狂気の蒼目
ダン、と耳元で音が鳴った。
扉を開けた直後に聞こえたそれに驚き、反射的に音が鳴った方向を見る。長く鋭い包丁が顔と同じ高さの場所に突き刺さって微かに震えていた。
「ごめんねハゼム! 手が滑ったよ!」
窓が少なく薄暗い調理場には手が泡まみれのルーがあどけなく笑っている。
……いや、違う。目が全く笑っていない。
もう一度突き刺さった包丁を見る。かなり深々と刺さったそれは、あと数十センチずれていたら頭蓋を貫いていただろう。
「ひっ……」
思わずトレーを落としてしまい、乗っていた食器が床に落ちて大きな音を立てた。
それを見たルーがだらりと両手を下ろす。
「ひどいなあ、私の料理おいしいって言ってくれたのに、捨てにきたの?」
散乱した食器から落ちた物をじっと見つめていたが、すぐにぐりんと大きな目がこちらを捉える。
口元は歪に笑ったままで、
「ねえ! その包丁取ってくれないかなぁ!」
叫んだ。
ルーが今いる方向から凄まじい殺気が走った。
思わず後ずさり、扉を強く閉める。
直後に激しくドアが叩かれる。
必死に扉を隔てた向こうの『それ』が出てこれないようにドアノブを力を込めて押さえつける。
「あけてよ! ハゼム! ねえねえ!」
「ねえってば! 痛いのいやだった? 次は痛くないやつにするから!」
「あーけーてーよー!」
そんな叫び声と共にガリガリとドアを引っ掻くような音がする。
「こんな状況で開けられるかよ!」
気がつくとそう叫んでいた。
「……わかった! ハゼム隠れんぼしたいんだ!」
「いいよ! 隠れんぼ!」
「いまから100数えるからね! ハゼムは隠れてね!」
そう言うと扉の向こうが急に静かになった。
そっとドアに聞き耳をたててみる。
「……さーん……しー……」
冗談じゃない。変な子だと思っていたが、ここまでとは。
そっとドアノブから手を離し、身を翻して中庭を走り抜ける。
子供の遊びの範疇を完全に逸してる。こんな所にいてられるか。
エントランスをさらに通り抜けて玄関の扉を開く。
目の前には大きな庭と噴水。さらに奥には高い塀と堅牢な作りの門が見えた。
ミーナには挨拶なしで悪いが、この屋敷……いや、この街から出て行かせてもらう。
庭を走り抜けようとした時、ふと気づく。
……グリモアは?
振り返る。
あれは絶対に置いてきてはいけない。そう強く感じた。
いや、冷静になれ。
おそらく部屋に戻るとこの屋敷から出る時間は最早残されてはいないだろう。あれに捕まると恐らく無事には済まないことは明白だ。
しかし、そう考える前に足が勝手にグリモアのある部屋へと再び走り出した。階段を駆け上り、廊下を何度も折れ、部屋に飛び込む。
「よかった……無事だった」
グリモアを回収し、ローブの腰紐に括り付けてから、そっと中庭を覗いてみた。
調理場の扉は開け放たれている。
ルーは既に数を数え終えて屋敷内を探し始めているのだろう。ならば廊下はまずい。見通しが良すぎる。
かといって、元の部屋に戻るのも駄目だ。あいつも俺がグリモアを回収しにくる事には思い至るだろうし、何しろ隠れる場所がほとんど無い。
気ばかりが急り、動悸が異常に早い。
ためしに隣の部屋をそっと開けてみる。ここも同じような部屋だった。
「くそ……!」
次々と扉を開けながら階段の方向とは逆に廊下を進んでいく。
この辺りの部屋は全て客間なのだろうか。
恐らくこれ以上いくら開けようが望むような隠れ場所は見つからないかもしれない。
さらに廊下を進み、突き当たりの角を曲がる。
無茶だ。
こっちはここに来てまだ1日と経っていないのに屋敷を知り尽くしている頭のおかしなメイドから隠れ切るなんて、いくらなんでも不可能に近い。
屋敷の構造を覚えていないと言っていたシエロは……まあ例外だが。
誰かに助けを求めるか?
それにしてもゲドラニスやシエロはどこに居るんだ。
こんな時に限って昨日あれ程いたメイドを1人も見かけない。
駄目だ。一旦落ち着こう。大きく息を吸って、吐く。深呼吸を何度か繰り返し、先程からうるさい動悸を静め、思考を巡らせる。
「まてよ。昨日そういえばゲドラニスが……」