ディレイアクション
「やはり仕込みか」
背後と前方やや足元。
二つ同時に生じた歪みが膨れ上がり、未羽の方へ覆いかぶさろうとする。
「呪いよ! のみ込めッ!」
「最期が二番煎じの芸とは、冴えがなかったな紙谷リョウジ」
未羽は振り返りもしない。ただ哀れむように紙谷さんを眺めている。
首を伝う夜空の幾筋かが輝き、反発する磁石みたいに歪みの周りを流れた。
やや間があって、歪みはみるみる動きを鈍らせ、安定していく。
「心も覗いた通り小細工なし。もう削れる精神の限界も近いのか。ここ一番、可能な限り展開し尽くす場面だろうからな。二つしか出せない。追撃を繰り出す様子もない……つまり」
「ああ、もう打ち止めだ。例え《歪み》を作れたとしても……次は維持するまでが無理だ」
《嘘はついていない》
すでに……いや、ずっと前からギリギリの状態だったらしい。
目に見える濃い疲労が、汗に滲んだ顔に出ている。
「結局あがいても、この結末か。意味がなかったな」
そう言って未羽が手をぐっと握りしめると、
背後と足元のゆらぎは周囲の空気を巻き込んで――
「いや意味はあるさ。俺を注意深く、心を覗こうとしなくなるって意味がよ」
……音もなく、床に開いたままの日記がめくれていった。
やがて近くで破裂したゆらぎへと浮かび、吸い込まれていく。
舞台に生じた風とともに。
「まさかッ!? 本当の狙いは!?」
「最初ッから日記だよ。そこまで覗かれちゃ流石に不味かったがね。俺の感情を愉しむよりも、思考を暴くことに熱心なりゃあなァ……冴えなかったのはアンタだよ」
「させないッ!」
紙谷さんの言葉を待たず、未羽は夜空を低く飛ばした。
ゆらぎが消えゆく前に夜空は日記の端を捉え、空中に弾いた。
……紙谷さんの方へ。
「てめえは未羽という身体を捨てなけりゃ檻には戻れない。それとも……ここに留まり、その《かいぶつ》を捨てるか? どちらに転んでも一矢報いてやれるが、まァどっちも嫌だよな? だから、なりふり構わず日記を守るしかない。てめえにはそれしか出来ねえんだ」
「……くっ、でも日記は渡さ――」
「油断もするし、焦りもする。《心を覗く》余裕もないくらいだろ? 願いを叶える精神構造ってのは大変だな。人間、俺達もそうなんだが」
《嘘をついている》
紙谷さんは 日記に執着していない。
最初から狙いは変わっていない!
「うっ……ああ!?」
「ついに! 《歪み》に触れたなッ黒いの! ようやく捕まえたぜ!」
紙谷さんの手が強く握りしめられる。
すると消える寸前の《歪み》が形を取り戻し、日記を弾いた夜空を急激に巻き込んでいく。
薄っぺらい幕のようだった夜空はたちまち柔らかさを無くし、繋がった未羽の顔や首まで、凍り付くというか、糊付けがあっという間に乾くみたいにパキパキと固まった。
「ほんの少しの間、綱引きでもしてるんだな」
「……くっ! おおおオオオオオォ!」
未羽は叫んだ。
《歪み》と夜空との対抗の為ではなかった。その背後。操っていた夜空が機能を失って、もう一つの《歪み》がすぐそばまで迫っていたからだ。食い止めているが、完全に接触するのに時間はあまり掛からないだろう。
「二匹の《かいぶつ》……未羽の方はともかく、でかい方が消滅するまで、俺が持つかねェ」
油断なく、紙谷さんは未羽とかいぶつを視界に入れている。
日記は放物線を描いて、紙谷さんのすぐ横に落ちていた。
私の右手が、ぴんと前へと伸びた。
動かなかった身体が動いている……私の意志とは関係なく。
手のひらを紙谷さんの方に向けている。
そよ風が吹く。
同時に私の手から、黒い紐が何本も伸びた。
近くにあった《歪み》が破裂して……消えた。
未羽が対抗に負けて、引きずり込まれたんじゃない。
私の影みたいなものが勝手にそれをした。
紙谷さんの決断は速かった。
こっちの方に振り向きながら、身を躱す。
同時にもう一度、風が吹く。
さっきのそよ風と違って妙に生暖かい……
まるで、首筋に誰かの吐息がかかったみたいな。
紙谷さんの右手が赤く引き裂かれた。
手首辺りから血が噴き出していて、そのにおいを運んでくる。
「おいひなッ! 違う。そこまでの傷じゃねえよ、軽い……何だよクソ……!」
《嘘をついている》
思わず気を失いそうになるほどのショックを受けている。
紙谷さんは私に痛みを伝えないために、わざとそう言っている。
――私が《歪み》を破壊し、紙谷さんを傷付けたんだ。
遅れてじわじわと滲むように、私の精神へ痛みが伝わっていった。
ぎぎぎぎギッ。ギチッ。
血のしぶきが、雨粒に濡れた傘を開くみたいに飛び散っている。
紙谷さんは声を出さず、右の手首を左手で押えたまま、何も言わない。
私の中で、その光景に耐える歯車が静かに悲鳴を上げていた。
痛みは呪いによる感覚の欠落で、ごまかすことはできる。
……できるけど、それを動揺せずにいられる精神力があってこそだ。
あんなに血が出て、平常心のままでいられる人間がいるだろうか?
たぶん紙谷さんは、私に心配をかけないつもりで軽い傷だって嘘をついた……血だらけでよく見えないけど、指が数本なくなったか、手首を深く切ったかってくらいの激しい出血だ。
私は出血が徐々に緩やかになり、ぼたぼたと滴るくらいになっていく様子をずっと見ていたが、紙谷さんはあえて胸を張るように舞台上の照明を眺めて、ひと息ついた。
汗をかくほど息が乱れても、傷付けられた痛みに対する怒りや憎しみなどは感じられない。
遠くを見る表情は、彷徨わずに一点に定まっていて、
自らの目標を、希望を、目指しているかのような……決意の固まった目だ。
「悪いことは……重なるモンだがな……《まだ何とかなるぜ?》」
「《そう思えるのか》強がりじゃなく。ならキミは、願いを叶える為に乗り越えなければならない障害ってわけだ」
未羽は先ほどと変わらない立ち位置にいる。
柔らかさを取り戻した夜空と顔の塊は、何となく悲しそうに思えたが、すぐに苦悶の表情を浮かべた。
「ううう痛い。痛いよ。……髪の毛を数本、引き抜かれた気分だ」
「よく言うぜ。ひなにも、かいぶつの部品を組み込んでたのか?」
「それはちょっと違うなァ」
「……ウ?」
一瞬、息がつまった。
雰囲気にのまれたんじゃない。
う、動けない。手も、身体も。
なんで? 金縛り? みたいにぜんぜん動かせない。
さっきつぐみが《しるし》に囚われたみたいに、
魂ごと掴まれてる、ような。
同時に、突き刺さるくらい鋭い視線を背後から感じた。
誰かが私を見ている。
すぐ後ろ……立ち位置が変わっていないなら、きっと松木さんだ。
松木さんは、いままでずっと《かいぶつ》の方を向いていた。
今もそのはずだ。
それが、松木さんの役割で、それを完全に果たしてるんだ。と思っていた。
でも、なんで今は私を?
く、首をよじることも無理だ。
私という部品を何もかも取りこぼして動けない、とかって感覚じゃない。
あれは……二度と体験したくないがはっきりと違う。
私というカタチが軋んで砕けてしまうような……
何かの力に、単純に抑えつけられている!
動かせない。さっきまでは出来てたのに。
分からないうちに、私の中で何かが変わって、何が……
《今度こそ……殺してやる》
ああ、やっぱり松木さんだ。
松木さんの心。
……何度も触れ合って、何度か覗いていたから分かる。
でも……
なぜ顔を合わせずに、いま分かったんだろう?
後ろに目があるみたいに。
心の声と、その場所までハッキリ読み取れる。
《バケモンは……今度こそ……》
私の背中に、何かが張り付いている。
後ろの目が、松木さんを見ている。
前後を同時に把握しても、あの巨大なかいぶつの姿が無い。
まるで……もう一人私がいるように、
《薄っぺらな私が、背中にぴったりと張り付いている》
「マツキさん、紙谷さん。私の身体おかしいです……ど、どうなってますか? 大きなかいぶつは今どこに?」
「くそが……待ってろひな。やるしかねェぞ、アキラ!」
「助かったよ。やっと鎖は断ち切れたようだね?」
「……」
おかしいな。
今自分の思ったことが、あんまり的外れじゃない……
不思議な確信だってあるのに、少しも嫌な気がしない。




