8.仲直り
気が付くと、辺りは静かだった。
建物の外壁を叩いていた雨が止んだらしい。
ブラインドの向こうは暗く、日が暮れたところなのか、あるいはもう深夜なのか。
時間の感覚は失われ、もう何日も閉じ込められているような気がした。
黄色く濁った蛍光灯が、無機質な部屋を照らしている。
私とサミーは壁にもたれ、並んで座ったままお互いを支え合っていた。
実に大人しい、模範的な捕虜だ。
私は疲労と緊張の沈黙の中で、私を取り巻く背景のピースを繋ぎ合わせていた。
私をさらい監禁している男達は、おそらく、イーズガーベージで殺されたチャップの仲間。
彼らの目的は私ではなくキャットであり、さらに言うとキャットでもなく、シャムなのだ。
たぶん、チャップ暗殺の依頼をキャットが受け、それをシャムに仲介したから――?
いいえ、何か違う。
私はその結論から後ずさった。
点と点が近すぎるんだわ。
標的と、仲介者と、暗殺者。
この三点が近すぎる。
ましてやキャットには、チャップとその連れ合いをボコボコにした経緯がある。
私がキャットだったら、わざわざ標的に因縁をつけるような真似はしない。
それじゃあ、仲介したのはサミーかしら?
そのとき、私のこめかみの下でサミーの肩が強張った。
顔を上げると、サミーがドアのほうをじっと睨んでいる。
私には聞こえない音が、彼女には聞こえているようだった。
「来るわよ」
囁くように彼女が言った。
「来るって、キャットが?」
私は彼女に合わせ、声をひそめて尋ねた。
すると、サミーは艶やかな唇をすっと横に引いて微笑んだ。
「キャットはもう来てる」
いつの間に?
私は思わず部屋を見渡したが、もちろん室内にはいなかった。
キャットに、透明になる能力がなければの話だけど。
いずれにせよ、私はいよいよここから出られるのだと安堵した。
しかし、それはつかの間のことだ。
ドカドカと廊下を進んでくる足音が、私の安堵を踏みにじった。
サミーが「来る」と言ったのは、あいつらのことだったのだ。
部屋に入ってきたのは、私を攫ってきたマイク・テンプルと、その仲間の男たち五人ほど。
室内の密度が一気に上がり、息苦しさすら覚えた。
みんな黒や紺といった地味な服を着ていて、獲物を追い詰めた獰猛な犬のように、ゆったりと私たちを取り囲んだ。
マイクだけは私をさらったときのスーツ姿だったが、シャツのボタンをみぞおちあたりまで外していて、金の胸毛にギラギラしたプレートのアクセサリーを光らせている。
FBI捜査官どころか、覆面警官だと言われても信用できない風体だ。
彼らの目的ははっきりしていた。
顔に書いてあるから。
私が身を縮めると、サミーは私を庇うように身を乗り出し、男たちを凛と見据えた。
「シャムの居所が割れた。嬉しいだろう」
私たちの前に仁王立ちしたマイクは、か弱い女たちの微笑ましい光景に、目を細めて言った。
少なくともこの男たちの中では、一番権力を持っているらしい。
「あらそう。それじゃあ私たちは用なしね」
サミーが冷たく言った。
「そうだな。だが、生かして帰す約束はしてない」
「殺すつもり?」
「いや。シャムを捕らえるまでは、な」
マイクが歩み寄ったので、私は後ずさって背中を壁に押し付けた。
逃げ道は、このまま壁に溶け込むしかない。
そして、悲しいことにそうはならなかった。
「シャムはじきに我々の仲間に捕らえられる。だが、まだ時間はある。十分楽しめる時間が」
私の前に膝をつき、マイクが唇の端を吊り上げる。
彼の顔面を蹴飛ばしてやろうかと思ったが、あまり賢い行動ではない。
なので、ありったけの嫌悪を込めてマイクを睨みつけた。
「キャットはどうなったの?」
マイクに向かって言ったが、それはサミーに宛ててもいた。
キャットはもう来ていると言ったのに、一向に現れる気配がない。
「ストレイ・キャットか? やつはどうでもいい」
マイクはあっさりと答えた。
「シャムの居所さえ知れれば、薄汚い野良猫になど用は無いからな」
いきなり、マイクが私の腕を乱暴に掴む。
ハッと息を飲んだときには、部屋の真ん中に引き摺りだされていた。
「いやっ!」
私は叫んで足をじたばたさせたが、あっさり他の男に押さえられてしまった。
「放してよ!」
サミーが怒鳴っていた。
魔の手は彼女にも及んでいる。
しかし、私には彼女を案ずる余裕などない。
マイクは私に跨り、両手で首を押さえつけた。
下敷きになった手首に手錠が食い込み、私はあまりの痛さに悲鳴を上げる。
手首がちぎれそう!
歪んだ私の顔を、残忍な笑顔が見下ろしていた。
この期に及んで、彼を喜ばせてしまうなんて。
「もっと抵抗しろ」
マイクの手に力がこもる。
さらにはもう片方の手がTシャツの中にまで侵入して――。
犯される恐怖と、殺される恐怖が、津波のように襲い掛かってくる。
ぎゅっと目を瞑ると、途端に気が遠くなった。
そのときだ。
バシッ!
ガラスの砕ける音がして、男たちの動揺が部屋に満ちた。
私は酸素を求めてむせながら、首をひねって窓のほうを見た。
バシバシバシ!
銃弾は次々に打ち込まれ、ブラインドの向こうで窓ガラスが割れる。
私もマイクも、他の男たちも、見えない何かから身を護るように身体を丸めた。
それを合図に、サミーが立ち上がった。
驚いたことに、彼女はいつの間にか手錠を外していた。
サミーが近くにうずくまっている男のみぞおちを蹴り上げる。
「グエッ!」
そのうめき声に顔を上げた、別の男の顔面めがけて、膝撃ちが飛ぶ。
マイクが胸から抜き出したピストルも、目に留まらぬほどの手刀で叩き落とされた。
ハッとする暇さえ与えられないまま、硬い拳で顔面を打ち砕かれ、マイクは鼻血を噴いて卒倒した。
サミーは背後から取り押さえようとした男をしゃがんでかわし、彼の足を掴んで振り回す――彼女の正体が女子プロレスの選手だったとしても、私は驚かないだろう。
遠心力に身を任せて投げ捨てられた男はもう別の男にぶつかり、二人仲良く壁に激突した。
私は唖然としながら、上体を起す。
男たちは全員床に伸びていた。
サミーは彼らの拳銃を拾うと、私の腕を取って引き起こした。
「行くわよ!」
よろける間もなくドアに向かって引っ張られる。
サミーはドアからわずかに顔を出し、素早く左右を確認した。
遠くから、けたたましい銃声が聞こえる。
建物のどこかで、何かが始まっていた。
戦略などには詳しくないけれど、陽動作戦というやつに違いない。
サミーは銃声に怯む私の背中を押しながら、部屋を出た。
「進んで!」
促されるがまま、とにかく走った。
といっても、両手は腰に回したままなので小走りが限界だ。
サミーは銃を構えながら、ぴったり後ろについてきた。
寮のような建物だった。
廊下には同じ色のドアが等間隔に並んでいる。
その先が曲がっていて、階段になっていた。
ここは何階かしら?
とにかく、下に向かえば建物から出ることができるはず。
だが、もう少しで階段というところで、目の前に大きな銃を提げた男が現れた。
相手も私に負けず劣らず驚いた様子。
そして、おそらく私達が何者かを判断するまえに銃を構えた。
「あっ……」
悲鳴をろくに上げないうちに、私はサミーに引っ張られ、すぐ横の部屋に飛び込んでいた。
明りのない部屋に倒れこむと同時に轟音が響き、開きっぱなしのドアに火花が散る。
私は悲鳴を上げてうずくまった。
一方のサミーはすぐに起き上がって部屋の入り口に立ち、銃声が止むのを見計らって反撃している。
「奥へ!」
サミーはドアの影に身を引いて、乱射される弾をやり過ごしながら言った。
私はクラクラする頭を持ち上げて、どうにか立ち上がった。
部屋の奥には一回り狭い部屋が続いており、見晴らしの良いバルコニーがあった。
私はガラス戸に駆け寄ると、後ろ手に鍵を開いてバルコニーに出た。
すっと吹き込んだ夜風が、私に開放感を与える。
だが、そこは逃げ道ではなかった。
むしろ、その逆だ。
バルコニーから下を覗くと、同じデザインの手すりが連なって続いている。
少なくとも三つ……いいえ、四つ。
ゴール地点ははるか下で、屋外照明に照らされて濡れた芝生が光っていた。
隣の部屋のバルコニーは、窓一つを隔てたその向こうだ。
ジャンプして届くような距離ではない。
両手がふさがっていれば、なおさらだ。
ここはダメ、行き止まり。
私は部屋の中へ引き返そうとした。
そのとき、黒い影が視界の横から飛び込んできて、私の行く手を塞いだ。
「おい、どこへ行くんだ」
私は鋭い悲鳴を上げて後ずさったが、同時に、彼の正体を見抜いた。
彼の服装は軍の特殊部隊のように黒ずくめで、目の部分だけが開いた覆面を被っている。
今は暗がりで良く見えないが、おそらくその瞳はブルーだ。
私は彼に何か言おうとしたが、焦りと動揺のせいで頭が働かず、結局は「遅いじゃない!」と、わけのわからない文句を言った。
「そう言うなよ。お前のために壁を走ってきたんだぜ」
キャットはいつもの調子で答えた。
ただし、手早く。
そう、今は再会を喜んでいる場合じゃない。
すると、追っ手の駆逐を終えたサミーが、スルリと私達の脇をすり抜けた。
「遅いわよ!」と、キャットに辛辣な言葉を浴びせながら。
そして、私が驚く間もなく、さっさとバルコニーの手すりを越えて下に消えた。
「サミー!?」
ここは五階のはずだ。
キャットは私の手首を掴んで身体から離し、手錠の鎖をピストルで弾いた。
そして、屈んで私を肩に担ぎ上げた。
「掴まってろよ」
彼はそのまま、手すりの方へ進み出る。
「飛び降りるの!?」
私は身の危険を感じ、首をひねって問いかけた。
「まさか。俺と心中したいのか?」
キャットが面白がるように言い、腕で私の胴をきつく締めた。
「そうじゃないなら、絶対動くな。それと口を閉じてろよ、舌噛むぞ」
言うや否や、彼の身体は手すりを跨ぎ越え、重力に任せて下降した。
私は舌を噛んだ。
落ちたと思ったら、一つ下のバルコニーに降り立っていた。
途端に、窓ガラスにひびが入る。
明るい室内に人がいた。
キャットはピストルを抜いて撃ち返しながら、駆け出してバルコニーを飛び出した。
壁を蹴って距離を稼ぎ、隣のバルコニーへ飛び移る――壁を走ってきたというのも、あながち嘘ではないらしい。
私を抱えているにも関わらず、彼は猿のように身軽だ。
そこからもう一階下に降り、最後は庭に飛び降りた。
濡れた芝生に着地し、衝撃を和らげるために転がる。
芝生は水を含んだスポンジのようで、私たちの身体をぐっしょり濡らした。
キャットは素早く起き上がり、私を抱きなおして走り出す。
バルコニーからしつこく撃ってくる男と、追いかけてくる男が二人ほどいた。
生垣の影で私達を待っていたサミーが彼らに威嚇射撃をし、キャットの後に続いた。
敷地を出て、殺伐とした路地を抜ける。
猟犬の咆哮のように銃声が追ってきたが、弾が届くことはなかった。
キャットの肩にしがみつき、酷い振動にひたすら耐えていると、突然柔らかい空間に放り込まれた――のだが。
「うっ」
あまりに強くしがみついていたので、キャット共々倒れ込むことになった。
車の後部座席だ。
私は奥のドアに思い切り頭をぶつけ、衝撃の反動で、キャットのみぞおちに膝を立ててしまった。
キャットが息を詰まらせる。
サミーが運転席に滑り込み、エンジンをかけた。
パンパンと外装に見送りの弾丸を受けながら、車は猛然と走り出した。
私に覆いかぶさったまま、キャットは酸素を求めて覆面をめくり上げた。
現れた口が、喘ぎながら笑う。
「寝技に持ち込んで膝蹴りとは、したたかだな」
私は赤くなり、小さく「ごめんなさい」と言った。
だけど悪気はなかったのだから、いつまでも私の上にのしかかっていてもいいという理由にはならない。
「ところで、どいてもらえる? 次の技をかけられたくなかったら」
キャットはわざとらしく私を押しつぶしてから、身体を起した。
リアウィンドウを覗き、追っ手が無いのを確認して、覆面と手袋を脱ぎ捨てる。
私は遅れて起き上がると、ようやくほっと息をついた。
「追ってこないみたいね」
サミーが口を開いた。
「シャムの尻尾を掴ませてあるからな。俺達に用は無いはずだ」
キャットは目の下に溜まっていた汗を服の袖で拭いながら言った。
「シャムは死ぬのね?」
サミーがフロントガラスを見つめたまま尋ねる。
「ああ」
彼は短く答えた。
「そう。しばらく失業ね」
サミーがため息混じりに言った。
シャムが死ぬって?
それなのに、この二人はどうしてこんなに淡々としているの?
訝る私の視線に気付き、キャットは改めて挨拶をした。
「久しぶりだな、キティー。防犯スプレーを浴びせられて以来だ」
「そうね。安心していいわよ、スプレーはマイクにあげちゃったから」
私は皮肉を上乗せして返した。
「マイク?」
キャットは目を丸くすると、「ああ」と、さも愉快そうに笑った。
「FBI捜査官か」
どうして知ってるの!?
私は目を見開いた。
まさか、誘拐されるところを見ていた?
「それは、助けてくれればよかったのにって顔か?」
私の心を先読みしてキャットが言った。
意地悪な目の細め方だ。
「俺みたいな輩にはすぐ噛み付くくせに、小マシなスーツを着た男にはほいほいついていくんだな」
「そんな、尻軽女みたいに言わないでよ」
「俺の正体はCIAだと言ったら、お前は安心するんじゃないのか?」
「そうじゃない! あのときは、その、つまり」
私は意味の無い言葉を並べ、言い訳を考える時間を稼いだ。
「家が燃やされたんだもの、誰かに頼りたかったの!」
「じゃあ、なぜ俺に頼らない?」
キャットが冗談とも本気とも取れる口調で言う。
一瞬、私はためらった。
けれども、ムキになった感情は抑制が効かない。
「だってあなたは、下心があるから私にかまうんでしょう!?」
つい、そこまで言い切ってしまった。
キャットの眉間にシワが寄った。
怒らせたと思い、私は身構える。
だが、その不愉快そうなシワは、すぐに溶けて消えた。
「俺が、助けてやった見返りを強要したことがあったか?」
予想に反して、彼は笑って言った。
「言っておくが、ヤろうと思えばいつでもヤれたんだぜ。お前は隙だらけだからな」
私はカッと赤くなった。
「そんなこと……!」
キャットが腕を掴む。
その手を振り払おうとして、手首の痛みを思い出した。
同時に、マイクの残忍な笑顔も。
鎖の切れた手錠が、腕輪のように揺れる。
「ほらみろ」
顔をしかめた私を見て、勝ち誇ったようにキャットが言った。
「お前は、挑発するくせに無防備だ」
顔には出さないが、やはり彼は怒っているようだ。
私は彼を蹴飛ばそうとしたが、彼のほうが先に、私の膝の上に片足を乗せて押さえつけた。
「次はどうする? 噛み付くか?」
キャットの意地悪な声が責める。
けれども、必要以上に私の身体に触れることはしなかった。
私は、キャットと、私を苛む悪夢を振り払おうと、闇雲に暴れた。
けれども、必死にもがいていると思ったのは私だけで、手も足もキャットの拘束を逃れることはなかった。
「ちょっと、後ろで暴れないでくれる?」
サミーの迷惑そうな声が割り込んできた。
いよいよ私が涙目になり始めたころだ。
「キャット、あんたがそういうことをするから、その子だって信用できないんじゃないの」
実に的確な指摘だ。
もっと言ってやってよサミー!
「俺はプライドを守っただけだ」
キャットは妹を虐めて叱られた兄のように主張すると、私の膝から足をどけた。
すぐさま私はドアに背中を押し付けて距離を取ると、足をシートに上げ、彼を踏みつけるように蹴飛ばした。
このっ!
デリカシーのない、バカ野郎!
「痛っ!」
「だから、暴れないでってば!」
サミーに叱られ、私はいじけて膝を抱えた。
キャットは顔を庇っていた腕の上から目を覗かせ、私の暴挙が収まったのを見て取ると、右耳のピアスを一つ外した。
それは釘を模したデザインで、ピンの部分が長い。
「ふざけて悪かった。仲直りしようぜ、気性の荒い子猫ちゃん」
そう言って、彼は手を差し伸べた。
彼の表情は穏やかで、目は真剣に私を見つめていた。
「ピアスなんていらない」
私が拗ねて言うと、彼は吹き出して笑った。
「誰がやるって言った? 手錠だ」
キャットは膝を抱える私の手を取り、手錠の鍵穴にピアスを差し込んだ。
鎖の切れた手錠は、一分と待たずに取り外された。
改めて手首を眺めると、手錠が食い込んだところは切れて、血が滲んでいた。
傷は浅いが、あらゆる角度に押し付けられてズタズタだ。
手のひらで傷を押さえると、ジワッと痛みが広がった。
悔しいような悲しいような、なんとも言えない感情が湧き起こる。
すると、狭くなった視界に、キャットの手が侵入してきた。
彼の長い指が私の指に触れようとしたとき、私は片方の手を引いた。
それに驚いて彼の手は怯んだが、それが涙を拭うためだとわかると、遠慮がちに残った手を取り、優しく握った。
そのとき、私は自分の手が冷たくなっていたことに気付いた。
指先に詰まった氷がキャットの体温で溶け、目から流れ出したみたい。
私はしきりに目を拭ったが、結局嗚咽を堪えることはできなかった。
怒ったり暴れたり、拗ねたり泣いたり。
自分でもよくわからない。
だけど、情緒不安定になる要因は十分揃っているように思われた。
だから、今は泣いてもいいのだ。
キャットの温かい手が肩に乗せられると、私はいよいよ本格的に泣いた。
彼のことを信用していないのは確かだったが、彼が救い出してくれることを願っていたのも事実。
そして、彼の温もりに安堵したのもまた、事実だった。