Happily ever after
私たち三人の出たCMは
『ともに つながる』ってコンセプトの携帯電話会社のものだった。
学生や社会人、家族、いろんなグループが短いカットごとに
『繋がってなさそうで、繋がっている会話』を繰り返すって内容だ。
台本通りバッチリ決めたとこは使われなくて、
慣らしで何分か茶番してたところを抜かれた。
収録は楽しかった。
三人のちょっとした掛け合いは、局地的な流行になったり、
思いがけない反応を生んだりしたんだけど、それはまた別の話。
……このあとすぐ、JINプロ内を騒然とさせた『手作りお弁当事件』や
一時期松木さんの体型が大変なことになってしまうのも、
人には語れない、劇団JINの怪である。
JINプロのスタジオ内は、いつも騒がしくて出入りも激しい。
誰かに会うたびに挨拶をして、私に軽口を交えてくる。
みんな知っている顔。歩きなれた廊下。
それも、何回かの公演でお別れ。
他でもない私が決めたことだ。
人やかいぶつ。そのどちらでもないもの。
巡り巡って、混じりっけなしの日野陽菜を取り返し、ただの15歳に戻った。
あと少しの公演で、私はすべての肩書を外し高校生としての生活が始まる。
ちょっと信じられないな。
あの輝きと影が入り混じった劇場から、新しい教室の席へ。
自己紹介なんかもするだろう。
それで私は……心の中を少しも知らないクラスメートに、
何が好きで何が得意か、震えを隠し緊張しながら話すのだ。
これからのことに、胸が震える。
わくわくしているし怖い気持ちもある。
そして――
「よう。ひな。忘れモンか?」
「はい、ええと、そんなようなものです」
休憩室に、松木さんはいた。
お椀いっぱいのご飯とふりかけ。午後から詰めの舞台練習をするんだろう。
JINプロ団員の日常茶飯事なスタイル。箸を置いてこちらを向く。
なんでもない視線に、気後れしてしまいそうになる。
昨日、劇団JINも公演初日を迎えていて、松木さんの熱演がスタジオ内で噂になっていた。主役の見事さが際立ち、また一つ殻を破って新たなステージへ、みたいなニュースも携帯で見た。大ケガを押しての出演、なんて記事もない。それは私たちだけの秘密だ。
一夜明けても、役者松木アキラの放つオーラは抜けてない。
諦めたことがあるから分かる。諦めてこなかった松木さんのまぶしさが。
この人がどれだけの悩みや痛みに耐え、頑張ったか。
それを想うだけで胸が苦しくなる。
「公演もあと少しだな」
「は、はい」
「ひなは初日より表現が良くなった。間の取り方も」
「観てくれてたんですか!?」
「……ってミツが言ってた」
ひかりさんは変わらず照明役で役者を引き立ててくれている。
JINプロのキャップはそのままだけど、髪形を短くしてイメージがだいぶ変わった。
ずっとポニーテールの髪形を変えなかったのは、
『あやねが戻ってきたとき必ず自分だと分かるように』ってことだったらしい。
よく私にちょっかいをかけるようになり、遠慮なく笑うようになった気がする。
私の顔は次々と変化したらしく、
意地悪そうに松木さんが笑い声を漏らした。
なんかさ、あんま変わってないのかも。
松木さんはどこまでも、松木さんだ。
「ふくれんなよ。ひな……緊張してるみたいだったから、ついな」
「緊張なんかしてませんよ」
嘘だ。
私は、松木さんに会いに来た。
あと何回、こうやって話せるか分からない。
劇団を辞めたら、理由なしにスタジオには来れないんだから。
「俺を問い詰めないのか?」
「いえ……」
「俺はひなを殺すところだった。みうもつぐみも。なにか少しボタンを掛け違えば、舞台にいる全員を手にかけてもおかしくなかった」
「でも、そうなってないじゃないですか。みんな、戻ってきましたよ」
「俺を責めようと思えば出来るはずだ。その資格もある」
「マツキさんに文句を言うなんて気にはなりません」
松木さんは、責任を感じているらしい。
自分を無くしていた時の、そうするより他に方法のなかったことを。
逆に責める人がいたなら、私が止めるんだけど。
この話は私たちしか知らないことだしな。
「俺に出来ることなら何だってする。ひな」
「……それ、あんまり人に言わない方がいいですよ?」
「本気だ」
「そうですか」
なんでも、ねえ。
ふふまったくもう困った松木さんだ。
その純粋な言葉に一喜一憂して振り回される身なんて、
少しも分かってはくれないんだから。
「あんまり困らせないでくださいよ?」
「ああ、すまない」
「……」
「……」
会話が途切れても、私を待ってくれている。
松木さんは、呪いによって無くしていた精神を取り戻して、
忘れ物とか奇行とか、だらしない部分が一気に抜けた。
これが本来の松木さんの性質。
言っちゃ悪いけど、ぐっと大人びた感じだ。
松木さんが笑った。
変態じみたところが消えた分、
目まいがするくらいビシッと決まっている。
「スタジオじゃ誰かに会うたび引き止められるだろう? 一度決めたことだってのに。たか子さんがいたなら、ひなを放っておかないあの手この手があったかもなあ」
つぐみがこの間辞める時、誰かが残るように言えば。
案外なにもかもひっくり返して、つぐみは児童劇団に留まったかもしれない。
つぐみは知っている人の言葉を、疑いなく信じる傾向がある。
あの時は、心残りの言葉を敢えて出さないで、つぐみの進む道へみんなして背中を押していた。そう解釈している。
私の場合は、誰もが退団を惜しんだ。そのたびに 決めたことだから、と断りを重ねた。
きっとそれが、一番私がここを離れるためにいいとみんなが思っていて……それは当たってる。私はその方が決意が固まるタイプだ。
つくづく、私のことを私より知ってる人ばかり。
「マツキさんは辞めるな、とか言わないんですね」
「そしたらここに残ったか?」
「……さあ。声をかけられてないんで分からないです」
素っ気ない言い方になってしまった。
違う。そうじゃない。
なんで愛想も愛嬌も振舞えないかな?
未羽を見習え。
私は松木さんに、引き止めて欲しかった。
決意が鈍るくらいの、何かを言って欲しかったんだ。
それだけで私は、ここで勇気を振り絞らなくて良くなる。
JINプロで松木さんと一緒にいられるのに。
松木さんはそんな私の心持ちを見抜いたうえで、甘い言葉を口にしないんだ。軽口冗談はいつも出るけど、無責任なことは言われたことがない。
きっとそれが、松木さんの性分なのだ。
つぐみが好きになるわけだ。
「長いこと役者をやってるとな、分かるんだよ。舞台に魅せられた奴とそうでない奴が。人の感動が拍手と共に降り注ぐ瞬間を味わっちまうとな……」
「どうなるんですか?」
「もう辞められないんだ、演劇を。少なくても人の反応が常に無いと物足りなくなる。教師とか、インストラクター、照明裏方。変わり種で医者になったのもいたな。もちろん全員がってわけじゃない。でも分かるんだ……ひな。お前はこれからも人と向き合うことをやめられない。あの輝きに魂を焼かれたのさ」
まるで呪いだよな、と松木さんは笑う。
舞台狂い。感動中毒。
そんな言葉が松木さんの心からにじみ出ているような気がする。
「劇団を抜けたって、俺たちの繋がりは断たれない。離れても、どこかでまた重なるんだ。誰かを楽しませ続ける仲間である限り」
* *
しばらく、松木さんがご飯を食べてるところを見ている。
おかわりと言われたので、きれいによそった。
いつもより食べ過ぎってくらいお腹に入れているが、
美味しそうに食べているのが伝わってくる。
「ごちそうさま。……おかげさんでよ。飯が旨いよ」
「よかったです。本当に」
松木さんは呪いで失っていた感覚を取り戻し、また味を感じられるようになった。私も砂を噛むようなあの食事は、もう二度としたくないな。
いまはたぶん何を食べてもおいしく感じるんだと思う。
はっきり言ってこれは……千載一遇のチャンスなんじゃないか?
「えっとあの、私……週明けに高校の入学式で、その」
「ああ聞いてる。ひな達みんな高校生かあ。あっという間だ」
「し、四月からお弁当作ろうって思ってて、でも、上手に作れるか心配で……」
「そんな気負わなくてもいいだろ。……しかし流行ってるみたいだな? 弁当」
もし、松木さんが良かったら――
って言葉は、ノドの奥で止まってくれた。
チャンスっていうのは勝ち取るもの。
そこに転がった瞬間、我先にと誰かの手が掴んで無くなる。
私の3年とちょっとの舞台経験からはそうだ。
松木さんが感覚を取り戻して、一週間以上経つ。
JINプロの休憩室に入り浸る松木さんを見る人はたくさんいる。……私は何をしていた? のんきしてる間に、舞台はどんどん先に進んでキッカケを逃してるんじゃないか?
「お弁当。誰か、始めたんですか」
「ああ……みうも高校から手作りらしい。ミツは食に目覚めたーとかでけっこう手間暇こさえたモン作ってるな。最近俺の喰いっぷりがいいのか、弁当作るから食べろって言われたよ」
「そ、それっていつの話です?」
「ミツは味覚が戻ってからわりとすぐ。みうは昨日。JINプロの公演の時だな」
ぐぐ……
昨日、未羽と公演行っとけばよかった。
舞台でクタクタだったから、眠っちゃ悪いしつぐみの退院に合わせて三人で観ようと約束してたが、そこで止まっちゃったな。
どうする? つぐみに相談……いやいや、私たち三人の中じゃつぐみが一番料理上手だ参戦されても旗色が悪いなあ。
ひかりさんはさすがだ。生活もぴったり合ってるし、一気に胃袋を掴もうって魂胆か。
ただ、二人ともそんな雰囲気も情報も入って来てない。
休憩室や楽屋の昼食時は、JINスタッフの目と耳があるからな。
なんとなく、現在までの悲しいすじ書きが見えてきた。
「他にも弁当どうぞって奴が何人もいたけど、作るの大変だろ? 全部断っといた。俺はしばらく、この休憩室のふりかけでいいや。何しろタダ飯だしな」
「ああ、やっぱり……」
「やっぱり?」
「松木さんは松木さんってことです」
私の思いを知ってか知らずか、
松木さんはとぼけた笑みを浮かべた。
ゆっくり休憩時間ギリギリまで食事をしてるのは、
この間まで『あやねがひょっこり顔を出すのを待っていた』
って思いを覗いたことがある。そうやって砂を噛み続けてた。
今は純粋に、食べているものを味わっている。
本当によかった。
「舞台に立ってる時以外モノクロっていうか、何も感動しなくなってたが……見るものに色がついてきた。忘れてたよ。生きた心地ってやつを」
「今回の初公演もすごい評判でしたね。スタッフさんから伝ってます」
「俺にとって、演劇ってのは過去の繋がりでしかなかった。息をするのが楽になるからって程度の逃げ道だ。二度と燃え上がらないと思ってた役者の熱が、舞台への熱が……また戻ってくるなんてな」
お前のおかげだ、と呟いた。
本当にそう言っているのかな。
もしかしたら。
あやねに向けた気持ちのような気もする。
松木さんの呪いを、やっつけたのは彼女だ。私じゃない。
「俺はお前に言ったんだぞ。ひな」
「……はい」
「あいつは……自分勝手にさんざん振り回して、置きみやげにいろんなモン背負わせてっただけだよ。いい迷惑だ。児童劇団にいた頃は古ぼけた記憶じゃない。頭ン中の引き出しのいつも決まった場所に収まってて、思い出すのがくせになってた。それを荒らしまくってそのまんまにしていったんだからなマジで!」
「ええ。本当ですね」
「ああー腹立つ。託された方、願われた側の都合なんてお構いなしだ。もうしばらくは思い出してやるもんかよ。ほこりかぶって悔しがればいい。誰がもう泣くか。ひなたちにだって大変な目に遭わせやがるし本当に――」
ぐちぐち言葉を並べる松木さんは、初めて見る。
恨み節なんて縁の遠い人だと思ってた。
舞台が終わってから役が抜けるまで、人それぞれで違いがある。
幕が下りる時、打ち上げの時、寝る時起きる時。
松木さんは舞台千秋楽まで入りっぱなしになるタイプだ。
文字通り魂を燃やし続けながら。
ただそれだと生活や体調に影響が出るし、
何かのキッカケで、適度に抜いてあげないと危ない。
きっとひかりさんもあやねも、公演後はしゃべり倒させていたんだろうな。
いい感じに抜けてきた。
張り詰めた顔つきと集中がとけて、素の松木さんに近くなる。
毒も抜けて、軽い口調の会話が続く。
お互いのケガの経過。改めて自分とあやねが迷惑をかけたことへの謝罪。高校での授業や行事。そのどれもが、私の不安を和らげようとしているのが分かる。松木さんの冗談を交えた優しさが私には伝わってくる。
松木さんの、あやねに対する執着は消えた。
忘れてはいないし、大切な存在であることはそのままだ。
松木さんの中で、あやねへの想いは絶対にゼロにはならない。
でも少しでも、私は……
あなたの中で、日野陽菜という存在を大きくしたい。
「マツキさん」
「ん?」
《今度は転ばないようにね》と、あやねは言った。
あの舞台、非日常の物語は終りを告げ、この瞬間がある。
――もし転ぶとしたら。それは今ここからだ。
あとは返ってくる松木さんの気持ちで……
転ぶか跳ねるかは私の問題。
転んで……一人じゃ立ち上がれそうにない時。
手を差し伸べてくれる誰かがいる。ひたむきに頑張っている姿を見せ、背中を叩き、激励を送り、やりたいようにやれと見守ってくれる人たちがいる。心も涙も熱い仲間が。
児童劇団にいて……私は変わった。
世界を変えることは難しい。
だけど誰でも、頑張って、頑張れば。
自分を、そうなりたい自分に変えていける。
それだけは必ず叶うように出来ているんだ。
その私が『今しかない』と魂を軋ませて叫んでいる。
「私はマツキさんのことが、好きです」
「……」
「私のこと、どう思っていますか?」
「……さあ、どうだったかな……」
胸の音がうるさい。それでいい。
気持ちは渡した。
どんな形であっても、松木さんは応えてくれる。
嘘はつかないし、はぐらかさない。そういう人だ。
松木さんは何か考えている。
心を覗くことはできないけど、想像することは自由だ。
きっと私の想像を越えてくる。
そんな気がして、胸の高まりが止まらない。
松木さんの熱が……魂が、いまは私一人だけに向いている。
なんて言ってくれるんだろう?
次に私は、なんて返すんだろう?
そうやって……感情がどんどんあふれ出るように。
私はまた彼のことを、
思い始める。