グリモアの筆者
暗闇に落ちるのは何度目かは忘れたが、今回のは流石に助からないだろう。
氷球が自身の体を押しつぶした時に感じたのは、痛みを通り越した思い出すだけでも吐き気を催す壮絶な苦しみだった。
異常に重たかった頭が力なくごとりと落ちた所までは記憶にあるが、その後……後は?
何故、今思考できているんだろう。
死の後は無だと思っていたが、そんな単純な事ではなかったのだろうか。
気がつくと体の感覚があった。
まだ、生きている。
瞼は思いの他すんなりと開いた。
見るのは二度目の天井。
今は痛みや苦しみは全くない。
体を起こし、自分の下半身を見る。
「ある……」
氷球に押し潰され完全に千切れ落ちたと思っていたが、確かにそれは存在していて、完全に元の状態に戻っていた。
「夢……か」
「夢じゃないよ」
即座にその可能性を否定される。
声のした方を見ると、ミーナがベッドの端に腰掛けていた。その隣にはゲドラニスが体の前で手を組んで立っていた。
「まさかとは思いましたが、やはりグリモアの筆者でしたか」
ゲドラニスはこめかみを押さえて固く目を瞑る。
「だからいい拾い物だって言ったでしょ」
ミーナの何でもないような口調とゲドラニスの反応が全く一致しない。
「……とんでもない。むしろお嬢様が拾ってきた所に箱に詰め、厳重に封をしてから戻してきたい位ですな」
重々しくゲドラニスは答えてから、こちらを見る。
「いや、失礼。正直のところハゼム様の扱いに関して私らでは持て余してしまっているのです」
全て自分に関係している話なのだろうが、理解が追いつかない。蚊帳の外にいる感じがする。
「言っていることが全く掴めない。グリモアの筆者ってなんだ? 俺は死んだんじゃないのか? そもそもあんた達の目的は一体なんなんだ?」
ゲドラニスが深くため息をついてから口を開く。
「ええ、全て答えましょう。しかし、先ずは謝罪をさせて頂きたく」
ゲドラニスが一歩前に出て深々と頭を下げた。
「申し訳ございません。実はハゼム様がグリモアの本当の所有者かそうで無いかを測るため、浴場で気を失われた折に二つ程実験をさせて頂きました」
体勢を元の背筋が伸びた状態に戻してからゲドラニスは指を一本立てた。
「まずひとつ目は対処からグリモアを引き離した場合の対象の反応とそれによって起きる影響の観測」
更にもう一本指を立てて続ける。
「ふたつ目は対象の欠損部に対しての復元能力の観測でございます」
「……その対象ってのが俺って事か」
ゲドラニスは深く頷いて更に続ける。
「ひとつ目の観測の理由について、まず知っておいて頂きたい事があります」
「まず、この世界の人々には二つの器官が備わっています。血液を体に巡らせる器官、心臓。それと魔力を体に巡らせる皇臓と言われる器官です」
「これらは産まれながらに人が持つものですが、ごく稀に皇臓を持たぬ異世界の人間が現れます」
ゲドラニスは真剣な目でこちらを見ている。そして次の言葉を発しようと息を吸い込んだところで
「それが、グリモアの筆者と呼ばれている人というわけ」
ミーナが口を挟み、グリモアを指差した。
膝の上に置かれたグリモアを見る。
ゲドラニスは渋い顔をする。
「この本がなんだって言うんだよ」
「ハゼムは魔力を持っていない人間なの。この世界で体に魔力を宿していない事は呼吸をしていない事と同じなんだよ」
「そんな世界で貴方自身に魔力を供給しているのがそのグリモア。外部の魔力を取り入れてあなたに送ってる。言わばあなたの体外に飛び出た皇臓ってわけ」
あまりにも話が突拍子すぎるがなんとかついていく。
「それがさっきの実験とどう関係があるんだ?」
ミーナはゲドラニスを軽く小突いて次を促す。
「魔力を絶たれた人間は体は数時間で衰弱し、更にその状態が続くと体は生きている状態なのに精神が死ぬ事になります。」
「成る程な。だから俺からグリモアを取り上げて魔力の供給を断ってどうなるかを探ろうとしたわけか」
「はい。しかしそれだけでは不十分です。魔力が切れて気を失ったフリくらいは誰でもできますので」
「そこでもう一つの観測って事か? 欠損部の復元能力って一体なんなんだよ」
ゲドラニスはその質問に非常に答えにくそうに言葉を詰まらせる。
しばらく顎に手を当てて考え込んでいたが、やがて重々しく口を開いた。
「……不死の力でございます」