4.野良猫のすみか
蜘蛛の巣状にひび割れたフロントガラスに、見覚えのある景色が広がる。
そう、ここは、私が初めてキャットに出会ったあたりだ。
嫌な思い出の場所だというのに、いちいち覚えている私も私だけど、この町で他に知っている場所もないから当然なのかもしれない。
前と違っているのは、今が夜で建物に明りが灯り、それなりに賑わって見えたこと。
こんなところに、パブなんてあったっけ?
私が窓の外を眺めていると、車は街角のコーヒーショップの前で停まった。
以前ストレイ・キャットと二人で立ち寄った店だ。
『ホークス・ネスト』という看板が、赤いネオンで光っている。
「何か食おう」
キャットはそう言い、おもむろに後部座席から紙幣を数枚掴み取る。
汚れたお金で食事をするのは少し後ろめたいけど、そんな概念を振り払えるくらい良い提案だと思った。
長時間にわたる拘束と、緊張からの解放のおかげで、私はすっかり腹ペコだったのだ。
大賛成!
だが、嬉々として車を降りようとした私の肘を、キャットが掴んだ。
「待て。お前は乗ってろ」
「どうしてよ。私もお腹空いた」
「俺が買ってくるから」
面倒臭そうにキャットが言う。
「もうホットミルクは懲り懲りだからな」
「かけないってば」
私は笑ってドアに手を掛けたが、再び引き戻された。
「いいから乗ってろ」
「手や顔を洗いたいの」
私はしつこく抗議したが、キャットは答える代わりに私を見つめた。
そして、聞き分けのない犬に“お座り”を言いつけるようにシートを指差すと、一人で車を降りてしまった。
何よ、ふん。
私は不貞腐れて、背もたれに身体を押し付けた。
このヤニ臭い空間で食事なんてしたら、あっという間にニコチン中毒だわ!
「ジンジャーエール?」
ドアの隙間からキャットが尋ねる。
「ストレートティーにして」
私は彼に目もくれないまま、つっけんどんに言った。
本当はジンジャーエールが飲みたかったのだけど、素直に「うん」と言うのは何だか癪だ。
キャットは、そんな私の心根を見透かしたかのように横顔を見つめている。
それでも無視してツンツンしていると、彼は「大人しくしてろよ」と言い残して車を離れた。
彼がドアを閉めた途端に、ため息が出た。
自分でも、ワガママなのは良くわかってる。
こう見えて孤児院にいたときは、献身的過ぎるくらいのお人よしだったんだけどな。
信じてもらえないでしょうけど。
いつから、こんな風にスレてしまったのだろう。
私は少し反省して、明りの煌々と灯る店に進むキャットを見守った。
その足取りがふらついている。
彼が、またバカなふりをしようとしているのだとわかった。
血まみれの男が入り口に寄りかかったので、店内にいた客から驚きのような、不満のような声が上がった。
威勢の良い誰かが、キャットを怒鳴りつける。
良く聞き取れなかったけど、私はその会話を頭の中でこう処理した。
「うせろ、酒が不味くなるじゃねぇか」
「おいおい、ひでぇな。怪我人だぜ?」
「怪我だろうがなんだろうが、てめぇの面見てると不味くなるんだよ」
「まじかよ! 不味い酒が不味くなるって、お前それ美味くなってるってことじゃねぇの?」
乱暴に席を立つ音がして、キャットの元に男が立った。
ボサボサの長髪をしていて、破れたジーンズに皮のジャケット――まさにパンクロッカー気取りってかんじだ。
キャットが「冗談冗談!」と言いながら背中を丸める。
殴られる! ――と思ったら、そこへ低い声が水を差した。
その声にたしなめられて、男はキャットの細い身体を突き飛ばすと、数人と店を出て行った。
私の頭では処理できないくらい下品な捨て台詞を残して。
入れ替わりに、キャットは店の中に入っていく。
なによ、あんなヤツ一発でのせるくせに。
それから、キャットはすぐに帰ってきた。
トイレで顔を洗ったのだろう、こざっぱりとした顔をしている。
自分だけずるい。
「ほら」
キャットは紙袋から自分の分を取り出して、残りを私に渡した。
ストレートティーのカップと、暖かいチリドッグが入っている。
「さっきのヤツはジョーってんだ。ジョー・マクラブ。何かと俺を目の敵にしてやがるから、一緒にいるところを見られないほうがいい。また拉致されたくなかったら」
キャットはそう言って、まだジクジクと血が溢れている唇の端を指でぬぐう。
「でも、そうなったら助けてくれるんでしょ?」
私はおいしそうな匂いに気分を良くして、強気に言った。
「そうなったらな」
キャットは意地悪な口調で答えた。
「ただし、あいつらは育ちが悪いんだ。囚われのヒロインがその場で犯されないって保証はないぜ」
私は素早く窓の外を見回す。
窓のスモークが効いていてよかった。
キャットが車のエンジンをかける横で、私はストローに吸い付いた。
ストレートティーはびっくりするくらい薄くて、いっそ水にすればよかったと後悔した。
キャットはハンドルを握りながら、片手で器用にチリドッグの包み紙を剥いて口に運ぶ。
途端に彼は思い切り顔をしかめ、即座に口の中のものを窓の外に吐き出した。
「くそっ」
チリドッグ本体も道路に投げ捨てる。
「当分はオートミールかな」
どうやら口内の傷に沁みたらしい。
見ると、せっかく綺麗になっていた彼の口の中は、明らかにチリソースではない液体で真っ赤だった。
それにしても、捨てることないのに。
「チリドッグなんて選ぶから」
私はそう言って、暖かいそれを美味しくいただいた。
「あの店でまともな食い物はチリドッグくらいだ」
キャットは不服そうに言うと、私の激薄ティーを勝手に飲んで口をゆすいだ。
なので、私もキャットのカップを取って飲んだ。
驚いたことに、ジンジャーエールだった。
夜の街を黙々と走り続ける。
やがて、私はふとあることに気が付き、窓の外をしげしげと眺めた。
明りがあまりなく、廃墟のような建物が立ち並んでいる。
「ちょっと、どこへ行くつもり?」
「安全なところ」
キャットはそう答え、片方の唇をにやっと持ち上げた。
とても安全そうには見えない。
「それなら、警察に連れてってよ」
私は訴えた。
「近くまででいいから。きっと大騒ぎになってるし、もしかしたら、私がさらわれたときに店長が……」
撃たれたかも、と言いかけて、私は言葉を濁した。
急に怖くなったのだ。
身近な人間が死ぬのは怖いし、悲しい。
「嫌だね。俺は疲れた」
キャットは、そんな私の不安を無視して言った。
「独りで帰るってんなら降ろしてやってもいいけど」
「そんなこと言ってないじゃない」
「じゃあ黙って乗ってろよ」
キャットは、私が困ったり怒ったりするのを楽しんでいるようだった。
なんて不愉快な趣味かしら!
私は説得を続けるため、カーラジオをつけた。
「きっと、私の名前がニュースで流れるわ。早く私を解放したほうが身のためよ。下手すると誘拐の濡れ衣を着せられるかも」
けれども、私の名前どころか誘拐事件の記事を読み上げる声すら聞こえてこず、どのチャンネルも、もっぱら州知事選挙の話題で持ちきりだった。
最後のチャンネルが濁声の演説に終わると、私は思わず「なによ!」と毒づいた。
か弱い乙女がさらわれたっていうのに!
「出馬するつもりだったのか?」
キャットは目を丸くして、冗談だか本気だかわからない口調で言った。
「そうね、でも落選したみたい」
私は言い返す気にもなれずにそう言うと、国家平和を訴えるおじさんたちと張り合うのを諦め、音楽チャンネルに合わせた。
流れてきたのは、私がフードショップで平和に働いているときに良く聴いていた歌で、少しだけ心が安らいだ。
と同時に、不思議な気分になる。
私の隣で呑気に口笛を吹いているのは、チンピラで、殺しの仲介屋。
知り合ってまだ間もないはずなのに、私は幾度となく彼に助けられている。
命すら危ない場面においてだ。
一体、私は何に巻き込まれているのだろう。
そんなことを考えているうちに、車は廃工場のような建物に滑り込んだ。
だだっ広く埃っぽい空間に、キュルキュルとタイヤの軋む音が響く。
キャットは適当な場所で車を停め、さっさと車を降りると、後部座席のドアを開いた。
「車はここまでだ。少し歩くぞ」
私は精神的な疲労から不満の一言も言いたいところだったが、素直に従った。
今はキャットと一緒にいることが一番安全だ。
たとえ散らばった紙幣をせっせと集めているちんけなやつでも、銃を突きつけたりはしない。
ドアを閉める音が、爆発音のように響く。
私はキャットの後について廃工場を進んだ。
粗末な鉄階段を登り、事務所のような部屋を抜ける。
ポケットに手を入れて先を行く彼の足取りは、悠々としているのに驚くほど速い。
おまけに静かだ。
私は置いていかれないように、必死で彼を追いかけた。
給湯室の奥の扉を開くと、工場の外に出た。
そこから、向かいの建物へ続く十五メートルほどの渡り廊下が伸びている。
彼はその鉄のつり橋のような廊下を進んでいった。
「これを渡るの……?」
私は怖気づき、小さくぼやいた。
幅は大人一人分しかない。
しかも三階くらいの高さだ。
手すりを頼りに踏み出したものの、手を掛けただけでキィキィ鳴るそれが、私の身体を支えてくれるとは到底思えない。
私は重心を低くして、そろそろと進んだ。
もう、なんで床板が金網なのよ!
すでに向こうの建物に辿り着いたキャットが、鉄のドアを開いて振り返る。
後ろに私がいないことに一瞬慌てた様子が、自分の尻尾に驚いた猫みたいだった。
けれども、それを揶揄する余裕は私にはない。
キャットはまだ廊下の先にいる私を見つけると、面白そうに口を裂いた。
「良い腰付きだな」
「うるさいわね」
自分でも、見事なへっぴり腰だと思った。
みっともなくて結構よ!
「その橋ボロいから、さっさと来ないと重みで落ちるかも」
「嘘! やめてよ!」
冗談だろうと思いつつも、私は焦った。
急がないと落ちる。
急げば揺れて落ちる。
どっちにしろ落ちる。
たった十五メートルの距離は、私にとってはゴールデンゲートブリッジ並み――ちょっと言いすぎかしら。
とにかく、いろんな意味で気が遠くなるような距離だった。
三分の一にも満たない位置で進退窮まった私をみて、キャットはしょうがないな、というように手を振る。
そして、わざとらしくガシャガシャと金網を踏みしめて廊下を渡りだした。
私と廊下は悲鳴をあげた。
今にもガクンと落ちるのではないかと思うくらいに揺れる。
そういうの、マジで最低!
「やっ、やめて」
正確には、「ひゃ、ひゃめれ」みたいな発音だった。
顎が浮いてしまって。
キャットはあっというまに私のところへ戻ってくると、しゃがみこみそうになる私の腰を捕まえ、引き上げた。
思わず大きな声が出たが、それはキャットの手のひらの奥から、くぐもった呻き声になって発せられた。
「近所迷惑だ」
キャットの軽いかけ声とともに、私の足が金網を離れた。
落ちる!
私は恐怖のあまり身を捩った。
その途端、キャットがうっと息を止めるのと、彼の筋肉が硬く強張り、私をきつく抱きしめるのを感じた。
どうにかバランスを取り戻し、キャットが怒鳴る。
「バカ、まじで落ちるだろうが!」
バカはそっち!
高所恐怖症者を高所で持ち上げるなんて!
私は声も出せないまま、キャットにしがみついた。
彼の身体はすでに安定していて、幼子を抱くように軽々と私を運んだ。
無事にコンクリートの上におろされたものの、やはり、お礼を言う気にはなれなかった。
キャットもそれを期待していないのか、執拗に私の腰に手を回したまま進もうとするので、私はその手を邪険に払った。
抱きついたんだから、満足でしょ!
薄暗く狭い廊下には、等間隔に扉が並んでいた。
その一番奥、窓際のドアを開くと、彼は頭を傾けて私を中に入るよう促した。
私は警戒しつつ、暗い空間に踏み込む。
澱んだ空気。
あまりいい匂いとはいえない。
カチッと音がして、天井から下がった裸電球が灯った。
濁ったオレンジっぽい光が、カーテンを閉め切った狭い部屋の中を照らす。
低いテーブルに、擦り切れた布をかけたソファー、小さな箱型テレビに――その他、ごちゃごちゃ。
まさに隠れ家ってかんじだ。
「ここに住んでるの?」
「たまにな」
キャットはそう言うなり、汚れたシャツを脱ぎだした。
知り合って日の浅い異性がいきなり服を脱ぎ始めて、どぎまぎするなと言うほうが無理な話。
まして、その男にはセクハラ癖があり、場所が相手の部屋で、なおかつ二人きりである場合ならなおさら。
私は目のやりどころに困りながらも警戒し、彼と距離を置くためにソファーに座った。
ソファーの横に乱立する酒瓶は、いざというときに役立ちそうだ。
だが、私の緊張は無駄に終わった。
「明日、町まで送ってやる」
キャットはそう言うと、バスルームと思われるドアの向こうに消えた。
湯が水道管を流れる音がゴーと響き、シャワーの音が聞こえ始める。
とりあえず、危機は去った。
彼が、シャワーを浴びるという行為に汗を流す以上の意味を込めていなければ、ね。
けれど、考えすぎるのは自意識過剰。
私はやましい想像を頭の外へ締め出した。
さて、特に何の指示も制約も受けなかったけど、何をしよう。
テレビを付けてみたが、あまりの映りの悪さに、すぐに消した。
テーブルに置いてある雑誌は、はちきれそうな身体を最小限のレースで覆った女性が表紙を飾っていて、とても読む気にならない。
酒瓶を取ってラベルを眺めるのも、二本目で飽きた。
部屋を物色してみるのもいいけど、暗殺の仲介屋というキーワードがそれを諌める。
殺し屋シャムの目がどこで光っているかわからない。
結局、私はソファーに足をあげ、だらしなくくつろぎながら、今の状況について思いをめぐらせるのだった。
明日には私の家に帰れるだろう。
けれど、私はそれで安全になるのだろうか。
キャットといると危険なのはよくわかったが、キャットから離れると、もっと危険のような気がする。
かといって、キャットの本意も未だにわかっていない。
私は、どうなっていくのだろう。
ぼんやりしてきた頭の中に、誰かが戦っている映像が浮かぶ。
キャットだろうか。
影が、私に迫ってきて……。
いい匂いのする、闇が……。
目が覚めたとき、私はここがどこかわからなかった。
非現実的な状況にあることだけを、おぼろげに覚えている。
寝汗をかいたらしく、服が張り付いて気持ち悪い。
私は腕で上体を支え、起き上がった。
辺りは真っ暗で、なじみのない家具たちが、カーテンの隙間から漏れる夜の光りによって薄青く浮かび上がっている。
そうそう、ここは野良猫のすみか。
ソファーで寝てしまったのね、私としたことが。
最後の記憶と食い違っているのは、明りが消えていることと、私の身体に毛布がかけられていること。
辺りを見回すと、テレビが載っている棚に安っぽい目覚まし時計を見つけた。
三時か――その時計が正確に動いているのであれば。
そのとき、こもった男の声が聞こえた。
低く抑えた声だったが、それはキャットの声だった。
毛布を抜けると、汗がすっと冷える。
だいぶ夜が涼しくなってきた。
もうすぐ秋ね。
私は物音を立てないように、そっと部屋を横切った。
バスルームの横から伸びる短い廊下の先に、もう一つドアがある。
ここが、以前はちゃんとしたアパートだったのだとすれば、そのドアの向こうは寝室だろう。
廊下のそばに来ると、キャットの声が途切れ途切れに聞こえてきた。
誰かに電話をしているらしい。
私は廊下の入り口に寄りかかり、耳を澄ませた。
ドアの前まで行く勇気はない。
だって、立ち聞きの言い訳ができなくなるじゃない?
「はい――、ええ、でも、――すよ? 捕まってたら、拷問されてました。アイツがしくじったせいです」
苛立っているような声が、近くなったり遠くなったりする。
部屋をうろうろしているようだ。
相手は誰かしら。
「それは、――すみません。けど、俺は――はい、すみませんでした」
良くわからないが、言いくるめられている。
「――。わかりました、指示を待ちます。それから、――」
不意にキャットが沈黙した。
やばい!
と思ったときには扉が開いていて、私は部屋の明かりに目がくらんだ。
明りの中から上半身を覗かせたキャットは、少し驚き、次いで「なにか用?」という顔をした。
「あ、ごめんなさい。いつの間にか、寝ちゃって」
私は目をこすりながら言った。
目がくらんだせいもあるが、たった今起きたところのように見えればと思って。
「それで、あの、汗をかいたから……」
キャットは「ああ、シャワーなら使えよ」と言って、バスルームを鼻で示した。
疑うような顔はしなかったが、いつものにやけた顔でもなかった。
私は短く「ありがと」と言って、バスルームを覗いた。
そして、キャットが寝室に引っ込む前に「タオルもかしてくれる?」と付け加えた。
私がブラウスを脱ぐと、胸に金色の小さな懐中時計が揺れる。
そう、両親の形見だ。
キャットに返してもらってすぐに、私はそれを修理に出した。
以来、再び時を刻み始めたその時計を、肌身離さず持っている。
もちろん、形見に依存することが良いことだとは思わない。
けれど、これが今の私にとってどれほど大切かということに、気付いたような気がしたから。
キャットのおかげで――とまでは言わないけれども。
私はその鎖を丁寧に首から外して、タオルの上に乗せた。
裸になってバスタブに立つと、身体のところどころに青アザが出来ていた。
誘拐されたときに男の肩が食い込んだみぞおち、車がキャットを撥ねたときにぶつけた肩、他にも、いつの間にかできた小さなアザ。
それは怪我としては全然大したことはなかったけれど、妙に惨めな気分になった。
熱い湯が身体に沁みる。
なんだか酷く汚れているような気がして、私は身体をごしごし洗った。
タバコ臭の染み付いた髪も、念入りにすすいだ。
清潔な石鹸の匂いに包まれると、私はようやく幸せな気分になった。
湯を止めてバスタブのカーテンを開くと、棚に置いていたタオルの上に、畳んだTシャツが乗っていた。
キャットが置いたの?
いつの間に?
私は、覗かなかったでしょうね、と不安になりつつ、タオルで身体を拭いた。
なんとなく気が引けたが、最終的には、そのTシャツを着ることにした。
ブラウスもデニムも誰かさんの血で汚れていたし、汗を含んで湿っている。
何より、ヤニ臭い。
それをもう一度着なくてすむのはありがたかった。
白地に黒で文字がプリントされたTシャツは、ずいぶん長い間タンスに仕舞われていたらしい。
折りジワがくっきり付いていたし、仄かに湿気た匂いがしたが、汚れてはいないのでよしとしよう。
服を被って見下ろすと、大きすぎてワンピースみたいだった。
書かれている文字が『ファック・オフ・アット・スリー・セカンズ、オア・ショット・イン・アス! ――三秒でうせろ! さもなきゃケツにブチ込むぞ!』でなかったら、もう少し気に入ったかもしれないのに。
私は汚れた服を抱えると、タオルで乱暴に髪を拭きながらバスルームを出た。
もう一度眠る時間は十分にある。
そう思ってソファーに腰を下ろしたところへ、キャットが寝室から出てきた。
歩きながらチラッと私を見て、キッチンスペースに視線を戻し、立ち止まってもう一度私を見た。
その顔がみるみるニヤけて、これぞイヤラシイ顔だ、という表情になる。
「似合うじゃないか」
私は急いで膝に毛布をかけた。
「どうも」
キャットはミネラルウォーターのペットボトルを持って戻ってくると、寝室に続く廊下の前で立ち止まった。
そして、「こんなとこで寝たら肩が凝るだろ」と言った。
不敵な笑みを浮かべている。
「平気。私の家のベッド、狭いから」
適当な嘘をつくと、キャットは水を飲みながら言った。
「俺のベッドは広い」
二人で寝ても十分に?
見え透いた下心だ。
「あらそう。それじゃあ広々寝れば?」
私は冷たくあしらって、毛布を頭まで被った。
「おやすみ」
「カリカリすんなよ。気を遣ってやってるのに」
キャットが気だるいような、甘いような口調で言う。
けれども、私は無視した。
すると、彼の足音が迫ってきた。
危険を感じて身を起そうとするも間に合わず、私は毛布に包まったまま、覆いかぶさってきた彼に押し倒された――というより、押しつぶされた。
きゃーともきゅーともつかない悲鳴を上げたが、彼は私の上に乗っかったまま、楽しそうに笑っている。
ごそごそと何かを探る音がした。
「どいてよ!」
毛布越しに彼の肩を押し上げようとしたが、逆効果だった。
何をするつもり!?
そのとき、キャットが「んっ」と小さく息むと同時に、ガコッと音がして、圧迫が緩まった。
ソファーの背もたれが倒れたのだ。
私はもがいて毛布を跳ね除け、キャットの顔面を思い切り叩こうとした。
けれども、そこに彼の顔はなく、私は既に解放されていた。
「気性の荒いやつだな」
テーブルの向こうで、キャットが笑っている。
「気が変わるか、俺が一人で果てるのを見学したくなったら、どうぞ」
そう言って寝室を示すと、キャットはその向こうに消えた。
誰が行くもんか!
あなたの自慰行為に百万ドルの価値があったとしてもね!
私は広くなったソファーに座ったまま、雑誌を掴んで寝室のドアに投げつけた。
けれども、残念ながら雑誌は廊下の壁に当たり、ドアには届かなかった。