10.ノース・ホワイト・ウルフ
新たな旅立ちに相応しい、真っ青な空が広がっていた。
日差しは温かく、程好い風もある。
その下には、白く照らされたコンクリートの建物が無造作に立ち並んでいる。
まるで粗いタッチで描かれた油絵のようで、不思議と美しくも感じられた。
悪の巣窟、イーズガーベージ。
私の新しいすみか。
コーヒーショップの店主イアンは、店に入ってきたストレイ・キャットをちらりと見て、フンと鼻を鳴らした。
今日はずいぶん早いお出ましだな、とでも言いたげな、親しみのこもった嫌味な挨拶だ。
しかし、にわかに口を開いたところで、彼は発言を思いとどまった。
キャットの背後に、この町に不似合いな――以前にもまして不似合いな――私がいることに気付いたから。
「どうも」
私はバツの悪い思いで、イアンに軽く会釈した。
カウンターに座って「彼とは二度と会うことはない」と豪語したのは、そう遠い過去ではない。
ついでに言えば、この町には二度と来ないと心に誓ったのも、この店だった。
にもかかわらず、私は彼と一緒にこの町で暮らすことになっている。
願いを真逆に叶える精霊でも住み着いているんじゃないかしら。
イアンは何も言わず、ただ、ちょっぴり口の端に笑みを浮かべた。
あんたもすっかり毒されたな、と言われているようで、私はますます小さくなる。
キャットは、カウンターの前を通り過ぎざまに「いつもの頂戴」と声をかけ、奥のテーブル席に腰掛けた。
その向かいに座った私は、もじもじと落ち着かない。
店にはキャットと私を見てひそひそ話す中年たちや、周囲の存在などお構いなしにいちゃつくカップルがいる。
これからここで暮らすというのに、相変わらず私は余所者だ。
「小奇麗な服なんか着るからだ」
キャットは椅子に深々ともたれて腕を組むと、テーブルの端に左足を上げ、その上に右足を乗せた。
「ああいうのが、掃き溜めには相応しい」
そう言って、キャップのつばで窓際をしゃくるので、私はそこにいるカップルを控えめに観察した。
二人は舌を絡ませあい、離れては、意味深な笑いを交わし、再び唇を合わせる。
その女の服装といえば、キャミソールはもはや下着みたいだし、ショートパンツももはや下着みたいだし、その下に覗くガーターベルトはむしろ下着だし。
私は蔑みにも似た嫌悪を覚えた。
平素ストリッパーみたいな衣装で、人目を気にせず性的衝動に身を委ねる女。
一言で言うなら、そう、不潔だわ。
私は彼女達に見えないように、眉をひそめる。
「あんなの、私のプライドが許さないわ」
すると、キャットは彼女と私を比べるように見て、ニヤッと笑った。
「だったら、堂々としてろよ」
それもそうね、おっしゃるとおり。
私がつんと顎を上げると、キャットは満足げに目を細めた。
しばらくして、イアンの咳払いがした。
カウンターに目をやると、プラスティックプレートの上に飲み物が二つと、チリドックが二つ、フライドポテトが一つ、準備されていた。
キャットがそれを取りに行き、彼と何事か話して、戻ってきた。
「お前、ずいぶん気に入られてるじゃないか」
フライドポテトが盛られた紙パックを私の前に押して、キャットが言った。
「これ、私に?」
「少なくとも、俺の“いつもの”じゃない」
私は嬉しくなってカウンターを見たが、イアンは眼を伏せて何か作業をしている。
この瞬間、私は厳つい石像のような店主が好きになった。
イーズガーベージもあながち悪くない、人と繋がってさえいれば。
「歓迎のご馳走ね」
揚げたてのポテトはサクサクで、塩がピリッと効いていた。
そのとき、私の脳内で“歓迎”という言葉が不吉なキーワードに変わった。
以前イアンに教えてもらった、この町特有の歓迎を思い出したのだ。
新参者が受けるという、洗礼のことを。
この町にはいくつかの組があり、新顔は手荒い勧誘を受けるという。
咀嚼が不十分なまま飲み込んだポテトは、喉を引っ掻きながら、ずっしりと胃に落ちた。
「やっぱり、私も殴られなきゃいけないのかしら」
思わず呟くと、キャットはホットミルクを冷ますのを中断させて、「は?」と言った。
私がイアンに聞いた内容を説明すると、キャットは「ああ」と納得してミルクをすする――そして、やはり舌を火傷したらしかった。
「まず洗礼について言えば、」
キャットは舌先を歯でこすりながら言った。
「女が殴られる可能性は低い」
よかった。
「そのかわり、かなりの確率で強姦される」
最悪。
私の顔色が信号のように変わるのを、キャットは楽しんでいるようだ。
「だが、それを回避する方法がある。――洗礼を受ける前に、手ごろな男を見つけること。そして、その男のいる組に所属することだ。それが出来なければ、この町には来るべきじゃない」
キャットはカップを置いて、テーブルに肘を突いた。
「今俺達がいるのは、町の中立区。いろんな組の連中が立ち寄る地区だ。ごく少数だが、俺のように組に所属してない者も、この辺りに住んでる」
そう言いながら、色褪せたテーブル板に指で透明な円を描く。
「その周りは、大まかに五区ほどのブロックに分かれていて、それぞれ対立する組が治めてる」
先ほど描いた中立区の周囲に円を五つ並べ、トントンと叩いた。
「この町で人権を得たければ、どこかの組に所属する必要がある。組は仲間意識が強いから、身内に危害を加えたりしない。
同時に、他の組の連中も、迂闊に手を出せなくなる。下手すりゃ組同士の戦争になるからな」
戦争だなんて。
まるで一触即発の紛争地帯みたい。
その比喩はあながち、間違いでもなさそうだけれど。
「なるほどね。それで身の安全が確保できるのはわかったけど……手ごろな男って?」
私は怪訝に眉をひそめる。
キャットは、「俺」と自分を指しているが。
「あなたは野良じゃないの」
すると彼は、「だから、今から組に入りに行くんじゃないか」と、当然とばかりに言った。
「でも――」
ふと、私は心配になる。
彼がこれまでの洗礼に屈せず、組に所属するのを拒み続けたのは何のためだろう。
死にかけてまで守り抜いた野良猫主義を、私が台無しにしたのでは……。
「組に入ることなんて、俺に取っちゃ何のメリットもなかったんだ」
私が何を考えているのかを察したように、キャットが話し始めた。
「仕事もあったし、仲間を作る必要もなかったからな。ただ、この町にいられさえすればよかった。けど、今は、組に所属したほうが勝手がいい」
そう言って、彼は右手の中指と薬指、親指の先を密着させ、獣の顔のようなものを作った。
狐――いや、耳が少し曲がっていて、たぶん猫のつもり。
「こいつのこともあるのに、お前が野良犬の餌食にされやしないかとヤキモキするのは疲れる」
こいつ、とは、シャムのことだろう。
私は頷いた。
「つまり、そういうわけで」
キャットは、ややこしい説明が済んですっきりしたように、語調を軽くして言った。
「今日はこれから、サリーマンと会う。前に会っただろ、あの――」
「あのフランケンシュタインの怪物みたいな?」
キャットを遮るように私は言った。
その男の壁のような容姿を思い出しながら。
キャットはそうそう、と頷いてから、「実に的確な例えだけど、あいつに冗談は通じないから気をつけたほうがいい――俺よりバカだからな」と言った。
確かに、頭の固そうな男だった。
「サリーマンに会って、あいつのいる組に入れてもらう。“北の白狼”んとこに」
ノース・ホワイト・ウルフ――キャットは、いかにもカッコいいだろ、というように、その部分を強調して言った。
白い狼にどういう意味があるのかはわからないが、とりあえず強そうだし、どこか品のある名前だ。
「だけど、サリーマンとあなたは、あんまり仲良しじゃなさそうだけど?」
私は、お節介にも心配して尋ねた。
少なくとも以前会ったときは、サリーマンはキャットのことを見下している様子だったから。
そんな関係で、ちゃんと仲間に入れてもらえるのかしら。
だが、私の心配は的外れとばかりに、キャットは鼻で笑った。
「もともと、向こうからアプローチしてきてたんだ。あの日――俺がお前を助けた日、サリーマンの手下が、俺がチャップをぶちのめすところを見てやがったのさ。ホワイト・ウルフは強いヤツが好きだからな」
まあ俺たちにも事情があるし、丁度良いから組に入ってやろうかと思ってね――そんなことを言わんばかりの、余裕の表情だ。
これまでで解ったことだが、このストレイ・キャットという男、かなりの自信家であるらしい。
当然といえば、当然だ。
実力を押し隠して馬鹿なふりをするには、謙虚さではなく、相当な自尊心が必要になる。
殴られて地面に突っ伏した程度では崩れない、究極のナルシズムが。
そのとき、目の端に黒い影が揺れ、カランとドアベルが鳴った。
視線を移すと――まさに、フランケンシュタインの怪物こと、サリーマンが、にやりと不敵な笑みを浮かべながら、こっちに向かってくるところだった。
後ろに男を二人従え、さらに店の外には、四、五人の男を待たせている。
「わざわざ迎えにきやがった」と、キャットが囁く。
私は緊張で身体を強張らせた。
「よう、サリーマン」
キャットは姿勢すら変えないまま、軽い口調で言った。
「今、ちょうどあんたの話を――」
と、調子よく言ったところで、彼は胸倉を掴まれて引き立たされていた。
乱暴なお迎えだ。
私はますます固くなり、怯えた。
話がずいぶん違っているじゃない、キャット!
「おいおい、何だよ」
キャットが慌てて――慌てたふりであることを願う――両手をあげる。
「今から行こうと思ってたとこだって。別に道草食ってたわけじゃねぇよ」
「うるせぇ、ガタガタ抜かすな」
サリーマンが呻る。
カウンターからイアンが不満そうな視線を投げ、「表でやれよ」と、人事のように言った。
そのまま、キャットは店の外まで引っ張られていった。
私は逃げるべきかと腰を浮かせたが、男達はみなキャットに興味があるらしく、幸か不幸か私のことはそっちのけだ。
乾いた道路に引き摺り出されたキャットは、ヒーローとは程遠く、可哀相な配役の男でしかない。
散々いたぶられてから通りすがりのスーパーヒーローに助けられるか、そのままあっけなく殺されるか。
ハムを繋ぎ合わせたようなムキムキの男達に囲まれて、彼はとても貧弱に見えた。
私がドアに駆け寄ると、イアンが有無を言わせぬ声色でそれを制した。
「中にいろ」
確かに、私が出て行ったところで、ワンダーウーマンに変身できるわけではない。
でも、座って見物などなおさらできなかった。
キャットは強いから大丈夫――よね?
よろよろと立ち上がったキャットは、戸惑った様子で自分を取り囲む男達を見回していた。
「洗礼なら、ずいぶん前に十分すぎるくらい受けたぜ。まだ殴り足りねぇのかよ」
「洗礼ってのはな、相手の実力を測るテストでもあるんだぜ」
サリーマンが言った。
「てめぇがそこそこ強い“らしい”ってことは聞いてる。だが、証拠はねぇし、実際どの程度かもわかんねぇからな」
「今ここで実証しろってことだ」
背の高い別の男が言う。
「本気を出したほうが身のためだぜ。こっちは殺すつもりでいく」
キャットはもはや笑うしかない、といった様子で、震えながら言った。
「はは、そんな。話が違うぜ、サリーマン」
まったくだ。
温かく迎えてくれるものだとばかり思っていたのに、この歓迎は温かいどころか熱すぎる。
私は胃をえぐられているような気分になった。
逃げて、と叫びたい。
もちろん、私も一緒に。
「野良猫いびりなんざ、ずいぶん久々に見るな」
「やつは、今度こそ殺されるんじゃないか?」
店の客達が面白そうに見物しているのを背中に聞きながら、私はドアガラスにぺたりと張り付いていた。
彼がここで殺されたりしたら、私はどうなるのかしら――それはそれは恐ろしいことになる、間違いなく。
「ほら、どうした、かかってこいよ」
サリーマンが挑発する。
男達は低く身構えたり、ナイフを抜いたりと、完全に臨戦態勢だ。
キャットはもはや袋の“猫”状態だった。
「かかってこい、だって?」
なかば自暴自棄な様子のキャットが、弱々しく怒鳴った。
「八対一だぞ! 誰が行くか、くそ野郎!」
最後の一言が効いたらしく、サリーマンの頬が、遠目に見ても解るくらいビクリと震えた。
それが合図になった。
その瞬間、それまでの態度とは打って変わって、キャットの顔が――いや身体――いいえ、おそらく纏っている空気全体が、ぎゅっと引き締まったように感じた。
背後にいた男が、後頭部目がけて強靭な拳を打ち出す。
キャットは振り向くような動作でそれをかわし、次いで襲い掛かってきた閃くナイフも、難なくよけた。
頬を掠めたパンチの腕を捕らえてひねり、脇腹に膝蹴りを入れる。
続いて横からタックルを狙う男を踏みつけ、踏み台にして、喉を目がけた突きを宙返りでかわした。
ああ。
私は早くも安心し始めている。
彼なら大丈夫。
いつの間にか人が集まり、野次が飛び始めていた。
店の中もざわついている。
誰もが、見慣れぬキャットの軽業に驚き、唸り、そしてダウンしそうになる男たちをなじった。
私はキャットの鮮やかな武技に見入りつつ、むかし読んだ小説に「喧嘩には二種類ある」と書いてあったのを思い出した。
一つは、相手を殺すつもりでやる本気の喧嘩。
繰り出される攻撃はどれも一撃必殺型で、あっという間にかたがつく。
そしてもう一つは、相手に見せ付けるための喧嘩で、できるだけ派手にやってみせる。
今のキャットは、まさに後者だ。
彼は強烈な一撃を繰り出したりはせず、アクロバティックにフィールドを舞っている。
蹴りはしなやかで、敵の攻撃を縫うように食い込ませる拳は、軽いながらも的確だった。
「あっ!」
鋭い一発がキャットの左目の下を捉え、私は思わず声をもらした。
キャットはにわかによろけたが、大したダメージではなかったらしい。
すぐに持ち直し、スピードと身軽さを武器に、戦闘を続ける。
戦う男達も、そして見物客も、みんなキャットのペースに飲まれていく。
気がつくと、私は彼に合わせて息を止め、吐き、吸っていた。
キャットが楽しんでいるのが、こちらにも伝わってくるようだ。
それが、どのくらい続いたのだろう。
殺陣を一歩離れて見守っていたサリーマンが、やにわにピストルを抜いた。
危ないっ……!
と、全身の毛が逆立つのを感じた瞬間、サリーマンは空に向かって、引き金を引いた。
パンパンと空気が弾け、息が詰まる。
ざわめく野次馬を背景に、勝負の熱はあっというまに引いていった。
息を荒くした男達がサリーマンのほうへ流れ、キャットがぽつんと残った。
「本気じゃねぇんだろ、相変わらずいけ好かねぇ野郎だ」
銃口をキャットに向け、不機嫌にサリーマンが言った。
キャットはそれを見据えたまま、大きく深呼吸をする。
その身体は程好く緊張したままだ。
弾丸だって避けてみせるに違いない。
しかし、サリーマンは撃たずに伸ばした腕を曲げ、照準を外した。
「だが、よくわかった。ウルフが会いたがってる、ついて来い」
どうやら、無事テストに合格したらしい。
不完全燃焼の見物客たちから、明らかに歓声ではない声が漏れる。
私はホッとして、イアンを見た。
彼は促すように、顎を突き出しただけだった。
店を出てキャットに駆け寄ると、まだ熱の冷めやらないキャットが、いきなり私を抱きすくめた。
「わっ!」
驚く間もなく、くるりと振り回されて、地面に下ろされる。
ほんの少し汗をかいた彼は、いつになく誇らしげで、上機嫌だった。
このときばかりは、私も笑みを浮かべずにはいられなかった。
相変わらず、素直ではなかったけれども。
「あなたがただのバカじゃなくてよかった」
「そいつはどうも」
冷やかしの言葉を投げる野次馬に中指を立ててから、キャットと私は男たちに囲まれて、町の北部に案内された。
彼らの縄張りは、一目瞭然だった。
廃車場や空港の周囲に張り巡らされるような金網に、敵意むき出しの有刺鉄線という、粗野な要塞だ。
その内側には、まるで国境を警邏する軍人のように武装した、強面の男が立っていた。
見慣れない私達を、友好的ではない眼差しで迎える。
サリーマンが手を振って彼らを諌めなければ、挨拶代わりに撃たれていたかもしれない。
まるで捕虜のような気分だったが、キャットはまだアドレナリンが効いているらしく、好戦的な態度だった。
私はなおさら不安になる。
挑発だけはしないでね。
入り口を過ぎてしまえば、そこにはさっきまでいた場所と変わらない、荒んだ町の風景が続いていた。
敷地はかなり広いらしく、店もたくさんあり、贅沢さえ望まなければ、この区画だけで十分暮らしていけそうだ。
まさに独立した小国。
中立区では血気盛んな男達ばかり見かけたが、ここには女や子ども、老人の姿もある。
弱い者はみな、組の庇護を受けているというわけだ。
「良かったな、女」
私の隣を歩く若い男が声をかけてきた。
目は細く、瞳は黒で、中華系の血筋だと一目でわかる顔立ち。
黒い長髪は、半分だけドレッドに結われていた。
さっきの戦いで、唯一キャットに一発喰らわせた男だ。
「ここの組は、女に優しい」
それが真実なのか、皮肉なのかを図りかねて、私は肩をすくめる。
「そうだといいけど」
「そうさ」
自信有りげに彼は言う。
「筆頭のホワイト・ウルフは、紳士な男だ。だから、この組を選んだストレイ・キャットは正しい。だが、ストレイ・キャットを選んだお前は正しくないな」
「言えてるぜ」
近くにいた別の男が相槌を打った。
「イーズガーベージの女なら、強さと、賢さのある男を選ぶべきだ。この俺のような」
彼はそう言い、胸を張って精一杯良い顔を決めた――褒めて言うならシュレック。
ゲラゲラと下品な笑いが起こる。
「男は女のステータスだ。同時に、女は男のステータスでもある。あんたなら、俺が貰い受けてやってもいい」
冗談か本気か、中華系の男が言う。
すると、キャットがニヤニヤしながら言った。
「あんまりからかうと、急所に噛み付かれるぜ。キティーはこう見えて凶暴だ」
ひゅうと、甲高い歓声を上げて別の男が食いつく。
「そいつはいい、俺好みだ!」
私は何か言い返してやりたかったが、礼節を守り、カチンと歯を鳴らしただけにとどまっておいた。
男はまるで大事なものを噛み切られたかのように股間を押さえ、腹を抱えて笑い転げていた。
やがて私達一行は、かつてはオフィスビルだったのであろう、大きな建物に辿り着いた。
それまでの町並みと打って変わって、辺りには見張りの男達がうろつき、目を光らせている。
建物の横にはけばけばしい塗装や改造を施した車が何台も停まっていた。
まさに、ここがボスの御座す本拠です、といわんばかりの物々しさだ。
その八階――最上階に、北区を統治する筆頭ホワイト・ウルフはいた。
そこに集う男達は王座の間を警護する精鋭兵さながらで、サリーマンですらただの大男に見えるくらいの気迫を備えている。
さすがにこのときばかりは、肩に回されたキャットの腕に自らすがりついていた。
広いフロアには低いテーブルと、ベッド並みに馬鹿でかいソファーが腰をすえ、左右に女をはべらせている。
どの女達も、先ほどホークネストで見かけた下着女などとは比べ物にならないほど、美しくて逞しい。
おまけに、気高さまで感じる。
男は女のステータスとは、良く言ったものだ。
その中央に座している男、ホワイト・ウルフは、気だるそうな目で私達を見つめていた。
先住民の血を感じさせる褐色の肌に、名前通りの真っ白な髪がよく映える。
若々しくも貫禄を持つ、歳なら四十あたりだろうか。
むき出しの上半身は所狭しとタトゥーが彫られ、首を登って顔にまで及んでいた。
「ストレイ・キャットを連れてきました」
サリーマンが丁寧に言った。
「見りゃあわかる」
ウルフの返事はそっけない。
前髪を払うように彼が首を振ると、サリーマンをはじめ、私達を連行してきた男達が下がった。
防護服を脱がされたような心地がした。
「良く来たな、野良公」
「どうも」
キャットはいつもより少し声を低くして言った。
さすがにこの場でふざけられるほど、空気が読めないわけではないらしい。
ウルフはボリボリと音を立てて首の後ろを掻くと、くだけた口調で言った。
「なぁ、なんでウチ来た?」
ずいぶん出し抜けな質問だ。
「もちろん、俺ぁお前が欲しくてサリーマンに呼び出させたわけだが、コロッと態度を変えて懐いてきたんじゃあ、さすがに疑わずにはいられなくてな。何か旨そうなエサでも見つけたか? それとも、猫の性分か?」
キャットは警戒の色を浮かべつつも、口の端に笑みを湛えている。
一方のウルフは、つかみどころの無い緩んだ表情をしていたが、眼光は鋭くキャットを捉えていた。
「失業したんで」
キャットが答えた。
「ついでに、女もできたし」
そう言って、私の肩を抱く手に力を込める。
キャットにしては簡潔な返事で、それだけに緊張の高まりを感じた。
それを聞いたウルフが、初めて私を見た。
睨むでもなく微笑むでもない銀色の瞳に、胸のうちを見透かされているような気がして、私はなおキャットに強く寄り添った。
「なるほどねぇ」
キャットに視線を戻すと、ウルフが言った。
「たしかに、ここにいるのはレディーに対する礼節をわきまえた連中ばかりだ。なぁイルマ」
話をふられたのは、ウルフの右に座る女だった。
滑らかな黒髪をボブにした、クレオパトラを思わせる目鼻立ちの美女に、思わず見惚れた。
「ええ」
彼女は無表情に言って、品定めをするような視線を向けてきた。
私は慌てて目を伏せる。
そういえば、さっきから女達の視線が刺さっているようだが――私は一切気付かないふりをした。
睨み返したところで勝ち目は無い。
女優かモデルかと思わざるをえない彼女達に対して、私は何とも小ぢんまりしている。
「それに、仕事もある」
鷹揚な声でウルフが続けた。
「見回り、掃除夫、車磨き、麻薬育成。町に出りゃ、いかさま賭博、麻薬ディーラー、それから……。ところで、お前は何が出来るんだ?」
すると、キャットは考えるようなそぶりを見せてから答えた。
「うーん、鼠狩りかな」
……鼠狩り!?
私は思わずキャットを見た。
絶対に、冗談を言うべきタイミングじゃない。
「はっ、猫だけに?」
誰かが吐き捨てるように言い、室内にわずかながら笑いが起こった。
おかげで場の空気は和み――と思ったら、ホワイト・ウルフの目はさっきより鋭くなっていた。
それに気付いて口を閉ざした者が数名、まだ笑っている者も数名。
「鼠ねぇ」
ウルフが言った。
「なんて鼠だ? お友達のジェリーのことかな、トム・キャット」
口調は軽いが、目が怖い。
「いや。もっとむさ苦しい鼠だ。何なら紹介しようか?」
物怖じすることなく、キャットが言った。
ウルフはしばらくキャットを睨んでいたが、やがて指で自分の元へ呼びつけた。
キャットは私の肩からそっと腕を外すと、安心しろというように軽く叩いてから、ウルフの前に進み出た。
急に心細くなったが、私は大人しく彼の背中を見送る。
暗黙の了解か、キャットが近づくと、女達がソファーを離れた。
その周りで、この流れを理解できずにそわそわしだす者が数名、警戒して銃を握りなおす者が数名。
キャットはソファーの背もたれに手を突いて身をかがめると、ウルフの耳元に何事かを囁いた。
辺りはしんと静まり返っている。
時折、ふむ、と低く相槌を打つウルフの声だけが聞こえた。
「ほほぉ」
やがて、キャットが顔を離すと、ウルフは感心したようにキャットを見上げた。
「二匹目までは把握していたが、三匹目がいたとはな。なぁるほど」
一同は顔を見合わせている。
キャットは何食わぬ顔で私の隣に戻り、さっきと同じように肩を抱いた。
「おい、N棟のジャスパー引っ張って来い。とんだ食わせモンだ」
ウルフが適当な男に命じた。
二人の男が、素早く走り去る。
N棟なる建物に住む、大きなジャスパー鼠を捕まえに。
鼠って、スパイのことだったのね。
「気に入った」
部下を見送ると、ウルフは改めてキャットを見据えた。
「赤猫。これからは、そう呼ぶ」
キャットが、一瞬眉根を寄せた。
「軒先に住み着こうと、俺は野良猫だぜ」
しかし、ウルフは鼻で笑った。
「勝手にそう思ってやがれ。名前をつけて首輪をつけるのが飼い主ってもんだろうが」
言われてみれば、その通りかもしれない。
ホワイト・ウルフがそう呼ぶ以上、彼はレッド・キャットなのだ。
そしてウルフは、再び隣に腰掛けたイルマの髪をいじりながら、声を大きくして言った。
「ユン、空き部屋に連れてってやれ、そこそこ広いのがあったろ。ついでに、最低限の掟くらい叩き込んでやれや」
指示を受けたのは、あの中華系の青年だった。
ユンは私達を促して、部屋を後にする。
「安心しろ」
部屋を出る間際に、ウルフが吠えた。
「てめぇら二匹とも、大事に飼ってやる。爪を剥くか、逃げ出さねぇ限りはな――」