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第13話 後日譚(後)

 荀罃(じゅんおう)(しん)に帰れたのは、二つの理由がある。まず、晋がまた力を蓄え、中原のパワーバランスが変わった。楚王(そおう)――荘王(そうおう)は、荀首(じゅんしゅ)から(てい)を介して打診された人質交換に応じたのである。

 そしてもう一つ。いつ返すかという話の前に、荘王は死んだ。特に変事の記録は無いため、自然死らしい。この、南方の国を飛躍させ、頂点に近づけた英雄は、四十路半ばで黄泉(こうせん)に旅立ったと思われる。当時の平均寿命を考えると短命とは言えない。王の死や即位につきものなのが恩赦である。一年を待つという荀罃の判断は正しかった。

 彼は大夫(たいふ)として、慎ましく、しかし堂々と帰国した。九年を経て、晋人(しんひと)の顔ぶれは変わっていたし、父の髪には白髪が見えた。

 (あるじ)(へや)で温かく迎えてきた荀首を前に、荀罃はしずしずと座し、ぬかずいた。必死に顔を作り、涙をこらえる。九年間の空白程度で緩みきった嗣子(しし)など見せたくなかった。荀罃は今だ、父の期待に応えたい少年を持ち続けている。

(おう)

 懐かしすぎる父の声であった。荀罃の(いみな)を呼んで良いその声は、体の芯に染みいりそうであった。荀罃はゆっくりと体を起こした。名を呼ばれたのである。父の訓戒を聞かねばならぬ。虜囚となりはてたのである。父が処すなら謹んで受けねばならない。覚悟が腹の奥に伝わり、自然と背筋が美しく伸びた。荀罃は真っ直ぐな目で、荀首を見る。どこか、猛禽を思わせる目つきであった。

 荀首が、荀罃に近づき、その肩を優しく撫でた。

「よくがんばった。その顔つき、お前がいかにがんばったか父はわかる。よくやった」

 深くしわが刻まれた荀首の顔は、優しさと思いやりと、息子への誇りに溢れている。

 荀罃は、荀首にしがみつき、肩に顔を埋めて号泣した。


 さて、余談。

 後日、例の商人が晋に来たとき、荀罃はあたかも命の恩人のように手厚くもてなした。が、商人は

「功が無いのに賞をいただくわけにはまいりません。私は小人です。これを受けては重ね重ね貴き方を欺くことになってしまいます」

 と断り、そのまま他国へ行ってしまった。荀罃の篤実さと共に、このころの商人の人間性がよくわかる逸話である。

 

 とまあ。全てではないが、荀罃は士匄(しかい)に語った。(にえ)になる宣告と、それを占う遊戯。荘王という偉大な巨人がいかに恐ろしかったか。

「最も危険なとき、集中し、緊張を忘れず、しかし己に空漠を作ることこそ、勝機を掴める。その空漠は突然できるものではない、常に意識せねばならん。いざというより、身が詰まっていれば、余裕が無くなる。そうなれば焦りを生じ、取り返しのつかぬ失敗をする。私は父にそれを教えられ、己の方法を見つけた」

 荀罃の丁寧でわかりやすい語りに、士匄が食い入るように聞き、頷いた。遊戯のくだりなど、戯曲を楽しむかのようにはしゃいだため、荀罃は一度殴っている。

「空漠……。常に余裕を持ち、考えに隙間をおいておくことでしょうか。()を杯とするなら、心は水。いつも八分目、七分目の心を持つ。考える時は、どこか空白を置いておく。そうなれば、いざというとき心は理を壊さず、思考に幅は広がる」

 士匄が、手で(たま)を持つ仕草をしたり、背を測るように手をかざしたりとしながら、言った。本当に、このクソガキは頭だけは良い。全くもってその通りである――理屈だけ並べれば。

「そのとおりだ。汝は飲み込みが早い。で? それができている器であると己で思っているのか、范叔(はんしゅく)范主(はんしゅ)に聞いている、他家の嗣子を困らせ、己を誇り、失敗を押しつけているとか。今回もそうだ。己が矢を外したことをごまかすために、私にあてこすった。それは余裕ではない。汝の言う杯に水は常に溢れ、持ち主を溺れさせている。そういうたぐいのことだ」

 荀罃の言葉に、士匄が、でもみんなバカでノロマだから、とか、だってわたしがおらねば何もできぬトンマ、などと言い訳をする。そういったところを矯正してくれ、と士爕(ししょう)は頼み、荀罃ももっともだと思っている。

「『でも』『だって』汝に会ってから、幾度聞いたか。言い訳と理由は似ている。それは認めよう。しかしこうも言う。理由があるから許されるわけでなく、正しいわけでもなく――勝つわけでもない」

 なおも口を開こうとする士匄の襟首を掴むと、荀罃は立ち上がった。少年が、ぐえっという呻き声とともに引きずられるように立ち上がる。

「今から、その辺りをしっかり教え込む。范主――汝のお父上から、()()()()()()()()()ことを許しをいただいている。楚王の教導には及ぶまいが、汝から卑怯、卑劣、卑小全てぬぐい去り、矜持と節度を叩き込んでやる」

 荀罃ご自慢の、士匄専用軍事強化合宿の始まりである。何が起きるかわからず、蒼白なまま抵抗しようとする少年を抱え上げると、荀罃は荷物を感じさせない足取りで訓練場に歩いていった。

 今だ、生け捕りにされたことは汚辱であり、一生背負わなければならない。九年の間囚われ、親に孝行もできないどころか心配をかけたのは、悔いても悔いたりぬ。しかし、楚王に勝ったこと、己の中にもうひとつの杯を見つけたことは、誇りとしている。汚点も後悔も、そして誉れも同様に並べている。それは己を掌握しているに等しい。

 

 荀罃は天才ではない。先人や後進に比べ、華やかな事績を残しているとも言えない。しかし、己の器を正しく把握し、惑うことなく、最期まで後進を導き続けた。そういった人生の男もいた、と誰かの心に残れば良いと筆者は思う。

ひとまず終わり。次、番外編、明日17時更新予定です。

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