クリストファーは部屋から出ていった。その尊大な態度に、
『アレは、一生変わらないな』
と諦めの境地に立つ。
ただ、荒れているだけの幼少期と比べれば遥かに扱いやすく、サブリナさえ幸せでいれば、他の事は、どうでも良さそうだ。
「あんなのを飼いならすサブリナ嬢に、いつか会ってみたいものだ」
アレクサンダーは、サブリナと言うクリストファーに取っての安全弁が、この国に居てくれた事を心から感謝した。
その後、アレクサンダーから学園長へ、妥協案が提示された。貴族同士の交流を希望する学園に対し、それ以上の成果を見せることで、特例を認めさせると言うものだ。
「いくら良い教授陣を自宅に招いて学習したからと言って、学園での素晴らしい授業内容を上回る勉強が出来るとは思いません!」
己の能力を過信する古参の教師からは反発を受けた。
「ならば、それぞれがテストを作り、彼女に解かせれば良い。それで、満点を取れたら、問題なかろう」
アレクサンダーから直々に命令を下されてしまった学園長は、胃をキリキリ痛めながら、調整に必死だ。
「分かりました!そこまで仰るのなら、内容は、我らに一任して頂きます!」
老害になりつつある教師達は、自分達のプライドの為、学園で教える以上の内容で、出来得る限り難しい問題を作った。しかも、必ず自分達が試験監督として側で見ている前で解けと言う、圧迫面接のような形での試験だ。自宅まで乗り込んでいこうとする無礼さに、流石の学園長も待ったを掛けようとした。
しかし、それを聞いたサブリナが、
「クリス様も、ご一緒なら、構いません」
と受け入れた為、カンタンテ公爵家での自宅試験が行われることになった。
「そんな…」
サラサラと筆を動かすサブリナの横で、愕然とした表情を浮かべる教師陣。しかも、自分達の出題内容が既に古いものであり、新たに発見された定理等まで事細かに書き記されていく事で、駄目だしをされている状態になった。
「立っているのも大変そうでございますね。宜しけれは、お茶でも、どうぞ」
シルベスターが嫌味とばかりに、テーブルと椅子を用意し始めた。侮辱されたと怒るよりも、己の無能さを曝け出した羞恥のほうが強い。逃げ帰りたい所だが、
「ほら、お前たちも、飲め」
先にティータイムを楽しみ始めたクリストファーが、じっと自分達を見つめている。
「お……お許しを」
顔色が紙よりも白くなった面々は、涙目で同席することを固辞した。
「ふん、つまらんな」
彼らに興味をなくしたクリストファーは、サブリナに目を移した。黙々と淡々と筆を進める彼女は美しい。
「流石、私のサブリナだ」
悦に入るクリストファーと、同意を示し頷くシルベスターとルシエル。教師陣は、サブリナに感謝したほうが良い。クリストファーが彼女に夢中だからこそ、彼らは無事に帰宅できるのだから。
その後、完璧な回答と不出来な問題に対する指摘を携え、教師陣は、フラフラしながら帰っていった。
「まったく、この国の行く末を心配いたしますわ!」
背が伸び、見た目だけは大人びた雰囲気を醸し出しているサブリナだが、純粋培養で育てられているからか、未だに子供じみたところが残っている。
教師達を完膚なきまでに知の暴力で滅多打ちにした上に、ミョルニール経由でアレクサンダーへ教育改革の立案書まで提出したのだ。今回試験に携わった教師の何人かは、更迭されるだろう。
その後、学園側から卒業証書が送られてきた。裏を返せば、学園に来ないで欲しいという歎願のようなものだ。さもなければ、生徒達の前で、彼女に教授されるのは自分達になるのだから。
クリストファーとサブリナが出会ってから八年の月日が流れた。
そして、今日、サブリナは、十六歳になる。クリストファーが、待ちに待った結婚式当日でもあった。
「サブリナ、綺麗だ」
「クリス様も、素敵ですわ」
この日の為に、特注で作られたウェディングドレスは、作成した工房からデザインの版権を買わせて欲しいと懇願された物だ。図案は、サブリナの好みを知り尽くすルシエルと卓越した絵画センスのあるシルベスターによって作られたものだった。
薄い布を何重にも重ねる、軽く柔らかな動きを出すのにボリュームのあるスカート。そこには、繊細な刺繍が施されている。腕や首は、露出しないよう覆われているものの、ほっそりとした彼女の体にピタッとフィットしており、可憐さが際立っている。
他にも、糸目を付けず集められた最高の素材を前にした職人達が奮起し、渾身の作品を作り出した。
無論、版権の一般向け商品への使用許可など下りるわけはなく、永久にカンタンテ公爵家の宝物庫に保管されることになる。
「さぁ、皆の元へ行こう」
「はい」
新居のドアを開けると、庭には孤児院の子供達の手による可愛らしい飾り付けがされていた。派手さはないが、愛がこもっている。
新郎新婦を祝うために集まったのは、父親に老執事、メイド、そして、孤児院の子供達。サブリナの世界に住むことを許されている限られた人達だ。
「おめでとう、サブリナ。今日から新居に移るんだね。お父さんも泊まっていいかい?」
新婚夫婦の家に居候する気満々のミョルニール。
「お嬢様、これは、新しく描き下ろした本で御座います。どうぞ、夜のお供に」
読書狂のサブリナに夜ふかし必至の自作本を手渡し、初夜を妨害しようと画策するシルベスター。
「サブリナお嬢様、今夜のお夜食は、何時にお持ちすればよろしいでしょうか?」
夫婦の寝室に、当然のごとく侵入しようと試みるルシエル。
「サブリナ様、私の作ったウェディングドレスは、お気に召しましたでしょうか?」
他の熟練職人を抑え、若手ながら刺繍を一手に任され、ドヤ顔のララ。
「僕達が育てた花で作ったブーケも、素敵でしょう?」
「あたちだって、がんばったもん、えーん」
褒めて欲しくて、大騒ぎする子供達。横を見れば、愛してやまないクリストファーが居る。彼ら以外の何者も、彼女は必要としていない。だからこそ、決してここは牢獄でも鳥籠でもなく、彼女の楽園なのだ。
「サブリナ、幸せかい?」
「えぇ、とーっても幸せですわ」
こうして、囲われサブリナは、今日も幸せだった。
エピローグ
「サブリナが、やっと私の奥さんになった」
サブリナを膝の上に乗せ、幸せを噛みしめるクリストファーに、サブリナも自ら体を寄せて、伝わる体温に愛しさをつのらせていた。
「サブリナ、お願いがあるのだけれど」
「クリス様のお願いなら、なんでもききますわ」
「ふふふ、そういうのは、軽々しく言っては駄目だよ。何をされるか分からないんだから」
サワサワとクリストファーの手が、サブリナの脇を撫でる。擽ったいような、でも、何か違う感触にサブリナは身をよじる。
「クリスって呼んで」
「え?」
「あと、敬語もなし」
「それは…」
困った顔のサブリナに、クリストファーは、柔らかく微笑む。
「私の為に、淑女たろうとしてくれるのは嬉しいんだよ。だけど、ずっと一緒に過ごすのに、このままじゃサブリナが疲れてしまう」
「クリス様…」
「違うでしょ?」
「クリス…」
鼻先をくっつけ、二人は、笑った。
「それならば、クリスも、自然に振る舞わないと」
「どこか、可笑しい?」
「だって、本当は、『俺』って言うんでしょ?」
気づかれていたとは思っていなかったクリストファーは、不安げな表情を浮かべた。サブリナに嫌われたら、生きていけない。これは、言葉の綾ではなく、事実なのだ。
「もう、そんな顔しないで」
サブリナは、庇護欲をそそられる彼の頬にチュッとキスをした。いつもとは逆に、自分が彼を安心させてあげたかったからだ。
クリストファーが『王室の悪魔』と呼ばれていることは、『平民の聖女が、なんやかんやで王太子妃になっちゃった、テヘッ♡』を読んで、なんとなく事実なのだろうと感じていた。
八歳で初めて会った日、父の緊張感は計り知れなく、何度も『いざとなったら遠くに逃げればいい』と口にしていた。どのような恐ろしい目にあうのかと、恐れ慄いていたことを覚えている。
そうなると、あの本に出てくるクズなクリフトファーは、本来の彼の姿を映し出していたのだろう。
それでも、サブリナにとって、クリストファーは唯一の愛しい旦那様。どんなときも側にいて、彼女を支え続けたのは、紛れもなく彼なのだ。
全てを受け入れてもらえたと感じたクリフトファーは、途端に天にも昇る心地になった。
「私達、たかが言葉遣いで壊れる仲じゃないと思うの」
「あ…やっぱり、サブリナは、強いな」
互いが居ないと不幸になってしまう二人。一つでもボタンをかけ違えていたら、今はなかった。
ハッピーだけど、エンドは付かない。いつか、家族が三人、四人と増えていくのだが、もうしばらく、二人だけの『囲い囲われ生活』は続くようだ。
Fin
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