2.招かれざる客
瞼を透かして、光を感じた。
私は目を開くのをためらって寝返りをうち、日差しから逃れる。
夏の終わりとはいえ、太陽はまだまだ攻撃的だ。
しばらくそのまま、夢と目覚めの境を漂っていた。
ここは二段ベッドの下の段。
上では泣き虫のアリーが眠っている。
もうすぐ、しっかり者のハナが私を起すだろう。
うーん、ギリギリまで眠らせて――。
ジリリリリリリリ!
ハナではないそれは、愛情のカケラもない声で私を跳ね起きさせた。
カーテンのない部屋に、朝日がもろに差し込んでいる。
ギィギィ軋むアルミパイプのベッドで、私は一人、目覚めた。
また孤児院の夢だ。
六歳で親を亡くして以来、私が育った家。
ふるさと?
そうは思えない。
私のふるさとは、もう戻ることの出来ない遠い場所にある。
けれども、ここで身の上話を深く語るつもりはない。
今の私の位置を示すのに必要な、地図記号のように、その過去が存在するだけ。
孤児院での生活は、にぎやかで、暖かくて、でもどこか荒んでいた。
みんな、心のどこかでは、本当の愛に飢えていたのだろう。
けれども、私は高望みはしない。
最も私を愛してくれた両親の代わりが、他にいるはずがないから。
幼いながらも、六歳の頃からそう思っていた。
それにしても、ちょくちょくあのときの生活が夢に出てくるのはなぜかしら。
私はちっとも孤児院に戻りたいとは思っていないのだけど、もしかしたら、無意識のうちに寂しがっているのかもしれない。
何しろ、独り暮らしは初めてだ。
私はぼさぼさの髪をかき上げ、いかにも寝起きの人間らしい声を出した。
さぁ顔を洗おう。
自分で作らない限り、エッグトーストは出てこないんだから。
私は去年高校を卒業し、自動車整備工場の事務所に勤めた。
でも、たったの一年でその職を失った。
私のせいじゃないわ、経営難による大幅な人員削減のせい。
だったら採用なんてしてくれなくて良かったのに、と思ったが、社長ですらこんな事になるとは想像もしていなかったのだから、仕方ない。
世はまさかの不景気。
そして、私は職を求め、一人このサクラメントという町にやってきた。
天井に拳を突き上げて、盛大に伸びをする。
途端に、ズキッと手首が痛んだ。
昨日暴漢に掴まれたところが、鈍色の痣になっていた。
「最低」
夢だったらよかったのに。
地図で調べてみたら、昨日私が迷い込んだのはイーズガーベージという町だった。
国内でもワースト5にランクインするほど治安の悪い町のようだ。
私の地図においても、その場所は堂々のワースト1位だわ。
孤児院にもワルや不良はいたけれど、私は彼らを軽蔑していた。
騒いで、キレて、そのくせ叱られるのが大嫌いで、何でも自分の思い通りになると思っている連中。
「でも、たまにすごく優しいの」と誰かが言っていたけど、それは騙されている。
普段が最悪だから、人間として当然の振る舞いが、とても優しいように感じるだけなのよ。
いい感じに卵が焼けてきたので、私は頭に浮かぶ醜いやつらを外に締め出した。
やっぱり朝食はちゃんと食べなきゃ、思考まで不健康になっちゃう。
一人ぼっちの生活にも、この町での暮らしにも、じきに慣れるだろう。
57番のバスにさえ乗らなければ、ここは友好的で便利な町だ。
職探しの間を食いつなぐために、私はガソリンスタンド兼フードショップでアルバイトをしている。
始めてまだ一週間だけど、バーコードをピストルのような機械で読み取って、お金を数えるだけの仕事は、それほど難しいことじゃない。
それに私は、愛嬌という武器を持っている。
こういった仕事ではとても役に立つスキルだ。
「ありがとう」
笑顔の素敵な好青年を見送り、次の客を迎えると、筋張った男の手が牛乳パックをカウンターにドンッと置いた。
客の顔を見ようと思ったら、目と鼻の先に黒いキャップのつばが突きつけられていた。
その下から、尖った鼻とニヤついた口が私を見上げている。
なぜここに……!
私は喉まで出そうになった声を抑えつけた。
こんなやつは知らない。
キャップの下に赤い髪が隠れていたとしても、黒いTシャツの下に揺らめく炎のような刺青が入っていたとしても。
私は、こんな男は知らないのよ。
伏し目がちに牛乳のバーコードを読み取った。
「3ドル30セントです」
するとキャットは――じゃない、客の男はカウンターに両手をついて、なおも執拗に私の顔を覗き込んだ。
私は目を逸らし続ける。
無視よ、無視。
そのとき、キスされるかと思うほど彼が顔を近づけた。
慌てて身を引いたときに、彼とバッチリ目が合ってしまった。
もう、鬱陶しいわね!
「3ドル30セント――」
私が再び言いかけると、彼は私を見たままお金を無造作にカウンターに出した。
「釣りはいらないぜ」
何よ、偉そうに。
私はお金をレジに仕舞い、70セントを取り出して彼に差し出した。
「聞こえなかった?」
彼は首をかしげる。
「70セントのお釣りです」
私は答える代わりに、マニュアルどおりの台詞を棒読みした。
「チップだ、取っとけよ」
私はその手をさらに彼に突きつけた。
「いらないって言ってるの。それとも、受け取ったら消えてくれる?」
彼は楽しそうにユラユラと身体をゆすって、私から70セントを受け取った。
危険を感じて、手を握られないようにすばやく引っ込めようとしたが、駄目だった。
「驚いたな、この店には太陽が昇るのか」
腕のあざを隠すためにしていた肘まであるUVグローブを見て、彼が言う。
「毎日裸で来ようかな」
彼は腕に顔を寄せ、グローブの下に貼ってある湿布の匂いを嗅いだ。
「放してよ! 私の生活に干渉してこないで」
手をぐいぐい引きながら怒鳴りつける。
「干渉してきたのはそっちだぜ。俺は何年も前からこの店に通ってる」
憎らしい顔で彼が言った。
私はどうにか自分の手を奪い返すと、威嚇するようにバーコードリーダーを持った。
本物のピストルではないけれど、これで殴られたら痛いはずだ。
「次の方!」と大きな声をだす。
不良に絡まれている私を気遣ってくれたのだろう、次に並んでいたおばさんはさも迷惑そうな咳払いをして、小さな紙袋を持った男をレジから追い出してくれた。
変なやつに目をつけられたものだ。
ストーカーじゃなければいいけど。
いや、既にストーカーかも。
私が憤慨を押し隠して商品を通していると、突然目の前に金色の丸い物体が揺れた。
今度は何?
顔を上げると、それは小さな懐中時計だった。
それは見覚えがありすぎて困るくらいの代物で、私は目を疑った。
どうしてあなたが持っているの!?
彼は催眠術でもかけるように、それを私の鼻先でぶらぶらさせている。
「これ、」
私が掴もうとすると、懐中時計はひょいと私の手をすり抜けて、キャットの手中に収まった。
彼はそのまま、くるりときびすを返し、店を出て行ってしまった。
自動ドアに肩をぶつけて、そのガラス戸をジロジロ睨みながら。
唖然として彼を見つめていると、分厚いメガネをかけたおばさんが、私の腕に手を置いた。
「あなた、あれは諦めなさい。ああいう輩とは関わらないほうがいいわ」
はっと我に返り、曖昧に微笑んだが、心はその的確な忠告を素直に聞く気にはならなかった。
あれは、私の唯一の宝物だから。
レジを途中交代してもらい、私は駐車場に出た。
もう行ってしまったかと思ったが、キャットはまだそこにいた。
泥と埃で薄汚れた、いかにも彼にお似合いのセダンにもたれ、缶ジュースを飲んでいる。
私は店の横に回り込み、身を隠して、あたりを見回した。
バカとつるむ連中がいないことは知っているが、念のためだ。
そして、もう一度キャットを見やったときだった。
私に背を向けていた彼は、いきなり身体を翻した。
まるでリードする一塁走者に送球するピッチャーのように、彼は手にしていた缶を私に全力で投げつけたのだ。
まだたっぷり中身の入った缶は、私が隠れている壁の角に当たって弾けた。
悲鳴を上げて身を縮めると、彼は身体を前後に揺らして、狂ったように笑い出した。
頭にきた。
やったわね、この野郎!
私が大股に歩み寄ると、彼は素早く運転席に滑り込み、ドアを閉める。
「危ないじゃない!」
と怒鳴りながら運転席の窓を殴ったが、車中に彼の姿はない。
あれっと思ったのもつかの間。
後部座席から降りた彼に気づいたときには、私は行く手をふさがれて車に背を押し当てていた。
「乗ってく?」
彼のくだらない冗談に付き合うために来たのではない。
「時計、返してよ」
私は率直に言った。
「俺が拾ったんだ。道でね」
得意げに彼が言う。
どうやら、昨日不良に囲まれたときに落としたようだ。
「拾ってくれてありがとう、返して」
私は辛辣に応じる。
「売って金にしようかと思ってる」
「私のものってわかってるくせに! 返しなさいよ!」
すると、キャットはズボンのポケットから懐中時計を引っ張り出した。
奪い取ろうとしたのだが、私の手はまたしても空を掴んだ。
キャットは時計を右手で握った。
その手を私の前に掲げ、ほら、というように首をかしげる。
返してくれるのかと思って手を出すと、彼は自分の手をその上で開いたが――時計は落ちてこなかった。
ムッとして顔を上げると、彼はカラッポの左手を開いてコミカルに振って見せた。
時計は雲のように消えてしまった。
コインマジックの要領で。
「ふざけないでよ!」
「そんなに貴重なものかよ。たぶん売っても大した金にならないぜ」
「そんなんじゃない!」
私は言おうか言うまいか迷ってから、言った。
「親の形見なの。だからお願い、返して!」
ほんの少しでも彼に慈悲の心があれば、返してくれると思った。
けど、それは甘かったらしい。
「下手な嘘だな」
キャットはケラケラ笑った。
「嘘じゃないわ!」
私はむきになったが、彼は首を横に振る。
「そんなに大切なら、落としてすぐに気がつくと思うけどな」
私は心のどこかがギクッとうずき、唇を噛んだ。
正真正銘、父の形見であるその時計は、いつもかばんに入れていた。
いつもそこにあることが当たり前だと思っていた。
あろうことか、今の今まで、私はそれを失くしていたことに気づかなかったのだ。
そう、キャットが私に見せるまで。
悔しくて、涙が出そうになる。
こんなやつのせいで、泣いてたまるか!
「昨日助けてやったし、その報酬ってことでいいだろ」
キャットはニヤニヤして言った。
「お金が欲しいならあげるわ。それだけは返してほしいの」
私は震えそうになる声をぐっと張り、キャットをにらみつけた。
すると、キャットは不意に無表情になった。
ヘラヘラした顔を見慣れ過ぎていたせいか、その表情には有無を言わせない威圧感がある。
ブルーの瞳が、氷のように冷たく私を貫いていた。
「もう二度とあの町に来ないことだ」
驚くほど真面目な声でそう言うと、彼は乱暴に私を押しのけて車に乗り、重低音を響かせて去っていった。
取り残された私は、ただ呆然と見送ることしかできなかった。
何よ、巻き込まれたのは私のほうなのに。
(不愉快だけど)助けてくれたんだと思ってたのに。
(不愉快だけど)届けてくれたんだと思ったのに!
同時に、大切な物を失った事実が応える。
ああ、私のバカ!
鈍い痛みを放っている腕のアザの部分を、めちゃくちゃに叩きつけてやりたい!
でも、それを実行する引き金が見つからなかった。
引き金のありかを知ってしまえば、突然キレて人を刺すことも、思い余ってビルから飛び降りることも可能になってしまいそうだ。
だから、探すのはやめた。
私はうな垂れると、重い足取りで店に向かった。
この十五メートルの距離で気持ちを切り替えなくては、仕事に支障が出る。
忘れましょう。
形見の品も、所詮は形あるもの、いつか無くなる。
それがたまたま今日だったってだけよ。
自動ドアの前で、何気なく制服のポケットに手を入れた。
思わず、口をぽかんと開いてしまった。
指先に触れた、冷たくてつるりとしたものを取り出す。
金の懐中時計。
むかし見たテレビのマジシャンがおどけた様子で手を振り、「ほぅら、コインはあなたのポケットの中」と言っていた。
時計の外蓋を開くと、円く切り抜いた写真がパラパラと散った。
若い父と、若い母と、幼い私が、幸せそうに笑っている。
悔しいのか、情けないのか。
嬉しいのか、悲しいのか。
良くわからない。
いずれにせよ、泣いたのは久しぶりだった。
それから数週間、私は単調で退屈で平和な日々を送った。
キャットは、あれ以降店に来なかった。
来て欲しいわけじゃないわ。
むしろその逆、彼が店に来ただけで虫唾が走る!
それなのに、人の群れの中で無意識に彼を探している自分がいて、私は余計に腹が立つのだった。
あいつのことを考える時間がもったいない。
人生損してるに決まってる。
そう思って、私は何度も彼を忘れようとした。
けれども、考えてしまう。
キャットには謎が多すぎるもの。
彼は弱いけど、強い。
バカだけど、それだけじゃない気がする。
ああもう!
一つだけ確実なことは、あいつはこの世で一番有害な存在だということ!
マリファナよ!
吸ったことないけど!
午後六時を回り、店の外は夕闇に染まりつつある。
今日も、平凡な一日だった。
その男が、店に来るまでは。
むくんだ足をトントンしながらレジに立っていると、縮れた茶髪の太った男がカウンターの前に立った。
見下すように私を見つめたまま、何の商品も出してこない。
私は店員らしい笑顔を浮かべたまま、こっそりとカウンターの裏の、緊急事態を知らせるスイッチに手を伸ばした。
この人、あの町の連中と――キャットと同じ匂いがする。
「あんたに話がある」
男はどすの利いた声で言った。
「クレイジー・キャットのことで。心当たりがあるだろう?」
私はその名を聞いて、やっぱりね、と思った。
あの町に足を踏み入れたばっかりに、そしてキャットと関わってしまったばっかりに、私は何か良くない渦に取り込まれようとしている。
それにしたって、私はキャットに心当たりはあっても、何の目的で男が私を訪ねてきたのかには全く心当たりがない。
彼が何者かもしらないのに。
「表で待ってる」
私の返事を待たずに彼は言って、店を出ようとした。
「表には出ない」
その背中に、私は言った。
「仕事中なの、ここで話して。キャットには会ったことがあるけど、関わりはないわ」
店内なら、まだ安全だと思った。
防犯カメラもあるし、逃げ込む場所もある。
そのうち、不審に思った店長が事務所から出てくるはずだ。
男はじろりと私を見据え、再びカウンターにやってきた。
そして、こちらに身を乗り出し、ゆっくりと、丁寧にこう言った。
「二度と言わねぇ。表に、出ろ」
緊急ボタンを――!
しかし、私は男に胸倉をつかまれ、大きく引き上げられた。
私の身体は楽々と持ち上げられ、カウンターを越える。
「誰か!」
乱暴に担がれ、彼の肩がみぞおちに深く食い込んで、私は内臓を吐き出すかと思った。
店長が血相を変えて、事務所から飛び出してくる。
商品や売り上げを強奪されたことはあるが、店の売り子を誘拐されたことはないはずだ。
「待て!」
興奮気味に店長が叫ぶと、男は私を担いだまま振り返った。
ズボンのポケットからピストルを抜き出す。
それがバーコードリーダーである可能性は、ゼロ。
男は自然な動作で、パシッパシッと店内に弾を数発撃ち込んだ。
私は悲鳴とも泣き声ともつかない声を振り絞った。
神様、一体私が何をしたというの。