忘れないで
ああ、あの方は、あの方のおいのちをたすけてあげたのは、このあたしだということをお知りにならないのね
────────『人魚姫』アンデルセン
ああ、あつい。
ここは、どうしてこんなにあついの。
だれか、みずを、みずを。
たくさんのみずをちょうだい。
このあついほのおぜんぶをけしされる、やさしいみずを、たくさん。
うわ言のように泣き叫びながら、その少女はおれにすがりつく。
燃え盛る炎はジリジリと肌を焦がし、足元では、何人かの見知らぬ人が斃れていた。
炎の舌がちろちろと輝き、彼らの涙と鱗を照らす。
おれに泣きついていた少女は、おれを離して遠くを見ると、一目散に駆け出した。
帰るのだ、海へ。
誰も望まなかった結末へ。あるべき姿へ。
これは、あの人魚の記憶。
そして、本当の願いを見つける夢。
(ああ、でも......)
泡になってしまうほど、彼女の心は燃え上がったのだろうか。
それほどまでの熱情は、何が理由なのだろうか。
『心を消して欲しいのです』
女性の哀しい声が、泡の浮かぶ音ともに、おれの鼓膜に触れた。
◇
物語の舞台は、とある港の王国。
白亜の城と、美しいエメラルドグリーンの海が目印。
王国には、たった一人の王子さまがいらっしゃるけれど、王子さまは政には興味が無い。
だから、 隣国の王女さまをお妃に迎えることもなければ、いつも船に乗っては潮風を心地よく思う船乗りに夢見ていたのです。
王子さまがいつものように船旅をしていたある日、船は嵐におそわれました。
船から転落し、海に投げ込まれた王子さま。
そんな彼を助けたのは、海に住まう一人の人魚でした。
その後、意識を取り戻した王子さまは、助けてくれた人魚に、恋をします。
人魚もまた、心優しく勇敢な王子さまに、温かな心を抱いておりました。
王子さまは言います。
『きっと王様になって逢いに行くから、それまでこの海で待っていておくれ』
彼の言葉に胸打たれた人魚は、こう返しました。
『きっと、きっと、約束ですよ』
やがて、王子さまは立派な王さまとなって、命を助けてくれた恩人であり、恋した存在だった人魚を迎えに行く。
そうして、宮殿の中の美しい水の中に閉じ込め、王さまが死ぬまで幸せに暮らしましたとさ───────。お終い。
王子さまの胸を刺すナイフも、裏切られた憐れな人魚も存在しない、捏造された『幸せ(ハッピーエンド)』。誰かの為の物語。
冗談じゃない。
きっと。そんな言葉に惑わされた。
人はとても身勝手で、意地汚く、醜い。
そうだ、私の五人の姉を残らず殺してしまったのも、人間だ。
思い出せば、ありありと目に浮かぶ。
私たちは、海を追放された一族だった。
ずっと祖先に居たらしい海の魔女が、王さまの怒りを買ったから。
だから私たちは、長い時間をかけて、人のようになる術を得、陸に上がり、人と恋した。
姉さんたちは、私なんかよりとても変化が上手かったけれど、結局、人の心を信じて死んだ。
燃え上がる心に身を焦がし、人の熱に怯え、夢に囚われて、化け物と罵られ、憎まれ、疎まれ、蔑まれ────────。
そして私も、父さんと家にいたとき、優しい営みに火をつけられた。
あの痛みは、そう、あの炎のいたみ。
どれだけ泣き叫んでも、誰も助けてくれなくて、誰も迎えに来てはくれなくて。
結局、人のつくった話なんて、碌でもない。
でもその時、私を抱いて、海に飛び込んだ人がいた。
大丈夫か、あつかったろう。くるしかったろう。遠くでそんな、優しい声が響いていた。
「君が無事で、良かった」
目の前には、そう眩しく微笑む男の姿。
海にかえって、人魚になった私。
人魚を助けた王子さま。
びしょ濡れなのに、あなたは人間なのに。
何故、魔女を助ける?
誰も愛してはくれなかった、化け物を。
ああ、心が熱い。
どきどきする。心臓がうるさい。
笑顔なんて、見たこともなかったのに。
でも、姉さんたちを殺したのは人間で、父さんを苦しめたのも人間で、私を助けたのも人間で───────。
信じられないなあ。なんにも。
人間がいいのか、悪いのかなんてさっぱり分からない。
ねえ、教えて、人間さん。
私、恋しちゃったのかしら。だとしたら、本当に困ってしまう。
私はあなたを恋する傍らで、あなたを憎まなきゃならないのだから。
目の奥から、水が一滴零れた。
◇
けたたましいブザーが鳴った。
そうして、息絶えた人魚を残して、舞台は幕を閉じる。
『ハッピーエンドに苦しんだ人魚』なんていう非道い物語が終わった。
おれの他に客はなく、最前席の、よく見えるところでひとりきり。
拍手はしなかった。......できなかった。
良い舞台なんかではとても無くて、でも目は離せなかった。
いつかの時代、人魚姫を憐れんだ人々が編んだ、もっと酷いハッピーエンド。
手前勝手な物語の前に、歪んでしまった人魚姫。......それが、彼女の正体。
彼女は歌っていた。
ボロボロの脚に、あの大火傷を抱えても尚、歌っていた。沢山の歌を。
初恋も、憎悪も、苦痛も、救済も、孤独も、いつも、誰かのために歌っていた。
心を消して欲しい。その願いはきっと、あの王子さまとやらを愛したくも、憎みたくもないという、彼女の優しい心がもたらしたのだろう。
だけど、ナーサリーが言っていたように、それは、『彼女の本当の願い』とは少し違う。
『きっと、きっと、約束ですよ』
そういう彼女は、あの劇の中で、とても嬉しそうに微笑んでいた。
その後、王さまになった王子さまに迎えにきてもらったというが、それは多分少し違う。
この物語は、彼女の記憶だ。
その中で、彼女がひとつだけ捏造したものこそ、正しく『ハッピーエンド』。
これは書き直された『人魚姫』じゃなくて、
『間違って伝わった人魚姫』だ。
物語にはよくある事だし、物語の大切なところが同じなら、それは大した問題ではない。
だから、これも当然、『悲恋の物語』なのだ。
......きっと、王子は来なかった。
忘れられてしまったんだ。毎夜、美しい歌を便りに来てくれることを願っても、どれだけ上手に歌っても、ついぞ、来てはくれなかったのだ。
それが未練で、迷い込んでしまった。
おれのように。
気づけば、舞台から溢れる水が足元を濡らし、ぽこぽこと泡が浮いてきた。
おれはそっと両手で水をすくう。
「......大丈夫ですよ。きっと、夢が見れるから」
ふわっ、と水が揺れる。
「あなたの願いを、思い出して」
おれは涙の浮かぶ思いでそう言った。
すると、それまでたゆたうだけだった水が、静かに泡が天へとのぼっていく。
そして、水は人の形をつくり、ひたり、と僕の頬に触れる。
目の前に現れたのは、死人のように青白い肌をした、尾ひれの美しい人魚姫。
『ああ、熱い。人の熱は、なんてあつくて、愛おしいのかしら』
あの小さな青い花々のような瞳に、深海のような青緑の髪。
──────とても、綺麗なひとだった。
『嗤ってください。人になりたかった憐れな人魚を』
そう微笑んで、人魚は、おれのひたいに優しくキスをしてくれた。
すると、泡の、浮かんでは爆ぜる音があたりを取り巻き、劇場は消え去って行った。
◇
「おや」
マスターは、穏やかな声を小さく上げた。
つい先ほど、淹れたばかりのハーブティーを
運んでいると、ティーカップがカタカタと妙な音を立てだした。
それと同じくして、今の今まで静まり返っていた水たまりも泡が浮き出している。
「ナーサリー、そろそろ帰ってくるようだよ」
マスターが後ろを振り返ると、ガスマスクのナーサリーがいた。
彼女はこてん、と首を傾ける。
「ご注文はお決まり?」
「うん、そうだね」
マスターはそう言ってポットやカップを机に置くと、パン、と手を打つ。
「ほらほら、ノア君。溺れちゃうよ?」
すると、次第に強く大きな泡が浮き出し、生白い腕がヌッと出てきた。
「おや。お客様がお先でしたか」
水面には、小さな青い花が浮かんでいる。
透明な水に濡れた彼女の顔には、悲哀と寂寞の入り交じる微笑みが浮かんでいた。
彼女は店員、ノアを抱いている。
「Denne person er en venlig person」《とてもお優しい方でいらっしゃいました》
「......左様でございましたか」
マスターは彼女からノアを預かると、ソファに寝かせた。
「......さあ、お寒かったでしょう。お茶をどうぞ」
「Mange tak」《感謝します》
「『蟲の唄とさぎり』でございます」
やわらかな草花の香りと、あたたかな蒸気が店内に漂う。
人魚はそれを口に含むと、静かに涙を零した。
「......あったかい」
「ようやく、こちらの言葉をお使いになりましたね」
マスターがそう肩を竦めて言うと、人魚は困ったように微笑んだ。
「私を思い出せましたから。それというのも─────あの方のおかげです」
「......ノア君ですか」
マスターと人魚は、つい先ほどまで人魚の夢の中に居たノアを見る。
「あの方は、それは静かに私の物語を見届けてくださいました。導こうとしてくださいました。......お優しいのです、とても」
人魚はそう言って瞳を伏せ、青い花の色をした瞳を、今度はマスターへと向ける。
「冥土の土産にお教え下さい......あなた方は、一体......」
「......僕たちは、ただ、穏やかな夜を守るものですよ、お客様」
マスターは、変わらず穏やかな声でそう言った。
すると、今度は軽快な足音が水たまりへと近づき、しゃがんで人魚の視界に入り込む。
「ご注文はお決まり?」
こてん、と首を傾ける彼女に、人魚は再びあの、悲哀と寂寞入り交じる微笑みを浮かべ、「ええ」と言った。
「思い出したいのです。あの人のために、歌っていた夜を。待ち焦がれて、待ち焦がれて、ついに忘れてしまった、あの歌を」
ナーサリーは、人魚のその言葉を聞くと、小さく頷く。
そうして、水面でたゆたう小さな花に触れて、波紋を生み出した。
すると、店の中にまでどんどん波紋が広がり、景色が歪んでいく。
「耳をすまして?」
不安げに辺りを見回す人魚に、ナーサリーは無機質な声で続けた。
「ほら、潮騒が聞こえる?」
人魚が、はっと目を見開く。
するとそこは、宵闇につかった、夜の海に変わっていた。
白亜の城が遠くに見える。
そっと、口を開いて、喉からせり上がる心を、声に出した。
◇
遠くから、歌声が聞こえる。
(......この、声は......)
ああ、そうだ。
何度も聞いた、あの人魚の歌だ。
おれはゆっくり目を開いて、辺りを見回した。
ここ、店じゃない。
夜の海────あの人魚の、故郷だ。
両隣には、マスターと、ナーサリーがいる。
「良い歌だねえ」
マスターの朗らかな声が、上から降ってきた。
「君が彼女に教えた願いの色だよ、ノア君」
毛布にくるまったおれの肩に、マスターは優しく手を置く。
「寝てたけど?」
ナーサリーは皮肉るようでもなく、そう淡白に言った。
でも、とん、と肩をおれに寄せて、褒めてくれているようだ。
おれはこっそり微笑んで、人魚の横顔には視線を移す。
(ああ、綺麗な歌だ......)
待ち焦がれる悲しみに充ちた歌じゃない。
王子と会うことの楽しみを、胸のたかなりを、優しく歌にしている。
ああ、きっと。
きっと彼女の心は、こんな形をしていたのだ。
人魚は最後の一音まで、高らかに夜空へと歌い上げ、おれたちのほうを見た。
何かを待っているように。
「......もう、忘れないでくださいね」
おれはほんの少し大きな声で、彼女にそう言った。
人魚は優しげに破顔して、小さく手を振ると、瞳を伏せる。
みるみるうちに、彼女の手や髪があの青い花へと変わって、空へ舞い上がっていく。
「なるほど、それが彼女の名前かい」
マスターの声に、おれは彼を仰ぎ見た。
『勿忘草』。
彼は骨をカチカチ鳴らして、そう言った。
おれは、彼女の消えゆく浜辺を、彼らと一緒にずっと見ていた。
全て終わったわけじゃない。
彼女は、記憶を取り戻し、終幕から逃げただけなのだ。
それでも、それでも。
何のために自分が王子を愛し、何のために人魚姫だったかを、思い出した。
人は悲劇を好む。何故かは分からないけれど、涙にかえられる心の証明はない。
誰かのために泣くことができた彼女こそ、悲劇を愛し、悲劇さえも憐れんだ、影の歌姫と言えるだろう。
願わくば、彼女に喝采を。
「戻ろうか」
マスターが立ち上がる。
ナーサリーも続き、二人はおれに手を差し出した。
「......はい」
帰ろう。おれは、おれのいるべきところへ。
さいごの花びらが、海風に吹かれて白亜の城へと飛んでいった。
気づけば、霧につつまれた灰色の海を泳いでいました。
だけれど、寒くはありません。
あたたかな、あたたかな水が、私を包んでいてくれましたから。
ふと、隣から黒い影がやってきました。
まるで、ボートのような、そんな形です。
私はそっと海面から上がると、はっとしました。
「ああ、ミオゾティス!やっと見つけた!」
何度拝見しても、その美しいかんばせが色褪せることはありません。
この方です。この方こそが、私がこころを手にしてしまった、愛してしまった、王子さまなのです。
「なぜ、あなたが.....」
私はどうして良いかも分かりません。戸惑うばかりの私に、漂う小舟に乗った王子さまは微笑みます。
「随分待たせてしまった。僕は甲斐性なしだ。君との約束を、守れなかったのだ!ああでも、もう二度と、君に絶望などさせないと、今度こそ、約束しよう」
雄弁な太陽の色の瞳が、私を真っ直ぐに見ます。
ああ、この方はなんてお強いのだろうか。
こんなところまで、迎えに来てくれたのだから。
「幾千の悲しいエンドロールが待っていようと、幾万の美しいカーテンコールで乗り越えてみせるから、一緒にゆこう、ミオゾティス」
王子さまはそう言って、私に、手をのべられました。
私の手にはもう、ナイフはありません。
薄情な男です、この人間は。
いまさら、私をむかえにきたのだから。
あんなに待ったのに。今まで、一体どこに隠れていたのでしょう。
ああ、思い出した。
あなたが、私に見せてくれた、太陽の花。
あなたにそっくりな、私が見た事もない、海では見れないあの花。
『ミオゾティス。花はね、いくら美しくとも、水をなくして美しくはなれないのだよ』
きっとお前は美しい水だから、地べたでみっともなく水を焦がれる花なんて、厭に思うだろうけれど。.....あなたは、そう仰っていましたっけ。
「もう、忘れないでくださいね」
私は、王子さまの手に、そっと触れました。
「約束しよう。違えることの出来ない、一生の約束を」
死がふたりを、分かつとも。