人をのむ夢
ようやく、私は舞台へ戻ってこれた。
妙な浮遊感が少しずつ抜けていく。額から汗が滲んでいたらしい。
手は、動く。足も。身体は動かせる。
息も……問題ない。
「人、人、人、と人を三回書く。指、鉛筆等は問わない。書く場所も不問。その後、井戸の井の字を人と書いた部分が中心に来るように描く。同じように人と三回書き、井の字を先ほどの井とずれるよう斜めに描く。その文字をなめる、あるいは息を吹き掛ける……」
声のした方に意識を向ける。
彼女の姿は、泪でぼやけて見えた。
ほほを伝う泪はすでに止まっていて、熱を失っている。
腕でぬぐう。やっぱり冷たい。
そう思える、そう感じられるのは別にいい。
透き通った泪から色が溢れ、指から腕、そして背景。
舞台上にいつもの色が戻ってくる。
大切なことは。
「――今の気持ちは? どんな気分か? 教えて欲しい」
「私? 私は……」
彼女の姿を捉える。
さっきまでのにやけた顔ではない、真剣な表情。
聞き惚れてしまうような声でセリフを投げかけている。
部品で覆い尽くしていたはずの、あの闇と忌まわしさはどこにもない。
みんな、舞台から降りてしまった。
本当に悲しくて、喪失感が心に広がっている。
このままではいられない。
かならず前に進む。つかみ取る。
残されたモノは、やらなくちゃいけない。
彼女の心理を読み、裏をかき、
この《しるし》付きの手のひらでタッチするか、
あの日記の《しるし》を触れさせることが出来れば、
彼女に憑りついていたモノを、檻の中へ一方的にぶち込める。
彼女を助けたい。
みんなを、意味の無いものなんかにはさせない。
それだけは分かっている。
「思ったよりも……最悪で最低って、わけじゃない」
「そうか」
分からないのは、目の前にいる彼女の方だ。
私が組み変わり舞台に立つ前に、一切攻撃をしていない。
今まで、なんで待っていた?
意味があるはずだ。
意を決して観念したみたいな顔。どこか待ち侘びていた表情の裏を。
読む必要がある。
そして何度も心を覗いているのに、
《どんな気持ちでいるのかは分からない》
人の形をした薄皮一枚隔てた内側……
真っ黒のもやが満ちているように詰まっていて、先が見通せない。
無理やり押し込めていて、今にも破裂しそうな感じだ。
まいったな。
深層心理を覗くことが出来ないなら、
嘘や行動の先読みが前提のプランは崩れる。
私たちであれこれ打ち合わせたものは使えないってわけだ。
チリチリと心を焦がすような、違和感がある。
読めないからって訳じゃなくて、
なんだろう。漠然とした不安の塊みたいなもの。
「……あ!」
思わず声が出る。
彼女の後ろに、見え隠れしているモノに気付いた。
それはしっぽだった。
黒くて細長い、小さな小さな影。
まるでしっぽでも生えているように、ふりふりと跳ねて揺れている。
小動物よりも、小悪魔を思わせる形。
悪いことは見逃せない彼女の性格には相反しているが、
それが意外にも似合っている。
場違いだが、かわいさを感じる。
「なら、ちゃんと死ね!」
「わっ」
彼女のしっぽ……その影が弧を描いて来る!
避ける間もなかったが、影は頭のはるか上を通過していった。
あのかわいらしい揺れ方は、私を油断させるためじゃなく、
ただ間隔とタイミングと計っていただけだ。
なんて間抜けなんだ私は。
でも外れた……? 何のために?
とっさに顔を上げる。
私の真上……照明が落下して迫っていた。
そして設置のために繋いだ部分が切断されているのが、
視界を覆う距離で。ようやく分かる。
『『危ないっ!』』
目を閉じて、両手を前に出したが、間に合わない。
衝撃。すぐ耳に届く金属音。
……痛くない。
この暗闇が、命を断ち切られたもので無いことを信じて、そっと目を開けた。
彼女が佇む、その姿も。舞台の色も、変わっていない。
ただ彼女の前に照明が一つ、転がっている。
網戸に豆腐でも押し付けたような……
なめらかに潰れた形で、床に横たわっている。
彼女がやったのか?
「かいぶつめ……!」
もう一度心を覗こうと意識を這わせる前に、
呟いた彼女の見ている方を向いた。
私のそばに、いくつもの輝きが緩やかに流れている。
「きれい……何これ? 星空みたい」
腕を振ると、マントを翻したように光彩の束が揺らめいた。
それは、私を構成する部品一つ一つの光だと理解する。
思い返せば檻の中も、かいぶつの振るう影も、わずかな輝きが在った。
誰かの部品のきらめきを、日野陽菜は夜空と表現してたんだ。
私の影から立ちのぼる青白い夜空。
ちょっとあふれ過ぎている気がするけど、このままで大丈夫なんだろうか?
「やはり隠匿に部品を割いたままじゃ、殺せないな」
「考えが読めなかったのは、そっちで何かしてたってこと?」
「キミはもう尾をのみ込む二匹のヘビだ。お互いに相食み、欠けた精神は補い合って循環する。部品は永遠に尽きない。無限に呪い、心を掌握し、影を伸ばして世界を喰い尽くすことだって出来る……そういう存在になってしまった」
彼女の身体に斑点が次々に生まれ、そこから黒いもやが染み出す。
身体が溶けていくみたいに濃く塗りつぶされていく。
動いていたしっぽが、ぐったりと項垂れて取り込まれた。
闇が広がっていく。
《照明を介していて、間接的で助かった。もし影を当てにいって、
反射で掴まれていたら……こっちが跡形もなく喰われていた》
「無限、ね。永遠に尽きない部品か」
「先に言っておく。押して押し切ってやる……心を覗いても無意味ダ!」
黒い泥の塊が、ごぽごぽと音を立て、徐々にはっきりとした形をとる。
さっきみた光景が脳裏によぎり、びくりと身体が震えた。
あの恐怖に耐えられる人間はいないだろう。
いるとしたら、よほど想像力が乏しいか、心を取り外せるかのどちらかだ。
『第九』の主役がそうするように胸の前で左手を握る。
手のひらには《しるし》が鈍く輝き、心の部品が集まって、星空を象る。
叶うなら、これからの行動に幸運と、キセキが在るように。
「かいぶつ。望み通りの形を作る、その輝き一つ一つを数えてみろ」
「……なんだって?」
「今まで利用してきた部品の数、押さえつけていた願いの数……そして、私の大切な人。ぜんぶ我がもの顔で使っていいものじゃない」
「知った風な口を叩くな。心を見透かしたくらいで!」
「分かるよ……これから分からせる!」
黒い影。彼女のまとう黒い輝きの中に、蠢くもの。
全てが際限なくはっきり見える。
その心。精神。魂の輝きまでも。
みんないる。
私をよく知っている人も、そうでない人も!
影は、叶わなかった人の歯車ひとつひとつで出来ている。
かいぶつそのものが、ぜんまい仕掛けの人形みたいだ。
機械仕掛けの神。
いつか誰かに、劇にまつわるそんな言葉を聞いた気がする。
このばけものに。好き勝手されてたまるか。
物語の終幕は……絶対的な力を持つ存在が降り下ろすものじゃない。
《目の前のかいぶつと、同じように競うつもりはない。かないようのない舞台に引っ張りあげてやるよ! さあ行こう。此方から彼方まで、この輝きとともに!》
「天国でも地獄でもない。行き先は檻の中だ。帰れ!」
* *
羽。足。尾。爪。
顔のないスフィンクスみたいな形。その全てが黒く塗り潰され、
ゆらゆらとした手のような影がびっしりと集まって出来ている。
巻き貝? みたいな、本来顔があるべき所が、徐々に開いていく。
徐々に、どんどん、みるみる、開いていく。
そして不意に溶けるとように歪んだ。
顔中を口にして。口中から牙が突き出す。
「ギオォォォォオオオッ! アアアァァァァ!」
かいぶつが大きな口を地に這わせ、叫び声をあげる。
怒りと、存在証明と、耐え難い何かに抗うような、
劇場ごと震わせる咆哮に私は目を細める。
「なんてこと……!」
なんてことしやがる。
彼女のノドを使ってるんじゃないだろうな? 影に深く取り込まれているが、あんな声を出したら、一度で舞台女優業はおしまいだぞどうしてくれる。
恐怖はない。ちょっとした苛立ちだけがある。
睨みながら覗き込むと、彼女自身は眠ったようにぐったりとしていた。
ああ、なら疑似的な声帯でも作ったのか。
焦らせやがって。意味なく叫ぶなバカ。
翼。蛇のしっぽ。馬? いや猫。
キメラだっけ。それか鵺かスフィンクス。
『第九番目のキセキ』に出てくるかいぶつ……の、初版バージョンにそっくりだ。
パクリみたいなカッコしやがって。近くで怒鳴るなっての。
「パ、パクリィ? 失礼ナ! 失礼な! コこ、こっちが本物だぞ!」
「どっちだっていいよ。偽物には違いないでしょ?」
性格が変わった?
本当にかいぶつ役の話し方みたい。
一見怖そうに見えて、案外コミカルで愛嬌がある……
その顔が、膨れるように大きくなり、牙と爪が同時に迫る!
「っと!」
影を閃かせて、逸らすように躱す。
まばたきとする間に、かいぶつは目の前から消えていた。
脳裏によぎったのは、
《私の後ろ、舞台袖で丸まって、弓矢のように自身を引き絞って放たれる》
先読みから確定した、かいぶつの繰り出す直前の動き!
「はやっ!」
爪だか牙だかに引き裂かれ、影が千切れた。
脇目も降らず避けようとしてこれだ。
もし呪いや、影が無かったとしたら――
バラバラになっていたのは私だった。
切られた影が、煙のように元に戻る。
意のままというか、どうやって動かすか思考がまとまる前に
反応してくれるって感じがする。
先読みで動く前にこっちは行動できる。
速い攻撃は、何度繰り返しても当たらないし通用しない。
かいぶつの攻撃が当たるとしたら至近距離からだが、
そこまで詰めたら私の影で握りつぶせる。
二度の攻防では掴みとる余裕はなかった。
もう少し慣れれば、それすらも出来てしまうだろう。
あとは……
「ギオォォォォオオオッ!」
ほぼ元の立ち位置に戻ったかいぶつが、
翼を広げて振るわせる。
無数の手が、弧を描いて伸びてきてこっちに向かってくる。
「なんか映画で観たことある!」
ロケットだかミサイルの雨。
古いエンターテイメントに寄ったアクション映画のワンシーン。
場面は似ているが、こっちは軍人でも特殊部隊でもない。
無数の黒い手が迫る。
いくら覗き込んでも、減るわけじゃないし数えきれない。
こっちも影を振るって凌ぐ。
叩き、流し、切り抜け、躱し、打ち、薙ぎ払う。
時間差で、次々に! 矢継ぎ早に飛ばしてるし、
後ろからも、逸らした分が狙いと勢いをつけて戻ってくる。
確かにこれをされたら、掴み取ることは出来ない。
選べないだけで、可能ではあるけど。せいぜい十数個まとめて掴み、力を込めて砕くその数舜のあいだに……他の手が私の身体を突き抜けるだろう。
「ドウダどうだ! 防ぐだけで、イッパイいっぱいだろ!?」
「いま、それ! 考えてんの! ああ、くそ!」
かいぶつに悪態を付いたが、
私はちょっとした驚きと発見に気を取られていた。
この、言ってみれば矢や弾丸が全方位から飛び交っている状況で……
思考がまとまっている。追い詰められてないんだ。
影は反射や自動で動いている訳じゃない。
あくまで自分の意志で操り、無数に近いかいぶつの攻撃を凌いでいる。
でも二つの考えが、お互いを邪魔してない。
主観と客観。
防御と攻撃。
近視眼と遠視眼。
それらが呼吸をするみたいに、
息がぴったり合っている。
一人分の要領や演算が、
ぜんぜん減らないし無くならない。
料理をしながら携帯を肩と首に挟んで話し舞台の立ち位置を足で確認しTVのクイズ番組の問題を解いているみたいな感覚。あるいは、マルチコアCPUのパソコン?
「ハハハはははッ! 回ル! 廻る! キミも! ボクも! 檻の外でマワリ続けるメリーゴーラウンド! 永遠に止まらない永遠に楽しめる。無限なんだボクたちは……この世で人が願う限り!」
かいぶつがさらに羽をふるわせ、雨のように黒い手が降り注ぐ。
影の迎撃に加えて、私も防御に意識を傾ける。迫りくる手を先読みで回避し、影が一番動くのに適した場所へと自身と敵の攻撃を誘導する。
ありったけの手数で来ても。余裕がある。
いっぱいいっぱい、処理し切れないようにするには、
……ちょっと足りないんじゃない?
「だからサァ! ハハハはははッ! 使えるモンは全部使ってやるッ!」
かいぶつの前脚が、近くに転がってた照明を蹴りあげた。
かなりの重量を持つ照明器具が、さっき落下してきた時とは比べ物にならない速度で飛来する。私の動き終わりを潰すように狙いも正確で、右にも左にも躱せない。
「このっ!」
無意識の声に反応して、影が打ち払う。
私を守りながら薄く広がり、照明は今度こそ粉々になった。
完璧。
傍に倒れているつぐみに、その粒さえ当たらない徹底した仕事っぷりだ。
合わせるように、無限に近かった攻撃がさらに強まる。
照明に影を向かわせる直前からだ。
その意味を、考える間は無かった。
ほんの一瞬。
こっちの処理を上回り、追い付かなくなった影の包囲網をすり抜け、黒い手が細く鋭くまっすぐに突っ込んできた。打ち漏らしたわけじゃない。初めから隙間を縫うことを向こうは前提としていた。
つまり私を殺す方法は、ハナから決まっていたのだ。
束ねられた黒い手。
私の真ん中、心臓目掛けて!
影は使えない。躱せない。
胸の前にあった左手に力を込める。
手のひらで《しるし》が鈍く輝く。
「うあぁぁぁぁアアアッ!」
そのまま左手をかいぶつの影と衝突させる。
歯車同士で噛み合わず火花が散ったみたいな光と鈍い音がした。
左手が弾かれ、腕と肩の骨が軋む。
なめらかなヤスリを掛けられたみたいに、手のひらの皮が《しるし》の部分を残してキレイに削られていた。指紋も手相もない。《しるし》が無かったら手の甲と間違えそうだなって思ってたら、血がぷつぷつと噴きだして、真っ赤になる前に《しるし》が爛々と輝いてのみ干していく。
かいぶつの影は、私の服と脇腹をちょっぴり破って突き抜けた。
たぶん手と似た傷口になっているはず。
――先読み通りなら。
「紙谷リョウジと同じマネを!」
「あれと同じにしないで。向こうは無傷で先読みなしの職人業だよ?」
逸らして反発した勢いを、そのまま走り出しの加速にする。
彼女までの最短距離。
このまま《しるし》でタッチする。
それで終わり。めでたしめでたしだ!
お風呂に入ったら染みそう。
それくらいの傷だ。なんてことない。
手は握れる……無傷で済む方法を取りたかったけどさ。
《しるし》から無数の檻へ門を繋ぎまくり、彼女が避けきれない数の暴力で追い詰める。最初はその方法を選ぶはずだった。
でもしなかった。
今の私ではコントロールが上手くいかず、
一番小さく開いても、この劇場ごと檻へ削り飛ばしてしまうのだ。
地球まるごと……なんてのも夢物語じゃない。
半径数キロは余裕で包めてしまう。檻の中に納まるかは別にして。
先読みで見た結果の中では、彼女を傷付けずに解放するという条件ではこれが最良だと思ったからだ。多少の痛みは目をつむろう。
すでに山場は越えた。
「このコノ! ちょこザイなッ!」
「無駄邪魔蛇足……しゃらくさいよ」
後ろから追ってくる幾つもの影を、私の影が叩き落とす。
ここまで、セリフも行動も結果も、台本通りだ。
この状況。
お前はそばに立つ影を失った、ただの間抜けな《かいぶつ》だ。
彼女の表情を見る。
三日月を逆さまにしたみたいなにやけた口。
――待て。
先読み通りなら。
《顔中を口にして、牙を使った悪あがき》が残っているはずだ。
舞台の奈落に踏み込んだ一歩から、とっさに前に行くか迷ってしまう。
……それが狙い?
私はそれでも立ち止まる以外の選択をとった。
そのはずだった。
「捕マエタ」