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1.それは最悪な町から始まる

 この物語には、下品な言葉や描写、やばいだろ的な連中および暴力シーンが多数描かれることになると思います。

 個人の責任の元、それらを深く考えずに、エンターテイメントとして楽しめるという方のみご閲覧ください。

 また、この物語における概念はすべて作者の妄想であり、実在する全てのものと、なんら関係はありません。

挿絵(By みてみん)


※4/22 戦闘部分の描写を書き加えました。少しは臨場感が出ていれば良いのですが。

 全国の乙女に警告()ぐ。

 知らない町では、下調べも無しにバスに乗るべきではない。

 そして、窓の外の景色が怪しくなってきたからと言って、隣の席の客や運転手に相談しないままバスを降りるべきではない。

 地名表示にピンと来なくても、せめて見覚えのある通りを探そうと、闇雲に歩いてはいけない。

 少しでも目的地に近づくために、方角のみを頼りに道を曲がるなんて、もってのほかだ。

 最後に、昼間だからといって油断してはいけない。


「ひゅう、旨そうな(プッシー)だ」

「さ、俺たちと行こうぜ」


 こういう事になるからだ。


 私は今、まさにピンチを迎えている。

 後ろから男に腕をつかまれ、さらに数人の男に取り囲まれて。

 彼らは、満員電車の中のような密度で私を威圧してくる。

 油臭い路地裏にお似合いの不良、下品で下心丸出しの、まさに下の下、下劣な輩だ。


「連れて来い」

 リーダーらしき、長髪を束ねた男が言った。

 廃屋の歪んだ入り口に座って、舐めるような視線を投げてくる。

「嫌よ、放してっ!」

 私は身を捩り、足を踏ん張り、男達をキッと睨みまわした。

 けれどもいくら強気に振舞ったところで、むしろ彼らを触発するだけだと気付くのに、そう時間はかからなかった。

 か弱い女を演じるのは大嫌いだけど、私――ケイティ・ブロッサムは、どうしようもなくか弱い女でしかない。

 抵抗は虚しかった。

 私の腕を掴む手は、私を絶対に逃がしはしないと言っている。

 それどころか、骨をへし折ることもできるんだぜ、と。


 せめて冬ならよかったのだが、あいにく夏の余韻は続く。

 露出の多い服はあまりに無防備で、これでは私の肌に触ってくれと言っているようなものだ。


「誰か! 助けて!」

 私はむかし防犯訓練で習ったとおり、大声で叫んだ。

 だが、すぐに口をガバッとふさがれてしまった。

 その手は私の鼻から下を覆い隠すほど大きく、下手に暴れると窒息させられてしまいそう。


 ここから先の対処法は防犯訓練にはないし、誰も教えてはくれなかった。

 誰かの急所を蹴り上げればいいのだろうか。

 全員叩きのめす?

 そう、アンジェリーナ・ジョリーみたいに。

 

 おそらく違う。

 というか、無理。

 警察の防犯マニュアルには、殺されないために素直に言う事を聞きなさい、もしかしたら助かるかもしれません――と書いてあるに違いない。

 そんなの嫌だ!

 絶対に!


 私を捕らえている腕に力がこもり、私はすぐ側の廃屋に引きずり込まれそうになった。

 嫌悪と恐怖と絶望がピークに達し、吐きそうになった。

 心臓が踊りだし、足は生まれたての仔馬のように震える。

 

 嫌っ――!


 そのとき、奇跡は起こった。

 バシャーンという派手な音とともに、私の側にいた男の後頭部で、茶色い瓶が弾けた。

 ガラス片とアルコールが降りかかり、男は白目を向いて気絶する。

 何が起こったのか、すぐにはわからなかった。


「誰だ!」

 長髪の男が狼のように怒鳴った。

 その声は狭い路地にこだまして、奇襲を掛けた何者かの方へ響いていった。

 道の向こうに、誰かいる。


 なんてラッキーなのかしら。

 私には、ピンチを救ってくれる騎士ナイトがついていた!

 私はすがる思いで、道の先に立っている人影を見た。


 騎士はこちらに向かって歩き出す――ブラブラと。

 いや、というか、フラフラだ。

 むしろ、ヨロヨロかもしれない。

 気のせいだといいけど、まるでラリってるか酔ってるとしか思えない足取りだ。


 そして残念なことに、それは気のせいではなかった。


 現れた男ときたら、アーミーグリーンのタンクトップから覗く腕にいかめしい刺青を入れ、耳には無数のピアス。

 ゆったりとした黒いズボンに、薄汚れたスニーカーを履いている。

 赤みがかった茶髪は、頭の形がはっきりわかるくらい短く刈り込まれていた。

 おまけに、ひょろい。


 前言撤回。

 仮に彼が騎士だというのなら、私は女神だと名乗っても罰は当たらないだろう。


よう(ハロー)子猫ちゃん(キティー)

 騎士じゃない男は、私を見てニタニタと微笑んだ。

「そいつらなんかより、俺と遊ぼうぜ」

 いかにもチンピラらしい笑顔だ。


 キモイ! あっちへ行きなさいよ!

 普通ならそう叫んで、バッグでもぶつけていただろう。

 しかし、もしかしたら彼が逃げ出すチャンスを与えてくれるかもしれない。

 この際、あなたが何者でもかまわないわ――騎士以外なら。

 さあ、こいつらをやっつけて。


 私は、「いい度胸だ、やっちまいな!」という展開を期待して待った。

 ところが――。


「なんだ? キャットじゃねぇか」

 一人の男が目を丸くして言ったのをきっかけに、なんと場の空気は和んでしまった。

「ははは、誰かと思えば、ただの野良猫(ストレイ・キャット)か」

 私を取り巻く男たちが笑い始める。


 何を笑ってるの?

 コイツ、そんなに駄目なヤツなの?

 私は心底不安になった。

 初めから不安だったが、さらにもっと――ジャンボジェット機の客室乗務員が泣きながら「問題ありません」と言っているくらいに。


 ストレイ・キャットと呼ばれた男は、それらの悪口にくじけるどころか照れたように微笑んで、尚もこっちに歩いてくる。

「やあ、チャップ、バン、えーっと、その他」

 くだけた口調で言い、“その他”をぐるぐると指差している。

 神様、助けてください。


「なぁキャット。今はお前にかまってる暇ねぇんだ、うせろ」

 大柄の黒人が、わずらわしそうに言った。

「そう言うなって、バン。酒を振舞ったろ?」

 キャットは気だるい口調で言うと、気絶した男の側にしゃがみこみ、その顔をピシャピシャ叩いた。

「なかなか旨い酒だったろ、ビリー。……なんだ、もう潰れちまったのか」


 辺りに、何ともいえないしらけた空気が流れ始める。

「行こうぜ、チャップ。コイツはラリってる、相手にすることねぇよ」

 私を羽交い絞めにしている男が呆れて言った。

「そうだな」

 答えたのは、あの長髪の男だ。

 チャップは私をじろりと見てから、ビリーの財布を抜き出しているキャットに、見下すような笑みを向ける。

「おい、ストレイ・キャット! てめぇはビリーとファックでもしてろよ」


 下卑た笑いが満ち、私を捕まえている手にいやらしさが戻った。

「ちょっと、やめて! お願い! 助けてよ!」

 私は必死に叫んだが、キャットは呑気に財布の中身を数えている。

 ただのこそ泥だったなんて、見当違いも甚だしい。


「さぁ、いこうぜ」

 チャップが顔を寄せてきたので、私はぎゅっと目を閉じた。

 吐息が耳に掛かる。

 気持ち悪い。


「そりゃいい考えだ!」

 いきなりキャットの嬉しそうな声がして、男たちを苛立たせた。

 それは「てめぇはビリーとファックでもしてろよ」というチャップへの返事らしかった。

「それじゃあ折角だし、乱交パーティにしようぜ」

 キャットは財布をビリーの背中に投げ捨て、抜き取った紙幣をポケットにねじ込んだ。

「は? お前、いい加減にしろよ」

 面倒くさそうに振り向く男たちに、キャットはまるでディナーショーの司会のように両手を広げてみせた。


 ――と思ったのだが、一瞬にして、そこにいた全員が彼を見失った。

 周囲に動揺が満ちる。


「おいバン。タチか? ネコか?トップ・オア・ボトム 

 どこからか声がする。

「ぎゃああああ」

 ただ事ではない奇声を上げ、バンが地面に転がった。

 その大きなお尻には、割れた瓶の口が突き刺っていた。

 私も思わず悲鳴を上げた。


「野郎!」

 チャップが怒鳴り、バンの背後にいたキャットに殴りかかる。

 キャットは軽くバックステップを踏んでそれをかわすと、姿勢を低くして横へ飛んだ。

 その先に立っていた男のみぞおちに、キャットの鋭い肘が深々と刺さる。

 男は海老のように身体を曲げたところにアッパーを喰らい、仰向けに倒れるが――彼が地面に頭を打ちつけるより早く、キャットは回し蹴りでもう一人をノックアウトさせていた。

 早い!


 そのとき、ヒュンッと軽い音がして、目の端に閃光が走った。

 ようやく状況を掴んだ男達が、ナイフを抜きはじめたのだ。

 残っているのは、その他四人。

 リーダー格のチャップと、私を捕らえて放さない男は、汗をかきながら後ずさっている。

 服に汗の臭いが染み付きそうで、私は身体を捩ったものの、大した効果はなかった。


 奇声をあげ、男の一人がナイフを突き出す。

 その鋭い突きをいなし、キャットは大股に駆け出した。

 三歩で踏み切り、跳躍すると、びっくりするほど軽々と、廃屋を囲むレンガの塀に飛び登った。

 そこからさらにジャンプして、朽ちたベランダの鉄柵に飛びつき、両手でぶら下がる――途端に錆びた柵が折れたので、スタンと道路に落ちてきた。


 一体何を?

 と思ったのは、私だけではないはずだ。

 けれども、すぐにわかった。

 

 しゃがみ込むように着地したキャットが、ゆっくり立ち上がる。

 野球バットほどの長さに折れた鉄の棒を、バトンのように、腕の内側外側と振り回しながら。

 にやーっと、勝ち誇ったような笑みを浮かべて。

 キャットがナイフより長い武器を手に入れたことで、男たちの戦意は一気に削がれた。

 じりじりと後ずさる。

 一声吠えれば、一目散に駆け出しそうだ。


「ぶ、ぶっ殺してやる」

 おそらく私同様、見入っていたのだろう、チャップがふと我に返ったように唸った。

 そして、胸ポケットからピストルを掴み出す。

 そんなものを持っていたのなら、最初から使えばいいものを――なんて、思っている場合じゃない。

「危ない!」

 バシュッ!

 私の声と、サイレンサーをかけた銃声が被る。

 しかし、頭をぶち抜かれていて当然の男は、そこにはいなかった。


 そしてチャップは、自分の前にしゃがんだキャットの攻撃を喰らい、悶絶した。

 たぶん、かなり痛かっただろう。

 錆びた鉄パイプが、くの字に曲がるほどの一撃だった。


「良いモノ持ってんな」

 キャットはチャップのピストル――念のために言っておくけど、鉛が詰まっているほう――を奪い取ると、嬉しそうに立ち上がった。

 おもちゃを手に入れた子供のような顔で。

 それはあまりに無垢すぎる笑顔で、鬼の形相より恐ろしい。


「ダメだ、イカれてる!」

 その他たちが逃げ始める。

 私を捕らえている男も、私を引き摺って逃げ出した。

「放して!」


 すると、男はすぐに立ち止まった。

 男の背後に、キャットの気配があった。

 彼は男の耳元で、官能的な声で囁いた。

「ファック・ユー」

 カチャッと、後ろの下のほうで金属音がした。

 発射準備が完了したらしい。

「ま、まて、わかった」

 男の身体がこわばるのが、背中越しにわかった。

 にわかに震えながら、男は私を突き飛ばすと、まっすぐに走っていった。


 私は、奇跡的に不良連中から解放された。

 ため息がでそうになったが、はっと我に返る。

 そう、私はまだピンチの第一関門を突破しただけにすぎないのだ。

 危険なやつらが去り、もっと危険なヤツが残ったのだから。


 得意げに笑うキャットが、ピストルをくるくる弄びながら近寄ってくる。

 全力で走って逃げられるとは思えない。

 相手の機嫌を取るべきかしら。

 それ以前に、話は通じるの?


 私が腕をさすりながら立ち上がると、キャットはのびている男たちを見回し、最後に私を見た。

「パーティの人数減っちまったな」

 まるで友達であるかのような、親しげな口調だった。

 そして、ピストルを握っていない手で、私の頬に触れようとした。


 私は咄嗟に身をかわし、お礼の言葉を危ういところで飲み込んだ。

「そうみたいね」


 所詮こいつも不良だ。

 こんなヤツにくれてやるサンクスはない。


 私は放り出されていた自分のショルダーバッグを拾い上げると、彼を見つめたまま後ずさった。

「助かったわ、それじゃあ」


 乱交パーティが始まる前に――じゃない、ピストルで脅される前に逃げなくては。

 けれども、キャットは撃ってはこなかった。

 ピストルをズボンのベルトに挟んで、倒れている男の財布を物色している。

 私は後ろを振り返りつつ、去った。


 ついてない――いや、ついていたのかもしれない。

 いずれにせよ、不愉快な体験だった。

 早く安全そうな店に入って、安全そうな人に、安全そうな帰り道を聞こう。


 広い通りに出ると、私はようやく町を見渡すだけの余裕を取り戻した。

 どの建物も窓に格子をはめていて、道路脇はゴミ溜め。

 カラフルで猟奇趣味的な落書きが町に色を添えている。

 町全体が重苦しい空気に包まれているようだった。


 こんなに治安の悪い町があったなんて。


 そのとき、唐突に現れた人影が私の行く手を遮った。

 余所見をしていた私は、その壁のような身体にぶつかり、跳ね返る。

「どこ見てんだ」

 ざらざらとした、低い声が降ってきた。

 四角い顔をしたフランケンみたいな男が私を見下ろし、にやりと微笑んでいた。

 明らかに、わざとやったのさって顔だ。


 最低。

 泣きそうよ。

 一生で三度あるというモテ期が、まさかこんな日にやってくるなんて。

 どうして私をすんなり家に帰してくれないの。


「ごめんなさい」

 私は無駄とわかりつつ謝った。

 今にコイツの後ろから仲間たちが出てきて、私を捕らえるのだろう。


 だが、仲間が現れたのは私の方だった。


「いい女だろ、サリーマン。俺の女なんだ」


 私の後ろから現れたキャットは、馴れ馴れしく私の肩に腕をかけて言った。

 というか、よろけてもたれ掛かってきたような感じだ。

 思わず逃げようかと思ったが、彼の腕がぐっと肩を抑えた。

 さっきの一幕を見たからには、下手に逆らわないほうがいい。

 ひょろいと思っていた彼は、間近で見ると案外逞しい身体をしている。


 大男サリーマンは、彼が突然現れたことに驚いていた。

 だが次の瞬間には、やはりさっきの男たちのように、キャットを見て笑い出した。

「そうかキャット、貴様の女か」

 彼は見苦しい笑顔を私に向けた。

「お嬢さんよ、バカが移らねぇうちに、こっちへ来たほうが身のためだぜ」


 なによ、あなた、そんなに有名なバカなの!?

 私は思わずそんな表情で、すぐ横にあるキャットの顔を見つめた。

 キャットは私の視線にびっくりしたのか、青い瞳を丸くした。


「ほら、お嬢さんはお前といてもつまんねぇってよ」

 サリーマンがキャットを見下ろした。

 その顔は、お前のものは俺のもの、と言っている。

 キャットは弱々しく肩をすくめると、尖った鼻の際に光るピアスを指でこすった。


「そんなことは――」


「そんなことない!」


 私は思わず、キャットの言葉にかぶせて怒鳴った。

 このふてぶてしい男たちにからかわれるのは、もう御免。

 私はどっちといても楽しくない、でも、強いて言えば――。

「キャットのほうが、あんたなんかよりマシ! 1.5倍くらいマシ! どっかいってよ!」

 私の金切り声は、キーンと街に響いた。


 あースッキリした、後はよろしく。

 というようにキャットを見たら、どうすんだよやっちまったよお前、というような、なんとも困った顔がそこにあった。

 もしかして、まずかった?


「キャット」

 低い声がした。

 私とキャットがゆっくりサリーマンに視線を移すと、彼は頬をピクピク痙攣させている。

「教えてくれよ。お前のどの部分において、お前が俺よりマシなのか」

 どうやら、私は本当にやっちまったらしい。


 やにわに青ざめたキャットが、私の背中をサリーマンの方へ押しやった。

「なっ!? ちょっ、やめてよ!」

 私は慌てて彼の後ろに回ろうとしたが、彼もすっかりうろたえて、私の後ろに回ろうとする。

「俺の知ったことか。お前が言ったんだ」

「女を盾にしないでよ」


 すると、キャットは怒ったように私と向き合った。

「あのな、自分の尻は自分でぬぐえよ」

「あなたが言わせたようなものじゃない。手を出すのなら、最後まで責任とりなさいよ!」

「おいおい、何だその態度は!」

「あなたこそ何様! そもそも、私はあんたみたいなクズの女じゃないわ!」


 自分でも何を言っているかわからないまま、出るに任せて相手を罵った。

 すると、キャットの表情が凍りついた。

「何だって?」


 私はじろりとキャットを睨み、ゆっくりと言ってやった。

「あんたみたいな、クズで、臆病で、ラリってるバカの女じゃないって言ったのよ」


 それを聞くと、キャットの凍った表情は溶けて、今にも泣きそうな顔になった。

「お前、そりゃ言いすぎってもんだぜ」

 彼は取り繕うように私の手をとり、引き寄せようとした。

「なによ、気持ち悪い!」

 私はキャットの冷たい手を振り払う。


 一体何なのよ、この男は。

 助けてくれたと思ったらいきなり放棄、さらに泣きついてきた。

 相当イカれてる。


 キャットは悲劇的な声で、しかし、瞳にやらしい光を浮かべて、私にすがりついた。

「ついさっきまで、もっともっとって喘いでたじゃねぇか。俺のをしゃぶってさ――」


 バシッ!


 その嘘があまりにくだらなすぎて、同時に屈辱的で、黙らせようとするあまり手が出てしまった。

 キャットは面白いくらいよろけて、私を見つめた。

 その表情ときたら、初めて母親に叩かれた子供のようだ。

 だが、私はあんたの母親じゃあない。

「いい加減にして! 変態!」


 ふいに、目の端で影が動いた。

 私はそのときになって、サリーマンの存在を思い出す。

 サリーマンは、既に背中を向けて去っていくところだった。

「てめぇらの茶番に付き合ってられるかよ。キャットのお下がりなんざ御免だぜ」


 私は呆然として、ぶつくさ言いながら遠ざかる、岩のような背中を見つめていた。


 急に静かになった気がすると思ったら、自分が怒鳴っていないだけだった。

 キャットに視線をもどすと、いない。

 彼はサッサと道路を渡り、何事もなかったかのように歩いていく。


 走り出した私も、バカなのかもしれない。

 厄介事は去ったというのに、自らもう一度関わろうとしているなんて。


「ねぇ、待って!」

 キャットは振り向くことなく、ズボンのポケットに手を突っ込んでダラダラと歩いていく。

「待ってよ!」

 もう一度、今度はだいぶ近づいて声をかけると、キャットはぴたりと立ち止まった。

 彼の前に回りこむと、キャットは無表情に私を見つめた。

「クズで臆病でラリってるバカな俺に何か用か?」

 拗ねたような口調だ。

「それと気持ち悪くて変態だけど」


 私はちょっと閉口したが、考えていることを試しに言ってみた。

「あれはあなたが言わせたんでしょ? 私を助けるために」


 キャットは、少しの間考えるように私を見つめ返していた。

 そして、「だとしても、そこまで言われる筋合いはないぜ」とぶっきらぼうに言った。

 ――だが、その顔はにわかに微笑んでいた。


「ごめんなさい。イライラしてて、ほら、良くないことが続いたから」

 弁解しながら、私は確信した。


 この人は、バカなフリをしている。


 そう思ったら、途端に私の身体はガクガク震えだした。

「おい、どうした?」

「なんだろう、わからない」

 私は自分の身体を抱いて震えを止めようとした。

「寒いのか? いや、さては魔法が切れたな」

 そう言ってキャットはズボンのポケットを探り始める。

「オピアム? マリファナ?」

「麻薬常習者に見える?」

「ああ、アルコールか」

 思わず吹き出してしまった。

「そうじゃないわ。たぶん、すごく怖かったのよ」

 私がそう言ったら、彼はきょとんとして「あのサリーマンに、どっかいけって言ったくせに」と言った。


 私はキャットを睨む。

 彼は顔中を口にするかのような、実に愉快そうな笑みを浮かべた。


 キャットに勧められるがまま近くのコーヒーショップに入ると、私は喉がひどく乾いていることに気付いた。

 弾けるジンジャーエールをゴクゴクと飲み、ようやく私は潤いを取り戻した。


 だが、キャットに声をかけてくる若者たちや、彼と私を見る店の人たちの視線が居心地悪い。

 みんなが、キャットを知っている。

 そして、みんなが彼をどうしようもないバカだと思っている。


 それでもキャットは嬉しそうに彼らに手を振って、どうだ、俺の女だぞ、とでもいうようなしぐさをしてみせた。

 ちょっと心外だが、今日のところは許してあげよう。

 思ったより、悪いやつじゃなさそうだから。

 現に、私たちはカウンター席で、関係を否定しようもないくらい身体を寄せて座っている。


 彼は、年なら二十代――いや、三十代?

 たまに、まだ十代ではないかと疑うほど幼い顔に見える。

 年齢不詳な顔立ちだった。

 鼻も顎も尖っているが、目は優しいブルーだ。


「ねぇ」

 私は彼に尋ねた。

「なぜ野良猫(ストレイ・キャット)って呼ばれてるの? ホームレスだから?」

「知るかよ。家はある」

 キャットはホットミルクを慎重にすすっている。

「じゃあ、あなたの本名は?」


 すると、彼はおもむろに顔をあげ、目の前にいる恰幅の良い店主に尋ねた。

「ねぇボス。俺の本名って何だった?」

 店主は怪訝そうに片眉を上げると、尋ねられて迷惑だというような顔で、「さぁね。イカれた猫(クレイジー・キャット)じゃないか?」と無愛想に言った。

「だとさ」

 彼はそう言うと、ケラケラ笑い出した。

 私は肩をすくめる。

 本名は名乗りたくないらしい。

 だったらそう言えばいいのに、どうしてそうバカなフリをするのか。


「悔しくならないの?」

 私は思わずそう言った。

「何が?」

 キャットはホットミルクで舌を火傷をしたらしく、顔をしかめて言った。

「えっと、なんていうか……」

 なるべく丁寧に、相手を傷つけないように伝える術を考える。

 でも、すぐに無駄だとわかって諦めた。

「みんなからバカ呼ばわりされてるみたいだけど」


 あまりに歯に衣着せぬ言い方になってしまった。

 一瞬視線が集まったようなきがして、私は店内を見回す。

 みんな自分の食べ物や、新聞や、爪の掃除に夢中なふりをしていた。


 すると、キャットはホットミルクを諦めてカウンターに置き、不愉快そうに私を見つめた。

「失礼な女だな」

 やっぱり傷つけたらしい。

「ごめんなさい。でもあなたは強いし、私はあなたのこと――」


「いいか、俺はバカじゃない」

 私を遮ると、もっともらしくキャットは言った。

「だが、バカって言ったヤツはバカだ」

「……」

 店内に満ちる、失笑を押し隠した咳払い。


 あなた、今ものすごくバカなことを言ったわ。

 私はそう言おうと思ったが、その忠告は胸に秘めておいた。

 するべきじゃないのは明らかだったから。


「あの、それじゃあ」

 話題を変えよう。

「なぜ、私を助けたの?」

「なんでって」

 キャットはようやくミルクを一口飲むと、私を見てにっこり微笑んだ。

「何だか楽しそうだったから、混ざろうと思って」

 そう言いながら、腰に手を回してくる。

 腰にというか、もう少し下のほうに。


 私はキャットに熱々のホットミルクを掛け、ついでにジンジャーエールも掛けて、店を後にした。

 呆れた、この町の連中ときたら、どいつもこいつも。

 悲鳴を背中で聞きながら、私は心に誓う。

 こんなクソッタレの町、もう二度と来るもんか。

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