【影《シャドウ》】
闇に沈んだ部屋の中に、男がいる。
閉ざされたカーテンが放つ薄明かりは、室内の様子を知るにはあまりに頼りなく、彼の姿は影そのものだ。
彼は広々としたソファーの真ん中に座り、携帯電話を耳に当てている。
携帯電話のボタンが放つわずかな光によって、男の口元だけが青白く浮かび上がっていた。
いつでも言葉を発せられるように、にわかに唇を開いている。
だが、出てくる返事は「はい」しかない。
それしか与えられていないからだ。
「イーズガーベージで待機しろ」
電話の向こうの声が言った。
低くて威圧的だが、どこか優しさのこもった声だ。
「はい」
彼は無機質な声で、何度目かの「はい」を答える。
「時期がきたら連絡する。それまでは、ゴロツキどもに混ざっていろ。誰も殺すな」
「はい」
「いい子だ。ごきげんよう、“爪”」
それを最後に、電話は切れた。
クロウと呼ばれた男は、しばらくツーツーと断続的に続く電子音を聞いていたが、やがて携帯電話をわきに放り出した。
ソファーに長々と寝そべり、目を腕で覆う。
彼にはわかっていた。
次に連絡があったとき、何という命令が下るかは。
――ストレイ・キャットを殺せ。
ほぼ間違いないだろう。
当然だ、と彼は思う。
キャットは目立ちすぎた。
暗殺の仲介屋としても、イーズガーベージの不良としても、名が知れすぎている。
しかし、クロウは複雑な心境だった。
今までであれば迷うことなく従っていただろうし、逆に自分から申し出ていたかもしれない。
キャットを始末させてください、と。
けれども今は、ストレイ・キャットと呼ばれる男を殺すことで、何を失うのかを、考えずにはおれなかった。
失うものなど、ありはしないはずなのだが……。
彼は仰向けのまま、フゥーッとため息をついた。
こういうときに、人はタバコを吸うのだろうか。
だが、彼には許されない。
舌や鼻が狂うと、些細な変化や異変に気付けなくなるからである。
まだ下ってもいない命令について、あれこれ考えるのはよそう。
なるようになる。
彼は自分に言い聞かせた。
今までも、ずっとそうしてきたのだ。
そして、なるようになって、今に至る。
後悔したことなんてない。
彼は目を閉じ、ゆっくりと深呼吸をする。
それはやがて、静かな寝息に変わっていった。