9.名において、誓う
夜明け前に、簡素なホテルにチェックインしたところまでは覚えていた。
こんな時間に入れるホテルがあるなんて、と感心したのも覚えている。
けれども次の瞬間には、私はベッドに倒れこんで泥のように眠っていた。
疲労からだろうか、まるで酒に酔ったときのような、抗い難い睡魔だった。
全ての記憶を寸断させるような無の世界を彷徨い、目を覚ますと、五年くらい眠り続けていた気分だった。
あるいは、五秒。
つまり、身体が腐っているか、あるいはちっとも疲れが取れていない、ということ。
どちらかといえば、後者のほうがいい。
貼り付いた瞼をこじ開けると、半分は布団に埋もれて白く、残りの半分は薄ピンク色だった。
そこには、昨日監禁されていた部屋よりも愛想が良く、野良猫のすみかとは比べ物にならないほど清潔な部屋が広がっていた。
隣のベッドは空で、誰かが目覚めて布団を抜け出した跡が、そのまま残っている。
寝返りを打って仰向けになると、わずかに割れたカーテンの隙間が眩しい。
昨日の雨が嘘のような、実に良い天気だ。
その他人事のような平和さが憎らしいけれど、じめっとした雨の中で鬱々と過ごすよりはマシかもしれない。
両手首には包帯が巻かれていた。
これは記憶に無いので、寝ている間に誰かが巻いてくれたようだ。
私は手を裏、表と返して、その丁寧な処置を眺めた。
まるでボクサーのバンテージみたい。
顔の前で両手を握ると、なぜか勇ましい気分になった。
その手を胸に下ろし、一呼吸置いて、勢いよく起き上がる。
気分爽快ではなかったが、脳は夢より現実を望んでいる。
帰る場所を失った今、これからどうすべきなのか。
けれども、私はそれほど悩まなかった。
寝起きの頭は単純で、結論はすぐに出たからだ。
髪を申し訳程度に撫で付けると、私はベッドを後にした。
寝室を出てすぐに、ソファーに横たわる半裸の男と目が合った。
彼は肘掛に頭をのせ、反対側に両足を突き出してくつろいでいる。
「ずいぶん早いお目覚めだな」
ストレイ・キャットはブルーの瞳で私を見上げて言った。
ずいぶん皮肉な挨拶ね。
そう思って言い返そうとしたとき、サミー・バレットがバスルームから出てきて私をフォローした。
「おはよう、ケイティ。当然よ、誰かさんのせいで酷いめに合わされるところだったんだから」
彼女はそう言って、ブローしたばかりの金髪を指ですきながら、小さな冷蔵庫の横にある棚からインスタントコーヒーを取り出している。
「おはよう、サミー。ほんと、誰かさんのせいで」
私は誰かさんに見せ付けるように、にこやかに挨拶を返した。
「俺のせいじゃない」
キャットは腕を頭の下に敷き、目を閉じて、軽い口調で言った。
「下心丸出しのFBIなんかに、ホイホイついていくのが悪いんだ」
私はムッとしてキャットを睨んだ。
人の失敗ばかり取り上げて、なんて良い性格かしら!
「あなたに会った後なら、どんな男の人だって上品に見えるもの!」
「だとしたら、男を見る目がないぜ、キティー」
「はいはい、きーきー言うのやめてくれる?」
サミーがあきれた様子で諌めた。
「ずいぶん根に持ってるじゃない、そのFBIのこと」
サミーはマグカップにポットの湯を注ぎながらキャットに言った。
「子猫ちゃんが懐かないからって、嫉妬してるのかしら?」
キャットは片目を開け、足元に立つサミーを無表情に見つめて、また目を閉じる。
あら、図星?
サミーは、芳ばしい湯気を立ち上らせるマグカップを二つ持ってきた。
そのうちの一つを私に渡し、一人掛けのソファーを勧める。
そして自分はというと、ロングソファーを占領しているキャットの足を乱暴に蹴り落し、そこに腰を下ろした。
キャットはセンターテーブルに足をぶつけて至極迷惑そうに唸ったが、文句は言わずにソファーの端に座りなおした。
同業者で古い友。
サミーがキャットとの関係についてそう言っていたのを思い出した。
彼らはまるで姉弟のように仲が良い。
いや、悪いのかもしれないけれど。
それでも、長年苦難を共にしてきた者同士の、気の置けない間柄は、見ていて微笑ましくさえあった。
今は淹れたてのコーヒーを取り合っている――中身をこぼさないように。
結局、コーヒー争奪戦はサミーが大人らしく身を引いて終焉した。
「それで」
サミーは不機嫌そうに膝に肘をつき、その上に顔を乗せた。
「この子をどうするつもり? 身寄りはあるの?」
彼女はキャットと私に尋ねる。
私の心は既に決まっていたが、最後の一思案に数秒を要した。
孤児院を頼る、友達を訪ねる、州外に引っ越す――あらゆる可能性を考えてみる。
けれども、最終的に私は、決めていた答えに手を伸ばしていた。
行く手を遮るように差し出され続けていた、刺青の入った男の手に。
私を巻き込んだ渦の全貌が見えない今の状況では、周囲に迷惑が及ぶかもしれないし、大切な人を失うことだけは避けたい。
それに、少なくとも今の私には、彼の助けが必要だった。
痴漢撃退ならまだしも、ピストルとやりあったり、高所恐怖症の私を抱えて壁走りが出来る人物は――この先必要かどうかはわからないが――生憎彼しか思い当たらなかったから。
考えがまとまったところで顔を上げると、キャットの視線が待ち構えていた。
私は観念したように、「あなたにまかせる」という意味をこめた視線を送り返した。
これ以上危険な目には遭いたくないの。
受け取りの合図はいつものニヤリ笑いだったが、目だけは真剣だった。
「いいや、連れてく」
キャットはサミーに答えた。
その瞬間、すんなりと、そしてさりげなく、私達の契約が成立した。
助けて欲しい女と、助けたい男の契約が。
「連れてくって……」
サミーが、信じられない、というように眉間にしわを寄せた。
「あんた、本気で言ってるの?」
「当たり前だろ。一緒にイーズガーベージに戻るんだ」
キャットは嬉しそうに言った。
――が、その瞬間、私は従順な視線を一変させ、顔をしかめた。
「イーズガーベージになんて行かないわよ!」
「ええ?」
理解り合えたと思ったのに、まさかの相違。
キャットは心底びっくりしていた。
ストレートの合図だったはずなのに、牽制球を投げつけられたキャッチャーのようだ。
「あんな野蛮な街には行きたくない」
私はうんざりして言った。
一緒に行く決意はしたが、地獄までついていくとは言っていない。
安全を確保してくれなくては、契約違反だ。
「それに、せっかく逃げてきたのに、また捕まりにいくようなものじゃないの」
「大丈夫だって」
キャットは、なんだそんなことかと言うような顔をして、私の反論などどこ吹く風と、自信満々に言った。
「昨日のやつらは、目と鼻の先で揺れてるシャムの尻尾に夢中だし、不良連中のほうも既に手を打ってある。問題ない」
私は不安を拭いきれないまま、中途半端なため息をつく。
不良連中に手を打つなんて、可能なのかしら。
野良犬たちが“おあずけ”を聞くとは思えない。
「とにかく俺は、イーズガーベージに戻らなきゃならない。たとえ戦場だったとしても。あそこが俺の仕事場だからな。お前もいい加減覚悟を――あっつ!」
いきなり横からサミーの蹴りが飛んできて、キャットは胸を火傷した。
彼女はなにやら、気分を害したらしかった。
「キャット、ちょっと話があるわ」
サミーは赤くなった皮膚をこするキャットを尻目に立ち上がり、憮然とした態度で寝室に入っていく。
「あんまり楽しい内容じゃなさそうだ」
キャットは茶色い液体を拭い終えて、当惑したような笑いを浮かべた。
「私、何かまずいことを言った?」
私は心配になって尋ねる。
「何も」
キャットはしれっと答えた。
「サミーは、俺がお前を連れて行くのが気に入らないのさ。嫉妬だ嫉妬」
「嫉妬って――」
される覚えはないけれど。
そのとき、酷く苛立たしげな咳払いがした。
二人してギクッと肩を震わせ、振り返ると、寝室の入り口にサミーがもたれかかっていた。
「自意識過剰も甚だしいわね、野良猫さん。私は、その子を匿うことについて、その危険性の話をしたいんだけど。
それに、あんたは私に言う事があるはずよ。このことは、秘密にしておきたいんじゃないの? 他の仲間が黙ってないわよ」
冷静な物言いが、逆に怒りをありありと表している。
キャットはもっとも至極というように頷いた。
「その通りだ」
彼は軽口を封印するかのように口内をコーヒーで満たすと、席を立った。
そして、寝室に消える前に私を振り返った。
「そうそう。髪が面白いくらい跳ねてるぜ、キティー」
それは、バスルームにこもってろ、という意味かもしれない。
会話の内容を聞かれたくないのだろうと思い、私は素直にしたがった。
けれども、洗面台に掲げられた鏡の前に立つと、それは必要のない深読みだったことがわかった。
確かに、なかなか奇抜な髪型だ。
それから、キャットとサミーの間でどのような会話がなされたのかはわからない。
聞きたがりの耳をドライヤーの騒音が塞ぎ、私は目下、外側に跳ねたがる髪を内巻きにすることに集中した。
頑固な寝癖をようやく撫で付けた頃には、二人は仲良くソファーに腰掛けてコーヒーの続きを飲んでいた――私のカップは完全にキャットのものになっていた。
その日は疲労回復という名目で、一日ホテルを動かなかった。
キャットやサミーは誰かと連絡を取ったり、短い外出をしたりしていたが、私は特に何もしないまま、あっという間に夜を迎えた。
再出発の前の、つかの間の安息だもの。
精一杯だらけさせてもらうわ。
サミーが買ってきたメキシカンファストフードの夕食を部屋で取ると、キャットは誰かに電話をするために寝室にこもってしまった。
私はタコスの最後の一切れを口に入れ、ピリッと辛いサルサを味わう。
「そうだ、ケイティ」
不意に、サミーが言った。
「あなたに渡したいものがあるのよ」
何かしら。
護身用の黒いL字のアレか、もしくはそれを模したスタンガン、とか?
私は警戒と好奇心を同時に抱きながら、ご馳走を唇の端から舐め取り、汚れた指をナプキンで拭った。
「なあに?」
サミーはもったいぶることなく、夕食と共に持ち帰った紙袋を私に差し出した。
ピストルを入れるには大きすぎる――防弾ベストサイズだ。
しかし、袋は羽のように軽かった。
中に入っていたのは、透明のビニールに包まれた服だった。
黒いレースをあしらった青紫色のキャミソールに、チェック柄の巻きスカート。
嬉しさのあまり、顔が溶けるかと思った。
防御力は低いが、女らしさは九割り増し。
「これ、私のために?」
「そうよ。全部燃えちゃったんでしょう? 唯一の服が俗語Tシャツなんて、あんまりじゃない」
サミーは足を組み、その上に右腕をついて、さらにその上に顎を乗せた。
薄い朱色の唇が弧を描き、艶やかに光って、彼女の微笑みに魅力を添えている。
「ありがとう!」
私は早々にビニールを外し、それらを広げながら言った。
ありがとうでは足りないが、それ以外の言葉を並べたところで語り尽くせない。
まさに、ドレスを手に入れたシンデレラのような気分!
サミーは満足げに頷いた。
「すれ違う相手を無差別に挑発するのは、あんまり賢くないからね。特に、イーズガーベージでは」
「確かにね」
まったくもってその通りだ。
幸運だけが三秒で逃げ去り、あとにはチンピラが残るに決まってる。
「着てみて。サイズは大丈夫だと思うけど」
サミーの見立ては完璧だった。
サイズもデザインも、私のために作られたのではないかと思うほどぴったり。
私は何度も洗面台の前で見栄えを確かめてから部屋に戻り、スカートにシワができないよう、気をつけながらソファーに座った。
実に即効性のある装備だ。
そこへ、キャットが携帯を片手に戻ってきた。
「明日の早朝、イーズガーベージに戻るぞ」
誰との電話かわからないが、話し合いが上手くいったのか、嬉々としてそう言った。
そして、遅れて私の新しい衣装に気付く。
私は急に恥ずかしくなって、付いてもいないスカートの汚れを払った。
キャットは無遠慮に私を眺めると、感想を述べた。
「イーズガーベージだぜ? 誰がビバリーヒルズへ行くと言った?」
ニヤニヤと、冗談めかした口調で冷やかす。
……褒めてる?
「お守りよ。私のいないところで、猫が子猫をいじめないように」
サミーは愛情のこもった冷たい声で言った。
「ええ? サミーは一緒に行かないの?」
私は目を丸くして彼女を見た。
「残念だけどね。私の仕事場はあそこじゃないのよ。キャットがイーズガーベージを離れられないのと同じように、私も持ち場を離れられない」
サミーが申し訳なさそうに言う。
「残念だなんて、思ってないくせにな」
キャットがソファーの端に座りながら軽口を挟むと、サミーも挑戦的な口調で答えた。
「あら、残念よ。とっても安らぎそうな掃き溜めだもの。行ってみたかったわ」
私はがっかりして、真新しいキャミソールの光沢を見下ろした。
なんとなくわかってはいたものの、サミーも一緒に行けたらいいと思っていたから。
せっかく仲良くなったのに。
「また会えるわ。少なくとも、あなたがこいつと一緒にいるうちは」
サミーは首をかしげてキャットを示しながら言った。
「そうだといいな」
私達は別れを惜しむ微笑を交わす。
その横で、まったく空気の読めない男が、不満そうなくしゃみをした。
どうやら友情アレルギーらしい。
こうして、サミーは自分の持ち場へと帰ってしまった。
サミーがいなくなると、部屋は途端に寂しくなった。
キャットは特に話を振るでもなくテレビを見ていたし、私もこれといって話しかけなかった。
そして、私は気付く。
私達はまだ、沈黙が苦にならないほどの間柄ではないということに。
彼と一緒にイーズガーベージへ行くということは、一緒に住むということになるのだろうが、こんな状態でうまくやっていけるのかしら。
私はいささか不安になったが、かといって、その不安を拭い去れるほどの気の利いた話題も思いつかなかった。
なので、私は早々と寝室に退散した。
気まずいのは身体に良くなさそうだし、かといって気まずさを打開しようと話題を探す自分にもうんざりだ。
あまり眠くはなかったが、綺麗に畳んだ服をサイドテーブルに載せ、『三秒でうせろ』Tシャツ(一張羅からパジャマに降格)を身に着けてベッドに入る。
しかし、一時間経っても眠気はやってこなかった。
昼過ぎまで寝ていたのだから、当然といえば当然なのだけど。
今や闇に慣れすぎた目には、窓からの薄青い光すら明るすぎる。
何か本でもあればいいのに。
そう思って寝返りを打ったとき、静かにドアが開き、キャットが寝室に入ってきた。
カーテン越しの夜の光のなかで、私もキャットも紺と黒のコントラストでしかなかったが、彼は私が寝付いていないことに目ざとく気付いたようだった。
「どんなに睡眠が足りてなくても、明日はたたき起こすぞ」
夜だからか、彼はいつもよりテンションを抑えた、静かな低い声で言った。
空いているベッドに腰を下ろし、にわかに軋ませながら。
「必要ないわ。ちゃんと起きるから」
私は布団を身体に巻きつけて答えた。
囁き声でも十分に聞こえるくらい、あたりは静かだ。
「そうしたほうがいいだろうな。俺はいろんな起こし方を知ってる」
布団の上に横たわりながら、秘密めかして彼が言う。
まったく、口を開いたかと思えば、くだらない冗談しか言えないのね。
「変なことしたら承知しないわよ」
すごみを効かせて言うと、キャットはふんと鼻を鳴らし、「そんなに心配ならソファーで寝ろ。首を痛めて、嫌でも目が覚める」と、愚痴っぽく返してきた。
「昨日はソファーで寝たの?」
そういえば、寝室にベッドは二つしかない。
昼間に見た様子だと、ソファーはかなり窮屈そうだった――身長の低い私ならともかく。
キャットはこれ見よがしに伸びをして、うーんと痛そうに呻いた。
「誰かがレディーファーストだと煩かったからな。それとも、お前の隣は空いてたのか? いや、上か下」
「空いてない!」
キャットは一人でクスクス笑った。
私はそっと上体を起し、枕を掴む。
「首を痛めるよりは腰を痛めたほうがましかと思っ――」
ミラクルヒットだ。
枕は彼の顔面で痛快な音をたて、弾んでベッドの向こうに消えた。
キャットはますます面白そうに身体を震わせている。
あまりに見事な命中だったので、私も愉快だった。
「それだけ上手くあしらえりゃ、イーズガーベージでも十分やっていけるさ」
そう言いながら、キャットが枕を投げ返してきた。
私はそれをキャッチして、頭の下に押し込む。
イーズガーベージの不良たちが、冗談と本気をわきまえていればいいのだけれど。
チャップ率いるチンピラの一団、巨漢のサリーマン、キャットと不仲のジョー・マクラブ、ついでにサディストのマイク・テンプル――思い出したくもない醜い顔が脳内を占領し、私は憂鬱になった。
「ねぇ、キャット。私はいつまでそこにいなきゃいけないの?」
下品な濁声でからかわれ、いつ狭い路地に引き摺り込まれるかわからないような町で、果たして暮らしていけるのだろうか。
それに、たとえうまくやっていけたとしても、イーズガーベージの住人になりたいわけじゃない。
「さぁな」
キャットは無責任に言った。
「さぁって……」
「仕方ないだろ。この先どう転ぶかは俺にだってわからない」
私はため息をつき、天井を睨んだ。
暗闇の中で迷いが生じる。
本当に、このまま彼についていっていいのかしら。
今なら考えなおすことも出来るわよ、ケイティ。
私の心が揺れ始めたとき、キャットがぽつりと口を開いた。
「シャムは情報が漏れることを嫌う」
「それ、前に聞いたわ」
可愛げもなく言うと、「ああ、言った」と彼は答えた。
そしてしばらく考え、言葉を選びながら、慎重に話し始めた。
「お前を誘拐した連中、ノートン一味っていうんだ」
「ノートン?」
聞いたことのある名前だった。
「そう。俺とお前が出会ったとき、お前を襲っていたチャップって男、覚えてるだろ?」
「ええ、ちょうど思い出してたところ」
キザったらしく髪を伸ばした、いけ好かない男だ。
そのとき、コーヒーショップでの話を思い出し、私は先に答えた。
「暗殺された、チャップ・ノートンね?」
キャットが驚いた様子だったので、私はその情報を仕入れた経緯を話した。
彼は感心したように「あの無口なイアンがねぇ」と言った。
「なら、もう見当ついてんだろ? チャップはシャムが殺ったんだ」
「そうだと思った」
「ノートン一味の頭首は、ダグラス・ノートン。チャップの叔父だ。ダグラスは甥っ子の復讐のためにシャムを追った。そして、シャムはもうじき捕まる」
キャットが淡々と説明する。
私は喉を鳴らした。
「あなたは、シャムをダグラスに売ったのね」
昨日の車の中で聞いた、「シャムの尻尾を掴ませた」「シャムは死ぬのね」という、キャットとサミーの会話を思い出す。
たとえおかげで安全になったのだとしても、素直に喜べなかった。
それはシャムへの慈悲ではなく、キャットの信義違反行為が納得できないから。
「そうさ」
キャットは痛がるようすもなく、私の皮肉をあっさり受け入れた。
「けど、これは命令だった――シャムの」
「シャム自身がそう命じたの?」
「ああ」
キャットはにわかに笑った。
「シャムがよく使う手口だ。敵を誘い込み、その目の前で死を偽装する。つまり、偽者の死体を掴ませて、自分は姿をくらますのさ」
なるほど、そういうことだったの。
私は感心したが、同時に背筋が寒くなった。
シャムは決して喜ばないだろう、私のような何の変哲もない小娘が、そんな重要な情報を知ることは。
「どうして、その話を私に?」
疑うように尋ねると、キャットがごそごそと動いて、身体をこちらに向けた。
「だってお前、状況説明しないとまた逃げ出すだろう? 俺はもうカメレオンみたいな顔で二日間を過ごすのは懲り懲りだ」
私はバツが悪くなって布団を鼻まで引き上げた。
催涙スプレーはかなり強力だったらしい。
「だけど、いずれにしろ、今後のために知っておいたほうがいい。お前を脅かす存在は、ダグラス・ノートンより、シャムだってことさ」
その声は、いつにも増して真剣だった。
「今の段階で、シャムがお前の存在に気付いていないとしても、ダグラス・ノートンが二度もお前を誘拐したという情報は、すぐにシャムの耳に入る。そうなったときが正念場だ」
「私は、シャムに殺されるの?」
一瞬身体が熱くなり、直後に、鳥肌が立った。
命を狙われるかもしれないだなんて、ちっとも実感が湧かないけれど、本能はその意味を十分わかっているようだった。
私がイーズガーベージでチャップ・ノートンに絡まれたときに、私の運命は決まっていたのだ。
「殺させない」
キャットが、私の言葉を打ち消すように言った。
「どうやって?」
私は泣きそうになりながら尋ねる。
屋根になるものが何も無い荒地で、降り注ぐ雨滴を避けるように、この上なく無謀な気がした。
「相手は暗殺のプロなんでしょう? こうやって横になっているところを遠くから狙撃されて、それであっさり終わっちゃうなんて」
頭を撃ち抜かれるリアルな想像に、思わず身震いした。
「大丈夫だ。絶対、死なせやしない」
キャットは私のベッドの方へ身体を寄せると、静かな口調で言い聞かせた。
「俺はシャムのことを良く知ってる。癖も、やつなりのポリシーも。約束する、絶対に守ってやる。だから一つ約束してくれ――俺を出し抜くな」
キャットの言葉は頼もしかった。
少なくとも彼の隣でなら、安心して眠れるのではないかと思うほどに。
そしてそれゆえに、ある疑問が湧いた。
「約束の前に聞きたいわ。なぜ、あなたがそこまでして私を守ってくれるのか」
「理由が必要なのか?」
キャットは、まるで私が場違いな冗談でも言ったかのように、うんざりとした口調で言った。
そんなことどうでもいいだろう、とでも言いたげに。
けれども、私にとっては重要なポイントだ。
無償で請け負うにしては、いくらなんでも重過ぎる。
そこには、ただならぬ理由があるに違いない。
「必要ではないけど、気になるもの。私を見放すこともできたはずよ」
むしろ、キャットが私を連れて行くと言ったときのサミーの態度からすれば、そうすることが当然だったはずだ。
私がシャムに始末され、私が関わった出来事がなかったことになることで、シャムの秘密は保たれる。
「そうだな。けど、そうしなかった。というか、できなかった。つまり、そういう理由だ」
「どういう?」
「どうしても見放せないっていう理由だ」
「理由になってない」
私が詰め寄ると、キャットはクックと押し殺した笑いを漏らした。
「お前が欲しい答えは、一目惚れか? それとも、実はお前の兄だというオチか?」
「そうじゃなくて……!」
と、ムキになったものの、私は思わず口ごもる。
それじゃあ、一体どんな答えが?
「残念だが、そういう意味ではちっともドラマチックじゃない。けれども、誓って、俺はお前を死なせない」
キャットはきっぱりと言い切った。
それから、冗談めかして付け足した。
「これでもまだ不満?」
不満だわ、答えてくれないうちは。
けれども、私はそれ以上食い下がらなかった。
わけがあって、言えないのかもしれない。
いずれ、明らかになるかしら――彼と一緒にいたならば。
いよいよ、観念するときがきた。
キャットは私を納得させるために、私がもう逃げたりしないように、危険を承知で話せることを全て話したのだから。
それにどの道、知りすぎた私に戻る道はない。
「もう一つだけ聞かせて。あなたの本当の名前は?」
私の質問に、暗闇の中でキャットの頭が持ち上がった。
肘をつき、手の上に頭を乗せて、隣のベッドにいる私を見下ろしている。
「知ってどうする?」
「別にどうもしないわ。ただ、信頼のためには、あなたの情報も必要よ」
間を置いてその言葉の意味を考えると、キャットは嬉しそうな声で言った。
「てことは、覚悟ができたわけだ」
私は小さく頷いたが、この暗闇では見えたかどうか。
「それで、お名前は?」
重ねて尋ねると、キャットは少し困ったように言った。
「名無し」
「ええ?」
私が気分を損ねると思ったのか、キャットは慌てて説明した。
「無いんだ、名前。ずいぶん昔に捨てちまったから」
名前を捨てただなんて、映画に出てくる名の無い復讐者みたい。
「それじゃあ、その捨てた名前は?」
好奇心もあり、私はさらにしつこく尋ねる。
キャットは悩んでいるようだったが、やがて諦めたように答えた。
「ハリー。姓はない、ただのハリー」
まるで、何百年も昔から発掘されたかのような、かすれた声で。
「ハリー?」
私が復唱すると、キャットは呪文でも唱えられたかのように、息を飲んでそれを聞いていた。
それから、語調を強めて私に釘を刺す。
「その名を呼ぶのはこれきりにしろ。俺はジョン・ドゥ、掃き溜めの不良で、ストレイ・キャットと呼ばれている」
「わかった」
私はその秘密の名前を心にしまった。
決して珍しくは無いが、唯一の名前だ。
一生呼ぶことは許されない名前だとしても、なぜか――本当にどうしたことか――教えてくれたことが嬉しかった。
「ケイティ・ブロッサム」
サミーが私のことをケイティと呼んでいたので、もう気付いているだろうとは思いつつも、私は改めて名乗り、誓いを立てた。
「約束するわ。もう逃げ出したり、あなたにスプレーをかけたりしない」
闇が動いて、キャットが手を差し伸べたのがわかった。
私はその手を握ったが、警戒して、なるべくすぐに引き離した。
キャットがくだらないことをしないうちに。
案の定、彼は名残惜しそうに手を伸ばしたまま「ちぇっ」と声を漏らした。
「そんなに警戒するなよ」
「するわよ」
すると、キャットはくるりと布団を被って、向こうを向いてしまった。
「俺も女になればよかった」
意味の解らないボヤキを最後に、彼は睡眠態勢に入る。
それは、サミーへの嫉妬だろうか。
「女になったところで、その性格が変わらなきゃ意味が無いわよ」
私は親切にそう忠告し、彼に背中を向けて目を閉じた。
こうして、私は掃き溜めに堕ちた。
そこが不幸のどん底で、あとは這い上がるだけだと信じて。
もっとも、不幸に底があればの話だけれど……。