俺は想像でも彼女に振り回される
アヤメと別れた俺は、一人、駅の階段を登り改札を通りホームのベンチに座ると、どっと肩に疲れが押し寄せて項垂れる。
緊張と興奮でたった数時間がとても長く感じられた。
「帰って、寝よう。明日に備えないと」
ここから俺の記憶は、ほぼ失われ気づけばマンション内の自分の家の扉の前で立ち尽くしていた。
チカチカと点滅を繰り返す廊下の蛍光灯。今時シリンダーキーをノブに差し込み扉を開く。
築三十五年、オートロックもない古いマンションの一室が俺の家だ。
1LDKと一人で住むには十分だが、家賃が五万と破格に安いのもあって、即決した。
鞄を玄関に放り投げて、外したネクタイも床に投げ捨てる。ワイシャツの襟元を緩め、ベッドへ横になる。
相変わらず、天井の染みは人の顔に見えるが俺は気にすることはなかった。
明日はスマホをアヤメと二人で買いにいく。これはもう、デートと言ってもいいのではないだろうか。
ポケットからスマホを取り出して電話帳を開き、あ行の一覧を眺める。
“天使あやめ”
帰り際電話番号は交換していた。コールのボタンを押すか悩む。
(お礼を言った方がいいよな? でも、明日も会うのだし……)
「よし、無事に帰宅したか確かめるだけだ」と俺は電話をかける理由を作り、コールボタンを押した。
トゥルルルルル……トゥルルルルル……トゥルルルルル……
「出ないな……もしかして帰り道に何かあったのか?」
俺は心の中で激しく後悔する。やっぱり、送っていけば良かったと。もし、彼女が暴漢にでも襲われたなら……想像しただけで俺は血の気を失う。
視界が歪み、気が気じゃない俺は、本棚の上に置かれた置時計を見る。
「二十一時二十分……か。電車はあるな」
俺はスマホと家の鍵だけを持ち急ぎ家を出た。最寄りの駅まで必死に走る。
帰宅するサラリーマンや、OLが時折振り返って俺を見てくる。
駅の階段を一つ飛ばしで駆け上がり、改札を通るとエスカレーターを駆け降りて丁度来ていた電車へ乗り込んだ。
わずか二駅が、長く感じて早く着けと願う。
扉が開き俺は再び走り出す。改札を通って階段を降りると彼女と別れた場所へ向かう。
しかし、ここに来て俺はようやく事の重大さに気づく。
アヤメの家がわからない。
俺は無我夢中で、彼女が帰って行った方向へ走る。
これが唯一の手がかり。
彼女が言っていたように、街頭もあり、そこそこ人通りもある。
暗く街頭の無い脇道等も調べるが何かあった形跡は無い。
トゥルルルルル……トゥルルルルル……ガチャ
もう一度アヤメに電話すると、今度は出てくれた。
『もしもし……とおるさん?』
「よ、良かった。無事だったんだね」
『はい? 私は何も無いですけど』
「い、いや。その……電話に出なかったから……何かあったのかと」
『あ、ごめんなさい。丁度お風呂に入ってまして……』
「お風呂……」
物凄く恥ずかしい。とてもじゃないが、駅にまで戻って来たなんて恥ずかし過ぎて言えない。
「あ、あはははは。いや、無事ならいいんだ。それじゃあ……また明日……」
『あ、とおるさん。待って! その……心配してくれて、ありがとうございます』
「う、うん。それじゃ、おやすみ」
『おやすみなさい』
電話を切ると通りの真ん中で力なく頭を抱えて座り込む。
「帰ろう……」
俺は立ち上がると、とぼとぼと肩を落として帰宅した。
◇◇◇
帰宅すると急に体が冷えてきた。浴槽に湯を張る為に給湯のスイッチを押す。
棚の上の時計を見ると日付が変わるまであと数分。
お湯が一杯になったことを告げる声が聞こえると、俺は部屋に着ている物を全部脱ぎ散らしながら、全裸になり浴槽に入る。
「ふ~、あったけぇ~」
ふと、浴室の天井を見上げると、いつもの染みは少し大きくなっておりこちらを睨んでいるようにも見えたが、俺は気にする事はなかった。
明日の事を考えると、年甲斐もなく胸が高鳴る。たかだか、スマホに機種変をするだけ──。
「あっ……あああああぁぁぁぁぁぁぁ!!!!」
浴槽の中で勢いよく立ち上がる。彼女に出逢ってから失念だらけだ。
俺はアヤメが未成年であることを思い出す。機種変更するのに親の同意書が必要な事に。
多分彼女は、親にスマホに変更する事を話すだろう。同意書なんて家にあるものじゃないし、そうなると……明日は休日、アヤメの親も休みだろう。
待ち合わせ場所に行ったら、親同伴──なんてことも。
俺は慌てて風呂から上がり体を中途半端に拭きながら、寝室に向かい棚を開けると通帳と自分のスマホ明細を取り出す。
(俺のスマホ代で大体月二万……万一のことも考えないと)
様々なケースを考え備える。
万一、彼女が親に話さなかったとき。
楽しみにしているアヤメが、親の同意書無しでガッカリした表情に変わるのを想像しただけで、やるせない気持ちになる。
まだ話をしただけのJK。これから彼女になる希望も大きくは持てない。だけど、俺はアヤメが悲しむのを想像だけでも耐えられなくなっていた。
(万一に備えて俺の印鑑と通帳も持っていこう)
新規契約も考え、通帳と印鑑を鞄にしまう。
俺は冷えを感じて一つくしゃみをすると、再び浴室へと戻るのだった。
◇◇◇
瞼を開き棚の時計を見ると、まだ六時を回ったところだった。結局、風呂に入り直したあと、俺は寝床に就いたのだが、興奮からか気が昂って寝付けず、眠ったのは二時間程度。
二度寝を考えるが、遅刻する訳にはいかない。
「起きとくか」
俺はすぐに洗面台に向かい顔を洗い、眠気を覚ます。冷蔵庫を開き、飲みかけの麦茶のペットボトルを取り出すと一気に飲み干して、芯から冷やすことで眠っている身体を無理矢理起こす。
もしも、親が同伴だったら……そう考えるとスーツの方がいいかもと思ったが来るとも限らない。
身綺麗にしておけばいいかと、スラックスに、付き合いで購入してしまったアニマールの縦縞のワイシャツに袖を通して洗面台に向かう。
自分の強面の顔も相まって、これで金のネックレスでもしようものなら、どっからどうみてもファッションヤ◯ザ。
自分も会ったら道を譲ってしまう。
しかし、これくらいしかブランド物など持っていない為、せめて前髪は残しておこうと軽く整髪料を付ける程度に留める。
駅に向かい電車へ乗ると、ドキドキと鼓動が高鳴り妄想が止まらない。駅で待っているアヤメを想像する。
麦わら帽子にロングの淡い緑色したワンピース──いや、もうじき冬にそれはないかと、改めて妄想を膨らます。
ファー付きのロングコートに身を包み、少し大きめのサングラスに指には大きな宝石の指輪を幾つも付ける──。
(どこのセレブだよ!? しかも、JKの格好じゃない)
一人乏しい想像力にツッコミを入れニヤニヤしている俺の姿を見て、周りの乗客が怪訝な顔をしていることに気づいていなかった。
アヤメの最寄り駅に到着した俺はスマホの時計画面を見ると、待ち合わせ時間まで、まだ一時間近くある。
随分早く来てしまったと改札を抜け、階段を降りていくと、そこには、意外な格好をしたアヤメが既に来ていた。