母のルーツ
控室のテーブルを挟んで、陛下と対峙した私は、緊張のあまり喉が痺れたように動かなくなった。
「待たせたな、クリスよ」
「は、はい!」
な、何を話す……!?どんな質問が来る……!?
「うむ……」
「……っ」
…………?
「………」
か……!
会話が続かねええええ!?おいおいこのパターン、ディオン様だけじゃないのかよ!?王様なら人見知りってことは無いだろうに!?ああああ気不味いいいいい冷や汗が止まんないいいい……!!
振り子時計の時を刻む音だけが残酷に響き渡る中、この膠着状態を打破したのは、陛下だった。
「……大きくなったな」
「はひ!?」
「もちろん覚えてはいないだろうが、そなたがまだ赤子の頃、あの小さな店の裏で遊んでやったことがあった」
「あ……はい。覚えてはいませんが、母から教わっておりました。あの短剣は、私にとって父の温もりを感じられる、大切な宝物となっております」
「そうか……大事にしてくれているか」
「はい」
再び、沈黙が場を支配した。しかし、先程とは沈黙の質が異なる。
陛下はもちろん、人見知りをしているのではない。言葉が言葉として、喉を通らないのだ。口を震わせ、何かを紡ぎ出そうとしては、それを取り止めるようにして口を閉ざしている。
ーー陛下も、私と同じで、何を話せばいいのか分からないのかもしれない。そう考えたら、私が抱いていた緊張感も、ほんの少しだけ和らいだ。
…………重く静かな静寂の中、時計の音に背中を押されるようにして、あるいは肺腑から絞り出すようにしながら、陛下が今一度沈黙を破った。
「……もう、知っていることと思うが……余が、そなたの父だ」
「私のことを、娘だと思ってくださるのですね」
「当然ではないか。余はそなたを忘れたことなど……いや、こんなことを言う資格は、余には無いな。余が即位し、そなたが初めて歩きはじめた頃から、あの店に立ち寄らなくなったから」
「陛下……」
「だが、それでも……クリス。難しいかもしれないが、どうか今は……今だけでいいから。王としてでなく、父として接してはくれまいか。余も、いや私も、お前とは父娘として話したいのだ」
私は衝撃の余り、言葉に詰まった。私に男爵位を授与した時の陛下の目には、一欠片の愛も見出だせなかった。ただ事務的に、王としてすべき手続きに専念していた、まさに国王そのものであり、親しみを覚えたりはしなかった。ましてや、父親だなんて。
しかし、今目の前にいる壮年の男性は……記憶にはない筈なのに、何故か酷く懐かしく思えた。きっと赤ん坊の頃の私は、本当にお父さんのことが好きだったんだろう。この安心感は、きっと小さな頃の私が抱いていたーー。
「……今すぐは難しくあります、陛下」
「……そう、か。いや、そうであろうな。そなたからすれば、捨てられたようなものだ。余を父として認められるわけが無いか」
お母さんの言ってたこと、わかったよ。言いたいことを言えば、いいんだね。
「顔も知らない父のことを、ずっと夢見てきました。良いことがあれば、心の中のお父さんに、いつも報告していたのです」
「……!」
「ですが、いざ父を目にすると、とても気恥ずかしくて。もう少し、慣れるまでのお時間を頂けますか?」
「あ、ああ!もちろんだとも!」
ほっとして笑顔を見せる陛下に対し、初めて親しみを覚えた。あるいは忘れていた幼き好意を、取り返しつつあるのかもしれない。
「まずはお互いのこれまでを知ることから、始めてみるのはどうでしょう?尤も陛下は、ずっと私に影をつけていて、既にご存じの事かもしれませんが」
殿下が言っていたのは、間違いなくこの事だろう。考えてみたら当然ではあった。金銭面では苦労したが、平民でも王族が通うような学園に入学できたのも、王家による配慮がなされていたのかも知れない。流石に学力は十分足りていたと信じたいが。
「……その通りだ。平民として暮らすお前とパメラの邪魔にならぬよう、可能な限り手を出さず、優秀な部下に見張らせていた」
パメラとは勿論、私の母の名前である。
「ボリエ殿下は、それを以前からご存じだったのですか?」
「いや、話していない。あれは自力で気付いたのだろう。お前が腹違いの妹である可能性に気付いた時からな」
それは何より。もしも出会った頃から知っててあの態度だったとしたら、演技力云々以前に人間性を疑う所だ。ただでさえちょっとそのへん怪しいのに。
「では、殿下と私が、その……良くない出会い方をしたことも?」
「それはボリエ自ら報告をしてきた。だがまさか後日になって、喧嘩相手の平民が娘だったと知った時は、激しい目眩と頭痛を覚えたものだ」
「青痣だらけの私を見て、母は笑っていましたが」
それもとても楽しそうにケラケラと。あの日、母が『青春してて良いわね』と能天気に放言した時には、やり場の無い激情を薬草と一緒にすり潰す他に無かった。
「パメラなら、そうであろうな」
怒るでも悲しむでもなく、ただ呆れている辺り、流石に母への理解度が高い。
「通常ならば殴り合いに発展する前に、二人ともその場で取り押さられる場面だったであろうが……ある意味、そうなってしまった原因は私にもある」
「どういう意味ですか?」
「二人に付けた影が迷ってしまったのだ。特にクリスに対しては生命に関わらぬ限り、一切の手出しは無用との厳命を下していた。出自を悟られてもならぬとな」
一切の手出し無用と、出自露見の防止。その二つの厳命を同時に課せられれば、確かに子供同士の喧嘩程度では、影も動きようがなかっただろうな。しかし当然、王子の身の安全も最優先課題だったはずで……。
当時の影を担当された方々の心痛や如何に。
「では殿下への暴行が犯罪と見做されなかったのも、陛下の采配だったのですね。殿下もそうおっしゃってました」
「なに?それはボリエの勘違いだ。あの馬鹿者め、まだまだ自分を分かっていない」
うん?勘違い?
「確かに平民が王族へ殴りかかったのは事実。だがあの場面、先に後ろからぶつかっておいて、理不尽な物言いをしたのはボリエの方だ。しかも相手は、年頃の女子生徒。先に手を出されたからといって殴り返すようでは、王の器とは言えん。あの時は廃嫡しようか、真剣に考えた程だ」
……殿下、扉の外で聞こえてますよね?あの日の失点、我々が思ってた以上に大きかったみたいですよ。
「いや、あの……出会いはともかく……殿下にはこれまで、公私ともに支えていただきました。今では唯一無二の友と言って、差し支えありません。どうか平に御容赦頂けたらと」
……って、なんで半分被害者だった私が、半分加害者だった殿下を庇っているんだ。こら殿下、ドアの外に逃げてないで、今すぐそこで土下座しろ。
その光景の奇妙さを笑った訳では無いだろうが、陛下の口元には笑みが浮かんでいた。
「お前は本当に優しい子に育ってくれた。女手一つでここまで育て上げたパメラには、感謝せねばならぬ」
「後半については同感です。しかし、何故私と母は平民として生き、ヒューズ殿下だけが王族だったのでしょうか?何か理由があったのでしょうが……」
当然かつ自然な疑問を投げ掛けたつもりだったが、それは陛下にとっては即答しかねる程の重い内容だったらしい。沈痛な面持ちで黙した姿は、痛ましさすら感じさせた。それは奇しくも、病室で母が見せた表情によく似ていた。
この二人がそれほどまでに後悔する決断だったというのか。一体両親の間に、何があったのだ。
「別に私は、平民として生きてきたことを恨んでいるわけではありません。平民だったからこそ得られた幸福と、深い絆がありましたから。ただ、やはり実の兄と離れ離れに育てられた理由は、知っておきたいのです」
「そうであろうな。わかった、今こそお前の出自、その全てを話そう。だがそれを話すには、まずパメラとの馴れ初めから話さねばならぬ。少し長くなるが、良いか?」
「もちろんです」
「うむ……話は今から25年ほど前まで遡る。まだ先王が健在で、私がまだ王位を継承する前の頃だ。先王は子宝に恵まれず、私以外に子が成せなかった。故に私は、それはそれは大事に育てられたものだよ」
ーーその後に陛下……父の口から語られた過去は、一人で背負うにはあまりにも重く、苦しいものだった。
「当時の私は貴族主義的で、自分本意な人間でな。我ながら実に尊大な王子様だったと思うし、自分以外の貴族を見下していた部分もあった。そして、パメラは……お前のお母さんはーー」
何も知らずに生きてきたことを後悔するほどの、凄惨な過去。それを聞いた時ーー
「ーー隣国から逃げた、元奴隷だった。彼女は子爵家の生まれでありながら、借金に苦しむ父親の手で奴隷商に売られ、姓を失っていたのだ」
ーー私の脳裏を過ったのは、血の繋がったもう一人の、兄の後ろ姿だった。




