楔
木々が風に撫でられる音だけが耳をくすぐった。
雲一つない夜空の下で、殿下は何も言わず、私のことをじっと見つめていた。
「………」
………。
いや、なんか言ってくれ。気まずいでしょうが。
「俺は早死にするのだろうな」
「はい?」
「お前といると、寿命が縮む思いに事欠かない。今のうちに墓碑銘の下に刻む、辞世の句を考えておくべきか」
「ちょっと失礼過ぎませんかね」
「お前の思わせ振りな言い方が悪いって。遂にストレスが極まって、愛の告白でもしてくるのかと思ったぞ。ああ、びっくりした……」
失礼に失礼を上塗りするとは、誠にボリエ殿下である。
「……お前の好きに呼べば良いだろ。どう呼ばれても、今さら俺とお前の関係は崩れないよ」
「鳥肌が立つから兄呼びは止めろと言ったのは殿下です」
「あれはあの時、お前があまりに深刻な顔をしてたから、軽口叩いたんだ。本気になるなよ」
……あの時、兄妹婚の可能性に激しく動揺してた事は、一生胸の中にしまっておこう。ていうか、忘れられるものなら忘れたい。
「しかし、兄呼びは生き延びれたらか。そんなに妹認定されたかったなら、今すぐ頭を撫でてやってもいいぞ」
「あんまり調子に乗らないでください。これは、願掛けです」
「願掛け?」
「ええ。どれだけくだらない願いでも、目標があった方が励みになるでしょう?」
「……はっ。まあ、そういうことにしといてやるよ」
嫌味のつもりだったのだが、返ってきたのはイヤらしい笑みだった。
「さあ、もう寝るぞ。明日から忙しくなるからな」
「はい」
……生きる。私はまだ、死にたくない。
翌日。玉座の間に、関係者ほぼ全員が緊急で集められ、情報が共有された。ボリエ殿下から陛下へ提出予定だった、補助金不正問題の正式報告書も、ひとまずは略式で受理されることとなった。
そこで明かされたのは、ヒューズ殿下の策謀と、その失敗の結果。教会の泥沼化した政治状況。現教皇の願いと、半分約束された私の死。
私が知る限り、この場にいないのは隣国へ帰ってしまったディオン様と、教会本部から動けない教皇くらいだろう。
「クリス、貴方……!?」
……もちろん、お母さんもいた。
「聞いての通りだ、パメラ。お主とも話すべきことは山程あるが、今はクリスを救わねばならん」
「色々黙っててごめん、お母さん。創薬をするためには、お母さんの知識も必要になると思う。病み上がりだけど、お願い力を貸して」
お母さんの眼が悲嘆を滲ませていたのは、ほんのわずかな時間だけだった。両目を手で拭い去った後は、開店後の販売ラッシュを捌いてる時のような、いつもの力強いお母さんに戻っていた。
「そんなの当たり前じゃない。愛する娘の為に身体を張るのは、母親の特権よ」
「パメラよ、父親の権利でもあるぞ」
「国王の権利とは限りませんわよ、陛下」
「うぅっ!?」
「そこで言葉に詰まるようだから、いつまでも娘からお父さんと呼んでもらえないのではなくて?」
「ぐぅ……」
…………分かってはいたけど、最強過ぎる。私が生まれる前の二人も、こんな感じだったのだろうか。
そんなお母さんに対し、身分を無視して深々と頭を下げたのは、ヒューズ殿下だった。
「母上……結果的に、私はこの手で妹を傷付けてしまいました。お詫びのしようもありません」
「それだけかしら?」
「……ボリエにも、です」
「いいえ、傷付いたのは家族全員よ。貴方も含めてね。貴方は自分の望みのために、クリスとボリエ殿下、陛下とお母さんも傷付けた。きっと、天国にいるニーナ様のことも」
ヒューズ殿下は、何も言い返すこと無く、ただただ震えていた。
「この罪は必ず償うと誓います」
「頑張りなさいね。貴方が一番、お兄ちゃんなんだから」
「はいっ……!」
ヒューズ殿下の返事に柔らかい笑みを返したお母さんは、再び凛とした顔に戻り、陛下へ向き直った。
「陛下、薬剤研究部門はまだ使えますか」
「ああ、主要メンバーも健在だ。アインにはパメラの帰還を伝えてあるから、昔のように使ってくれて構わない」
「昔のようにって?」
真顔のお母さんは、確かに研究員と言われても納得できる迫力があるけども……。
「一時期、陛下に使う香を調合するのに、研究室を使わせてもらってたのよ」
それは頼もしい。研究室の使い方を熟知してくれているのは助かる。流石は私の母にして、薬草学の先生である。
「香?」
「陛下」
「あ、うん……」
……香だけ……じゃないのか?
思わず全員の目がお母さんへ集中する中、咳払いと共にボリエ殿下が歩み出た。
「父上。創薬の期間を短縮するためには、イネス殿の提案を取り入れる必要があると考えます。不確実ではありますが、やってみる価値はあるかと」
「心清らかな者を、新たな予言者に目覚めさせるという話だったな」
「はい。その候補者として、偽りの予言者フランシーヌが相応しいと考えます。彼女は手段こそ間違えましたが、純粋に民を思うことが出来、かつ薬草学を学ぶに足る学習能力を持ちます。どうか彼女への、合成薬物の投与をお許し頂きたい。そして創薬が上手くいった暁には、王女救命の恩赦を与えては頂けませんでしょうか」
「……その前にクリスの意思を確認せねばならぬ」
「私、ですか?」
「お主にクリス・フォン・バシュレ王女を名乗る意思があるか、否かだ」
「!!」
……一度王女を名乗ってしまえば、今までの生活を捨てることになるだろう。もうポーションショップ店員には戻れなくなるし、イネスさんとの生活も終わりを迎える。
殿下と厄介事を片付ける日々とも、お別れだ。
でもそれはここに来るまでに、内心で予感していたことだ。手放し難い生活ではあるが、死と引換えに出来る話でもない。イネスさんもそれを承知の上で、提案してくれたはずだ。
「あわわわわ……!」
……そうでもなかったんかい。ごめんねイネスさん。今気付いても手遅れです。
「……一つだけ、懸念があります」
「なんだ?」
「隣国のディオン第三王子と私は、婚約を見据えた交際を始めたばかりです。私が王女となった後、ディオン殿下との交際を続ける事は、出来るのでしょうか」
「ふむ……?それは初耳だが、まあ特に問題は無い。ディオン王子とそこまで親密になっているとは思わなかったが、隣国との友好関係を強化するという、政治的目的とも合致する」
「それは、ディオン殿下が王位を継承しなかったとしてもですか」
「それこそいらぬ心配だ。ディオン第三王子がマルティネス国王の実子である事実は動かない。彼が隣国の人間であり、罪人として収監でもされていない限り、お主達の希望は通るだろう」
「そうでしたか……それなら、私も覚悟を決めましょう。」
胸を張れ、クリス・フォン・ルグラン。お母さんとお父さんが見ているぞ。
「今日より私は、クリス・フォン・バシュレ王女と名乗らせて頂きます。長きに渡り城を空けましたが、今日よりここを我が家と心得ます」
「うむ、委細承知した。……おかえり、クリス」
「ただいま戻りました。……お父さん、小さい頃からずっと、こうして会いたかったです」
涙ぐむ国王。呆れた母親。
「二人しておかしなこと。名前がちょっと変わっただけじゃない。どうせディオン殿下と結婚したら、また違う姓を名乗るのよ?」
「そ、それを言わないでくれ!今はまだ親子の実感を得たいのだ!」
場違いな笑い声が、謁見の間に響いた。うん、これならきっと、大丈夫だよね。
私は、死なずに済むよね……?
「では、父上。私はこの件を、早速現教皇へお伝えしてきます」
「うむ。今最も教皇に近いのは、クリスとヒューズ、お主だけだ。頼むぞ」
「はっ!」
「ボリエ、囚人フランシーヌへの交渉は、お主に任せる。分かっていると思うが、予言の性質を考えれば、無理強いでは良き結果にはならぬぞ。くれぐれも、慎重にな」
「はっ!お任せください!……おい、クリス」
「なんでしょう、殿下」
「わかってるだろうけど、お前は公的に王女、俺の身内となったんだ。公の場では、俺の事を殿下と呼ぶなよ」
「あ、そうでしたね。ではどう呼べば?」
「普通に名前でいいだろ」
「なるほど。じゃあ、よろしくお願いします。ボリエ」
一瞬ぴしりと音を立てて空気が凍った気がしたが、何も問題ない。以前の私なら不敬罪による斬首を警戒するところだが、既に王女である私に恐れるものは何も無いのだ。
「なんか一番王族にしちゃいけないやつを、王家に迎えた気がするんだが。アベラールでさえ、未だに様付けでしか呼んでくれないのに……」
「後悔しても遅いですよ、ボリエ」
「わかった、わかったから無意味に何度も呼ぶな。それよりフランシーヌの所へ急ぐぞ。お前には時間が残されてないんだからな」
「はい、殿下。イネスさんも同行願います」
「は、はいっ!」
独房へ向かう足取りは、決して軽くなかった。むしろ死の約束に加えて、分不相応な地位まで身に纏ったせいで、体が重くなった錯覚すら覚える。
でも、着実に前進している。そう信じたかった。