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ルポ:京都の辻オナニー

私がかつて京都に旅行した際に遭遇したできことを記事にしたものです。

 当時、大学生だった私は友人と京都に旅行に来ていた。いくつか神社や寺を観て周り、次に友人が行きたいと言うので、京都市の公営のバスに乗って、北野天満宮に向かった。バスに揺られて、私は居眠りをしていたのだが、友人が起こしてくれたので乗り過ごさずに済んだのだった。

 バスを降りると北野天満宮はすぐである。しかしそこで、

「お兄さんたち!」

 と女性の声で呼び掛けられたので、友人と二人で振り替えると、そこに居たのは、私よりずっと背の高い、180cmはゆうに越えていようという大女だった。全体的に筋肉質で、腹筋は割れ、腕や足は丸太のようだったけれども、胸や尻は相応に大きく、男性的でありながら確りと女性であるという印象の女だった。

 女は、結っていた癖の強い髪をわざとらしくほどいて見せて、私たちの目の前、道路の脇へどかりとあぐらをかいて座った。腰まで届く長い髪が、地面に振り出されている。

 女はこちらの眼を見てにやりと笑うと、自分の目の前に漆塗りの椀を置いた。そして、足を大きく拡げると、下着も何も着けていない自分の秘部に指を入れてそのままオナニーを始めてしまった。

「すげえ、これが有名な京都の辻オナニーか」

 友人はそう言って、続けて「京都に来た甲斐があった」と言うものだから、それまで呆気に取られていた私も、馬鹿らしくなって徐々に落ち着きを取り戻していた。

 次第に人が集まってくる。中には、恐らく地元の人だろうというだらしない格好をした親父もいて、慣れたように小銭を女の椀へ投げ入れた。どうやらあの椀が、路上奏者のギターケースのようなものらしかった。

「お兄さんたち旅行でしょ。どこから来たの?」

 と女が指を止めずに話しかけてきたので、埼玉県だと答えると、

「ああ田舎から」

 と女は言った。こういうところはやはり京都人だと思った。

 女は「あっ」と言って、わざとらしく甘い声を出し始めると、指の動きを強める。

「どこ、触ろっか」

 と女が息も絶え絶えに言った。それを聞いた友人は、財布から一万円札を取り出して椀に投げ入れ、

「尻でやってくれ」

 と叫んだ。

 女は、またにやりと笑い、まず中指を立ててこちらを挑発するそぶりを見せた。

 そして、次にその中指を自分の口内でよく舐ねぶると、取り出し、てらてらと輝くそれをそのまま自身の肛門にするりと突っ込んでしまった。

「俺が便秘のときもあんなにすらりとは干潮が刺さらない」

 等と、友人は冷静に分析している。すると友人は私の耳元で、

「あのお椀、きっと高いぜ。色味にまったくくすんだところがない」

と言った。どうにも彼は、辻オナニーを楽しむというより、これの分析に気を取られているらしい。

女の声が次第に上ずってくる。その場にいた私たちや親父たちの期待も高まってくるのを感じた。するとその時、

「こら、またお前か!」

 と叫ぶ声があった。

「やっば」

 と女は漏らすと、慌てて椀を抱え、

「また今度ね」

 と舌を出してからかうように言ったあと、そそくさと退散してしまった。それを見た観客たちも、三々五々解散していった。

「あいつ……」

と独りごちながら、走ってこちらにやってきたのは、先ほど「こら」と叫んだその人である。これまた背の非常に高い、筋肉質な婦人警官だった。

 ぜえぜえと息を整える彼女に向かい、私は、追いかけなくて良いのかと訪ねると、彼女は、

「あいつの住み処は知ってるから」

 と答えた。

「それよりあんたたち、見たところまだ若いようだけど、あんなもの見るんじゃありません!」

 婦人警官は息を整えながら私たちを叱る。それを気にも止めずに友人は「さっきの人とはお知り合いですか?」と平気で尋ねた。彼は図太い。

「まあね、昔からの中だから……」

 と答えた婦人警官の言葉に興味を惹かれた私は、ぜひ話を聞きたいと言った。


 北野天満宮の境内の石垣のようなものに婦人警官が座る。私は、近くの自動販売機で買ったお茶を渡した。彼女は礼を言ってからぐびぐびとお茶を飲み干し、一息つくと、語り始めた

「あの子も昔はああじゃなかったんだけど……」



 先ほど、辻オナニーを繰り広げていた彼女の名前は(なつめ)というらしい。なんと、人ではないそうで、いわゆる「鬼」と呼ばれる種族であるらしい。人ではないものがこうも普通に往来しているとは、さすが京都だと思った。

 まさかとは思ったが、この婦人警官もやはり鬼だそうで、名前は(なずな)と言うらしい。鬼も十八、という言葉があるが、妙齢に見える薺氏も、先ほどの棗氏も、私は別だん不美人だとは思わなかった。

 話が逸れた。ともかく彼女たちは鬼という種族の女性で、数百年来の昔馴染みであるとの事だった。つまり彼女たちの年齢はもう数百歳であるということである。

 その昔、鬼は人里とは離れてそれぞれ集落を作って暮らしていたらしい。とは言っても、山間部にあるというだけで、人里との交易のようなやりとりは普通にあったそうだ。そして、当時から人と同じように鬼にもまた、都会へ出てみたいと思うような連中はいたらしい。

 薺氏も棗氏もそんな一人だった。山奥の生活に飽きて、思いきって京都の町に出てきたらしい。

 ところで当時、公家は貧乏であった。収入に比して出費が大きいからであった。そのため、二人ぶんの飯で四人ぶんの力を出せる鬼たちは、彼らに好んで雇用されたそうだ。

 彼女たちも鼻が高かったらしい。それぞれ立派な家に仕え、堂々と京都の町を闊歩したそうだ。主な仕事は警護で、貴人の周りで堂々たる体躯の彼女らが睨みを効かせているのは当時やはり効果があったようだ。そういう意味で、青侍のようなものだと薺氏は言っている。

 あの頃は良かったわ、と薺氏は言う。彼女もまたその昔、清華家の名門、西園寺家に仕える鬼だった。一方の棗氏は、桂宮家の歴代に仕えた鬼だそうで、あの椀も実は、京極宮(きょうごくのみや)(当時、桂宮ではなく京極宮といった)家仁親王(いえひとしんのう)(1704~1768)から拝領した逸品であるらしい。

 そんな鬼たちだが、転機となったのが1868年の明治維新と、同年の明治天皇(1852~1912、位1867~1912)の東京移住(いわゆる東京奠都)で、当然に彼女たちが仕えた主人たちも天皇に従ってぞろぞろと東京に移り住んだから、更に彼女たちも居を東京に移さざるを得なかった。

 東京での生活は辛かった。と言うのも、彼女たちはもはや今まで通りの生活を続けることが出来ず、新しい生き方をしかも慣れない土地で探さねばならなかったからだ。

 最初の頃は、彼女たちは家政婦のような雇用形態で今まで通り東京の公家屋敷に仕えていたものの、時代の流れと共に、解雇されるものが増えてくる。これからの時代は腕っぷしより事務作業、ところが鬼という種族はそちらのほうはてんで弱い。

 結局、時代の流れに対応できずに故郷へ帰った鬼は多いらしい。ところが、鬼というのは誇り高い種族で、一時は京都の公卿に仕えていた身であるのに、大人しく田舎で農耕と狩猟採集に戻るというのも受け付けないというのもまた多かったそうだ。

 そんな時、彼女たちの主人次第で明暗が別れた。そのころ薺氏が仕えていた西園寺家の当主だったのは、西園寺公望(さいおんじきんもち)(1849~1940、内閣総理大臣任1906~1908、1911~1912)で、知っての通り内閣総理大臣を務めた人物である。西園寺公爵という極めて政治力の有る主人に恵まれた彼女は、主人から何かやりたいことでもあるかと問われ、それで警察官と答えたそうだ。そのため西園寺公爵は東京でそこそこの警察官の地位を彼女に与えた。

 余談だが、薺氏の妹は同じ清華家の徳大寺家に仕えており、明治の頃の当主の徳大寺実則(とくだいじさねつね)(1840~1919)は昔気質(むかしかたぎ)の公家で、宮内卿、侍従長、内大臣と宮中職を歴任した人物である。そのため、その縁でその妹は宮中に入り、今でも高貴な方々にお仕えしていると言う。一番幸運だったのはあの子だわ、と薺氏は言った。

 さて棗氏である。彼女の仕えた桂宮家は桂宮淑子内親王(かつらのみやすみこないしんのう)(1829~1881)が(みまか)られたのを最後に断絶してしまった。その際、彼女ら桂宮家の家人は桂宮家の分家筋に当たる広幡家の当主、広幡忠朝(ひろはたただとも)(1860~1905)に一旦は引き取られることになった。その際に広幡侯爵は、元から広幡家に仕える者もいるため、桂宮家にいたころと同じ待遇で迎えることはできない。故に当分は給金を減額するが理解してほしい、と述べたそうだ。当時、棗氏には可愛がっていた妹分の鬼がいて、自分は去るから彼女を仕えさせてやってほしいと言ったそうだ。広幡侯爵や、その跡を継いだ広幡忠隆(ひろはたただたか)(1884~1961)は後に宮中で働いているから、あそこで辞めなければ、今も棗氏は自分の妹のようになっていたかも、と薺氏は言う。

 その後、棗氏は一般の人々に混じって会社で働くようになったそうだが、元々誇り高い鬼なだけあって、今までと違い、そこらの下品で粗野な親父たちに顎で使われるのが我慢ならなかったそうで、職を転々としたあげく、結局は娼婦の真似事をするようになってしまったそうだ。それでも、辻オナニーはしても本当に体を売りはしなかったそうであるが。

 薺氏のほうも、要はコネで就職した訳だから、次第に周囲との軋轢を感じて東京での地位を離れ、今は長く暮らした京都で町の交番に勤務しているという。

 京都は不思議な町である。明治から大正、昭和と時代が変わる中で、棗氏のように辻オナニーをやる者は後を絶たなかった。と言うのも、京都という町は、辻オナニーで生計が立ってしまうという社会構造を持っているようだ。京都にはむっつりスケベが多いから、とは薺氏の談である。

 ここだけの話なんだけどね、と薺氏は、私に打ち明けてくれた。一度だけ彼女も、辻に座り、オナニーをしたことがあったらしい。ほんの出来心だったと言う。昭和の中頃、薺氏は京都の下鴨神社へと続くある道の辻で、上着だけになり、往来に座り込み、目の前には権中納言(ごんのちゅうなごん)西園寺寛季(さいおんじひろすえ)(1787~1856)から賜ったという美しい金蒔絵の化粧箱を開いて置き、指を自分の秘部へ突き入れた。見る間に人が集まってきて、化粧箱はお札でいっぱいになったという。薺氏は、何だか恐ろしくなったとのことで、それ以来辻に座ることはなかったそうであるが、ああも簡単に稼げてしまうとなると、辞められなくなる者が出るのも無理はないと言う。

 現在、薺氏は辻オナニーに手を出した仲間の鬼たちの更正を支援する活動もしていると言う。彼女たちは、仕えていた家はもはや代替わりして縁も薄くなり、辻オナニーをしているために故郷にも帰れず、また実際に辻オナニーで生活できてしまうことも相まって、中々これから抜け出すのは容易ではない。薺氏は言うらしかしながら、かつて京都の町で立派に暮らしていたあの頃のように、自分たち鬼が辻に座らずに堂々と歩けるような時代は、自分たちの努力次第できっと来るだろう、と。それは、かつての自分への憧れか、辻オナニストに身を落とした仲間たちへの憐憫か、私のような人間の男性には知ることができない。

全て事実です(大嘘)。

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