狼の住まう森
抱きしめることは本当に大きな効果をもたらすの。特に子どもたちにはね。
───────ダイアナ妃
オオカミの遠吠えがひとつ、虚空に響いた。
常闇の森の遥か深奥、断崖の上に現れたのは、巨大な一匹の狼。
彼の灰色の毛並みは月光に照らされて、白銀に煌めく。
獰猛な双眸は眼下を見据え、細められた。
そして、オオカミは月を仰ぎ、再び吼える。
まるで、一抹の寂しさを歌うように───。
そのオオカミの遠吠えが鳴り響くと共に、おれのすぐ近くでガタッ、と小さな黒板が大きな物音を立てた。
掃き掃除をしていたおれは音のした方を驚いて見、今もカタカタ震える黒板に対し、ため息をこぼす。
「ジミー、頼むから怖がらせないでくれ」
おれが呆れてそう言うと、白いチョークがぐらぐら震えながら持ち上がり、これまた震えた文字で何事か書き殴った。
《で、でもでも!すごく怖いじゃないかぁ!オオカミだぜ!?俺の生きていた頃ですら森のずっと奥に居たっていうのに!》
黒板の文字の訴えにおれは眉をひそめ、「ジミー」と再び黒板の主を呼ぶ。
「.........ここは森の奥だ」
《ああ、そうだった!》
一層ガタガタと黒板が揺れ、もはや残像が見えてきた。
黒板しか自分の存在を訴えるものがないとはいえ、もう少しやり方はないのだろうか。
この黒板の主、ジミーは、透明で誰にも見えない幽霊だ。
少し前、おれが初めてこの店に出会った時、ちょっとした珍事となった『勝手に文字を書く黒板』の正体である。
ジミーはうんと昔の幽霊らしいが、彼は結構作り話が好きなようだから、真偽の程は分からない。
マスターと出会って数十年かになるらしく、今ではすっかり呼び込み芸も板について、来る客を脅かしていた。
だがこの幽霊、ビビり過ぎるのだ。
物理的な存在の無さに反して、ジミーはかなりおしゃべりで(なんなら長いチョークを一日で使い果たすほど)、明るいが、ちょっとうるさい。
何を言っているんだ、と思われるかもしれないが、さっきのやり取りで大体察しはついただろう。何度も言うがこいつはビビりでうるさい。
今も叫ばんばかりに黒板を振り回している────実のところ叫んでいるのかもしれないが──────ジミーに呆れていると、頭上からマスターの柔らかい声が降ってきた。
「おーい、ノアく〜ん」
マスターは建物の二階の窓から身を乗り出し、おれを呼んでいる。
おれは不思議に思い、「なんですか?」と少し大きな声で尋ねた。
「ちょっと見せたいものがあるんだ、入っておいで」
マスターの言葉が終わると同時に、いつの間にか落ち着いた黒板に、カツカツとチョークでものを書く音がする。
俺が振り返って見てみると、ジミーは
《きっと渡し舟のことだよ》
と書いていた。
「渡し舟?」
ジミーの言っていることがよくわからず、おれが小首を傾げると、その文字のすぐ後ろにもう一文付け足される。
《すぐわかるって》
すこし謎めいた言い回しに違和感を覚えたが、おれはマスターを長々と待たせるわけにもいかないので、ジミーに声をかけ、さっさと店の中に引っ込んだ。
ひとりポツンと残された黒板は、今まで書いた文字全てをサッと消し、最後にひとつ、こう書いた。
《『Tuesday night』本日開店》
遠くで再び、オオカミの寂しげな遠吠えが聞こえてくる。
そして黒板もまた、怯えたようにガタリ、と大きな物音を出して動くのだった。
おれがこの不思議な店、『Tuesday night』の従業員になって、まだ一週間。
あの日以来、店はこれまで開かなかった。なにせ、火曜日の夜しか営業しないのだから。
その一週間の間、おれは散々な目にあった。
風呂にぶち込まれたかと思えば一瞬で乾かされ、髪を切られ、服をもらい......と、ここまでは良かったのだが、どこの英才教育だ、とツッコミたくなる姿勢の正し方から話し方までみっちり特訓された。おかげでそこそこの家に奉公しても及第点は貰える。ドブネズミがハツカネズミになったような感じだ。
だが、マスターは肝心な店のことはおれに話さなかった。
どうやって料理を作るのか、とか、客は何なのか、とか、あの面倒な名前は誰が考えたのか、とか。
さらに言えば、マスターは自分のことも話さなかった。それから、店のもう一人の従業員であるナーサリーのことも。
話したくない、という空気感ではないが、でも、人(なのかどうかは分からないが)には幾つか秘密にしたいことがあるもの。おれもとやかく聞きはしなかった。
───────だが、どういうわけかおれは、店自体の話の前に、店の奥にある謎の異空間へと案内されてしまった。
つい先ほどマスターに『見せたいものがある』と呼ばれ、案内されたのは、灰色の濃い霧が漂う灰色の海。
まさか店が店で無かったとは。
ここではつくづく思う、おれの常識は通用しないのだと。
おれたちは木製の道に立って、海を見ていた。
近くには無数のボート─────おそらくこれが渡し舟だ─────が波にゆられながらとまり、その脇を木製の細い道が遥か彼方、見えなくなるまで続いている。
「君にはまだ話していなかったけれど、ある事情を持ったお客様はここからお帰りになるんだ。なんと言ったらいいかな......まあ、僕たちは喫茶店と並行して、もう一つ仕事をしている」
「............運搬業か何かですか?」
「せめて船頭とか言いなよ......君、本当面白いね」
このマスター、何故見た目に反してここまでまともなのかが解せない。
おれは小さく肩を竦めた。
「まあ、ざっくり言うと『お客様の願いを叶える』仕事だね」
「願いを、かなえる............」
なんとも抽象的な言い回しだが、先ほどマスターは『ある事情をもった客』がこの海と関係すると話していた。
その『願いを叶える』というのも、恐らく特別な客の事情に関係しているのだろう。
「......それってどういう────」
おれがそう尋ねようとした瞬間、ちりん、と、いやにハッキリと鈴のような音が鳴った。
音のなったほうに振り返ると、ボートの停留所の両脇にある柱につけられた小さなベルが揺れている。
「おや、お客様だ」
マスターが突然そう言って「戻ろう、ノア君」と踵を返し始めるので、おれはあわててマスターについていった。
「あの、何故分かるんですか......?」
「さっきのベルだよ。あれは呼び込みをしているジミーが来店の合図をしてくれているんだ」
おれはマスターの答えでようやく合点がいく。
そうか、だからおれが店に入ったときも、目の前にマスターが居たんだ。
(あれは暇とか、そういうわけではないのか......)
今更ながら失礼なことを考えていた。
まあ、相手は得体の知れない化け物だから、仕方ない。
「ノア君は初のお客様だね」
柔らかい気の抜けた声がおれの緊張を解してくれた。おれは曖昧な顔をして「頑張ります」と答えるだけにした。
マスターはおれが表の店に入ったのを確認し、裏へと続く扉を閉める。
そして、入口のドアの前に待機し、ほんの少しドアが開くと、静かに礼をした。
「いらっしゃいませ」
マスターの言葉と礼につられ、おれも静かに礼をする。
マスターの動きを横目で確認しながら顔を上げ、やってきた客第1号を見、おれはまずぎょっとした。
全身、有り得ないほど傷だらけなのだ。
串刺しにでもされたのか、と思うほど服は赤黒く染まり、まだ微かに鉄の匂いがした。
歳はおそらく十五歳ほど。
黒いフードを目深に被り、ズボンをかたく握っていた。
細い手足には、やはり痛ましいほどあざや傷跡があり、重心が少し右に傾いている。
おれとマスターは顔を見合わせ、マスターがおれに耳打ちした。
「とりあえずご案内してくれるかい?メニューも渡して、注文をとってくれても構わない。僕は僕で対処する」
おれは小さく頷き、目の前の少年客に「ご案内します」と声をかけ、手を差し出す。
少年は困惑したように首を傾けた。
「あ、えっと......お怪我をしていらっしゃるので、あと、その左足、歩けないんですよね?」
おれも殴られた経験だけはあるから分かるが、多分彼の左足は折れている。無理に体重をかければ骨が刺さって激痛が走るはずだ。
おれがそういうと、少年は素直に俺の手をとって、案内されるがままだった。
手当のしやすい赤いシルク張りのソファ席に彼を案内し、座るのを手伝ってやると、おれはメニューを彼の前に置き、なるべく優しい声で話した。
「とても食べる気にはなれないかもしれないが、温かい飲み物を飲めば、少し落ち着くと思う。......あ、心配しないで、追い出そうってわけじゃないから。おれは今何か冷やすものを持ってくるから、少し眺めて考えていてくれ」
すっかり言葉遣いを正すのも忘れてしまったが、とりあえず言うべきことは分かりやすく言わなければ。何故か意識はハッキリしているようだから、おれはさっさと動いて代用品の氷袋や、大きなタライに水を入れ、ひとまず少年の手足の血を洗い落とそうと考えた。
氷袋だけいくつか持って、少年のもとに行くと、少年はメニューも見ず、やはり俯いてズボンを握っている。
だが、そんなことはお構い無しに、おれは少年に声をかけた。
「はい、氷。ひとまずこれで腫れたところを冷してくれ。ちょっと痛いかもしれないが、やらないよりはマシだから。それで、あの............大丈夫、か?」
アホか、おれは。
大丈夫だったらこんな大怪我を負っているわけないだろう。
どうにもしどろもどろしてしまってダメだ。
自分を自分で叱っていると、少年の小さな声が聞こえた。
「......ホットミルク」
「え?」
聴き逃したおれが尋ねかえすと、少し大きな声で少年が言う。
「ホットミルク、飲みたい」
その言葉に、ようやく注文だと気づいたおれは裏返った声で了承し、カウンターであれやこれやとしているマスターに声をかけた。
「マスター、ホットミルクです」
カウンターで待っていたマスターにそう言うと、マスターは口元に手を当てる。
「ホットミルク......」
もしや、料理に限って普通の言葉が通じないとか、そういう面倒なやつなのだろうか。
だが、マスターは「ああ、違うんだ」と、まるでおれの心を読んだように声を上げた。
「『初恋の哀歌』に『花火と宝石』を合わせて出してみよう。少しなら食べられると思う」
おれはまたも出てきた謎の料理名に首を傾げる。
マスターはその様子を見、人差し指で宙を指した。
「『初恋の哀歌』は、林檎と蜂蜜を混ぜたホットミルク、『花火と宝石』はたくさんのフルーツを使ったパイにソースをいくつか合わせたケーキだよ。あの様子だと、ケーキは一切れで十分だね」
そう言うと、マスターは早速手を動かしはじめ、ふとおれの方に目を向ける。
「そうだ、ナーサリーを呼んできてくれないかい?」
「......どこにいるんですか?」
おれは辺りを見回し、マスターの言葉の意味を探った。
「店の奥にいるはずだよ。そこのドアをノックしてくれるだけでいい」
マスターは先ほどおれを案内した、裏へ通じる扉に目を向け、示す。
おれは頷いて扉の前まで早足で歩き、恐る恐る三度ノックした。
すると、扉が静かに開き、すぐ目の前に、見慣れたガスマスク顔が現れる。
「ナーサリー、マスターが呼んでる」
本当に現れた彼女に少し面食らったが、おれがそう言うと、ナーサリーは「わかった?」と相変わらずおかしな話し方で了承した。
いつの間にかマスターは料理を作り終え、銀の盆に乗せている。
「ノア君、運んでくれるかな?」
「は、はい」
カウンターに戻って銀の盆を取り、少年の前まで行くと、食器を慎重にテーブルに置いた。
フルーツの爽やかで甘い香りが店内に漂う。
少年はしばし動かなかったが、やがてホットミルクの入ったカップを手に取り、それをゆっくりと口元に運んだ。
そうしてホットミルクを飲んでから、少年はフルーツパイやホットミルクを夢中で頬張り、あっという間に平らげてしまった。
まるで、動物が餌にがっつくようなそれだ。
少年はおれが渡したナプキンで手や口周りを拭い、「ごちそうさま」と静かに言った。
「......それで、お客様」
おれの背後から、マスターの声がする。
カウンターからここまでゆっくりと歩み寄ったマスターは、少年の前に片膝をついて、彼と同じ目線で話し始めた。
「不躾とは存じますが、何があったのですか?」
(ああ、そうか......)
そういえば、とおれは少年を見る。
彼は血塗れの服に傷だらけの身体で来店したのだ。
何も無かったわけでは到底ないだろうし、そもそも彼が本当に人間の子供ならば、とっくに絶命していてもおかしくない傷。
やはりこの子には、何かあるのだろう。
おれたちの視線は、彼に集中して向けられ、みんなが彼の答えを待った。
少し押し黙ったあと、少年はゆっくりと口を開き、目深にかぶっていた黒いフードを外す。
おれは目を瞠った。
少年の柔らかな茶色の髪の間から、二つの動物のような耳が生えていたのだ。
黄金の双眸、とても尖った牙、爪。
何もかも、人のそれとは明らかに異なっていた。
「この店に来れば、全部分かると言われた」
少年は、静かに幼い声でそう答える。
おれは少年の言葉に困惑した。
だが、マスターやナーサリーは違うらしく、マスターの低い穏やかな声が「成程」と呟いた。
「『そちら』のお客様でしたか」
おれは話についていけず、眉をひそめ、首をしきりに傾げる。
マスターはおれの方を見、優しく、けれども悲しい声でこう言った。
「ノア君、こちらのお客様は────」
「もうこの世の方ではない」
マスターの言葉と共に、少年の頭がわずかに動いた。
「......それって......」
おれは多分、白い顔をしている。
だってそれは、彼はもう死んでいる、という事だからだ。
マスターは少年にいくつか質問する。
「お客様は、どこまで覚えていらっしゃいますか?」
「......あんた達が見て分かることだけ」
少年の言葉の意味するところはつまり、彼は彼が狼男であること以外、全く覚えていない、分からない状態ということだ。
「では、お客様に御家族は?」
「......居た、と、思う」
「お客様がご存命の頃まで?」
「......なんとなく、は、覚えているから、多分」
たどたどしく、記憶の糸を手繰り寄せながら、少年はマスターの質問に答えていく。
「当店についてはどなたから?」
「............狼男の仲間、だったはず」
マスターは質問をそこまでに止め、口元に手を当てて考えた。
やがてナーサリーの方へ振り向き「どうだい?」と尋ねる。
ナーサリーは肩を竦め、
「拠り所がないならどうしようもない?」
と答えた。
マスターはさらに少し考え込み、
「お客様、最後にひとつお答えください」
と口を開く。
少年が小首を傾げると、マスターは穏やかな低い声で続けた。
「お客様の記憶の中で、最も鮮明なのは何ですか?」
その質問に、少年はひどく困惑したように眉をひそめたが、必死に考え、小さく呟いた。
「親父だ」
「お父上、でございますか」
「家族のことは、他よりハッキリ覚えてる。何となく分かる......けど、それが何か関係あるのか?」
少年の問いに、マスターはナーサリーの方へ振り返る。
視線を受けたナーサリーは、マスターに代わって少年に答えた。
「あんたが何で死んだか分かるかも?」
「ほ、ほんとか!?」
少年は身を乗り出して期待を前面に表す。
ナーサリーは小さく頷き、「でも?」と付け足した。
「あんたが狼男なら?今までどこで暮らしてたの?」
「......森の奥だよ。此処とよく似てる。近くには人里も合ったし、人を懲らしめるために襲う事だってあったけど、俺は家と近くの泉以外に行ったことがない。親父に口酸っぱく『ダメだ』って言われてたから」
少年の話に何度か登場する彼の父親......それが何か、彼の事情と関係あるのだろうか?
今までの話を聞いてもさっぱり分からないおれは、マスターにそっと尋ねた。
「あの、つまりどういう......」
「ざっくり言ってしまうと、このお客様は死んでしまっているが、何故死んでしまったか分からない状態なんだ。だから死後の国に行けないし、心残りがある。そこで、僕たちが力になろうというわけだ。これがつまり、さっき話した『もう一つの仕事』だね」
おれは裏でのことを思い出し、ようやく納得した。
つまり彼は、『願いを叶えてほしい特別な客』というわけだ。
「それなら思い出してもらわなきゃ?」
ナーサリーが突然そう言うと、どこからともなく強い風が吹き、少年の小さな身体を木の葉が覆い始めた。
「な、ナーサリー!?」
「大丈夫だ、ノア君」
マスターは変わらず穏やかな声でそう言い、少年を見つめる。
「彼の大切なものを、思い出させてあげるだけだ」
いつの間にか開いた入口に木の葉は追いやられ、ソファには無数に散らばった木の葉と、瞳を閉じた少年が居た。
「ね、てる......?」
おれが恐る恐る彼に近づくと、確かに微かな寝息が聞こえる。
「さて、今宵のお客様は─────」
マスターはポケットからクリーム色のハンカチを取り出し、それを一度翻すと、あっという間に大きな毛布に変えてしまった。
「一体どんな夢を見るのかな」
毛布をそっと少年にかけると、マスターは彼の近くに置いてあったランプの灯りを、静かに消した。
今週も最後まで閲覧ありがとうございました。
何故火曜日の夜なのか、と質問されますが、深い意味はありません。語感の問題です。ロマンがなくて申し訳ない。
さて、不幸な主人公の記念すべきお客様第一号は狼少年!
これが文字通りなのか、何なのか.....
次週、全てが明らかになります。お楽しみに!
感想くださると泣き叫んで喜びます。何卒。