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かようびのよる  作者: 天宮翡翠
白鳥の踊り子
9/10

雪の如くも美しい

以来 千年以上です その恋ゆゑの狂ひ女が そのロマンスを夕風に 呟いてから。

──────────中原中也『オフェリア』



恋をした。

目を奪われた、と言った男に、眉をひそめた覚えはある。

馬鹿馬鹿しい。鳥が好きなのか女が好きなのか、ハッキリしろと、ひどく頓珍漢なことを考えた覚えもある。

湖が静まり返って、高慢ちきたちも呆気にとられたふうに、お得意の踊りをやめてしまった。

─────愛ではなく、恋だから。

男はそう、困ったようにはにかんだ。


昔昔の、お話。

その美しさのあまり、悪魔に姿を変えられた王女が居た。

彼女は自分の容姿の美しさを気にしたことは無かったが、白鳥にされてしまっては、そうも言っていられなかった。

リングを嵌める手さえ無く、着飾れるものだって何も無い。

哀れんでいるふりをして、その実自分より不幸な者が存在すると確かめているだけの、白鳥の精霊たち。彼女たちだけが、私を形ばかり哀れんで、その白い羽を傲慢に、天へと伸ばす。

ああなんて、私は不幸なのかしら。

そしてどうして、私が不幸なのかしら。

あの悪魔めに報復のひとつも出来ずして、人間よりずっと早く死んでいけというのか。

冗談じゃない。

私は悲劇の王女になどならない。誰かの笑いものにも慰みものにもならない。

───────踊りましょう、現を忘れて。

───────歌いましょう、せめて、貴方のために。

けれど事実、私にかけられる甘い言葉の数々は、あの悪魔そっくりの、諦めさせたいような声ばかりだった。

ああ、忌々しい。その煩い口を閉じなさい。

まるで私が、馬鹿みたいではありませんか。

慰めるふりをするくらいなら、あの悪魔の首の一つでも持っておいで。この役立たず。

夜だけ本当の姿に戻れたところで、この悲しみも苦しみも、広がるだけだというのに。


───────「綺麗なひとだ」。

ある月夜の話だった。その一言を携えて、貴方は愚かで哀れな私に、歩み寄った男がいた。そう、それが、はじまり。

ごめんね、って笑うのです、あの男は。

「君が苦しんでいると分かっているのに。何故だろう、どんな君でも、君だから美しいんだ」

キザったらしい台詞に、薔薇を砂糖でまぶしたような声音と眼差し。

女なのか、鳥なのか、好きなものくらいハッキリなさいよ。

私は本当はそう毒づきたかったはずなのに、なんだか運命に出会ったみたいな、頭を金槌で叩かれたように、ぐらりと視界が揺れて。

「…………そう」

子供みたいに、硝子玉を見つけた程度ではしゃぐようなあの男の笑顔が、離れなかった。


恋、だったのだろう。愛、では無く。

気がつけば、そういえばあの男はどうしているんだろう、とか。

今夜も来るのかしら、とか。

あの人がいない湖も、あの人に好きだと言って貰えなくなる自分も、嫌いで、怖くなってしまった。

騙されないと思っていたはずなのに、こんな姿で、こんな心で、誰かに愛してもらう資格なんて、無いと思っていたのに。

私だから美しいと言った、あの男が、好きだった。

それが、永遠だと思い込んでいた。


彼の恋が、つまるところは美しい女に向けた愛だったということを、私はそのあとすぐに、知ってしまった。

悪魔はただ一つ、私をかつての美しい王女の姿に戻す術を、男に与えた。

それは、『誰も愛したことの無い男に、愛してもらうこと』。

だから男はこう誓った。『誰も愛したことのない僕が、君を愛している証明をしよう』と。

だから信じて、男に言われた通り、嫌いな翼をはためかせて、湖の見渡せる王宮の庭に、降り立った。

あんな姿になってから、はじめて誰かのことを思って顔を上げた。

なのにあの男は、あわや私に成りすました悪魔の娘に、『恋をした』と言った。

本当は醜いのに。ただ美しく見えるよう、魔法をかけているだけなのに。

──────結局あの男は、顔の美しい女が、好きなだけだった。

けれど、男が白々しくも知らなかったのだと言い訳し、あわや心中しようなどと抜かした時には、あまりにおかしくて笑ってしまった。


そうして身を投げるように男が飛び上がった時、私はするりと白鳥に姿を変え、裏切った男の戯言を裏切って、ひとり惨めに、来世の愛を信じることなく命を経った。

お前のような男と共に、死んでたまるものか。

所詮人間なんて、嘘つきばかりの醜いものじゃない。

私にかけられた呪いは、白鳥になって誰からも愛されない呪いではなくて。

白鳥になったから、誰も愛せなくなる呪いだったのだ。

溺れるような恋をした。

結局、私も最後は溺れ死んだようだけれど。


涙が一粒、湖に波紋を広げた。

羽毛に顔を覆われた踊り子は、俯いていた。

おれは、彼女に見せてもらった彼女自身の記憶を見た。

『幸せな結末が欲しい』と彼女が願うのも、無理はないだろう。

信じた全てに裏切られ、己の心を踏みにじられたような感覚は、まだおれには理解できないけれど。

それは一体、どんな絶望だったろう。

輝きと、後悔と、それから憧憬。

彼女が感じた美しいもの、全てを混ぜ合わせて出来上がったものが、結局は『幸せ』でなかったのだとしたら。

彼女は一体、どうやってあの耽溺から抜け出せたというのだろう。

一糸乱れず結い上げられた艶やかな黒髪が、はらり、と一房こぼれ落ちる。

「……出来るんでしょうね、夢見の魔女」

確認するような、懇願するような、おかしな響きで踊り子はそう言った。

夢見の魔女、と呼ばれたナーサリーは、こてんと小首を傾げる。

「話を書き換えることは出来る?」

何の感情も伺い知れぬ声で、ナーサリーはそう言った。

バッと顔を上げた踊り子に、「でも?」と彼女は続ける。

「アンタはアタシに?何を差し出せる?」

白灰色の髪が、するりとナーサリーの胸元まで流れ落ちた。

その言葉に、あんなに強気だった踊り子も、閉口する。

「踊りと?美しさと?それから?」


「アンタに?何があるの?」

そのあまりにも残酷で純粋な問いが、踊り子を貫いたふうに、おれには見えた。

これまでナーサリーが、面と向かって対価を要求した場面を、おれは見たことがない。

オオカミ少年には、その全てを思い出せるよう木の葉の眠りを与えた。

人魚姫には、本当の願いを確かめてもらうために、水底へと誘った。

首なし騎士には、その執着を拒むだけの、正当な理由を教えた。

そうやって何かしら、必ず助言とも取れる何かを与えていたナーサリーが、どうして今回に限って、こんなにも冷酷なのだろう。

おれにはそう見えるのか、とマスターは言った。

ナーサリーの顔がガスマスクに覆われているように見えるのは、おれだけだと。

その裏側には、一体何が───────。

「言ったでしょ?」

質問するような独特の語尾で、ナーサリーは再び口を開いた。

「アンタはホントに?アンタを分かってるの?」

踊り子が息を呑む音が、はっきりと店内に響く。

(ああ、そうか)

おれは僅かに止まっていた呼吸を、再開した。

ナーサリーは、意地悪を言っている訳では無い。勿論取引である以上は、踊り子にも対価を提示する義務がある。

これまでナーサリーが面と向かって対価を要求してこなかったのは、既に対価を得ていたからではないのか。

「……本当の願いを思い出してもらうことが、対価なんだ」

おれはそう、誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。

目に見える形で、対価が存在している必要は無い。

彼女が『見合った対価である』と判断できれば、それで良いのだ。

客が願う最後の夢を叶える代わりに、彷徨える客たちの本当の願いを受け取る。

『思い出す過程』が、対価なのだ。

だから、踊り子が本当の願いを思い出さないと言うのなら、別の対価を要求する他ない。

「……幸せ以外に、何を望めっていうのよ」

いつになく弱々しい声が、踊り子から発された。

ナーサリーもマスターも、沈黙している。

「溺れるほどに愛して、恋した何もかもに裏切られて。だけど大団円を望まれた私が、そんな結末は願い下げだと思ったから、こんなところまで逃げてきたのに。私の思いを、貴方が否定する道理なんてどこにもないじゃない……」

悔しい、悲しい、助けてほしい。

どうすれば良かったのか、教えてほしい。

踊り子はそう、うわ言のように続けた。

おれはグッと、唇を噛み締める。

「……幸せになるって、どうやってですか」

彼女の過去を見たおれが、はじめて彼女にはなった言葉も。ナーサリーのものと大して変わらないほど、酷いものだった。

ゆるゆると、踊り子が頭を上げる。

「あなたにとって、何が幸せですか。何が不幸せですか。……あなたはどうなれば、あの結末を良しと言えたんですか」

暗闇のような雰囲気を纏った店内に、ぽつり、ぽつりと花のランプの灯りがともった。

そうして綿毛のように、ふわりと灯りが浮上する。

「笑って許せなんて、言えません。あなたに踊れと与えられた筋書きは、決して許容できるものではなかったはずです」

でも、だから。

もう一度なんて出来なくても。

「でもおれは、あなたがあの人と過ごした時間が、間違っていた醜いものだなんて、思わないから」

踊り子の感じた美しいものが。愛して恋したものまでも、偽りと言わせないために。

「彼の手が届かない、どこか遠くへ渡る前に。あなたがあなたを愛せるように、なってほしい」

これまでの客人たちに、教えてもらった。

家族のあたたかさも、焦がれるほどの恋情も、罪を背負う強さも。

でも彼らは一度だって、自分が自分として生きることを、受け止めなかったことはない。

物語を書き換えて、彼女を幸せにしたところで、それが何だ。

はたして彼女は、そんなものが幸せだと思えるのか。

上辺だけの幸せというのなら、それこそ元の悲劇よりずっと酷い。

「私が私を、愛せるように……」

どんな結末でも、また前を見て歩き出せる勇気を。彼女に見せてみたい。

マスターがカチン、と歯を噛み合せる音がした。

「私どもには、お客様のお心を全てお察しすることの出来る魔法などありません。けれどそう、彼の言うように、もしもあなたがもう一度、あの殿方を信じたいと仰るならば。許せずとも、また歩き出そうと仰るならば」


「当店は必ず、お客様の望みを叶えましょう」

踊り子は、しばし沈黙した。

けれど、やがて面白そうに、ため息混じりの小さな笑いを零す。

「分かりゃしないのに、叶えるですって?おかしな話ね。貴方たちの言葉も全部、夢幻かもしれないってのに」

ああ、でもそうね。と、踊り子は肩の力を抜いた。

「私、どうしようもないほど、あの男のことが好きだったんだわ」

ナーサリーは、右足を軽く引いて、つま先を床に打ち付ける。

とんとん、とノックするような調子で魔法をかければ────ナーサリーを取り巻くように、つま先から波紋が生まれた。

『その涙は雨音に?その微笑みは草花に?カラスがほうぼう飛んでって?子らの微睡む窓の下?踊れ、踊れ?白花の音に?唱え、唱え?春の風に?』

あいもかわらず感情の無い声で、まるで子供が歌うようにそう言えば、辺りは玉のような蓮を咲かせた湖上に変わる。

「羽を伸ばして?」

テーブルも椅子も無くなった店内で、無機質に言った。

「今夜かぎりの?夢の宴?」


ぶわり、と彼女の顔を覆っていた羽毛が、空を舞う。

艶やかな黒髪と、初雪のように白い肌。

ほのかに色づく頬と唇、澄み渡るような碧眼の美しい女性が、そこに居た。

ああ、これが。あの人が恋をしたと言った、美しい白鳥の素顔なのか。

確かにこれほど美しいなら、真似でもしないかぎり、奪い取れるはずもなかろう。

あの湖でさえ踊らなかった彼女は、ゆっくりと、腕を伸ばした。

「美しいひとだ、悪魔に呪われてしまうほどに」

マスターの穏やかな声が、頭上から降ってくる。視線はずっと、踊り子へと向いていた。

「けれどその名の哀れさこそ、彼女の本質なのだろう」

全て飲み込んでしまいそうなほど大きな骨の口を開け、マスターは囁いた。

『オフィーリア』、と。

踊りを終えた踊り子、オフィーリアは、その後静かに旅立った。

灰色の霧が漂う停泊所へと見送り、結局何も飲食していないままだったか、とおれはため息をこぼす。

「ノアくん、お疲れ様」

マスターの朗らかな声がおれを労い、彼は俺の肩に手を置いた。

「助かったよ、君のおかげで彼女も救われたはずさ」

笑っているのかは分からないが、その言葉に少し安堵する。少々不躾の過ぎる物言いであったことは、否定できないのだ。

「君の方舟は、おとぎ話よりずっと多くの者たちを乗せることが出来るようだ」

うんうん、と満足そうに頷くマスターに、おれは小首を傾げる。

「……方舟?」

誰かを乗せられるようなものを持っている覚えはないのだが。

相変わらずこの喫茶店────ひいてはこの森に住まうものたちは、よく分からないと、おれは思ってしまった。

愛してあげて、と。囁かれた。

出来ようはずもない。だって私は醜くて、愚かで、死んでしまうほど哀れだから。

けれどそう、もしも。

もしも私が私を愛し、私の愛する私を、あの男が愛してくれるというのなら。


羽をはためかせながら、私は霧をかき分けた。

そうして見える、睡蓮の輝きに。

そうして聞こえる、鐘の音に。


誓って欲しい。愛そうと。

私があなたのために摘んだ花を、受け取って。

今度こそ偽りなく、来世でも愛してくれると未だ言うのなら。

その時こそは、貴方をその耽溺からすくい上げ、白鳥しか愛せない哀れな男に、してあげましょう。

夜が開けるまで、あなたのために踊りましょう。

──────愛ではなく、恋だから。

「今日は少しばかり、意地が悪かったね」

面白そうにそう言うマスターは、停泊所に佇んでいた。

傍らには、『夢見の魔女』と囁かれる不気味な少女が居る。

彼女が手にした宝石が、灰色の海に輝きを放つ。

今度のそれは、薄紫。純白とも見紛う、美しい淡い色だった。

ナーサリーはおもむろに、己の顔に手を当てる。そうして小さく、項垂れた。

おや、とマスターはその様子を見下ろす。

普段はここまで感情の動きは無いのだが、あの方舟の船頭に影響されたのだろうか。

「─────アタシは何も分からない?」

ガスマスクのせいでくぐもった声が、端的に言う。

彼女は宝石を持ち上げ、口元にあたる場所へと、それを押し当てた。

「だからなりたい?本物に?」

カーン、カーンと、死神たちの合図が響く。

そろそろ死神が起き上がって、渡し守の仕事を始める頃合だ。

『本物』たちとの間に、ナーサリーとマスターが交わした約束は、三つ。


一つ、回収出来ずにいる魂を、導くこと。

二つ、失われた魂を、呼び戻すこと。

三つ、上記二つを一定数達成した場合、従業員を『本物』に変えること。


紛い物の魔術師と、謎めいた魔女、それから方舟の船頭。

一体どんな、『本物』にしてくれるのだろうか。

マスターは、ちりん、と呼応するように銀の鈴を鳴らした。

「今宵は、ここまで」

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