番外編 知音
番外編です。事実上の最終回です。
ピンポーンパーン
荀罃さんが荘王様におちょくられて1人デスゲームする話は前回で終了いたしました。またのご来店をお待ちしております。
と、蛍の光を流しながらお客様を見送るところですが、なんと番外編です。
このままだと荀罃さんのお友達が士匄というクソガキ※教育の敗北※のみになってしまいます。それはあまりにも哀れです。戦場で生け捕りにされる屈辱から9年の虜囚に耐え、青春を無駄にした人にそこまでの不幸を背負わせる世界など、あってはなりません。
そのようなわけで、荀罃さんを救済する番外編なのです。
荀罃さんはお父さんのコネで、領地をひとつ貰い、将来は卿になることが確定しました。なんのことはないです、晋では卿の子は卿になる決まりなのです。領地は支度金です。
さて、荀罃さんは9年間も虜囚をしてましたから、これから高等な政治の勉強をします。先生も韓厥さんという人に決まりました。
「韓氏の長をしております、韓主です」
めちゃくちゃ無表情で圧の強い、四十路半ばのおじさんでした。声のひとつひとつが鋼のように重い。それもそのはず、この人は二十年くらい軍隊を統括していた人でした。今は卿の1人で、太子の家庭教師もしてます。太子ってのは君主の跡継ぎです。いちいち用語がややこしいですね。
荀罃さんはびびることなく、丁寧に返礼しました。
「荀氏知家の知伯でございます。お忙しいお役目の方を煩わせること申し訳ございません」
「とんでもないことです。これからを担う方のお力になれるのであれば、我が喜びです」
韓厥さんのお返しは誠実でしたが、まあ、このあたりのあいさつは様式です。貴族ってめんどくさいですね。
そうして、荀罃さんは韓厥さんに、政治や軍事の手ほどきを受けました。荀罃さんは荀首さんにみっちり教育されましたので、優秀な人です。今からでも政治家できちゃいます。
でも、たくさんの経験を積んでいる韓厥さんにはかないません。荀罃さんはとても真面目に学びました。
ところで、荀罃さんは長い間、囚われの身でしたから、いろんな人に同情されます。好奇の目で見られることもあります。そして、9年間の話を聞かれるのです。
困ったことに、荀罃さんはそういった扱いにすぐ慣れてしまいました。引け目もおおいにあったのでしょう。また、己はそういった過去をもっているのだから、受け入れないといけない、とも思ったようです。
ところがです。韓厥さんは荀罃さんの過去を聞かない。気になるそぶりも見せない。時々、授業の合間に雑談くらいはしますので、必要なこと以外しない、というわけではない。
最初は遠慮しているのかと思っていた荀罃さんですが、日が経つにつれ落ち着かなくなってきました。自分にとって辛いことを聞かれないのだから、気楽なはずなのに、聞かれないのは落ち着かない。いっそ不安である。
こういったのを、シロクマ効果かつ認知の歪みとでもいうのでしょうか。嫌なことを言われるだろうな、と思った通りの嫌なこと言われた。これを成功であると誤認するやつですね。
ある日、とうとう、自分から
「私は戦で不覚をとり生け捕りにされ、9年間も楚の虜囚となりはてました。韓主はどうおもわれますか?」
と聞いてしまったのです。
韓厥さんは無表情のまま、荀罃さんを見て、
「私は今のあなたしか知りません。邲の戦いのとき、顔を合わせたかもしれませんが、それを知っているとは言わない。そしてあなたのこれからのために、教導しているのです」
荀罃さんはポカンとしました。自分がほしい言葉ではないとも思いました。韓厥さんは、さらに言葉を続けます。
「あなたの過去、あなたの9年間はあなたのものです。他の誰のものでもない、あなただけのものです。他者が入るべきのものではない。あなたの財です、大切にしてください」
荀罃さんは、晋に帰ってきてようやく、自分が人であることを思い出しました。お父さんの前で息子に戻れましたが、人に戻ってなかったのです。
荀罃さんはとても感激して、韓厥さんを尊敬するようになりました。
ここで、ボーイズラブなら、荀罃さんに愛の矢がささって、人が恋に落ちる瞬間を見た、と読者に案内するところです。もちろん、ボーイズラブではありません。
2人は、真面目さと重々しさ、そして殺意の高さでとても気が合いました。
二十歳のころから戦場を駆けていた韓厥さんと、家ぐるみで軍人気質の荀罃さんです。
最強のタッグがここに爆誕しました。
ここから、17年後でしょうか。
韓厥さんが正卿となりました。宰相ってやつです。荀罃さんはその補佐、次卿です。晋の黄金期が再びと言われてます。初手からバンバン戦争に出て拡張し、内政もばっちりです。
頼りない後輩たちも、二人でビシバシ鍛えました。
この韓厥さんは長生きで、70才ほどで引退しましたが、荀罃さんは韓厥さんのところによく通って、政治の相談をしていたそうですよ。
知音というのは、互いに心をよく知りあった友のことです。人が人を知る究極ですね。
ほたるのひかり、まどのゆき。
このたびはご来場まことにありがとうございました。またのお越しをお待ちしております。
あけてぞけさは、わかれゆく。
以下、余談である。
今作において、荀罃と荘王の遊戯をご覧に入れたが、もちろんこれはフィクションである。
紀元前597年における邲の戦いで捕縛された記述から紀元前588年に帰国するまで、荀罃の記事は史書にない。そんな荀罃の最も有名な逸話が、この帰国寸前、紀元前588年における楚共王との対話である。
荘王の息子、諱は審。諡号共王。ここでは共王で進める。お察し、今作に出てきた『太子』と呼ばれた幼児である。即位時は13才だったとも言われる。どちらにせよ、15才に満たなかったであろう。
この少年王は帰国が決まった荀罃を呼び出して問うた。
「我を怨んでますか?」
荀罃を虜囚にしたのは父の荘王である。共王は無関係、と現代なら思うであろう。が、共王は楚という国と一体化した存在である。楚を怨んでいるのであれば、共王を怨んでいるに等しい。さて。荀罃は考え込むことなく返した。
「戦争は国と国で行われたことです。私は無能で務め果たせず、生け捕りとなりましたが、楚の皆様は私を殺して血を太鼓にぬるということもなさらず、本国に戻して我が君の罰を受けさせて下さる。それもみな、あなたさまの恩恵というものです。私こそ愚人。誰を怨むことございましょうか」
共王は驚いたであろう。物心つくころからいた、虜囚の晋人である。きっと怨みを長く燻らせていたに違いないと、密かに怖れていたのかもしれない。
「そ。それならば我に恩を感じますか?」
少年の声にはわずかな期待が入っていた。9年の滞在のなかでこの晋人は楚に親しんだのかもしれぬ。が、荀罃にそのような媚びめいた態度はない。
「晋楚双方がそれぞれが国の都合を思い、民を安んじようと願い、怒りを抑え許しあうという立場により、両国ともに捕虜を放免して友誼を結ぼうとしているのです。友誼は国家間のこと、私ひとりのことではございません。従って、誰にも恩に着ることはありませぬ」
荀罃の態度は、かたくなではなかった。柔らかく、どこか諭すような声音でもあった。友誼は国家間。荀罃は個人だから関係無く、恩はないという。しかし、共王の恩恵を嘉していた。共王は、荀罃に親しんでいたところがあったのかもしれない。ゆえに
「帰ってから、我にどのように報いてくれますか」
と、言ってしまった。恩に着ることはないとしても、荀罃が五体満足なのも、晋の申し出を受け捕虜交換に応じたのも、共王が荘王の意志を受け継いだ上で、穏便さを好んだからである。少年は、青年期が終わりかけている男をじっと見た。男――荀罃は、気負い無く口を開く。
「私は誰にも、あなたさまにも怨み無く、あなたさまもまた私に恩をほどこされたわけでもございません。たがいに怨なく恩なければ、ご挨拶することもないでしょう」
挨拶という優しい言葉に変えても、報うことなし何もしない、と言い切ったことに変わらない。
「そうであろうが……。本来そのとおりであろうが、あなたの心の裡を知りたい」
共王がこう言うには、荀罃が建前を言っていると感じる何かがあったのか、それとも少年の願望であったろうか。荀罃は柔和な光を目に浮かべて言葉を紡ぎ出した。
「この捕らわれた男はあなたさまの威霊にて故国に戻されます。帰国し、我が君により罰され処されれば思い残すことございません、死しても私の名は朽ちず残ることでしょう。もし、仮に我が君があなたさまの恩恵にあやかり罪を許し、我が父である首に我が身を下げ渡され、父により廟の前で処され祖に捧げられても本望というもの。やはり私の名は朽ちずに残ることでしょう。もし、この一命を助けられ父を継がなければならず、貧弱な軍を率いる身となり、たとえ楚の方々と相まみえても逃げ隠れせず容赦無く力の限り戦い、二心なく我が君に忠節を捧げます。これが、あなたさまへのご挨拶でございます」
そう言葉を終えると、荀罃はしずしずと拝礼した。
この時、この場にいるのは王と虜囚ではなく、少年と教育者だったのかもしれない。共王は、荀罃の苛烈ともいえる言葉を全身で効いて咀嚼した。忠と孝の道を語り、そして真の誠実さを語ったのである。虜囚だったから、解き放って貰ったから忖度するようなものは報いるとは言わぬ。節度を持って、戦うときは戦い、和するときは和するべし。もし、共王や楚人が荀罃の情を頼ってすり寄れば、叩き斬るという言葉でもあるし、恥を知るというのはこういうものだ、という話でもある。
真の忠臣は君主の前で命乞いせず罪を認め罰を受け入れる。
孝というものは親、祖に対してどこまでも尽くすべし。それを為してこそ己も親となる。
目先の情に目が眩み忖度するは誠実ではない。理を以て当たるべし。
当時の価値観、理想像のひとつである。共王は、荀罃が建前や単なる理想論を吐いているのでなく、本気で実行するつもりなのだと理解した。
「晋は、まだまだ敵にまわす国じゃあない」
共王はうっすら笑った後、良き言葉でした、と荀罃に言った。彼は王であるため、虜囚に拝礼などできぬ。しかし、叶うことならぬかずき、良い訓戒でした、と礼を言いたかったであろう。
以上、荀罃と共王の唯一の会話を小説とした。共王はこの言葉に感化されたかどうかわからぬが、臣下思いの名君となる。むろん、父の名を越えたとは言わないが、楚人に愛された記述が残っている。
共王との会話、その後の人間関係から、やはり荀罃は教育者として良い質を持っていたのではないだろうか。
たとえば、趙武の成人式の言葉で『趙盾のように忠義ある人になりなさい』という言葉を贈っている。趙盾は晋の土台を作った宰相の一人であるが、靈公弑殺の主犯とされている。が、荀罃は君主殺しではなく、君主をなんども諫め続けた部分を評価したのであろう。
彼は人の短所や失敗よりも長所を見る人だったのかもしれない。
趙武だけでなく、士匄や荀偃、欒黶、を彼らが壮年になっても辛抱強くさとし、導く姿が見受けられる。正直、趙武はともかく他三人に関しては、お疲れ様ですとしか言いようが無いのであるが、晋の正卿として7年間、頼りない後輩達を率い、紀元前560年に死去した。楚に捕縛されたのを仮に21才だとすれば、享年は58才。




