そして現在
暗い夜道を歩く男がいた。
おぼつかない足取りだが、本人は気にしている様子がない。
「ちょっと飲みすぎたかな?」
誰に?という訳ではなく、自分に対する感想が溢ぼれ出ただけのようなので、気にする事も無いだろう。
ありふれた夜の街で見かけるよくある風景だ。
その時突然、ソレは彼を襲う。
ある意味飲酒のルーティン?とも言うべき猛烈な吐き気は、理性や知性を超越し、意思とは関係なく現象として現れた。
彼にできることといえば、壁に手を付き、抗うことすら出来ずに受け入れるだけだ。そんな姿も、街ゆく人々にとって見ればただの酔っ払の日常と言う程度にありふれていて、誰も気にすることがない。
「あ、お土産汚れちゃった」
誰に見られている訳でもないのに、土産に付いたお溢れを払い、帰路につく。
ほどなくして住まいが見えるところまで帰ってくると、深夜に近い時間だというのに家の灯りがついていた。珍しい事があるものだ、と判断力の低下した頭で考えながら家に入る、すると居間には長年連れ添った妻が待っていた。夫の姿を見ると、彼女はソファーから立ち上がり
「お帰りなさい」
一言、声をかけた。ただその声は普段からは想像もできないほどかすれている。
今までに無い違和感を感じた彼が、何気なくテーブルの上に視線を落とした。その瞳に映ったもの。
不安や緊張は覚醒を促すのだろうか?さっきまでの酔っていた自分とは別人になったような気さえする。テーブルへと伸ばした手は微かに震えている。
「召喚」
表書きにはその2文字だけが記されていた。
用紙を開くと、記されていたのは魔王城の文字と日付。
圧倒的にシンプルな死の宣告、生還率ゼロの招集といわれる通告書の存在が彼の精神と心を傷つける。
まさか自分に?理不尽な紙切れに対して耐えきれず、感情の捌け口を探そうと視線を泳がせる。そんな彼の目が血の気を失った妻の姿を捉えた。すると何故か俺はこんな事で取り乱すような人間じゃない。不思議とそう感じ、意識をしないままこう言った。
「今まで苦労をかけてすまない。でも、これで少しはお前たちに楽をさせてあげられるね。よかった…」
通常、召喚者にはそれに見合った手当が与えられる。そこには召喚で発生する損害や収入などの手当が含まれていて、拒否できないかわりに納得のいく程度の支払いが行われる。勿論、召喚によって命を落とした場合には別途手当が支給される事になっているのだが、今回の彼に対する魔王城召喚に関しては、生還率ゼロ、ということもあって死亡手当の上に更に潤沢な補償を受けられるようになっている。これが原因で一時期「召喚婚」という、男女問わず召喚されそうな者と結婚をするのが良いという風潮が一部で生まれ、不謹慎にも「召喚される男女の見分け方」や「召喚される食生活 魔王城編」などの書物がベストセラーになった事もあった。
力のない表情の妻を見ていると、不意に子供の顔が頭に浮かんだ。
「ミリウの顔を見てくる」
残り僅かな時間で、あと何度我が子の顔を見ることができるだろう?そう思った彼が居間を出ようとノブに手をかけた。この時彼が思い出したように
「お土産あるから食べてね」
と言って妻に笑いかけた。
それを聞いた彼女が微かに微笑み、ゆっくりと腰を降ろすのを見届けた後、静かに居間を出ていった。