私を一人にしないで!
これは、彼女から後々聞いた話だ。
大怪我を負い入院したアヤメは、この日の夜、夢を見たらしい。
高い絶壁の端に佇む彼女。下から上がってくる風が妙に生々しく恐怖を煽ってくる。
後ろに退きたいが足が動かない。
恐怖で足が竦んでいる訳ではなく、証拠に摺り足で前には進むという。
つまり、落ちるしかない。
躊躇う彼女は、不意に誰かに背中を押される。
バランスを崩し振り返り見たのは、俺だったらしい。
「いやいや。俺、そんな酷いことしないよ」
慌てて否定する俺を見て、アヤメはクスッと小さく笑い首を横に振る。
夢には続きがあった。
落ちていく彼女は、いつまで経っても地面に着かない。
その間、彼女が見た景色は、落ちていく岩壁などではなく、言葉では言い表せない明るく見たこともない景色。
落ちていく恐怖を吹き飛ばすほど、幸せを感じる景色。
気づけば、隣にはアヤメの手を握った俺が居たという。
そこで彼女は目を覚まし、ベッドの隣にいた俺を見て安堵したらしい。
夢が何を示しているのかは、わからない。けれども彼女は「とおるさんが、側にいてくれて良かった」と優しく微笑みながら言ったのだった。
◇◇◇
一晩中、俺はアヤメの汗を拭い、その左手を離さずにいた。俺の手は、無数の爪痕から血が滲み出ていた。
早朝、痛みが治まったのか眠りについたアヤメ。
起こさないように、口に咥えていたタオルをそっと外してやる。
「そう言えば、寝顔を見るのは初めてだな」
ずっと俺の側に居てくれたアヤメであったが、俺が眠るまで彼女が寝ることはなく、朝起きた時には既に目を覚ましていた。
小さな吐息を吐く唇は、体調が優れないせいか、いつもの薄桃色ではなく少し白っぽい。
静かに扉が開く音がして、顔を向けると卜部が「話がある」と病室の外を指す。
俺は首を横に振り断る。今は、アヤメの側を離れたくなかった。
せめて彼女が目を覚ますまではと、頑なに拒む。
諦めた卜部は、俺の側に来てアヤメを起こさぬように小声で話を始めた。
「アヤメくんから、キミには黙っておいてくれと頼まれたことがある」と言われて、俺の眉はピクリと反応した。
卜部は、アヤメから、くれぐれも俺には内緒にしておくようにと前置きに、今までの任務態勢の変更を申し出たらしい。
まずは、任務要請は、なるべく学校に行っている昼間にして欲しいということ。
任務の度に怪我を負うが、俺には教えないこと。
移動時間すら惜しい為に、遠出の場合はヘリを用意することの三つ。
毎日のように学校へ行っている間に、任務があった事など知らなかった。
怪我を押してまで俺の側にいたことに気づいていなかった。
彼女のヒトから受ける痛みは、俺の比ではない。なのに、いつも笑顔で側に居てくれていた。
俺が握るその手は、俺なんかと比べてずっと小さく、透き通るような白い肌で、すべすべしている。
俺は、そっと両手で彼女の手を包み込むように改めて握る。
彼女は、こんな小さな手で一体どれだけの痛みを抱えてきたのだろう。
細身で華奢で小さな両肩で、一体どれだけの重責を背負ってきたのだろう。
孤独で耐え抜く彼女を想像すると、自然と俺の頬には熱いものが流れてきたのだった。
◇◇◇
窓の外を見ると昨日の雪が嘘のように晴れ渡り、外側の窓枠に積もっていた雪もすっかり溶けていた。
壁の時計を見ると、既にお昼を回っている。
「とおる……さん」
声が聞こえ俺は壁からアヤメに目を移す。そして「おはよう」と伝えた。
寝起きで虚ろだったアヤメの目が徐々に大きく開いていく。
「ずっと……握っていてくれたのですか……?」
一晩中握り続けていた手を見て、俺はじんわりと自分の手汗を感じ、慌てて離そうとするが、彼女の手がそれを許さなかった。
「とおるさん……ずっと、離さないで……」
彼女はそう言うと、再び目を瞑り眠りについた。
「ああ、離すもんか。ずっと側に居てやる」と寝ている彼女に伝え、俺は心に一つの誓いを立てた。
◇◇◇
アヤメが完全に目を覚ましたのは、夕方を過ぎた頃であった。
「あっ……熱いっ、熱いよ。とおるさん!」
「ご、ごめん。つい、勢いよくしてしまった」
「私なら大丈夫です……その、もう少しゆっくりして頂けると、嬉しい……な」
「おーい。外まで聴こえてきたぞ。なーに、やってるんだキミ達は」
病室に入って来てから、わざとらしくノックをして俺達に気づかせた卜部は、呆れるような目で見てきていた。
俺は、今、利き腕が使えず食べづらそうにしていたアヤメに、食事の補助をしている。
つい、冷ます前に勢いよくおかずの肉じゃがの芋を、アヤメの口に突っ込んでしまったところであった。
「全く……看護師が病室前で、入るべきかどうか躊躇っていたぞ。艶かしい声がするってな……」
卜部に言われて初めて、俺達の会話が勘違いさせそうな会話だったと気づいて、二人して顔を真っ赤になる。
「アヤメくんももう峠は越えたんだ。四弐神くんも、そろそろ自分の病室に戻れ。キミも怪我人なんだぞ」
俺とアヤメは二人して唇を尖らせて不満を露にする。卜部の視線が俺と繋いで離さないアヤメの左手を見ると「仲がいいことで……全く、夜には戻れよ」と病室を出ていこうとする。
部屋を出る直前に「今度、松島も連れてくるか」と不吉な言葉を残して。
松島に来られると、何をされるかわかったもんじゃないとアヤメも同意して、俺は渋々自分の病室へと戻る。
ベッド横の転倒防止の柵に掴まりながら、転がるように車椅子からベッドへと移り、天井を見上げる。
彼女が望んでいるのは、仲間であって恋人ではない。
俺はたとえこのまま恋人へ昇格出来なくても、その見込みがなくなっても、アヤメの側に居続けると改めて誓いを繰り返し呟いた。




