水を抱くひと
一人ぼっちになるのはいやだけど、そっとしておいて欲しいの。
──────────オードリー・ヘップバーン
蟲の歌が、深緑の樹海を包む。
そして、夜闇にちいさく、水のはねる音がした。
常闇の森、唯一の湖。
そこに現れたのは、月光に照らされて輝く鱗に覆われた、見事なヒレ足の人魚。
彼女はほんの少し、水とたわむれ、やがてすっぽり湖の中に姿をけした。
あとには泡沫が、哀しく浮かぶだけだった。
「マスター、なんですか、それ」
おれはマスターが随分熱心に読んでいる本に目を落とす。マスターは柔らかな声で、「異国の書物だよ」と答えてくれた。
「人魚の話なんだけど、とてもかなしいお話だよ」
「......かなしいのなら、なぜ読むんです?」
確かに彼の声から滲む悲しげな響きが、少し院長先生を思い出させた。
あの人も、人を憐れむことだけは怠らなかったんだ。
「うーん、それは難しい質問だね。でも、かなしいお話が好きなのかもしれないね、僕らは」
「はあ......」
おれにはよく分からないが、マスターは物知りだ。マスターの考えの方が、きっと正しい。おれは洗い終えたコップの雫を布巾で拭いながら、マスターの言葉に耳を傾ける。
「僕よりもずっと後の時代のお話のようだが、考えることや求められることは、そう変わるものでは無いようだね。まあ、対象が人間ならば、それもそうか」
マスターは本を閉じ、椅子から立ち上がった。
おれはマスターの、まるで人間のようでいて、しかしそうではないような複雑な言い回しに違和感を覚える。
(......『僕よりもずっと後の時代』?)
まるで、“生きていた時”があるような言い方だ。やはりマスターはよく分からない。
「......マスターは、人じゃないんですか」
おれは思わず、胸中にしまっていた疑問を零した。ハッとして口を抑えるが、零れたものは戻らない。マスターの無機質な頭蓋骨に、ぽっかりとした黒い目がこちらをじっと見ていた。
一瞬、店の中の空気がビリッとする。
熱いものに触ったとき、ビックリして手を引っ込めるような、そんな感じに。
だが、マスターは至って普通そうな、朗らかな声で
「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるね」
と言った。
やはり、教える気は無いようだ。
店の事といい、マスターやナーサリー、ジミーのこと、客のこと......おれは、殆ど何も知らないと言って良い。
それはやはり、くっきりとした境界線が、おれと彼らとの間に敷かれているということだろうか。おれは「そうですか」と小さく返すだけに留め、グラスを戸棚に戻して仕事を終えた。
(これ以上考えたって仕方ない。どうせ、ここが何もかもおかしいということに、変わりはないのだから)
おれはちらっと、マスターの読んでいた本の表紙の文字を見た。
『Den lille Havfrue(人魚姫)』と書いてある。
おれにはさっぱり分からない言葉だ。
この調子で、中身もさっぱりなのだろうか。でも、マスターは異国の書物と言っていたし、彼にとっても馴染みのない言語なのかもしれない。
(......実のところ、マスターは誰なんだろう)
いくら疑問を泡のように浮かべたところで、解決なんておれの頭じゃできないことぐらい、おれの頭は知ってるけど、それでも、知りたくなってしまうのが人間の性だ。
ナーサリーやジミーが本名なのかも分からないけど、少なくとも名前らしい名前を名乗っていないのは、この店ではマスターだけ。
先の客人であるオオカミ少年を見た以上、皆が訳アリなことぐらい簡単に察しがついたし、事情を聞いたってよく分からないかもしれない。
だが、ナーサリーに向けられた《噂のヤツ》という言葉。それから、彼女が使った不思議な術。......絶対に何かある。
(......でも、おれは名探偵にはなれない)
だからこんなこと、不毛でしかない。
おれは頭をブンブン振って、頭から考えを霧散させた。
マスターが少し不思議そうに首を傾げたが、別に気にすることでもない。
おれが必死に頭を振っていた時、ふと背後から鈴の音がした。
(ジミーの呼び鈴......客か)
おれは入口のドアとマスターを交互に見る。
マスターは小さく頷いて、「何事も経験だよ」とだけ言って、カウンターから動かなかった。
仕方ない、と小さくため息をつき、おれはメニューを小脇に抱え、客を出迎える。
ぎっ、と音を立て、扉が開く。
「いらっしゃいませ」
おれは小さく礼をし、客を案内しようとしたが、思わず固まってしまった。
「────────」
その客の顔は小さな青い花でいっぱいに埋め尽くされ、何故か車輪のついた椅子に座っていた。
足は膝掛けで覆われ、服は上等そうだ。
腰あたりまで伸びる長い髪は、深海のような青緑色。
ほんの少し、服から覗く肌は死人のように青白かった。
(............ば、けもの......?)
きっと女性だろうし、お客様だから叫ぶのは堪えたが、先のオオカミ少年と明らかに違う、『本物』であることはよく分かった。
おれは人より五感が鋭い方だし、何となく、その場の空気で誰がどんな感情を持っているのかは分かる。でも、それは一定の『人間』という規定に限るものだ。
(......この人からは、何も感じない)
少年は、ごちゃまぜの匂いがした。
でも、この人は微かな潮の匂いが漂うだけで......やはり、何も分からない。
「ご、案内します......」
おれはしどろもどろしつつそう言うと、女性はお辞儀するように頭を下げた。
おれはひとまず二人がけのテーブル席に案内し、一つ椅子をどける。
女性は車輪を回して器用にテーブルの前までやってきた。おれはメニューを彼女の前に置き、「お決まりになりましたらお呼びください」と決まり文句を告げ、立ち去ることにした......が、おれは何かに引っ張られる。
振り返ってみると、女性がおれの服を引っ張って引き止めていた。
「......?お決まり、ですか?」
おれは彼女の傍まで戻り、メモ用紙とペンを出そうとポケットを漁る。
しかし、女性はそれを制止するように手を挙げた。
「......?」
「Giv mig vand」<水をください>
女性は、謎の言葉を話した。
確かに女性の声はしたような気がするけど、何を言ったか全く分からない。
(......もしかして、おれの国の人じゃないのか......?いや、人じゃないし、住んでる国とかあるのか分からないけど)
おれは困惑して眉をひそめた。
そしてマスターを振り返ってみても、マスターは居なかった。
(あの野郎............!!)
異国の書物を読んでいたのだから、わかると思ったのに......つくづく意味が分からない......何故この状況でおれ一人にするんだ!
おれは困って きょろきょろ辺りを見回し、ふとガラス製の水瓶が目に止まった。
「......あの、水、いりますか......?」
身振り手振り、水瓶を指したり、水を飲むような仕草をしてみると、女性は少しおれを見て、頷く。
おれはひと安心し、早速グラスに水を注いで、彼女の前に置いた。
「ど、どうぞ............」
すると女性は沈黙し、ピクリとも動かなくなった。
(......あれ?そもそも、どうやって飲むんだ......?)
彼女の顔は花に覆われているし、口がどこにあるかも分からない。
おれは今更そんなことを思い出し、両手で顔を覆った。
(穴があったら入りたい............)
おれがそんなことをしていると、女性はお構い無しといったふうに、黒い手袋のはめられた手をぬっと出してグラスを手に取ると、急に膝掛けを外す。
続いてブーツや靴下を次々と脱ぎ始め、最後に長いスカートを腿辺りまでたくしあげた。
「............!」
おれは、彼女の足を見て閉口する。
傷だらけなのだ。ひどく火傷しているようで、ところどころ赤く肉が覗いているし、真っ赤に染まっていた。ひどい有様だ。
女性は次に手袋を外し、やはり火傷したように真っ赤で、爪だけが薄桃色なのが少し不気味だった。
女性は真っ赤な手でグラスを取ると、それを足まで持ってきて、傾けた。
「......え?」
ボタボタと、水が打ち付けられるような音だけが店内に響く。
彼女は、自分の足に水をかけ始めたのだ。
「え、あ、ちょ......」
何をしているのかさっぱり分からず、おれは先ほどのようにしどろもどろした。
小さなグラスでは入っている水も少なく、すぐにかけられる水はなくなる。
彼女はグラスを二、三度振り、俺を見上げてグラスを差し出した。
「............もっと?」
とおれが尋ねると、女性は小さく頷く。
(......といっても、この調子だとこのグラスでは足りないな)
おれはグラスを手に取ると、それはカウンターにおいて、水瓶ごと持って彼女の側までやってきた。
「おれが水をかけましょう」
おれが自分や水瓶、女性の足を指して言うと、女性も了承したように再び頷く。
おれはそれを見、水瓶を慎重に傾け、彼女の足に水をかけた。
すると、どんどん彼女の真っ赤な足が、首と同じ死人のような青白さを取り戻していき、ついには水滴が鱗へと変わり始め、両足が水色へと染まっていった。
最後には足首から下がヒレへと変わり、ひらひらと靡いた。
(人、魚......?)
魚の足が現れると、彼女は赤い手でおれを止め、今度は手を指す。
(......そっちも、何か変わるのか)
おれは言われた通り、彼女の手にも水をかけた。膝掛けが濡れたが、彼女は気にしないで続けるようおれに言った。
すると、こちらも青白くなり、ところどころ鱗が浮くと、指の間には薄く水かきが現れる。
「......これで、大丈夫でしょうか......?」
おれが恐る恐る尋ねると、女性は再び、小さく会釈した。
「他に、何か必要なものはありますか?」
そう尋ねると、女性は少し押し黙り、やがて泡の浮かぶような音と共に、声が聞こえる。
「Kan du gøre en drøm til virkelighed?」<あなたは、夢を叶えてくださいますか>
(......だめだ、やっぱり全然分からない)
自分で聞いておきながら、必要なものがあるようなのに分からないのが歯がゆい。
おれは眉をひそめ、悩んだ。
(どうしよう、マスターは何処にも......)
「Leder du efter en heks?」<魔女をお探しですか>
背後から、男性の穏やかな声が聞こえた。
振り返れば、涼しい──というか表情がないのだが────顔をしたマスターが立っている。
(助かったが、何故最初から居ない......)
おれは若干の憤りを覚えつつ、マスターと女性を交互に見た。
どうやら、マスターの話している謎の言語と、女性の言葉は同じ種類ようだ。
なんの話しをしているのかはさっぱり分からないが、女性は頷く。
「Vil du have en drøm?」<夢を望まれますか>
マスターがそう尋ねると、女性は「Ja」と、やはり泡の音を伴って答えた。
マスターは口に手を当ててしばし考え、「Det vil være godt」
と言って、指をパチンと鳴らす。
すると、女性の座っていた車輪椅子が水に変わり、椅子のあったところだけ、深い水たまりが出来た。更に、マスターの傍らでとぐろを巻いた水が現れ、弾かれると、中からナーサリーが現れた。
「ナーサリー!」
見慣れたガスマスク顔は相変わらず何を考えているのか知らないが、水たまりの方へと近づくと、「Hvad er dit ønske?」<ご注文はお決まり?>
くぐもった声で、またもあの謎言語を話した。
すると、水たまりの中に収まった彼女はしばし推しだまり、小さく息を吸ってこう答えた。
「.....Jeg vil have dig til at slette mit hjerte」<私の心を、消して欲しいのです>
(『心を消して欲しい』......?)
先程までよく分からなかったあの言語が、何故か今、ところどころ聞こえるようになっている。話せるはずはないが、彼女の言っていることがよく分かるのだ。
マスターやナーサリーがまた、よく分からない術を使っているのかとも思ったが、そんな様子もない。
「それはできないわ?」
遠くでは確かに、あの謎言語が聞こえているのに、おれの言葉と同じぐらい自然に、そう言っているようだった。
(何だ......?これ......と、いうか『できない』......?)
前後の話が分からないから、何故そんな言葉が出てくるのかも分からないが、あの『心を消してほしい』という言葉に対してなら、もしやオオカミ少年のように、『願いを叶えて欲しい』というお客なのだろうか。
「願いを叶えることは簡単?でもそれは?あたしの理解できるものだけ?」
相変わらずあの不気味な話し方で、ナーサリーは確かにそう言った。
やはり、この女性は願いを叶えてもらいに来たんだ。
ナーサリーの返答に、女性は静かに俯いた。波の揺れる音だけが、寂しく聞こえる。
「思い出したら?」
再びナーサリーが声を上げた。
おれでは、その言葉がどういう意味なのかは分からない。
しかし、女性もまた、いまいちよく分かっていないらしく、小首を傾げていた。
「連れてってあげるから?」
ナーサリーはそう言うと、水たまりに手を突っ込んでぐるぐると渦を描き出す。
すると、幾らかの水滴が宙に浮かんだ。
「『醜さ、愛しさ、虹の夢?わらべの歌は、押し花に?夢遊飛行が出来ぬなら?夜があけるまで歌いましょ?さあおやすみ?淡いうたかた、海の底?』」
彼女がそう唱えると、渦をまくように水たまりに波が生まれ、水が光り始める。
女性が周りを落ち着かなく見回していると、渦はどんどん強くなって、ついには女性を飲み込み始めた。
「えっ、ちょ」
おれは思わず声を上げ、まだ飲み込まれずにいる彼女の手を取るべきかとナーサリーやマスターを見回すと、急に後ろから強く押される。
「わっ」
見ればナーサリーだった。奴はあの不気味な首を傾ける癖をして、
「あんたも行ってきて?」
と言った。
「はあ!?ちょ、まっ」
おれがナーサリーに掴まろうとしても、波の勢いが凄すぎて、上にあがれない。
「このガスマスク女───────!!」
それがおれの捨て台詞になり、おれは店から謎の水たまりに、あの人魚と共に吸い込まれた。
「おやおや、良かったのかい?」
マスターは少し面白そうに、ナーサリーに尋ねた。
ナーサリーは水たまりから手を離し、「べつに?」と小さく答える。
「あいつから聞いた方が早いから?」
「どうせ願いを聞かなきゃならないだろうに。君は変なところで面倒がりだ......夢見の魔女よ」
ほんの少し、マスターの声が低くなった。
ナーサリーは髪を後ろへはらうと、ゆっくり立ち上がる。
「人魚姫は海の魔女に足を貰ったけど?足のある人魚が望むのは夢?ならあたしはあたしのやり方でやる?」
マスターは「分かっているよ」と穏やかな声で言い、水たまりに目を向ける。
「さて......方舟が助けるのは、どちらかな」
最後の波が、水を小さくふるわせた。
今週もいらっしゃいませ。作者の天宮です。
閲覧くださっている方、誠に感謝します。
今回はずばり、人魚のお話です。
来週の続編で明らかとなる、彼女の『本当の願い』.....色んな考察をいただけると幸いです。
また、お時間ありましたらぜひ、この作品に感想をください。皆様がどんなお気持ちでこの作品を見てくださるか、作者も非常に気になるところでございます。励みとなりますので、何卒。
Twitterの方でも情報を発信していきます。ご興味のある方は、こちらもよろしくお願いします。
長々と失礼致しました。それではこれにて。