寂寞と
真実とは、経験という試練に耐え得るもののことである。
────アルベルト・アインシュタイン
美しい横顔をのぞかせる月に照らされた、深緑の豊かな草花。
ぱたり、と、それらが踏みつけられた。
それはつややかな毛並みと、鋭利な蹄を持った、巨大な黒馬。
この馬に跨る奇妙な服装の男は、意外にも少年と青年の間をさ迷うような体躯をしていた。
────頭は、無い。
さあ行こう。
穏やかな声が、黒馬の毛並みを撫ぜる。
首無男の右手には、きらり、と冷たく光る、天上に浮かぶ月の如き刃物が、固く握りしめられていた。
困ったなあ、と、マスターは言った。
どうせそんなこと思っていないだろうに、と、おれは思う。
おれとマスターの様子を、ナーサリーはジッ......と薄気味悪く見つめているだけだ。
この奇妙な状況になったのも、つい先ほど────
「いい加減、説明してくれませんか」
おれの声が、店内に響いた。
マスターはしばし押し黙り、「何を?」と、穏やかな声で尋ねる。
「全部ですよ。この喫茶店、森、それから────みんなのこと」
と、おれは、いつになく強い語調でそうマスターに告げた。
するとマスターは、お得意の情けない声で、困ったなあ、の一点張りをし始める。
「ノア君。僕は別に、君に意地悪をしているわけじゃないんだよ。ただ、単なる人である君を、巻き込みたくないんだ」
白々しい。
どこの誰のせいで、おれは死にそびれてここに居ると思っているんだ。
「......もう十分すぎるぐらい巻き込まれてますけど」
「いやぁ、ほら!触らぬ神に祟りなし、って言うでしょ?」
「おれは宗教に興味ありませんので」
「君ってそんなにハッキリしてる子だったかな?どうしたの?タジタジだよ、マスター」
おどけるマスターの問いに、おれは逆に閉口してしまった。
「────別に」
かろうじてそう言うが、マスターは小首を傾ける。
「さっきも言ったけれど、君と僕たちは、本来ならば絶対に同じ空間に居て良いものじゃないんだよ。ナーサリーなんか論外だ。分かると思うけど、だってこの子、顔隠してるじゃない。ワケアリに決まってるよぉ」
マスターがおれに、そう必死にまくし立てるが、飛び火されたナーサリーは、手に持っていたメニュー表でマスターの頭蓋骨を叩いた。
「失礼ね?」
「真実を述べてるだけだよ、僕ぁ」
これまで、マスターの中で、穏やかであろうとも保たれてきた大人の余裕が、一瞬にして崩れ落ちる。
「......まあ、本当の意味で後戻りしなくて良い、と言うのなら、言うけども......」
マスターは己の後頭部をさすりながら、子供のようにそう言った。
おれは、「どうせ」と口を開く。
「戻るべきところもありませんので」
自分でも情けないほど、そう言うおれの声は、あからさまに沈んでいた。
マスターとナーサリーは顔を見合わせ、マスターは深くため息をついた。
「────────魔術師」
「......は?」
おれはマスターに何を言われたか分からず、尋ねかえす。
「僕はね、ノア君。今ではひと握りさえ存在しなくなってしまった、魔術師だよ」
マスターはひどく静かな声で、そう言った。
「魔術師とは、神秘を追い求め、歴史を模索し、世界に干渉して、世の理をねじ曲げる。ある種の害悪と言ってもらって構わない。言わば、世界という国家にとっての大罪人さ」
「............?」
世界の大罪人?ある種の害悪?
どうやらマスターは、己が『魔術師』という存在であり、マスターは自分のことをとてつもなく悪い人のように語る。
「────もっと分かりやすく言うならば、人の人智を超えた......或いは、『超能力』と呼ばれる代物を故意的に使用することを生業としているものさ」
それを人は、魔術師と呼ぶ。
そう言って、マスターはくるくると宙に円を描いた。
「まあ、おとぎ話でいう魔法使いぐらいに思ってもらうのが一番かな。僕は元々人間だし、頭がこうなっているのもまあ、ざっくり言うと実験の失敗......といったところだ」
おれはぽかんとしながらも、マスターの言葉に耳を傾けていた。
おれにはそういう難しい話は分からないが、要はマスターも言った通り、おとぎ話の魔法使いなのだ。
よく分からない術を使って、様々な人の幸せと不幸とを天秤にかける、あの魔法使い。
「ナーサリーは少し......というか、かなり特殊だ。まあ、分かっているとは思うけど」
ナーサリーは話さない。
ただジッと、おれとマスターを見つめていた。
恐ろしい程に。
「ナーサリーは────」
「やあ、諸君!!ご機嫌麗しゅう、良い月夜だ!!ハッハッハッハッ!!」
────────うるさい
それが、おれの率直な感想だった。
マスターが何か言いかけたが、全て謎の声にかき消されてしまった。
「いらっしゃいま────」
おれは頭を下げようとして、硬直する。
「丁寧にありがとう、少年!」
と、その客は快活に告げたが、おれには分からなかった。
何が分からないかと言えば、彼の口がどこにあるのか。
なんと言っても、この男性には『頭』が無かったのだ。
軍服紛いの黒いシックな服と、胸元で輝く黄金の勲章。
なびかせたマントは、彼を舞台役者のように見せたが、どこか誇り高い戦士のようにも見える。
だが、頭の無い客の異質感は相当なもので、
あの快活で空気を震わすような声も、拍車をかけていた。
「こちらで少し休ませていただいてもよろしいだろうか?」
首の無い男が、口を介さず言葉を話す。
おれとマスターは、揃って「どうぞ......」と、テーブル席を指した。
「感謝する!ブケファラスにも水や草を与えてやりたかったのだ、早速注文しても良いだろうか!」
迫力がありながら、温かみのある不思議な声。潔く、顔も見えないのにひどく好感が持てるのは何故だろうか。
おれはメニューを彼に渡す。彼は短く例を述べ、開いた。
「ふむ......少年!注文を頼む!」
おれは戻る暇もなく彼に引き止められ、「はい!」と、自分も声が大きくなりながらメモとペンを手にした。
「『白椿の残雪』と『漠野の夜』を。それからブケファラスには水と牧草、ニンジンなどを」
「かしこまりました、少々お待ちください」
俺は注文を受け、マスターにメモを切って渡す。
「お願いします、マスター」
「手早くいこうか」
マスターはメモにサッと目を通すと、そのメモを宙に放って蝶々に変えてしまった。
「ノア君、手伝ってもらえるかい?」
「は、はい!」
予想外だったが、マスターはおれに教えてくれる気になったのかもしれない。
この店について知る機会にもなるだろう。
おれはシャツをたくしあげると、さっそくキッチンで格闘を始めた。
『白椿の残雪』は、円形のタルト生地に爽やかなクリームとブルーベリーやイチゴを散りばめ、上から粉砂糖をふりかける。
かたわらにも粉砂糖をふりかけ、砂糖で作った白椿の花と、黄色いメレンゲを花の中央に置いて完成。
『漠野の夜』は、香ばしい真っ黒な飲み物を夜空のような藍色のカップに注ぎ、レモンの香りが漂う三日月を浮かべて、星を散りばめる、駱駝の眠りを添えて。
「............魔法みたいですね」
おれがそう言うと、マスターは軽やかに笑って、人差し指を口元にあてた。
「何せ僕は、魔法使いだからね」
おれは出来上がった料理をトレーに乗せると、早速客のもとへと運ぶ。
「お待たせしました、ご注文の品です。それから、あの......」
「ああ、ありがとう。ブケファラスか?君のすぐ足元にいるではないか!」
おれが料理を彼の前において、辺りを見回していると、ふわり、と穏やかな風が下から吹き上がってきた。
ふと下を見れば、そこには優雅に微睡む黒い毛並みの馬が船を漕いでいる。
「......失礼、します......」
水や野菜を馬の前に置いて、おれはそろそろとキッチンに戻った。
(......あ、そういえば......)
どう食べるんだ、あの人......。
人?そもそも人なのか?
あの人からは、なんの気配もしない。
本物なのか、紛い物なのか......。
客は、ふっと手を料理の前に出し、横へとながした。
「えっ......」
途端、料理が全て『消えた』。
「ああ、実に美味かった。なんと儚く、繊細で、あたたかいのだろう......君たちはきっと、多くのものと出会ったのだろうな」
独り言のように、語りかけるように、曖昧に客は言う。とても優しい声だった。
おれが呆気にとられていると、「ところで、ヘル」と、今度はマスターに、はっきりと話しかける。
「如何なさいましたか、お客様」
マスターの穏やかな声が、店に響き渡る。
「俺の話を、聞いてもらえないだろうか」
ブケファラスと呼ばれた黒馬が、ゆっくりと頭を上げた。
首無男の哀れな話だ、と客は言う。
「夢見の魔女に、頼みに参ったのだ」
カチリ、とマスターが歯を鳴らす。
おれは黙って、彼の言葉を聞いた。
「諦めることを、教えて欲しい」
男の声が、ひどく遠く聞こえた。
今回のお話は、少々短いです。
ですが、後編はちょっと長くなってしまうかも。
首無男の哀れな話。
みなさんも一度は聞いたことのある、おそろしいおとぎ話。
最後に、全てを終わりに導く、魔法使いたちを添えて。