私、アレがいいです! part1
最後の仕上げに事細かな説明で終えた、松島によるヒトに対する授業。ついていくのがやっとで、渡された資料を丸暗記しておくように、宿題まで出された。
窓の外を見ると、すっかり日が落ちるのが早くなり、もう空に暗幕がかかり始めていた。
「さて、私は帰るかな。資料しっかり覚えろよ、しにがみくん」
壁の時計を見ると、もうそろそろアヤメが戻ってくる時間帯だ。松島が居ると余計なことを喋りそうなので、アヤメと鉢合わせは避けたい。
中指一本で眼鏡を上げレンズを光らせる、いつもの仕草を見せると、松島は両口角を吊り上げてニヤリと笑う。
「それほどアヤメくんが、好きなのかね? 彼女は、まだ十七歳。キミとは十歳も年下だ」
「年は関係ないだろ。仕方ないだろ、一目で惚れたのだから」
「なるほど。アヤメくんの外見が好きなのか」
「それは切っ掛けに過ぎないだろ。今じゃ内面も含めて好きなんだよ。大体なんだ、いきなり!」
唐突の話題に戸惑う。しかし、当然というか、松島に俺のアヤメに対する気持ちがバレているのは、何か癪だ。
「ふむ。それでは、私がしにがみくんの事を好きだと言っても無駄か」
「はっ? ……えっ?」
「簡単に動揺するところを見ると、私にもチャンスはあるのかな? 気をつけた方がいいぞ、アヤメくん」
松島が俺のベッドから死角に入り扉を開く音がする。そして病室内に入ってきたのは、アヤメであった。
「あ、アヤメ! ちがっ……違うから! 驚いただけで、動揺したわけじゃないからな!」
唐突におかしな話をすると思った。恐らく松島は扉の向こうにアヤメが居るのを気づいていたのかもしれない。
最後の最後まで松島は、俺を弄び波風を立てて帰っていた。
長い沈黙。聞こえるのは、窓を伝って結露が下に落ちる雫の音がするのみ。
アヤメは丸椅子に座って、こちらを見ながら黙っている。
現実、体はまだ動かせない俺であったが、心の中では江戸時代で使われた石抱という拷問状態。
三角形の板を並べた台の上で正座させられ、石の板を時間が経過する度に一枚ずつ乗せられる気分。
「とおるさん……」
ようやく喋ってくれた時には、既にアヤメか来てから一時間近く経とうとしていた。
気まずい空気に押し潰されそうだった俺は、一度大きく息を吸い込み吐くと、アヤメと視線を合わせる。
こちらを見てくるアヤメの澄んだ青い瞳。
それは、初めてアヤメを見かけた時に見た物憂げな表情で電車の窓の外を眺めていた時と似ていた。
「とおるさん……とおるさん……」
アヤメは俺の名前を繰り返し呼ぶ。何か言いたそうではあるが、上手く言葉が纏まらずに、ただ名前を連呼してくる。
俺の方もどうすればいいのか、わからずに戸惑う。捨てられた仔犬のように、俺を見つめて名前を呼ぶ。
わかったのは、アヤメが今不安がっていることくらい。
俺は、彼女に向かって手を伸ばす。これが正解なのかは、わからないが、入院してからというもの、常にアヤメは俺の手を握ってきた。
俺を案じる意味もあるのだろうが、俺が手を握り返すとほっとしたように、笑顔を見せた。
もし、これで不安がなくなるなら、アヤメ、握ってくれ、と。
アヤメは、自分の太ももに手を乗せていたが、少し震えながら手を、ちょっとずつ上げていき、俺の手を取ってくれた。
俺は目を大きく見開いた。
今までは、俺の手を包み込むように握っていたが、今は俺の指の間に自分の指を絡ませてきたのだ。
俺が、そのまま握り返すと、彼女は優しく微笑を浮かべた。
◇◇◇
いつもの表情に戻り明るい笑顔を向けてくるアヤメは、ぽつりぽつりと、学校での生活を話してくれる。
これは珍しいことで、アヤメは学校の事を話したがらない。
というよりかは、話す事が少ないのだ。
普段は、「学校、どう?」と聞くと何の授業をしたとかを話す位で友達やクラスメイトの話が出た事がなかった。
「あの……私、初めてクリスマス会に誘われました」
「そう……えっ、えええっ! く、クリスマス会!?」
そうか、もう一ヶ月も経たずにクリスマスか。
問題はそこではなかった。
「そうか……クリスマス会か。良かったね」
「はい……でも、お断りしました。用事があるので……」
俺のこめかみがピクリと動いたのが感じられた。
クリスマスに用事なんて、思い付くのは一つしかない。
「へ、へぇ……えっと、用事っていうのは……アヤメはクリスチャンじゃ、ないよね?」
「違いますよ」と、きょとんとした顔でアヤメは答える。
俺の内なる心は、現在台風襲来だ。ミサの可能性は消えた。となると家族……いや、アヤメには両親は居ないと前に卜部が話をしていた。
そうか、卜部だ。
「その、クリスマスは卜部と……」
「卜部さん? 卜部さんなら、多分仕事だと思いますよ」
卜部の可能性も消えてしまった。だとすれば、松島……は、ないな。クリスマスって柄じゃない。
ダメだ。心が折れそうになる。そうだよ、俺は勘違いをしていた。いくら仲良くなったとしても、俺は一度アヤメに振られている。
僅かな可能性を信じていたが、いつの間にアヤメにそんな相手が。
考えられるのは、学校くらい。
そうだ、アヤメも年頃なんだ。
我慢は体に悪い。このままモヤモヤした気持ちは、すぐに晴らす必要がある。
「アヤメ!」
「はい。なんですか、とおるさん?」
「俺と、俺と一緒にクリスマス過ごしてくれ!」
「あ、気持ちは嬉しいですけど……ご免なさい!」
二度目の撃沈に、立ち直れそうにない。やはり、アヤメの中では、俺はヒト殺し仲間に過ぎないということなのか。
多分、今の俺は死んだ魚のような目をしているのだろう。
「あの……クリスマスは、多分出動するので」
「……出動?」
「はい。クリスマスは、ヒトの出現が多いので、毎年」
俺はなるべく冷静を装いながらも、心の中ではカーニバルが開催されていた。
良かった──クリスマスデートとかじゃなくて。
しかし、クリスマスにヒトの出現が多いとは、一体。
『恨みや嫉妬の負の感情がうねりとなって集まり人を終える』
卜部の言葉を思い出す。そして、クリスマスという日本独特の習慣に、思わず納得してしまった。
その日世の中は、幸せな気分と嫉妬の炎で二分される日だということに。
「だったら、終わったら……ケーキ、一緒に食べよう」
「ケーキですか? はい! だったら、私、アレがいいです!!」
「アレ?」
「こんな、こんな丸いの」
アヤメは嬉しそうに手を使って形を示す。それは、大きく円を表す。
「ホールケーキか!」
「はい。私、食べたことないんです」
「味は、変わらないと思うけど……」
キラキラと瞳を輝かせてこちらを見てくるアヤメは、まるで幼子のようで。
俺は食べきれなくてもいいかと、アヤメの希望を叶える事に決めたのだった。




