方舟の導き
希望のために扉はいつも開けておきましょう。
─────エリザベス・キューブラー・ロス
火曜日、夜八時頃......。
日はとうに暮れ、カラスも寝静まる時間。
遠くで街の大時計台が、自慢の鐘の音を八度鳴らした。
おれは、広大な沼のほとりを歩いている。
バラバラの背丈の葦はぐにゃり、と低頭して水面を閉ざし、蛙はゲコリ、と間抜けに一鳴き。
フッ、と顔を上げれば、多種多様の生物たちが樹や雑草の物陰に隠れ、ジッ......と、注意深くおれを見つめている。おれも彼らをしばし見つめた。
じとり、とした肌に張り付くような濃い湿気と、霧の柵に閉ざされた森の遥か深く。
都会に住まう人間たちが知るはずもない大森林────『常闇の森』。
おれはこの物々しい魔境へ、まるで吸い込まれるように足を踏み入れた。
一度入れば生きて帰れる保証などない。だが、おれにはお誂え向きと言えよう。
何を隠そう、おれは自殺するために、此処に居るのだから。
如何にもナンセンスな話と思うやもしれないが、おれの生きてきた社会では別に珍しいことでもない。
ほんの数十年前、『資本家』なる職業が生まれてからというもの、おれのような『労働者』の過酷な試練は、壁というにはあまりに分厚く、高すぎた。おかげで、汚らしいドブ川には廃棄物と共に死人だってざらに流れてくる。近年では掃き溜めのド阿呆どもが、流れてきた自殺者の動機を巡って推理ゲームをしている有様である。
おれもその例に漏れず─────ありふれた入水の手は使わなかったが─────、労働者組合の自殺志願者となった。
今年の12月で、おれは19になる。
別に一人寂しくポエムチックに自分語りがしたい訳でもないから割愛するが、おれの生い立ちはおよそ誰もが『ご愁傷さま』という代物だった。
というのも、俺が物心ついた頃には、両親などという概念は存在しなかったのだ。
おれの母親とかいう女性の知人だという全くの赤の他人は、おれの両親の死を『不幸な事故』と完結させていた。おれも興味はなかった。
その後、大した偽善者も周りに現れなかったので、おれは孤児院に自ら出向いた。
赤子入りのバスケットはよく見かけるが、喪服の幼児は珍しかったのだろう。院長先生は酷くギョッとしていた。
孤児院に入ったあとも、おれはあんまり幸福な人生を送らなかった。
子供たちから嫌がらせを受けたのだから、当然だろうか。
痣や切り傷なんてケガのうちにも入らないようになり、何を言われてもどうでもよかった。見るに見かねた院長先生は、おれを追い出すことにしたようだった。
社会に出たあとも、おれは生来の淡白さとやる気のなさが仇となって、今まさに終わろうとしている人生の後半は資本家に殴られていた。
正しい評価なのだろう。
無能は見捨てられ、力あるものだけが富を築く。それが今の世界の形なのだから。
おれを馬鹿にし、こぶしを振るったいじめっ子どもを憎んでいるわけじゃない。
誰かを憎むほど自分の非を棚に上げるような人間にはなりたくなかった。
みんな、理由がきちんとあっておれを見捨てているのだから文句などいえない。
こんな男は世界中探せば幾らでもいる。
だからおれは、せっかく死のうと思い立ったからには、誰も見つけていないこの森に足を踏み入れ、ひとしきり気が済むまで探検した後、誰にも迷惑がかからないようひっそりと一生を終えようというわけだ。
(沼に沈むのは勿体ない死に方だ......)
ぼんやりとそんなことを考え、おれは沼から目を離して、森の奥を見つめる。
(......折角だ、奥までいってみよう)
さくり、さくり、と高い背丈の雑草を踏み分け、木の根に躓かないよう、慎重に歩く。
今にも狼の遠吠えが聞こえそうなほど、この森は暗い。
夜目が利くおれにはさしたる問題でもないが、まるで道を作っているように、妙に整然と並んだ木々の太い幹には、にんまりと歪な笑顔のような穴が出来ていて、薄気味悪さに拍車をかけていた。
眉根を寄せ、不安な面持ちで森の奥へ奥へと進んでいくと、不意に強い風が吹いてきた。
反射的に目をぎゅっと瞑り、魔女の高笑いのような夜風が過ぎ去るのを待つ。
おれのボサボサの黒髪とボロシャツを引っ張るみたいに揺らすのだから、少し恐ろしい。
魔女の強風は、おれの来た道を駆け抜けた。
やっと通り過ぎたか、と後ろを見、正面を見ると、今度は手を置いていたはずの不気味な幹をもった木々も霧の漂う暗闇も消え失せて、それは忽然とおれの前に姿を現した。
「......喫茶店、『Tuesday night』......?」
目が痛いほど明るい赤の輝きが飛び込んでくる。ランプ以外にこんな照明器具があったのか?
じりじりとその奇妙な店に近づき、おれはちょっと観察してみることにした。
二階建ての少し大きな造りをしているが、恐らく店は下の階なのだろう。何も書いていないが小さな黒板が置いてある。
質素な木製のドアに銀製の取っ手がつけられ、小さな文字で『push』と書いてあった。
さらにドアの上には『open』と書かれた掛札があり、隙間から暖かな光も漏れている。
この森よりもさらに面倒そうな物の登場に、おれは顔を顰めた。だが、先程その存在を確認した黒板が、ドアの脇でガタッ、ともの音を立てる。
おれがじっと黒板を見つめると、突然チョークが中に浮き出し、文字をスラスラと書き始めた。
《ようこそ、彷徨えるお客様!
喫茶点『Tuesday night』は森の中でひっそりと営業しております。営業時間は火曜日の夜の午後7時から12時まで。 主にデザートとドリンク、軽食などを取り扱っております。あなたのご来店を、心よりお待ちしております!》
黒板には丁寧な英語でそう書かれ、宙に浮いていたチョークはそれを書き終えると地面に落ちた。
(どういう仕掛けなんだろうか......)
謎が深まるばかりだが、この辺鄙な森で喫茶店を営む物好きの店なのだから、こんなこともあるのだろう、と思うにとどめた。
「喫茶店、か......」
相変わらず喧しいぐらい光る看板を一瞥し、おれは覚悟を決めた。
(行くあてもないし、これも何かの縁だ。入ってみよう)
おれは入口の取手に手をかけ、グッとドアを押した。
......温かな光が、おれの身体を包む。
そして、おれは目の前で優雅に低頭する店員らしき生物に言葉をなくした。
洒落た制服を着こなし、中々がっしりとした体格の男性のようだが、その頭は鹿の頭蓋骨だ。
立派な角は小さなものと大きなものの四つに分かれ、見事な威厳と優美な線を形作っている。骨だからなのか、表情は全くない。
「いらっしゃいませ」
店員は顔を上げ、落ち着いた心地よい声でおれを歓迎した。
「一名様でいらっしゃいますね、ご案内致します」
「は、はい......」
店というものに入った覚えのないおれにとって、当たり前のように敬語や礼儀を払われると嫌に緊張して仕方がない。
鹿骨男(この珍妙な頭の店員を、おれは以後こう呼ぶことにする)は、メニュー表を一つ取り、入ってすぐの二人がけの席に俺を案内し、紳士的に椅子を引いてくれた。
「ご注文がお決まりになりましたら、お呼びください」
彼がなにか話す度、かち、かち、と骨が軽くぶつかるような音がする。
おれは笑おうにも笑えず、頷くだけにした。
鹿骨男はメニューを置くと小さく会釈して、すたすたとカウンターに戻っていった。
おれはちょっとソワソワして、店内をぐるりと見回してみる。
アンティーク調の内装で、木製の椅子やテーブルが大半だが、中にはベルベットのシルク張りで高そうな長ソファも置かれていた。
天井からは星のようなランプが吊るされ、テーブルには一つずつ、花の形を模したランプもあり、柔らかな光を放っている。
店にはまだおれ一人しか客はなく、店員もまた、あの男一人だ。
他にすることも無いので、おれは鹿骨男が置いていったメニューをおそるおそる手に取り、開いてみる。中身を見たとき、おれは目をぱちくりとさせた。
「白百合の王冠添え」、「悪魔の初恋」、「黒トカゲと魔女の羽プレート」に、「花火のサーカス琥珀漬け」?......およそ言葉として成立していると思えないメニューの数々に、どう反応したらいいかさえ分からない。
ちんぷんかんぷんなのはメニューもか、と心の中でツッコミ、うーん、と唸った。
そのとき、不意にドアの開く音がする。
「おや、先生。いらっしゃいませ」
鹿骨男は洗い物していた手を止め、小さく会釈した。あの反応から察するに、おそらくこの店の常連だろう。
「やあ、マスター君。いつものを頼むよ。......おや?そこの彼は......」
先生、と呼ばれた客は、これまた珍妙な格好をしていた。
淡いクリーム色のシルクハットには紺色のリボンが巻かれ、揃いのコートもクリーム色。
紳士の如くステッキを片手に、もう一方の手は腰の後ろに回され、ぴしり、と美しい姿勢を保っていた。ゆるくウェーブを巻いた茶髪は後ろで一つに結われ、顔は鳥のようなマスクで覆われ分からない。
やはり客もおかしな奴なんだなぁ、と内心独り言ちるも、軽く会釈した。
「はじめまして、少年。私のことは先生と呼んでくれたまえ。君、名は?」
先生とやらは帽子も外さず、俺の隣の席に座ったかと思うと、興味ありげにそう尋ねた。
「......ノア、です」
「ふむ、ノア。良い名前だ。覚えておこう」
おれはその返答にちょっと面食らった。
そんなことを言われたのは初めてだ。
せいぜいが『分不相応』程度だったというのに。おれは少し不思議に思って、今度はおれが尋ねる。
「......あの、先生......?は、先生、なのでしょうか」
我ながらよく分からない質問だ。
だが、先生は特に意に介さず「ああとも」と言った。
「何の、先生なのでしょうか?」
「何の、とは?」
「たくさんあるでしょう、学問は」
何となく尋ねただけなのだが、先生は少し考えて、肩を竦めた。
「ふむ......困ったな」
「困った、と、言うと......?」
「私はちょっと覚えがわるくてね、自分が何の先生かは分からない。だが、先生は先生であり、偉いのだ。それだけは覚えているとも」
「はあ......」
やはりよく分からない。先生だから偉いとは、随分めちゃくちゃだ。だが、これ以上謎が深まるのも嫌だ。何せ、おれは死ぬためにここに居るのだし、今日死んでしまうのだから。
おれは視線を先生からメニューに戻した。
だが、よく分からないのは相変わらず。
渋い顔をしてメニューを閉じ、おれはちょっと外を見た。森は全部森だった。
少しして、妙に軽快な足音が近づいてきて、丁度おれの座るテーブル席の横あたりで止んだ。
何かと思って顔をそちらへ向ければ、そこには少女が居た。
歳は多分、おれより下。
ただし、コイツも顔にガスマスクをつけ、髪の色も灰がかった白色が下にゆくにつれて青く染っていく不思議なものだった。
人形みたいに細くて、鹿骨男とよく似た服を着ている。
小さなメモ帳とペンを持って、彼女はこちらをジッと見た。最初に見かけた動物たちみたいに。
「ご注文はお決まり?」
子供みたいに単純な言葉で問われ、おれは首を横に振った。
「......おすすめとか、ありますか?」
少女は少し悩んだ後、マスクのせいでくぐもった声で明快に告げる。
「ドリンクなら『日蝕の子守唄』、デザートなら『月夜の思い出』なんて如何?」
こてん、と首を傾ける少女に、おれは妙な薄気味悪さ────あの森を歩いていたときとちょっと似ている──────を覚えたが、「じゃあそれで」と素っ気なく返した。
少女は頷くと、カウンターで先生の注文の品を作っていた鹿骨男のもとに行き、俺の注文を伝えた。
......それにしても、ここに出入りする奴は皆、顔を隠す決まりでもあるのか、と思うくらい不気味な連中だ。
これまで会話した奴、全員全く表情が分からない。
そもそもこんな森の中にあるのだ。
こんなことだってあるのかもしれない。むしろ、此処ではアイツらが一般的な可能性だってある。
だが、彼らは一体どこに居て、住んでいるのだろうか?
おれは自分の頬を少し掻いて、ため息をおろした。
考えたって仕方ない。何度もいうが、おれは今日死ぬんだ。全て夢に等しい。冥土の土産という意味では、中々の体験だろう。
「はい、せんせ?」
少女の声に、ハッと我に返った。
おれは案外、考え出すと深く考えるタイプらしい。考えたことなんてあまり無いから分からなかった。今更発見するなんて。
「ああ、ありがとう、君」
「ワタシ『君』じゃないわよ?」
「先生というのは、人を呼ぶとき一々『君』を付けなければならないのだよ」
「『さん』じゃダメなの?」
「ダメだね。しまらない。やはり『君』でなくては」
「変なの?」
少女の奇妙な話し方に違和感を覚えたが、おれはそれよりも運ばれてきた食べ物にギョッとした。
花瓶のような器には煌めく多種多様の花々が咲き、黄金色のバタつきパンは蝶の形で、今も羽を動かしている。ジャムは赤い花のように白磁の皿で踊り、唯一まともそうなティーカップの中身も、もはや角砂糖しか見えないほどてんこもりだ。
(......これは、食い物......?)
時々ひらひらと羽が動くパンが食えるなら、ドブネズミだって生で食えるだろう。
俺はあの少女の勧めをまともに受けるべきではなかった、と今更後悔した。
だが、この店にはなんといっても鹿の骨を頭部に持つ、およそ人とは思えないやつが平気でいる。そうだ、きっと彼らは人ではないのだ。だからあの頭のおかしな食い物を食い物として処理できるんだ。そうに違いない。
おれは視界にありありと映る光景からふい、と目をそらし、ゆっくり深呼吸した。
(そうだ、もしあれと同じようなものが出てきとして、死んだとして......なんの不都合がある?おれは死にたがっているじゃないか。むしろ本望ってものだ)
ずっとおれの頭を巡っていた自殺願望が、ようやく勢いを取り戻す。
(......そう、おれが死んだって、誰も困りはしない。おれがいなくたって、世界は正常に機能するのだから)
ほんの少しだけ、胸の奥がちくり、と針で刺されたような気分になった。
でも、おれはこの痛みの意味も、名前も知らない。今更知ろうとしたって、もう遅いのだ。
「お待ちどうさま?」
そんなことをたらたらと考えているうちに、問題の料理を少女が運んできた。
彼女は手馴れた手つきで料理を置くと、「ごゆっくり?」と言ってコテン、と小首を傾け、とっととカウンターへ戻って行った。
だが、テーブルに置かれた料理は、おれの嫌な予感を覆すものだった。
『日蝕の子守唄』なる飲み物は、先端が紅と黒に染まる、白い柘榴のような丸いものがそのままティーカップの中にごろっと置かれ、ソーサーには銀のナイフがひとつ。
『月夜の思い出』という甘味も、舟のような形をした器に深い青色のソースのかかったチョコレートケーキのようで、白や薄青の飾りが眩い。傍らでは眠るようにケーキによりかかる小さな黄色い月まで用意されていた。
不思議なところは幾つかあるが、それにしたってさきほどの先生のものよりだいぶ理解できる料理だ。
おれはティーカップソーサーに置かれた小さな銀のナイフを手に取り、そっと柘榴に切れ目を入れる。
すると柘榴の中から、柔らかなミルクと紅茶の香りを立ち上らせて温かなミルクティーが溢れ出てきた!柘榴の実は黒曜石の粒のように美しく水面に浮かび上がって、ティーカップを縁取る円になる。柘榴の皮もまるで小さな睡蓮のように咲き誇った。なんと見事な魔法だろうか。こんなものが作れるなら、さぞ楽しかろうに!
少し口に含めば、たちまち花のように芳しくありながら、上品なミルクティーの味でいっぱいになる。おれはこんな美味い飲み物が紅茶だなんて、この時はじめて知った。
ケーキに手をつけてみればこれまた非常に美味で、ほろけるようで確かに残る濃厚なチョコレートと青いソースの甘酸っぱさが心地よい。この甘美な食い物たちにすっかり心奪われたおれは、食う手を止められなくなってしまった。
おれはこれまで石鹸みたいに堅い、小さなパンかほぼ水の薄い粥か、水ばかり飲み食いしてきた。
金持ちが羨ましくなかったわけじゃない。おれの生まれた国はそこそこ豊かだったらしく、おれだってまだ良い方だった。世間には誰かの幸せのために、本意でなくても働かざるを得ない人もいれば、虐げられ、家族を奪われる人だっていると聞いた。おれは、たまたま事故で家族をなくしただけの、そこそこ不幸なやつに過ぎないのだ。
でも、美味い食い物が食べたかった。
人は食うことと愛することのために生きる、と院長先生は言っていた。
いままさに、おれはその言葉の意味を理解したのだ。
あっという間に平らげてしまった器をしばし眺め、おれはやっと、あの針の痛みを理解した。
(おれ、なんで生まれたんだろうなぁ......)
神様はおれを愛していて、だから平等だと教えられた。
きっと平等なんだろう。でも、ひとりぼっちも平等だなんて、ちっとも思えない。
当人の能力次第で、世界はきっと違って見える。でも、おれはそんな力知らない。教えてもらったこともない。親は、俺を産んで、ちょっと育てて、それで無責任にも死んだのだから。
本音を言えば、おれは優しい世界に生きたかったのだ。
わがままだ。こんなものは。
でも、それも今叶った。おれは、温度を感じるものに出会った。たかが料理。もしかしたら、これは全然普通なのかもしれない。でも───それでも、はじめて、美味しい、という感情を知った。温かかった。
「......ごちそうさま、でした」
おれがそう言って手を合わせると、不意に隣から柔らかな声が聞こえた。
「君は偉いねぇ」
料理を食べ終えた先生が、頬杖をついて、じっとこちらを見ている。
「......偉い、とは?」
「食事の時、きみは食事のことだけ考えて、一言も話さなかった。美味しく頂く術を持っている。それは素敵なことだ」
「すてき、ですか」
「ああとも」
先生の言葉に、おれはやっぱり戸惑った。
よくわからないことをいう。これが先生というものなのだろうか。美味しかったから、夢中で食べていただけなのに、何がすてきなのだろうか。
「良いねえ、善良な若者は見ていて飽きない。良いものを見させて貰った。さて、私はそろそろ失敬しようか」
ステッキを持って立ち上がった先生は、おれに一度会釈し、目の前を横切って扉を押し、去り際、鹿骨男と少女に帽子を取って紳士的に挨拶し、店を後にしていった。
テーブルには空になった皿と、代金らしき硬貨が数枚置いてある。止まり木に羽を休めたカラスがランプを咥えている、不思議な絵が掘ってあった。
だが、おれはその硬貨を見た瞬間、重大な問題に気がついた。
(......金、無い)
まさか死に先で喫茶店に入るなんて思いもしないし、賃金──銅の塵みたいなものを金と言うなら──ならポケットに少し入っているが、ごみ以下というものだ。
「......あの」
おれの声が響く。
鹿骨男は「なんでございましょう、お客様」と冷静に返す。やっぱり落ち着く声だ。
「......人とか、食べます?」
「............?」
鹿骨男は言葉が理解できない、といったふうに首を傾げる。
まあ、こうなるだろうな。
我ながら色々とすっ飛ばした質問だ。質問ですらない。
「あー、その......おれ、金、持ってなくて......無銭飲食、じゃないですか、これ......」
しどろもどろ、おれが質問の意図を言うと、鹿骨男は顎のあたりに手を当て、さして驚いたり、怒ったりすることも無く、
「......なるほど」
と言った。
しばしの沈黙のあと、鹿骨男は歯をかちり、と小さく鳴らし、「ではこうしましょう」と重々しく告げた。
「お客様には、そのお身体でお代を払っていただきます」
黒い、死んだ眼が、無機質におれを見る。
背筋にムカデが走ったみたいな、そんな恐怖がおれをおそった。だが、おれはぐっ、と拳をにぎりしめ、恥を晒さず耐え忍ぶ。
やはりこいつは、悪魔かなにかだったのだ。
でも、こんなおれでも、最期くらいは、誰かの腹の足しになるだけ、役に立てるのだろうか。この悪魔が、最後にもたらしてくれた幸福感のように。
「......ご自由に」
そう、死んでいるのだ、おれは。
今更何を怖がっている。腹をくくれ。
おれの眼差しはさぞ弱々しかったことだろう。鹿骨男は少し黙り、やがてぱん、と手を合わせた。
「本当ですか!いやぁ、助かりますよ!」
「.........?」
突然朗らかで明るい声が上がり、おれは拍子抜けして眉をひそめた。
「......やるなら、一思いにお願いします......」
「え?何をですか?」
「......え?いや、だから、おれを、食べるのでは......?」
ますます謎の深まる鹿骨男の言動に、おれがそう言えば、彼は腹を抱えて笑い出した。
「はははは!冗談が上手いですねぇ!僕はそんな悪魔みたいなことしませんよぉ!」
間延びした声でそう言うと、彼は「安心してください」と告げる。
「さきほどのあれは、ちょっとカッコつけただけですから」
言い終えると、鹿骨男は一度咳払いし、再び引き締まった低い声でこう言った。
「これからお客様には、ここ『Tuesday night』にて、従業員として働いていただきます」
「...............え?」
鹿骨男の突飛な発言に、おれは頭が追いつかない。
あれだろうか、太って喰う魂胆なのだろうか。未だ彼に喰われる未来が払拭できない。
だが、待て。もし、この店で働いたとしておれは......
(おれも、あの変なマスクをつけるはめに......!?)
心底どうでもいい問題かもしれない。だが、おれにとってはあんな気味の悪いものをつけて店内を徘徊し、また気味の悪いものをつけたもの同士で微笑ましく会話するというのは、有り得ない。これは一般常識だ。
「あ、ちなみに君は人間だから特にマスクとかつける必要ないからね」
再びおっとりとした声音に戻った鹿骨男の、心を透かして見たような言葉に一瞬ホッとしたが、おれは次の瞬間我が耳を疑った。
「『人間だから』......?」
「え、うん」
逆に戸惑う鹿骨男は放っておいて、我関せずといった(興味が無いとも言うだろう)様子の少女と、鹿骨男と、先生とやらが座っていた席を見、おれは衝撃の事実を口にする。
「つまり、おれ以外は人間ではない......?」
「......そうなるのかな」
人外の溜まり場で働く人間。
死に損ないというにはあまり波瀾万丈だ。
「さて、仲間も増えることだし、自己紹介しようか」
パン、と再び手を合わせた鹿骨男は陽気にそう言った。
「僕はこの店の店主だよ。気軽にマスターと呼んでくれ。質問があれば何でも聞いてほしい。で、あっちが......」
「ナーサリーライム?」
マスターの言葉を遮り、自らそう名前を告げたガスマスクの少女は、胸元あたりまで伸びた髪を人差し指に巻き付けて遊んでいる。
「......ノア、です」
鹿骨男の視線がこちらに向いたので、おれは静かにそう答えた。
するとマスターは首を傾け、まるで微笑むような仕草と声をおれに向ける。
「これからよろしくね、ノア君」
こうしておれの死期は死神に蹴り飛ばされ、この珍妙な喫茶店で雇われることとなったのである。
みなさま、はじめましての方も、お久しぶりの方も、作者の天宮翡翠でございます。
筆をぶん投げてからはや半年.....。
大変お待たせいたしました、新兵器引っさげての再登壇でございます。
どうか、不幸属性で心優しい主人公、ノアの出会いと別れの物語を最後の一滴までお楽しみくださいますよう、切にお願い申します。