天秤
翌日。殿下から改めて、教会本部へ殴り込む前の打ち合わせが行われた。ドア外の衛兵は既に配置転換されているが、念の為に外からは聞こえない声量で話している。
「教会本部は我が国と隣国のちょうど境目に位置している。明後日の昼前には着きたいから、到着日の夜明け前には出発する。次にこの訪問の目的と、資料の確認だがーー」
「お待ち下さい、殿下。その前にこの電撃訪問の目標を、再確認させてください」
教会の不正を正すとは聞いている。その正す箇所も聞いている。確認したいのは、その先の展望だ。
私は目の前の殿下に、どこか昔の面影を重ねながら、慎重に言葉を紡いでいった。
「初めは教会との関係が悪化することを避けるため、件の枢機卿解放要求を突っぱねる前に、周辺の味方を増やす予定だったはずです。結果的には藪蛇で、補助金の不正受給問題に発展したわけですが、味方が増えたとは言えない状況下であることに変わりはありません」
私の言葉に頷いたのは、殿下ではなく、奥様だった。
「つまり、このまま不正受給問題を追及しても、教会はボリエ殿下や私達を敵対視して、信徒からの悪感情を向けられる可能性がある。それでは教会と対等な関係を築くという、最初の目標が達成できないのではないか。クリスさんはそう言いたいのね?」
「ご明察です、奥様」
流石だ、みなまで言わずとも、迷いなく完璧に整理されている。奥様は一見優しそうな風貌をされているが、あの劇的な披露宴から今日まで、ボリエ殿下のお隣で政争の最前線を生き延びてきた御仁だ。肝の座り方も、頭の回転も、人並みのそれではない。
「お前の懸念は尤もだ。だが先程お前が言っていた通り、目標は俺の即位に備え、教会と対等な関係を構築することにある」
殿下の口から出た"即位"という言葉が、在学中とは比較にならないほど重く感じられた。これまでは仮定にしか過ぎなかったものが、今は現実の未来としてのしかかってきている。
この一件が上手く片付けば、王位継承戦においてかなり優位に立てるだろう。それがわかっているだけに。
私の内心を知ってか知らずか、殿下の口調は平静そのものだった。
「味方を増やすのは、そのための手段の一つであって、教会を味方につけることが最終目標ではない。もちろん無闇に敵対するつもりは無いが、関係性を理由に不正の追及を先延ばしにすることはできない」
「であるならば、やはり訪問日は考え直したほうが良いでしょう。明後日に電撃訪問するのではなく、予告した通り明々後日にした方が良いと思います。制度を悪用しているのは教会ですが、だからと言ってこちらも横紙破りをして良い理由にはなりませんし、あらぬ禍根を残す可能性もあります。不正を正すためには、正す側こそ正道で行くべきです」
「…お前も結構言うようになったな」
殿下の顔は、入学して間もない頃、殴り合いの喧嘩をした後のようだった。
「あの日、次からは言葉で殴り合おうと言ったのは、殿下ではありませんか。お陰でほぼ毎日殴り合うことになりましたが」
「はっ!そうだったな。毎日やりあってりゃ、強くもなるか」
ボディーの代わりに自らの膝を叩いた殿下は、ニヤリと口の端を上げた。
「お前の主張は理解したし、実際に間違っていない。しかし今回に限っては無用な心配だ。これは相手を慮っての行動だからな」
「というと?」
「教会運営費の三割は、各国からの支援で成り立っている。我が国からの補助金はその中のさらに数割に過ぎんが、不正受給問題が世に広まったら、他国も呼応して調査に入るだろう。それを我々が、親切にも教えてあげようというのだ。問題が大きくなる前に、一日でも早くな。礼を言われこそすれ、批難には値しない」
不正をバラされたくなかったら、わかってるよね?言外にそう突きつけることで、話の主導権を握ってしまおうという訳である。
なるほど、実に殿下らしい悪辣さだ。特に恐ろしいのは、この日程と大義名分をわずか一日で設定し、昨日の時点で信徒の騎士を利用して、教会へ漏らす判断をしたことだ。目の前に与えられた状況に対しての判断が早い。
王政において、判断力の速さはそのまま武器になる。そういう意味では、既に王の資質を一つ得ていると言えるかもしれない。
「ありがとうございます、よくわかりました」
貴方だけは敵に回しちゃいけないってことが。
「では話を戻そう。今回の目的は、教会に不正受給を認めさせ、是正させることにある。一方教会に対しては、城下町のシスターが困窮している件について、見解と対策を伺いたいと伝えてある」
「城下町の聖堂で拘束した、枢機卿と司祭の解放については触れていないのですね」
「そうだ。向こうは信徒の騎士から情報を得て、俺からの謝罪と枢機卿達の解放を期待しているだろうがな。それ故に向こうは、たとえ準備不足であろうとも、俺達の電撃訪問を拒否できないわけだ」
ヘソを曲げて帰られて困るのは、向こうの方だから…か。
「まさに悪党の考え方ですね」
「合理的と言ってほしいな。次に資料の確認だが、アベラール、証拠の書類は揃ってるな?」
「はい、ここに」
アベラール様は両手いっぱいの資料を机に置いた。二人が中身を確認するのに合わせて、私も読んでみたが……うむ、さっぱり理解できない。御二人と違って、私はそれほど学力に秀でていた訳でもなかったし、経理の経験も無いのだ。仕方ない。
とにかく二人が自信に溢れているのだから、この書類があれば十分なのだろう。それにしても、この短期間でよくぞここまで揃えたものだ。
「しかし、ここまで準備が整っているのなら、私まで行く必要は無いのでは?おとなしく留守番してましょうか。母も心配ですし」
「いや、お前には重要な役目がある。正確にはお前ではなく、お前の友人に力を借りるために、同行してもらうことになる訳だが」
私の友人…?教会へ行くのに?……ま、まさか。
「ほ、本気ですか?冗談じゃ済みませんよ!?」
「承知している。だが今回は一発勝負だからな、成功率は可能な限り上げておきたい。嫌だと言っても必ず説得してくれ。お前の数少ない友人であるーー」
ーー元聖女様をな。
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気が重い…あんだけ教会を嫌ってるイネスさんが、本部まで付いてくるわけないじゃないか。よりにもよって一番きつい役目を押し付けやがって…!
……一応方法はある。雇用主の私が命令すれば、メイドとして連れて行くことは可能だ。でもそれは私を信じて尽くしてくれている、彼女に対する裏切りだ。そんな方法は選べない。
だが…それも自分本意な考え方なのだろうか。教会の不正を認めさせることと、私の友情を、天秤にかけて良いものだろうか。
以前の私なら、迷うことなく友情を選び取れたと思う。平民だった頃の私なら。しかし今の私は、ボリエ殿下を王とし、家族である母を守るという使命がある。そのためには殿下の成功と、成功した殿下による庇護が不可欠だ。
嫌な考えだ。友情に損得勘定を持ち出すようでは、人としてお終いだな。私もだいぶ、貴族に染まってきたということなのだろうか。それとも単に、私の性格が悪くなってしまったのか?
……今の私がこんなことで悩んでいると知ったら、イネスさんは幻滅してしまうだろうな。
うん、決めた。やはり無理強いは出来ない。まずは同行を提案して、イネスさんが拒否したら、屋敷で留守番しててもらおう。そうすれば私が行く理由も無くなる。殿下にとっては多少痛手かもしれないが、私にも踏み越えてはいけない一線があるのだ。
「はあ…帰る前に、お母さんの顔を見ておこうかな」
仕事終わりに母の病室へ向かっていた私の足は、まるで鉄球を両足に結びつけているかのように重かった。
そしてようやく辿り着いた病室からは、これまた見知った人が出てきた。今回は王子様ではない。もはや見慣れた鎧、そして見知った間柄でありながら、病室とは無縁であるはずの健康優良人物である。
「あれ、兵長さん?」
「あ、クリス様。ご無沙汰しております」
バルト兵長だ。こうしてまともに話をするのは、隣国へ行く直前以来だったか。
「ご無沙汰してます。誰かのお見舞いですか?」
「え?ああ、そうです。クリス様の母君様に、お見舞いの品を届けたところです」
元店番として、様子を見に来てくれたのか。なんと優しい方だろう。
「お気遣い頂き、感謝致します。母も喜ばれていたことでしょう」
「いえ、むしろ感謝するのは私の方です、クリス様。ポーションショップのお手伝いは、とても楽しいものでしたから。もし必要であれば、またお声掛けください。私でよければ、力になりましょう」
あの激務を楽しいと言えるとは、中々の才覚をお持ちだ。現役の騎士でなければ、今すぐ正社員待遇で迎え入れたいところである。
「そう言って頂けると救われます。よければまた、面会にいらしてください」
「ありがとうございます。ではまだ仕事がありますので、今日はこれで失礼いたします」
ガシャガシャと音を立てながら歩き去る兵長さんの背中は、背負ったものの大きさを想像させずにはいられなかった。年齢的には私より一回り上くらいだろうに、どれほど苦労したら、あのような落ち着きを得られるのだろう。
病室には、綺麗な生花とお菓子が置かれていた。
「お店のお手伝いに来てくれてた兵隊さんが、持ってきてくれたのよ。なんだかいつも悪いわねー」
「いつも?もしかして、前からお見舞いに来てくれてた?」
「そうよー♪退院後の移転作業もお手伝いしてくださるそうなの。これで一安心ね」
まだ包帯まみれの母ではあったが、回復薬の効きが良いらしく、退院日もそう遠くないという。しかし傷が治ったところで、実際に襲われた恐怖が無くなるわけではない。それにブリアックに襲わせた理由がわからない限り、また犯行が行われない保証はない。
…もっと頑張らなきゃ。教会へ行く前に、さっきの資料をもう一度読んでみよう。全部はわからないかもしれないが、何も知らないまま殿下夫妻に頼り切るのも良くない。知ろうとする努力だけは、続けなければ。
「クリスったら、また一人で考え込んでるのね」
「だって…」
「駄目よ、自分さえ間違えなきゃ上手くいくと考えるのは。貴方は自分が思ってるほど万能じゃないし、貴方以外の人も間違える時はあるの。だから一人で悩まずに、ちゃんと周りと相談しなさい」
「うん、わかった」
「まあ、そこは私に似ちゃったんでしょうけどね」
「じゃあ私の苦労性も、お母さんに似たせいかな」
「こーらっ!調子に乗らないの!」
明るく笑う母の目元には、まだまだ若いにも関わらず、細かな皺があった。それは私を幸せにするために母に刻まれた傷であり、私自身が刻んだ傷に他ならなかった。
先日の悪夢が脳裏をよぎり、首筋が冷えていった。母との未来を守るためにも、あんなものを正夢にはしない。絶対にだ。
イネスさんが待つ自宅へ辿り着いたのは、家々の中から明かりが灯り始めた頃だった。




