睡蓮の湖
人の傷を笑うのは、傷の痛みを感じたことのないやつだ。
──────────ウィリアム・シェイクスピア
白い羽がひとひら、湖に波紋を生んだ。
常闇の森、明けない夜の空。
虚空に響く、鋭い翼のはためき。羽を落とした水面に、震えるような脚がついた。
月光が冴え冴えと、遥か地上を照らす。
鳥は美しく翼を広げ、一身に輝きを浴びた。
星のひとつも輝かない、恐ろしいほどの静寂。
鳥は、その翼を白く細い腕に、変えた。
◇
魔術師。
おとぎ話の魔法使い。尋常ならざる力を、『故意的に』行使することの出来る逸材。
世界の害悪で、本来ならば存在することすら許されない。
だからこうして、“助けてきた”。
鹿の骨を頭にいただく珍妙な紳士は、そう胸中で呟いた。
喫茶店«Tuesday night»は、未開の森で、火曜日の夜のみ開く、『夢見の店』。
灰色の霧がけぶる停泊所は、彷徨える客をあちら側へと渡す、唯一の道だ。
«Tuesday night»の役割は、二つ。
一つ。人ならざるもの、或いは人であったものが、死んだことや迷っていることを忘れ、あてどなく彷徨っている場合、これをただちに保護すること。
一つ。可能であれば、保護した魂を死神に引き渡すこと。
────────その際の引き渡し方は、特別に不問とする。
それが、停泊所を駆けていく客たちを接待していた、真実。
飲食を提供しているのは、そちらの方がより警戒心を解くものだということと、単に趣味の延長戦と言ってよかった。つまり、対価は提供物にあるわけではない。
ふむ、と紳士は顎に手を当てた。
少し前、冬頃だったろうか。一人の執着に取り憑かれた首無し亡霊が、この店を訪れた。
彼の望みは、少しばかりこちらの都合が悪かったこともあり、万全に叶えられたわけではない。
しかし、つい数ヶ月前から雇うことにした、人間の青年によって、彼の心は晴れたらしい。
頭部だけ消えた、銀の騎士の甲冑をしげしげと眺めつつ、紳士は傍らであくせく働く青年の姿を思い浮かべた。
夜闇色の髪と、月のような黄金の目。
詩的に例えるならば、そういう容姿の、『生気のない生きている人間』というのが、正直な印象だ。
飲食のみを提供する場合は、勿論対価は金銭となる。恐らく持っていないだろうな、と思っていたが、別に取り立てようとは思わなかった。
迷い込んでしまったとしても、こんな未開の森を選んでくるあたりで、彼の居場所は彼の世界に無い、ということぐらい、容易に察しがついた。それに、なまじ慈悲深い精神が祟ったことや、唯一の女給であるナーサリーとの契約もあって、実はもう一人ほど従業員が欲しかったところだ。
事実、最も人間らしく繊細な感性の持ち主であった彼が来てから、客の満足度が良い。
少々特殊な生い立ちを抱えている客たちの、本当の悩みを理解できるのは、意外とああいった『何も持たない人間』なのかもしれない。
紳士自身や、従業員のナーサリーは、残念ながら人というにはあまりに歪だ。
だから、半端者同士で同盟を組み、こうして可笑しな商売をしている。
「マスター」
ふ、と意識が引き戻された。青年の穏やかさを増した声に、含みは無い。
「オーダー、入りましたよ」
ジッ……と見下ろしても、特に怖がっている様子はない。ただ見返す瞳からは、変な奴、という副音声は聞こえてくるようだった。
「うん、ありがとう」
紳士は────マスターは、オーダーメモを青年から受け取り、内容を数秒で確認する。
「……今日は、随分盛況ですね」
呟くような、小さな声で青年が言う。
マスターは、瞬く目も無いのに小さく固まり、「ああ」と声を零した。
「おおかた、噂のせいだと思うよ。巣穴から出てきているだけだから、例の依頼が来る訳でもないだろうしね」
例の依頼────夢見の願望。
そう即座に変換したらしい出来た従業員は、しかし僅かに首を傾げた。
「噂、ってなんですか……?」
マスターはテキパキと手を動かしつつ、補足する。
「渡り鳥の噂さ。何でも最近、白鳥の群れがこちらに移動してきたとかで。その白鳥は何やら訳ありらしく、月夜の晩にその姿をみとめて静観していたところ、美しい踊りをしたのだそうだよ。それを一目見ようと、ここで時間を潰しているのさ」
この常闇の森には、迷い込んできた旅人の他にも、古くからこの地に住み着いている異形の者も多い。
現に今も、普段彼が相手をしているものよりも、幾らか人の容姿からかけ離れている姿をした客が楽しげに話し込んでいる。
一つ目に毛むくじゃらの客が来たところから、何となく考えることを放棄した気配はしていたが、彼の顔を見るに、本当にそうらしかった。
「……時間を潰す、って……何時頃か分かるんですか」
青年─────ノアが小首を傾げるので、マスターはすっかり癖になったように、カチンと歯を噛み合せる。
「月が一番綺麗な頃だ、って話だよ。森を住処にしている彼らには簡単に分かるんじゃないかな」
人から忘れ去られ、不必要とされた者たちの楽しみなど、所詮はその程度なのだ。
月が一体どこにあるのかも、知りはしないというのに。
「へえ……月が、ですか……そういえば、今日は満月だってジミーが……」
思い出したようにそういうノアに、マスターは小さく笑いを零し、あっという間に出来上がったオーダーの品を差し出した。
「これが捌けたら、見に行くといい。中々無いからね」
ノアは、いかにも不思議そうな顔をしてそれを受け取ると、素直に頷いて、注文の品を届けに行く。
その後ろ背と客への態度を見、マスターは知らず知らずのうち、満足気に雰囲気を和らげた。
ここに来たばかりの頃よりも、随分明るくなった。少なくとも、死んだ魚のような目をすることは、殆ど無くなってきた気がする。
彼が居場所を見つけるまで、此処は彼の居場所だ。一応、彷徨っている者の保護、という条件は満たしているので、文句は言われまい。
素早く捌いて見せたノアが、マスターの方を見た。
「ちょっと、ジミーの様子を見てきます」
マスターは、何となく野良猫が懐いたような心地を覚えつつ、頷く。
「うん、気をつけてね」
給仕服を身につけたまま、店を出ていくノアの姿に、マスターは何となく、懐かしさを覚えた。
◇
《そろそろ満月が綺麗な頃だぜ、一緒に見に行こう》
黒板にチョークで素早く書いたジミーの様に、おれは小首を傾げる。
「……ジミーって、ここから動けるんだっけ?」
その言葉に、ガタガタッと黒板が喧しく動いた。
《僕を地縛霊みたいに言わないでくれよ!確かに幽霊だけど、僕ってばちゃんと身体はあるから!君に見えないだけだから!》
プンスコ怒っているらしいジミーに、ノアは両手を上げてお手上げのポーズをする。
そして、ポケットからメモ帳とペンを取り出して、黒板の方に渡してみせた。
「さすがに黒板は持っていけないから、話したい時はこれを使うといい。着いてくる時は、服のどこかでも掴んでいてくれ」
じゃないと何をされるか分かったもんじゃない、と続く言葉は飲み込んだ。
するとジミーはメモ帳とペンを受け取ったらしく、それらが宙に浮いていた。
そして最後に、《任せてよ!》と書き込んでみせる。
彼の言うとおり、月が煌々と照り始める夜だった。
───────常闇の森は、基本的に人が住めるようなところではない。
勿論、誰が使ったのかも分からない、廃墟となった豪邸や集会場に、墓場までご丁寧に揃っているが、誰が埋まっているのかとか、下手をしなくても寝床なんじゃないか、とかは考えない方がいい。どうやらこの森は、想像したが最後、本当になってしまうようだから。
ジミーがおれの言った通りに、シャツの裾を掴んでいる気配を面白く思いながら、おれは彼に案内されるまま、森に一つしかない、という澄んだ湖を目指した。
深まってきた緑の匂いと、雨の降ったあとのような心地に、恐らくは湖が近いと感じ取ったおれは、茂みを分け入る。
すると目の前に──────月をくっきりと写し取るほど澄み切って、花を浮かばせた美しく大きな湖が、広がって見えた。
《ここの睡蓮はいつ見ても綺麗なんだぜ、スゴイだろ?》
メモにそう書いて見せるジミーに、おれは頷いた。あの花は睡蓮というのか。
刹那、バサッと何かが羽ばたくような音がした。
おれが意識を空へと引き戻せば、そこには、睡蓮の色そっくりの、純白とも言える羽毛に体を覆った大きな鳥が、舞い降りてくる。
最初は一羽だったはずだが、まるで影から生まれてくるように、次々と。
渡り鳥の群れだ、と瞬時に理解した。
《見て、皆来てるよ》
軽くシャツの裾を引っ張って、ジミーはペンで他の観客を指し示す。
先程まで店にいたはずだが、足の早い事だ。
白鳥たちは、湖の中を軽やかに泳ぐ。
これが踊りというやつなのだろうか、とおれが小首を傾げていると、瞬間。
────────羽を広げた一羽の白鳥が、するすると人に変化した。
はじめは何が起こったのか分からなかったが、美しく結い上げられた漆黒の髪や、全身を覆う白い揃いの衣装で、あの白鳥たちが『人に変化できる鳥』だと理解出来る。
ふと、最後に一際大きな白鳥が降りたって、湖に足を浸からせるでもなく、水の上に足を滑らせ、くるくる回り始めた。
その場に居た観客全てが、困惑に目を瞬いていると、その白鳥も、するりと音がするほど自然に、人へとその身を変えた。
ただ一つだけ違うのは、あの白鳥だけ、その顏が睡蓮のように開いた羽毛に覆われているということ。
その異様な様に、おれは益々双眸を瞬いた。
そして、お構い無しに踊り始めた白鳥の踊り子たちのそれも、踊りというより、戯れているように見える。
時に交錯し、時に回り、時に水を弾いて遊ぶ。妖精のようだと、ジミーはメモ帳にペンを走らせた。
月が最も明るくなる、僅かな時間。
水浴びする白鳥の踊りを見届けた観客たちは、白鳥に戻った彼女たちが再び虚空へと帰っていくところを見て、ようやく見世物が終わったのだと分かり、白鳥たちのように一人、また一人と暗闇に姿を消していった。
店に戻ってまだ居たら、どんな顔をすればいいだろうか─────おれはそんなことを、ぼんやりと考える。
《ノア、ノア。あれ、見てよ。まだ帰らない奴がいる》
おれは、グイグイと勢いよく引っ張るジミーがペンで指し示す方に、目を向けた。
すると確かに、あの羽毛に顔を覆われた白鳥だけが、未だにつまらなさげに水を弾いて遊んでいる。
おれが困惑の眼差しを向けていると、パシャン、と一際大きな音を一度立て、白鳥がゆっくりとおれたちの方へ振り返った。
《な、なんだか凄いホラーだぜ、あれ》
確かに、こんな真夜中に追いかけ回されでもしたら、一生夢に出てきそうなほど印象的ではある。おれも、恐らくはジミーも、ガチガチに体を強ばらせる。
「……ねえ、ちょっと」
喋った、とおれは目を丸くした。
顔が覆われている、という共通点では、あの人魚姫と同じかと思っていたのだが、そういえば首の無い男でも喋れるのだから、それはそうかと納得する。
「は、はい」
都合のいい時だけ幽霊になるジミーを内心で恨みつつ、おれはマスターに仕込まれた接客術で返事した。
相変わらず水の上を歩き、その度に波紋を湖の上に残す白鳥が、しゃらり、と髪飾りを揺らす。
「貴方、男を見なかった?銀の髪をした男よ」
おれは予想外の質問に暫し固まり、次いで首を横に振った。
「頭が骨の男しか知りません」
トンチンカンな返しをしたおれに、案の定白鳥は「はあ?」と素っ頓狂な声を上げる。
「全く……この期に及んで私を裏切るだなんて……よくよく肝の座った男ね」
そしてこれまた会話の成立していないような言葉に、今度はおれが「はあ……」と素っ頓狂な返しをした。
「……その、頭が骨だとかいう男は、話の分かる奴かしら」
話が分からない人間と認定されたのか、とおれは僅かに困った顔をしたが、少なくともマスターはおれより物知りで賢い。
「俺が知る限りは、そうですね」
羽毛に顔を覆われた女性と、頭が骨の男が会話するという可笑しな光景に、微妙な心地はしたのだが。
そこではた、とおれは目を見開いた。
「……もしかしなくても、何かお望みのあるお客様ですか」
おれの訳知り顔に、今度は女性が固まったが、その後小さくもごもごと返す。
「……あの煩い白鳥どもが行けと騒ぐから……」
歯切れの悪いところや、あの成立していない会話を反芻し、記憶はあるタイプの客だと理解した。あの白鳥たちも事情を分かっているようだ。
「おれは、あなたの望みを叶えられる場所で働いています。もしよろしければ、ご案内させていただけませんか」
出来るだけ、こちらが下手に。
マスターの接客術第五条『客の態度が大きい場合はこちらがより丁寧になるべし』。
「ご飲食だけでも構いません。当店の提供物は、贔屓目抜きに美味しいですよ」
最後に笑顔さえ浮かべられれば完璧だが、残念ながらお手本が骨格標本では、表情筋の死滅したおれには不可能な話だ。
女性は押し黙っていたが、ややあって「仕方ないわね」と不機嫌そうな声が帰ってきた。
おれはジミーを振り返ると、彼は全てを察しているらしく、メモ帳には既に《先に帰って知らせてくるよ》と書いてある。
そうしてそそくさと素早く帰っていった。
おれは女性の方へと歩み寄り、恐る恐る、手を出した。
「ご案内します」
女性は驚いたように固まったが、青白いほど白い手を、すぐさまおれの手のひらに乗っけて見せた。
「よろしいわ、貴方はあの男よりも弁えているしね」
誰なんだ、と再びツッコミかけたが、おれは小さく困った顔をするに留めて、彼女の手を引く。
月明かりが照らす、睡蓮の湖。
草の根を踏み分ける静かな足音が、彼女のこれまでの態度と不釣り合いな気がして、少しばかり違和感を覚えた。
◇
段差に気をつけて、とか。ただいまお通しします、とか。数ヶ月前のおれならば使いもしなかった言葉遣いで彼女を導いたおれは、少しばかり疲れつつも、無事にマスターの元へと帰ってきた。
マスターはさして驚きもせず、いつか俺を迎えてくれたように、優雅な礼で白鳥を出迎える。
「お待ちしておりました」
羽毛で覆われているために、その表情は計り知れない。
ただ、何となく彼女は、予想外のことをされると硬直したり饒舌になる節があるとは、この短い間に分かった気がする。
しかし本当に、顔や姿を隠す仕来りでもあるのか、と思うほど、大抵の客は一部分が見えない。
おれの目だからそういう風に見える、とマスターは教えてくれていたが、ジミーにもそう見えているんだから、原理はよく分からなかった。
「あの子たちが言っていたのは、此処のことだったのね」
白鳥がぽそり、と零した言葉に、マスターは特に反応しなかった。
おれは訝しく思ったが、だいたいこんな辺鄙な店は、宣伝が命というものだろう。
結局おれには、計り知れない話だ。
白鳥を席に通した後、マスターがとんとん、と店の床を足で軽く叩いた。
すると、僅かな間を置いて、マスターの傍らに羽が舞落ち、うずたかく振り積もった羽が、すぐさま見覚えのある姿に変わる。
ガスマスクに顔を隠した、どこか不気味な少女、ナーサリー。
実のところ、マスターよりよほど得体が知れないのが彼女だ。
白鳥は僅かに押し黙り、次いでナーサリーの方を見た。
「夢見の魔女っていうのは、貴方の事ね」
これに答えたのは、マスターだった。
「左様でございます。あなたの望みを叶えてみせる、唯一の存在です」
魔術師だの魔女だのというのに、おれも聞き覚えがないわけではない。
おれの故郷でも、子供に読み聞かせる絵本の殆どは、そういった幻想的な存在についてなのだ。
白鳥が人に変わるさまを見ておいて、その言葉を信じないわけにもいかない。
「ご注文はお決まり?」
常套句。コテン、と小首を傾げる仕草。
どこか幼くて、けれど何でも知っている大人のような、不思議な少女だ。
そのガスマスクの下に、何があるというのだろうか。
──────白鳥は、囁くように言った。
「私は、私が幸せになれる結末が欲しい」
ピクリ、と僅かにナーサリーの指が、反射的に動いた気がした。
◇
「……当店においでになるお客様の殆どは、記憶が混濁していたり、本当の望みを自分自身でも理解出来ていない方です。ご自身が、置かれた状況でさえも」
バカにしないで、と白鳥は嘲笑う。
「そこの坊やにお聞きなさいな。私が血迷っている女かどうかなんて、簡単に分かるわよ」
マスターがその言葉に、おれの方へと視線を向ける。
おれは、小さく口にした。
「お客様は、ご自分が何者であるかも、何をされたのかも、恐らく全て分かっておられます」
「そうですとも、中々話の分かる子ね」
満足気にそう言う白鳥は、しかしすぐさま打って変わったように、厳しい声音で言葉を紡ぐ。
「待って、信じて、憧れたわ。けれど私の幸せを望んだ者は、結局私を哀れに見るフリをした高慢ちきだけよ」
どこか、自嘲するようだった。
何となく、おれには彼女の声が、悲しげに聞こえたのだ。
「悲劇がお好みだというのなら、教えてあげるわ。私がどうして、こんなに憤っているのか」
女が舞い落ちる羽を捕まえて、それに息を吹きかける。
羽毛が視界を掠めた頃に、なんだか眩しい月明かりが、己を照らしている心地がした。
大変お久しぶりになりました。天宮翡翠です。
この頃忙しかったこともあり、大幅に更新が送れました。誠に申し訳ありません。
新たなお客様をお連れしましたので、ご容赦くださいませ。
見覚えがあるぞ、という方。博識で素敵です。
なんだか前書きが皮肉にも見えるお話となっております。今夜のお客様のお望みは、過去は。
読者の皆様のお考えに、ひとまずのところ委ねさせていただきます。