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6.断片と喪失

タチバナ ナツメ様にいただきました。

どうもありがとうございます^^

挿絵(By みてみん)

 私は今、猛烈にストレイ・キャットに会いたい。

 そして、言いたいことがある。

――バス停に辿り着いたわ、自力で! ざまあみろ!


 私は孤独にたたずむバス停の前で、ガッツポーズをこらえていた。

 キャットのすみかを抜け出してから、ずいぶんと時間が経ってからのことだ。

 空が黄みを帯び始めている。


 道に迷わず、何者にも阻まれることなくバス停に辿り着いたのは、奇跡としか言いようがなかった。

 なにしろ、ここは一歩間違えばどんな目に遭うかわからない、悪の巣窟なのだから。


 キャットにもらったスタンガンがとても心強く感じたのは皮肉なことだが、それを活かす場面がなかったのは、私が上手く境地を切り抜けたからに他ならない。

 あるいは、男物のTシャツに薄汚れたデニム姿が、遠目に見れば少年のように見えたのかもしれないが――でもそれは、私の髪がさほど長くなかったおかげだ。

 胸だって……その、大きくはないし。

 とにかく、なにはともあれ無事に着いたのだからよしとしよう。


 だが、ここにきて問題が生じた。

「あと三十分!?」

 懐中時計とスカスカの時刻表を見比べ、思わず文句を言った。

 なんとも間の悪いことに、バスは行ってしまった直後だったのだ。


 バスは一時間に二本。

 次のバスが来るまで、三十分もこんなところに突っ立ってろって?

 私はうんざりして空を見上げた。

 夕焼けが迫っている。

 バスが先か、下衆が先か、あるいはキャットに見つかるのが先か。


 ふと、通りの向こうに見覚えのある男を見つけた。

 八十年代を髣髴とさせるあのロックスタイルは――確か、ジョーといったかしら、ジョー・マクラブ。

 キャットと不仲の下品なヤツ。

 じっと立っていられないのか、ぶらぶら足踏みをしながら、仲間となにやら美味しい話でもしているに違いない。

 キャットと一緒にいなくたって、関わりたいタイプじゃないわね。


 彼らの目に付かないように後ずさると、私はバス停から程近い、コーヒーショップ『ホークスネスト』に向かった。

 この店を訪れたのはたったの二回だが、私にとっては最も馴染み深い場所だといえる。

 そこが安全な場所だと信じて、私はガラス戸を押し開いた。


 店に入ると、客は奥のテーブル席に二人、明らかに仕事のなさそうな男が座っているだけだった。

 灰色のモジャモジャ頭をした店主が、じろりと私を見る。

 目を放さないところを見ると、私のことを覚えているのだろうか。

 それとも、見慣れない顔だから、そんな風に品定めをするような目で見るの?

 いずれにせよ、いい気はしない。


 私は警戒しつつ、ぎこちない笑顔を浮かべてカウンター席の端っこに腰掛けた。

 野蛮そうな連中がいなかったのは幸いだ。

 やっぱり、今日はツイてる。


 メニューは少なく、どれもあまり魅力的ではなかったが、何も頼まないわけにはいかない。

「ミックスピザと、ホットミルクをください」

 ピザについてくるタバスコは、いざというときに武器になる。

 ホットミルクが役に立つのは、実践済みだ。

 店主は了解したのか、呻くように喉を鳴らした。


 ピザはすぐに出てきた。

 たぶん、レンジに放り込んでチンッてやつ。

 サラミとオリーブがとても謙虚にトッピングされている。

 もとより食欲はなかったけれど、それにしたって魅力のないピザだ。


 ホットミルクは少し遅れて差し出された。

 熱いとわかっているにもかかわらず、私は舌を火傷した。

 だって、本当に熱いんだもの。

 手鍋で暖められたミルクは、濃厚で、ほんのり甘くて美味しかった。


 しばらくして気が付くと、先客の二人はいなくなっていた。

 客は私一人きりだ。

 店主は相変わらず、カウンターの向こうでなにやら作業をしている。

 私は居心地の悪さをごまかそうと、ピザをつまんで爪を立てた。


「あんた」

 掠れた低い声で、店主が声をかけてきた。

 油断していた私は、キョトンとした間抜けな顔を上げた。

「キャットの女なのか?」

「違います」


 どうやら、私のことを覚えていたらしい。

 私は即答すると、ちぎった勢いで飛んだオリーブをつまんで、皿に戻した。

「そういうんじゃなくて、友達……でもないです。ええと、……たぶん、二度と会うことはないわ」

 私がまごつきながら答えると、彼はジャガイモを切る作業をはじめながら、素っ気無く言った。

「ああ、それがいい。ヤツはやめときな」


 私はピザのカケラを口に入れたのを後悔しながら、紙ナプキンで指をぬぐう。

 ゴムの板を噛んでいる気分だ。

 それをどうにか飲み込んで、私は尋ねた。

「それは、彼がバカだからですか?」


 キャットに意地悪を言ったつもりだった。

 本人が聞いていないから、意味はないけれど。


 すると、店主は低い声で「いや」と答えた。

「ヤバいからさ」

「ヤバい? 危険ってことですか?」


 店主は私の質問には答えず、無機質な声で話し始めた。

「この町には、いろんなヤツが流れてくる。犯罪者、前科者、家出人――」

 口調には抑揚がなく、それこそ石像がしゃべりだしたようなかんじだった。

「あんたは何も知らないみたいだが、この町はあんたみたいなもんが、フラフラやってきていい場所じゃない」


「ええ、わかってます」

 私は力なく言い、反省を込めて俯いた。

 でも、全ては不慮の事故だ。

 なにも好き好んで来たわけじゃない。


「ここの不良連中には、(グループ)があってな。新顔、とりわけ若い男は、だいたいどこかの組に迎えられる。そのための勧誘を“洗礼(バプティズム)”などと呼んどるが、まあ早い話、暴力による脅しだ」


 その時代遅れともとれる忌々しいしきたりに、私は顔をしかめた。

 そんな町に、まっとうな人間が足を踏み入れられるはずもない。

「野蛮な」


「そうとも。ここは野蛮な町さ」

 店主は続けた。

「キャットがこの町に来たのは、三年くらい前だった。ふらっと迷い込んできた名もない青年に、さっそく組の一つが目を付け、洗礼を行った。そのとき、ヤツは――」


「全員、叩きのめしちゃった?」

 私は物知り顔でつい口を挟んでしまった。

 キャットなら可能だ。


 すると、店主は首を横に振った。

「ボコボコにやられたのさ。ヤツはそのグループに所属することを拒んだ。そりゃあ酷い有様だったよ。ゴミ捨て場に捨て置かれたヤツをみて、誰もが死だと思った。俺もそう思った」


 私はそれを聞いて裏切られたような気持ちになった。

 けれども心のどこかでは、やっぱりね、という思いもある。


「ところが二、三日もすると、ヤツはまるで何事もなかったかのようにこの店にやってきた。アザと傷痕だらけで、そりゃもう酷い顔だったが、本人はピンピンしてやがる。ヤツは俺に言った。「洗礼は受けたんだから、この町に住んでもいいよな?」

 それからもキャットを勧誘しようとするヤツは何人かいたが、ヤツは抵抗もなく殴られっぱなしで、どこにも所属しなかった。殺されなかったのが不思議なくらいだな。そのうちに、連中も飽きたのか、キャットを相手にしないようになった。

 これが、どこの組にも属さない野良猫(ストレイ・キャット)の誕生だ」


 私は、「へぇ」と声を漏らす。

「血まみれになるのが好きなのかしら」

 おそらくそこから、キャットの“猫かぶり”は始まったのだろう。


「それで、彼はなぜヤバいんですか? どこのグループにも所属してないから? それとも、びっくりするくらい打たれ強いから?」


 それとも、本当は女を監禁して売り飛ばす仕事をしているとか。

 可能性はなくもない。

 そんな極悪人がスタンガンをプレゼントしてくれるとは思い難いけど。


「いや。俺は長年ここに店を構えているから、顔見りゃあ、だいたいどんな人間か検討はつく。もちろん、あんたがこの町の人間ではないこともな」

 そう言って、彼は私を見据えた。

 その目には、警告の色がありありと浮かんでいた。


「ヤツは、その辺のチンピラとはわけが違う。誰しも多かれ少なかれ秘密はあるが、ヤツが隠しているのは本物の闇だ。そして、その闇を隠すためならどんな手段でも使う。たとえば、死ぬほど殴られる、とかな」


 もったいぶった割に“闇を隠しているから”とは、ずいぶん漠然とした物言いだ。

 けれども、洞察力はさすがに鋭かった。

 彼はキャットがバカなふりをしていることを、ちゃんと見抜いている。


 本物の闇とは、おそらくシャムのことだろう、と私は思った。

 キャットは殺し屋シャムの仲介役、つまり、殺しの手引きをしている。


「まあ、あくまでも勘だ」

 そう言って、店主は忠告を締めくくった。


 私はホットミルクに目を伏せて、微笑んだ。

「たぶん、私はその闇を知ってると思います。少しだけど」


 すると、店主はしばらく私を見つめていたが、やがて作業に戻った。

「そうか。それなら、あとは自分で決めるといい」

 そして、切った大量のジャガイモをフライヤーに入れた。

 油の弾けるにぎやかな音が、店内に満ちる。


 店主が話してくれたおかげで、私はすっかり緊張を解いていた。

 なにより、彼は物知りだ。

 私は、私とキャットを危険にさらしている謎の存在について、探りを入れてみることにした。


 カウンターに肘をついて身を乗り出し、店主に尋ねる。

「今、誰かがキャットを恨んでるってことはありますか?」

 油の音に負けないように、声を張った。

「キャットのことを嗅ぎまわってる人がいるとか、殺したがっている人がいるとか」


 店主はポテトを油の中で泳がせながら、「さあて」と言った。

「ヤツの顔も見たくないって野郎はいるが、殺したがっているかどうか。なんだ、キャットは狙われてるのか?」

「ええ、たぶん」

 そして私は、その飛び火を受けている。


「物騒になったもんだな」

 しみじみと店主が言う。

 私は、思わず笑った。

 この町が物騒なのはもとからだと思いますが。

 けれども、店主の顔は深刻だった。


「この間も、この町に住む若者が数人、殺されとった。

 チャップ・ノートンと、その取り巻きだ。名前を聞いてもぴんと来ないだろうが、やつらは救いようのない悪党だったよ。だが、まだほんの若造だ」


 私はぴんと来ないどころか、びびっときた。

 顔は既にあやふやだったけれど、チャップという名前はしっかり覚えている。

 この町に迷い込んだ私に、一番最初の災難をもたらした男に違いない。

 確かに救いようのないやつらだったけど、殺されたって?


「暗殺されたんだ。陰湿な手口でな」

「いったい、どうして――」

 そのとき、ガラガラと騒々しい音を立てて、大きな影が店の外を横切った。

 灰色のガスを撒き散らすそれは、バス!


「しまった、行かなきゃ!」

 私は椅子から飛び上がると、デニムのポケットからお金を取り出し、数える間すら惜しんでカウンターに置いた。


「ご馳走様でした。それと、話を聞けてよかったです。さよなら!」

 ピザとミルクにしては高くついたが、講釈代ということに。

 とにかく今は、それどころじゃない。

 私はろくに店主の顔も見ないまま、店を飛び出した。


 走ってバスを追いかける。

 バス停に停まったバスは、こんな町に長居は無用とばかりに、今にも出発しようと震えている。

「待って! 乗るわ!」

 叫び声が届いたのか、サイドミラー越しに運転手が私を見た。

 よかった!


 しかし、もう少しで乗車口というところで、私は迫り来る足音に気が付いた。

 私より足の速いその人物は、あっという間に追いついて後ろから抱きつき、私に乗車を踏みとどまらせた。

 私は怒って悲鳴をあげる。


「驚いたな、キティー。ちゃんとバス停に着いたじゃないか」

 息を弾ませてそう言った男、ストレイ・キャット。


「ええそうよ、ざまあみなさい! 放して、バスに乗るんだから!」

 私は彼の身体を突き放したが、すぐに手首を掴まれた。

「お散歩はここまでだ。戻るぞ」

「嫌よ! このストーカー!」

「なにを、人聞きの悪い。心配して追ってきたんだぜ、むしろ感謝しろよ」

「そういうのを、恩着せがましいって言うの!」


 バスがクラクションを鳴らし、運転手が迷惑顔を覗かせた。

「乗るのか? 乗らないのか?」

 私は怒りと呆れで目を見張る。

 この状況見てよ!

 チンピラに絡まれてるっていうのに、助けようとか思わないわけ?

 それとも、ただの痴話喧嘩に見える!?


「乗るから、ちょっと待ってて!」

 私は運転手と見てみぬふりを決め込む乗客たちに怒鳴りつけた。

 彼らにとっては、どうせ痴話喧嘩でしょうよ!


 私はキャットに向き直ると、胸が触れ合うくらいに身体を寄せた。

 掴まれていない右手がズボンのポケットを探るのを、キャットに見えないようにするためだ。

 彼の青い瞳を睨みつける。


「感謝してるわよ。プレゼントありがとう!」

 私はそう言って、掴んだピストル型スタンガンを彼の脇腹に押し当てるなり、引き金を引いた。


 ――つもりだったが、スタンガンはすでに私の手の中になかった。

 キャットが銃身を掴み、巧みにひねって奪い取ったのだ。

 スタンガンは、彼の人差し指に引っかかってクルクル回っていた。

「試し撃ちか?」

 勝ち誇った声で、キャットが言った。


 けれども、私は動揺しなかった。

 彼がスタンガンを意識しているのはわかっていたのだ。

 今のキャットは、右手で私の左手首を掴み、左手にスタンガンを握っている。

 そして、相手が私であることに油断している。

 おまけに、私が受け取ったプレゼントが一つではないことをお忘れだ。


「その通りよ」

 私はさらにポケットから取り出した防犯スプレーを、キャットの無防備な顔面に吹き付けた。


 主要成分のなかに、ニンニクが含まれていると思われる。

 ドラキュラにも効くかもしれないが、少なくともチンピラには効果覿面だった。


 短い悲鳴をあげ、キャットは私の手を放して目を覆った。

 その隙に、私はバスに飛び乗る。

「どうぞ、出して!」

 運転手は相変わらず迷惑そうだったが、すぐにバスを出してくれた。


 私は乗車口に立ったまま、遠ざかるキャットを見つめた。

 目を押さえたまま道路に転がり、焼かれているかのように身もだえながら、汚い言葉を吐きまくっている。

 その姿が小さくなると、少しやりすぎたかも、という罪悪感が生じた。

 スプレーの注意書きに目を落す。

 失明しなきゃいいけど。


 でも、だからといって素直に監禁されるわけにはいかない。

 何の説明もないままじゃ、信じろというほうが無理だもの。

 たとえ彼の行為が私のためであり、正しかったとしても。




 街灯が点々と灯る石畳の道に降り立ったときの感動は、地平線の見える大自然に降り立ったときのそれと酷似していた。

 なんて澄んだ空気!

 薄汚れて埃っぽく、攻撃的なあの町とは全然違う。


 たった二日しか離れていないのに、十年ぶりくらいの懐かしさを感じた。

 それほどまでに、恋しかったのだ。

 道の先にある、レンガ造りの細長いアパートメントが。

 私のすみかが。


 足取りは必然と速くなった。

 ドアを開いて自分の香りに包まれる感覚、頭から布団に突っ込む感覚、ブラジャーを外す開放感。

 あらゆる誘惑に、私は屈していた。


 エントランスのドアを開いたところで、花柄のワンピースを着た小柄な老婆と鉢合わせた。

 私はぶつかる前にどうにか立ち止まり、一歩下がって彼女に道をゆずった。

「すみません」

 灰色のお団子頭を見下ろして言った。

「あら、ごめんなさいよ」

 反射的にそう言ってから顔を上げたお婆さんは、私の顔を見るなり目を丸くした。

 私も、同じように目を丸くする。

「フィッツバーグさん」

 私の下の部屋にすむ、顔見知りの住人だった。


「ブロッサムじゃないの! あなた、戻ったのね。心配したんだから」

 フィッツバーグさんは眉を下げ、私の頬をシワシワの手で包んだ。

 私は彼女の言葉と温かい手に、目頭が熱くなる。

 この町を選んだこと、そして無事に戻れたことを、神様に感謝しなくては。


「たった今戻ってきたんです。ご心配をおかけして、すみませんでした」

 私は彼女をハグして、自分が元気であることを示すように明るく言った。

「大変だったわね。とにかく、よかった。本当に」

 フィッツバーグさんは何度も頷き、私の肩を優しく揺すった。

 思わず鼻をすする。


 ところが、私の涙が零れる前に、フィッツバーグさんは不可解なことを言った。

「それで、これからどうするの? 故郷に戻るのかい? このアパートにはもう空きがないようだけど」

「ええっと、……ええ?」

 私は潤んだ目をぱちくりさせ、気の毒この上ないという顔をしているフィッツバーグさんを見つめた。


「あの、わ、わた、」

 不吉な予感に、思わずどもる。

「私の部屋は?」

 すると、フィッツバーグさんは力なく首を振った。


「残念だけど、燃え方が酷くて。とても住めやしないよ」


 私は何か言おうとしたが、喉がカラカラになってうまくいかなかった。

 そして次の瞬間には、猛然と階段を駆け上がっていた。

 がらんどうになった頭の中で、フィッツバーグさんの声が反響している。

 残念だけど、燃え方が酷くて――燃え方が酷くて――。


 三階の部屋の入り口は、煤で黒く縁取られていた。

 ドアは取り外され、立ち入り禁止を示す黄色いテープが張られている。

 それは漆黒を背景に、とても鮮やかに映えていた。


 臭い。

 プラスチックと、木と、あらゆる思い出が焼けた臭いだ。


 私は、呆然とその前に立ち尽くした。

 部屋を間違っているんじゃないかと本気で思った。

 だって、私の部屋であるという証拠はどこにも見当たらないじゃない。

 全部真っ黒だもの。


 呼吸は浅く、早くなった。

 何度もツバを飲んだが、それは樹脂のように粘っこくて喉を通らない。

 現実を受け入れまいと、頑なに拒否しているようだった。


 けれども、丸見えになった室内の、アルミパイプのベッドや、見覚えのある形の本棚を眺めているうちに、私の心はだんだんと冷静になった。


 ああ、確かにここは私の部屋――だった。


 地面が布張りになったかのように揺らいで、危うく転びそうになりながら、私はテープをくぐって部屋に踏み込んだ。

 部屋の中はまだ濡れている。

 消火のための激しい放水で、あらゆるものが床に散らばっていた。


 本だったもの、服だったもの、タオルケットだったもの、パソコンだったもの、机だったもの。

 燃え残ったものもいくつかあったが、それらを拾う気には到底なれなかった。


 というか、いらないわ、何も。

 それほど大事なものなんて、初めから持ってないし。

 全部燃えたからって、なんだというの?


 私は開き直りの境地に陥りつつあった。

 そして、それが平常心であり、強さであると信じた。


 私の所有物なんて、もとから何の価値もなかったのよ。

 この炭の山のように。

 だから、悲しむこともないわ。


 あらゆる感情を捨て去ると、そこに虚無が広がった。

 まるで他人事のように、私は自分に言い聞かせる。

「とりあえず、警察に行きましょ。それから、フードショップにも。携帯電話と荷物を取りにいかないと」


 きびすを返し、部屋を後にする。

 私の足取りはしっかりしていた。

 けれども、今や地面は水の上に張られたビニールのように不安定で、壁を伝わないことには歩けないのだった。

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